2020年8月30日日曜日

【創作小説】レイヴンズ01

 

雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)


(簡単なことじゃないか)


(簡単なことじゃないか)


「……?」
 夜の下、ぽつりと水滴が手を打った。見上げてみるとまた一つ、ぽつりと顔にぶつかる。
「雨か……まずい、傘持ってないぞ」
 コンビニ帰りの今の俺が持っているのは、肉まんと総菜パン、それを包むビニール袋だけ。
 他の人の仕事を親切心で手伝っていたら深夜と呼べる時間までかかり、夕食を作る体力的余裕がないので、コンビニに寄ってから帰る。ここまではよくあることだ。
 失敗があったとすれば、いつもと違う遠回りの道を選んでしまったことか。天気予報は見ていたから、夜から雨が降ることは知っていた。というのに、仕事で疲れたからって気紛れに別の道でも歩いてみるか、と考えたのはまずかった。
「はぁ……。走って帰っても間に合わない、かな」
 そう呟くうちにも、雨は少しずつ降り落ちる速度を増している。……仕方ない。濡れ鼠になって帰る覚悟を決めよう。一人暮らし、誰に迷惑をかけるでもない。帰宅後すぐに風呂を沸かして温まれば、風邪もひかないだろう。
 そう開き直り、小雨の中、ビニール袋を揺らしながら歩く。


 身を寄せ合う家々の上に、俺が住むアパートが見える。その大きさから見て、もう何分とかからないだろう。そこの自室に辿り着けば、今日の俺は風呂に入り、夜食を頂いて寝るだけだ。それはごく一般的で平凡、故に幸福な一日の終わり方。そして、俺が待ち望んでいる今日の終わり。
「……」
 そんな幸福が待ちわびる帰路で。
「……」

 何故俺は、倒れている少女を見つけなければならないのか。

「……」
 さすがの非常事態に、俺は声一つ出せない。出せないまま、雨の所為であまり良くない視界の真ん中に少女を捉える。
「……」
 黒い髪の少女はうつ伏せで倒れていて、ぴくりとも動かない。夜だからか、それとも黒い服のせいか、白く浮いて見える肌の面積は腕、足、腹部と広すぎる気がした。雨の真夜中、こんな格好で倒れていては絶対に風邪をひいてしまう……そう考えると、混乱していた思考が整い、すべきことを明確にした。
 少女に近づき、膝をつく。じわりと濡れる感触があるが気にせず、少女を観察する。
 少女の肩は僅かに上下しているので、呼吸に問題はない。露出した肌に大小様々な傷があることが気になるが、命に別状はなさそうだ。とはいえ傷は手当が必要で、それも含めてこの場から彼女を動かさなければならないことは確実だった。
「……どうするか」
 生憎、おまわりさんや救急車を呼び出せる便利道具は持っていない。顔を上げれば家々が並んでいるが、時は夜。水滴を載せた腕時計は一時を指している。安眠を妨げるほどの重体でもないから、第一発見者たる俺が、応急処置を施した上で、しかるべき施設に連れていくのが最善か。
「よし、そうと決まれば」
 携帯電話はないが、救急セットは装備している。習った通りに手早く止血をして、自分が着ていたジャケットをかけてやる。予想以上の肌の冷たさに驚いたのもあるが、包帯やガーゼが痛々しく見えたのも理由の一つだった。
 応急処置は終了。さて、行き先は……病院がいいだろうか。自宅も選択肢としてはあるが、公的機関の方が彼女を任せる俺も安心、目覚めた彼女も安心だろう。
 少女の細い腕を肩に回し、背に負って立ち上がる。
 そこに、襲いかかる精神的衝撃。
「……何で、こんなに軽いんだ……?」
 何を食べて生きているんだ、むしろ食べているのか、と問いたくなるような体重の軽さ。本当に背負っているのか不安になってくるほどだ。肩に回した細い腕ともたれかかる顔の冷たさの方が、彼女の存在をより強く感じられるという有様だった。「羽根のように軽い」とはまさにこのことなのでは……。
 そこで、彼女の状況に対する一つの可能性が頭に浮かんだ。
「……もしかして」
 路上に倒れた姿。黒い髪。黒い服。傷だらけの肌。規格外の体重の軽さ。
 人間のようでありながら、人間ではほとんどありえない、いくつかの項目を総合する。
 もしかしたら……と、思考に落ちそうになった時。一際大きな雨粒が顔を叩いた。はっとして顔を上げると、大粒の雨が本格的に降り始めている。
「……っ、今はそうじゃない」
 彼女の素性は後でいい。今この場の最優先事項は、傷だらけで冷え切った背中の少女を救うことだ。
 俺は走り出した。途中何度もできかけの水たまりに足を突っ込みながら、まっすぐ、自宅へ。俺の考えが正しければ、彼女を公共の機関に連れていくことは危険だ。
 時間にして数分の間に本格的になった雨が、俺と少女を追いたてるように降りつける。濡れそぼって、背には見ず知らずの訳ありそうな少女を負って、俺は走る。


 ほんの少し、心の隅で高揚しながら。


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