ある日。精神の領域に興味を持った。感情、心、思考……不確定なモノ。僕を含め、人間の誰もが内包しながらも触れることが叶わない場所。人類が足を浸す広大な海。
僕が人間である限り、それを認識することはできない。この肉体が邪魔だから。形有るものは形無いものに触れられない。けれど興味は尽きなかった。
いかにして精神の次元に肉薄するか。考えた末、一つの可能性に辿り着いた。
僕がそちらに行けないなら、精神をこちらに呼べばいい。偶像を崇めて神を貶めるように、高次の精神を三次元に引き摺り下ろす。僕の興味はその先へ向かった。
精神が、心が形を持ったとき。人間は、世界は、どんな風に変化するのか。どんな風に……。
僕は、実験することにした。(全4話)
ある日、私は菅原と喧嘩をした。
ある日。
私は菅原と喧嘩をした。彼女は中学時代からの親友だけど、こんなに言い合ったのは初めてだった。
喧嘩の原因はこうだ。先日、私の恋人である大内が私との約束をキャンセルしてきた。仕方ない、と一人で帰る道中で、その大内が菅原と一緒にいるところを見つけてしまったのだ。二人並んで、楽しそうに歩いていた……。私は翌日、学校で菅原にその件を問い質したけれど、菅原は「なんでもない」と言い続けた。それなのに、なぜ会っていたかは教えてくれない。それで「信じろ」と言うのは無理な話だ。私は疑念が囁くままに彼女を質問攻めにした。
結果、菅原は逆ギレした。
「なんで信じてくれないの!?」
そう叫ぶと、走り去ってしまった。
週明け。朝。
……馬鹿なことをした……。
私は頭を抱えながら登校していた。実際に抱えていたわけではないけれど、心の中の私はしっかり頭を抱えていた。
時が経って冷静になると、あんな風に菅原と大内の仲を頭から疑った状態での質問攻めは、良くなかったと思える。もっと落ち着いて、一方的な糾弾ではなく話し合うべきだったのだ。菅原の意見を聞く姿勢が欠けていた。それがあれば、彼女を逆ギレさせることもなく、私も真実を聞くことができたかもしれない。正せない過去に、私は深く反省していた。
大内と菅原の真実は気になるが、今は菅原を傷つけてしまったことの方が問題だ。素直に謝れば許してくれるかもしれない。
荷物を教室に置いて、すぐ菅原のクラスに顔を出してみたけれど、彼女はいなかった。彼女の机には荷物があるので、学校には来ているんだろう。タイミングが悪かったようだ、休み時間に出直そう。
放課後。
運も悪いのか、まだ菅原に会えない。諦めきれず学校を出る前に探していると、大内からメールが来た。曰く、「渡したいものがあるので、教室で会いたい」。菅原に会いたかったけれど、この件については大内も当事者だ。何か聞き出せるかもしれない、と私は大内の呼び出しに応えることにした。
大内の教室に入ると、彼は一人で待っていた。紙袋を持っている。
「何、それ?」
「本気で言ってる?」
純粋に問うと、大内は肩をすくめた。そして続ける。
「今日は付き合って二周年。こういうのって、女子の方が覚えてるものだと思ってた」
……そう、だった気がする。手帳に印をつけていたはずだけど、菅原との喧嘩があって、完全に失念していた。
「ありがとう。でもごめん、私からは何も用意してない……」
「僕が勝手に用意しただけだからいいよ」
笑って紙袋を突き出す大内。申し訳なく思いつつも素直に受け取ると、その袋に書いてある文字……店名に見覚えがあった。間違いなく、私のお気に入りの雑貨店のロゴだ。大内に教えた記憶はない、はず。
「このお店、私の好きな店なんだけど……大内、知ってたの?」
「サプライズプレゼントなのに、欲しい物直接聞いたらバレるだろ。菅原に相談して、お前の好きな店教えてもらったんだよ。あいつ道案内まで申し出てくれてさ……前に予定キャンセルしただろ? 俺と菅原が空いてるの、その日しかなかったんだ。あの時は悪かったな」
……ああ、そんな。そういうことだったのか。
私と菅原は中学時代からの親友。そして、私たちと大内もまた、中学時代からの付き合いだ。私の好みを知るために、大内が菅原に連絡をとって協力を要請する。店の場所が分からないから、と二人で出かける。どちらも自然な流れである。怒るところなど全く無い。
だというのに、私は。二人が歩いているところを見た段階では、サプライズを用意してくれているなんて知らないとはいえ、とんでもない短慮じゃないか。菅原からしてみれば、良かれと思って秘密にしているのに、変な疑いをかけられ詰られては腹も立つだろう。私は大内からもたらされた喜びと苦しみを抱えながら、息を吐いた。
大内と別れた後、彼がくれたプレゼントを紐解くよりも先に、菅原に電話をかける。着信拒否はされていないようだけれど、コール音が繰り返されるだけで、菅原が応じてくれることはなかった。留守番電話にメッセージを残し、さらにメールを打つ。「自分の非は認めづらい」と言うけれど、大内との話を聞いて、私は完全に己が悪いと確信した。勘違いと思い込みで一方的に糾弾したことを謝り、「明日直接会って話をしたい」と打ち込んで送信。
夜。
何度も携帯電話を確認したけれど、返事は無い。嫌われてしまったのだろうか? そうなっても仕方ないとは思うけれど、私は菅原を親友だと思っているし、この先も関係が続けばいいと思っている。どうにかならないのか……。
次の日。朝。
菅原のクラスへ行くも彼女はいない。昨日は会えなかったし、昨晩のメールの返信も来ていなかったので、そんな予感はしていた。学校に来ているのが唯一の救いで、こうなれば休み時間ごとに突撃するしかない、と決意を固める。それは最早彼女のためというよりは、「楽になりたい」「彼女との絆を取り戻したい」という自分のためになりつつあったけれど。
若干不純な決意を胸に教室に帰ろうとした時。
「わっ」
どんっ。突然背中に何かがぶつかって、よろめく。
振り向くと、赤い髪を二つに結んだ……男か女か分からない、背の低い人が立っていた。生徒だと思うけれど、ベルト飾りのついた臙脂色のジャケットは校則違反では? こんな特性ありありの目立つ人、他学年にいても有名になるだろうに、見覚えも何も無いのが不思議。
「すみません。余所見をしていました」
知らない人は、私の目を見てから頭を下げた。抑揚の無い、少し高い声で、やっぱり性別は判断できない。
「え、うん、大丈夫。気にしないで」
「失礼しました」
顔を上げた相手と、また目が合う。
……? な、なんで見つめられているの?
「……」
きーんこーんかーんこーん。相手が何か言おうとしたところで、チャイムが鳴った。途端に廊下も教室も騒がしくなる。菅原のクラスは私のそれと離れているので、急ぎ移動しなければならない。
「ごめん、急がなきゃ」
赤髪の人に背を向け、小走りに廊下を行く。けれど追ってくる足音も呼び止める声も無かった。何やら思わせぶりだったけれど、何だったんだろう。ただの変な人?
自分の教室に入る前にやっぱり気になって、振り向く。赤髪の人は、私にぶつかった場所から一歩も動いていなかった。だというのに、私をまっすぐ見つめている。他の生徒が何人も入り乱れているのに、私にはその人しか見えなかった。
目の前を生徒が横切る。すると、あの赤髪の人は消えていた。担任が、未だ廊下をうろつく生徒に声をかけながら近づいてきたので、慌てて教室に滑り込む。
赤色が、しばらく目に焼き付いて離れなかった。
次の日。朝。
とうとう菅原は学校を休んだ。理由は不明。
私が毎日菅原のクラスに顔を出し、彼女の出欠を気にしているので、「連絡を入れておこうか」と友達が声をかけてくれる。私ではない人からのメールなら、確認して返事を送ってくれるかもしれない。ありがたい心配りだったので、お願いしておいた。
教室を出て、廊下を歩きながら携帯を開く。先程友達に頼んだばかりだったけれど、私からも彼女にメールを入れておきたいと思ったからだ。欠席が私を避けてのことなのか、それとも別の理由かは分からなかったから、体調を気遣う体で文面を作り、送信。ポケットに携帯を放り込む。
「んっ!?」
途端、携帯が震えた。もう返事が来たのか、と慌てて確認するけれど、メールはシステムからで、エラーによる送信失敗を告げるものだった。再送を試みるも、またエラーメールが携帯を震わせる。こんな時に限って全く役に立たない機械だ……。八つ当たりしながら、電源を切った。
放課後。
菅原が学校に来ないなら、いっそ彼女の家に直接行こうかと考える。思い立ったが吉日、善は急げと思ったけれど、係の仕事が思いの外長引いてしまい、今日の決行は難しくなってしまった。急げば非常識な時間の訪問にはならないだろうけれど、学校内で会えない、メールも通じないという不運の連続で気分が落ち込んだ上、なんとなく体がだるいのも足を鈍らせた……いや、何かと理由を並べて、菅原との対面を怖がっているだけなのかもしれない。
肩に荷物の重みをずっしりと感じながら、人気のない廊下を歩く。窓から入り込む西日が、ただでさえ暗い心を余計にセンチメンタルにしてくれるものだから、つい深いため息を吐いた。
「そんなにでかいため息ついてどうしたの?」
「ひえっ!?」
不意に背後から声がして、完全に気を抜いていた私は、変な声を上げながら前に跳ぶ。
後ろを見ると、人が二人、立っていた。誰の気配も感じなかった……まあ気配なんて分かるわけないんだけど。って、よく見ると二人の内の一人は、昨日ぶつかった性別不詳の赤髪だ。
赤髪の奇抜さもさることながら、隣に立つ青ジャージの男も不思議さで負けていない。短い髪の毛は水色で、笑うように細められたつり気味の目も青い。見ているだけで体感温度が二度ほど下がりそうな外見だ。一度見たら忘れられないだろうに、やっぱり見覚えはない。
「そんなに驚かなくてもいいのに。ため息吐くと幸せ逃げるよ? はい、笑顔笑顔」
「え、えっと……何?」
朗らかな青ジャージの発言を完全無視して問うと、赤髪が青ジャージを肘でどついた。
「奇怪な発言は控えてください。彼女が困っているじゃないですか」
「人違いだったら困るから、顔確認するために声かけただけじゃん。この子で合ってる?」
「ええ。先日お会いした松本さんで間違いないです。私のこと、分かりますか」
自分の顔を指差す赤髪。話が全く見えてこないけれど、その質問には答えを用意できた。
「は、はあ……前ぶつかった人でしょ……あれ?」
ふと引っかかった言葉に、今度は私が自分を指した。
「私、名乗った?」
赤髪は首を横に振った。髪がぺちぺちと肩を打つ。
「何で知ってるの、私の名前。私、あなたたちのこと知らないのに」
「細かいことはいいじゃん、松本ちゃん。俺たち、君に用事があって会いに来たんだ」
言うなり青ジャージが近づいてきて、私の顔を無遠慮に覗き込む。
「……あ、あの?」
「なるほどねえ……これはまあ、なかなか」
私の困惑は伝わっていないようで、彼は鼻の頭がぶつかるんじゃないか、というところまで距離を詰めてきた。大内には悪いが、結構いい顔……大内のことは顔で選んだわけではないのだけれど……いや違う、その、ちょっと、いつまで見つめられなきゃいけないの!?
ばちん。
「いってえ!」
混乱を打ち壊す、いい音がした。青ジャージがぱっと離れ、頭を押さえてうずくまる。その後ろに立っていた赤髪は、手をさすりながら冷ややかな目で彼を見下ろしていた。殴ったのか。
「そこまで近づく必要ないでしょう。他人に無駄な迷惑をかけないでください」
「いてて、お花畑が見えた。……なに深紅、松本ちゃんと俺の距離感に嫉妬でもしごふえっ」
立ち上がろうとした青ジャージの腹部に、ぼすん。赤髪のトウキックが入った。青ジャージは変な声を出して廊下に転がる。顔面蒼白。最早全身青い。
怖い。もしかして私、危険な奴らに絡まれている? どうしよう、逃げた方がいい? 逃げるか? とは言っても玄関の方向に彼らがいるから、逃げ道は非常口くらいしかない。手出しはされてないけど、今って非常時? 怪我してからじゃ遅いし、今のうちに少しずつ距離をとれば……。
割と本気で考えている間に、青ジャージが立ち上がっていた。顔はまだ若干青いが、見透かしたように笑う。
「あはは。そんなに身構えないでよ松本ちゃん。俺たちは忠告をしに来ただけなんだ。……気をつけてね、早くて明日だ」
「え? え……?」
「じゃあねー」
一方的に投げつけられた言葉。その扱いに戸惑っているうちに、謎の二人は何事かを言い合いながら去ってしまった。広い廊下にぽつりと、私だけが残される。
彼らの名前や素性が不明なら、発した言葉も、忠告の意味も内容も分からない。あの二人組は電波なのか。中二病なのか。物理でなく精神が危険な手合いなのか。そう切り捨ててしまえば簡単だけれど、「忠告」だけに無下にするのも憚られた。
「早くて明日」。つまり明日以降に、良かれ悪かれ何か変化が起こるということ。それなら、少しの間忠告を信じて生活してもいいのではないか。二人に「危険人物」の烙印を押すまでの執行猶予としては、悪くないと思う。それに……その変化が、菅原関連の可能性もある。この状況を打破できるなら、願ったり叶ったりだ。
意味不明の忠告を希望に脳内変換して、歩き出す。心なしか、荷物が軽くなった気がした。
次の日。朝。
菅原はまた欠席。昨日の忠告があったから、今日は登校しているかもしれない、と期待を抱いていたのに、朝一番で儚くも砕け散ってしまった。
昨日「連絡を取る」と言ってくれた友達は、「返事がなかった」と申し訳なさそうに教えてくれた。私のようにエラーが出たわけではないようだけれど、がっかり度合いは変わらない。私だけではなく、誰とも連絡を取らないようにしているなんて……それだけ、私が菅原を傷つけてしまったということか。
思った以上の罪深さに唇を噛みながら、菅原のクラスから退散するしかなかった。
放課後。
今日は委員会の仕事があったけれど、昨日ほどは長引かなかった。昨日の自分なら、菅原の家に行くチャンスだ、と意気込んでいただろう。けれど朝のメールのことが尾を引いて、気分が乗らなかった。私じゃない友達すら拒絶するほどの悲しみを、菅原に与えてしまった。その原因たる私がいきなり家に押しかけてきたら、内容が謝罪であっても迷惑なのではないか……。「弱気になるな」と叱咤する心もあるにはあるけれど、そこで勇気を振り絞れるほどの強さは、今の私には残っていなかった。成果のない日々は、心労を蓄えるばかりだった。
喧嘩別れした相手に、毎日メールや電話をされたら迷惑だろう。本当に体調不良かもしれない。今日はメールも電話もしないで様子を見てみようかな。……逃避ではない。「自分が悪かった」という認識はあるし、謝罪の必要性はきちんと理解している。これは、もう一度アプローチをかけるための心の準備だと、自分に言い聞かせながら廊下を歩く。
俯いて進む最中、重なった足音にふと顔を上げる。
そこに、ありえない姿を見つけた。
「……っ!?」
そんな馬鹿な。
菅原がいる。
階段の踊り場から下階に消えていった後ろ姿を、ずっと求めていた親友の姿を、間違えるはずがない。私は先程までの弱腰をかなぐり捨てて、階段を駆け下り背中を追った。放課後なのをいいことに大声で名前を呼ぶけれど、菅原は顔を向けてくれない。その背中は立ち止まることすらないまま廊下を進んで、教室に入っていった。菅原のクラスだ。
菅原が入った教室の前に立つ。降って湧いたチャンスに緊張してきた。私を拒絶するように丁寧に閉ざされた扉の前、私は深呼吸し、何度もシミュレートしてきた謝罪の言葉を脳内で再生する。……大丈夫、行ける。行け。忠告の通り変化は起きた。このチャンスを無駄にするな。
勢いをつけて、扉を開ける。
がらっ。
「……菅原?」
菅原は背を向けて佇んでいた。呼んでも振り向いてくれない。この距離で聞こえていないはずはない……私に対してまだ怒りを抱いていて、顔も見たくないのだろう。心に刺さる反応だが、そうさせるほど彼女を傷つけたのは他ならぬ私だ。顔を見て、目を合わせて言いたかったけれど、私はこの状態で謝ることにした。
「菅原……ごめん! あの後、大内から全部教えてもらった。疑った上、一方的に酷いこと言って……本当に後悔してる。反省してる。ごめんなさい!」
頭を下げた。視界にある菅原の足が、ぴくりとも動かないのが怖い。謝罪をはねのけられる恐怖に駆られて、言葉を重ねた。
「あと、プレゼントありがとう。大内からもらったってこと以上に、菅原も一緒に考えてくれたってことが、すごく嬉しかった。でも、余計に申し訳なくなって……すぐ元通りにはなれなくても、またいつか、友達として……違う、今も、これからも友達でいたい!」
どんな言葉も行為も受け入れるつもりだった。関係が修復できるなら、二発くらいは殴られてもいいとすら思っていた。
なのに菅原は一切動かない。反応しない。
さすがに気になって、顔を上げる。菅原の背中は変わらずそこにあった。私の言葉を聞く気が皆無だったとしても、ここまで無反応、微動だにしないなんておかしくない……?
「……菅原、聞こえてるよね? 返事してよ」
言葉すらない。菅原は、まるで人形のように突っ立ったまま。
……人が真剣に謝っているのに、ここまで頑なに無視する? 自分の所業を棚に上げている自覚はあるけれど、だんだん腹が立ってきた。何をされてもいい、殴られても、言葉で突っぱねられてもいいから、せめて応えて欲しいのに。
私は彼女の肩に手をかけると、力任せにこちらを向かせた。
「ねえってば、菅原!」
振り向かせた菅原の顔には。
目も、口もなく。
ただの、黒、があった。
「……え?」
至近距離にある菅原の顔は、肌が焼けた状態の比喩表現でも何でもなく、本当に絵の具を塗ったような、ただの黒。顔を構成するパーツが全くないので、平たい面をかぶっているのかと思わせた。予想しえなかった状況に、思考が止まる。馬鹿みたいな単音しか出てこない。
「は? え、な、なに?」
謝るとか、許されるとか、無視された怒りとか、そういったものは一切吹っ飛んでしまった。空っぽのまま動かない頭では、この状況に対して納得できる推論など出てくるはずもない。しかし、体の方は自然と、この理解できない菅原、のような、何か、から逃げようとした。肩から手を放し、退こうとする。
放した手首が素早く掴まえられる。次の瞬間、息が詰まった。反対の手で首を絞められている、と気付いたときにはもう、空の頭に「苦しい」がなだれ込んでいた。片手だというのに、足が軽く浮くほどの力。唯一自由な片手で爪を立てても、逃れられる気がしない。
ぎりぎりと音を立てて首が締まる。酸素が欠乏し、血が昇る感覚。脳内の苦痛はだんだんと白んでいく。
「ま、て、す……わら…………」
教室が変な色で明滅しながら揺れる。自由だった片手は力を失って垂れ下がった。耳鳴りが五月蝿い。なんで……謝ろうと思って、それで……変化、忠告が……明日になれば……菅原…………。
……どかん!
どさっ。
「っは!! はあ、は、ぁ……!? う、げほげほっ」
空気が一気に肺に落ちてきた。喉が驚いて、思い切り咳き込んでしまう。
ぜいぜいと音を立てながら息を整えると、周りを見る余裕が戻った。見慣れた教室で、冷たい床に横たわっている私の体。机と椅子の足が並ぶ視界。
そこに滑り込む足。
「間一髪でしたね。無事で何よりです、松本さん」
聞き覚えのある、抑揚のない声。横向きの体を仰向かせると、そこには斜陽に照らされた真っ赤な髪を払う、赤髪がいた。
首が苦しい。体が痛い。……私はなんで、教室でうずくまって咳き込んでいるんだっけ?
「あ……あ、えっ!?」
思い出した。菅原に謝ろうとしたら、首を絞められたのだ。そこを赤髪に救われたのか。
首を何とか回すと、赤髪の向こうに菅原が立っていた。……顔が黒い。あれは夢ではなかったんだ。風もないのに、髪がゆらゆらと揺れている。蛇の髪を持つ空想上の怪物を思わせた。
菅原はどうしちゃったの? あれは本当に菅原なの? 聞きたいことが湧き上がるのに、言葉にならない。「友達に殺されかけた」という事実が、それを証明する喉の痛みが、身動きを取れなくさせた。
「さあ、大人しくしてください」
赤髪の声につられて見ると、いつの間にか赤髪の手には杖があった。菅原に向ける先端に、丸くて真っ赤な石がついている。それを含めた杖の長さは、小柄な赤髪の身長に迫るほど長い。
「……」
赤髪の言葉は聞こえているのかどうか。菅原は返事もなくふらふらと、黒い顔を向けてこちらに近づいてくる。赤髪が、半歩分足を滑らせた。
瞬間。菅原の顔面から、黒い針がいくつも飛び出した。私はとっさに体を縮こめる。……針はこちらに来なかった。正確には、針は飛んできたが赤髪の杖が叩き落としていた。針は硬質な音を立てて床を転がる。しかし蛇のようにのたうつと、菅原の黒い顔に戻っていった。
針が今一度射出される。しかし赤髪の対応は先ほどと異なった。赤髪の杖の赤い石が光ると、そこから火が噴き出す。放たれた針に向かって、火の尾を引く杖を振り下ろした。どかんどかん。爆発に煽られ、針は壁や机に次々突き刺さり動かなくなる。それを確認もせず、赤髪は菅原目掛けて駆け出した。菅原を殴るつもりだ、と気付いた時には、赤髪の杖に灯る炎が、菅原の黒い顔を照らしていた。止める間もない。
どかん。
……それは菅原の頭が潰れた音ではなく、菅原の顔からまた出た針が蔦のようにしなって、赤髪の頭をぶっ叩いた音だった。赤髪は投げられた人形のように吹っ飛び、黒板に叩きつけられる。ばごん。黒板が凹み、赤髪が床に倒れた。菅原は私のことは眼中になく、赤髪を目下邪魔者として認識しているようだった。どかん、ぼこん。邪魔な机を薙ぎ払いながら赤髪に近づいていく。
菅原の姿をしたものの頭が潰れる瞬間を見ずに済んだのは、良かった。けれど、このままでは赤髪が死んでしまう。大した縁はなくとも、目の前で人が死にかけているのに、黙って見過ごすわけにはいかない。何かしなければ……と思っても、私の体は動かなかった。あんな訳の分からないものを見せつけられては、私の正義感はまともに働かない。先ほど味わった瀕死の経験も手伝って、私は私を生かすための選択肢を勝手に選び取った。つまり、声の一つも出さず、身動きも取らず、息を殺して状況をただ見つめることを。
「っく……穏便に済むと思ったのに……」
赤髪の声が小さく聞こえた。生きているようだけれど、動けない赤髪の前に菅原が立った。顔から突き出た黒い針が、赤髪に向かう。
ぼん。
菅原と赤髪の間で、爆発が起こる。爆発に触れた針の先端に赤い炎が張り付いて、もがくようにうねった。その隙に、素早く立ち上がった赤髪が反撃する。
杖の先端、炎が灯る石の部分で、ばごん。菅原の頭を、今度こそ叩いた。その光景に身が固まる。……けれど、菅原は痛くもかゆくもなさそうに、衝撃で傾いた体を戻すだけだった。黒い顔には感情を測る余地がない。
赤髪の次なる攻撃が、菅原の腹部に入る。ぼこん。菅原はやはりよろめいたが、針の射出で反撃に出る。赤髪が杖を振るうと、その軌道にそって炎の玉が出現した。迫る針を火の玉が迎え討ち、爆発が起こる。どかんどかんどかん。その衝撃で机が転がり、教科書が飛んだ。火球を貫く針と、針を砕く炎が飛び交う。赤髪が杖で殴り、炎を燃やす。菅原は針を飛ばし、痛む素振りもない。
身を縮こめて、考える。これは一体何? 何が起こっているの? どうしてこんなことになっているの? 菅原に謝ろうとしただけなのに、何故私は彼女に首を絞められた? 何故菅原と赤髪は戦っている? その答えを知りたくて、頭を抱える腕の隙間から、戦況を窺う。
不意に、菅原がこちらを向いた。
「……え?」
私のことは眼中にないと思っていたのに、黒い面は間違いなく私を見ている。赤髪は私から見て菅原の奥。私と菅原を隔てるものは無い。
菅原の髪が、うねって飛んだ。突然の襲撃に、いや予告された攻撃であろうとも、生身の、ただの人間である私には為す術など無い。痛い、と感じて咄嗟に身を捩るが動けない。制服が黒く長い針で床に縫い止められていた。痛みは針が体をかすったせいだろう。
いつの間にか菅原が、私を見下ろしていた。針の突き出た黒い顔で、私を見下す。彼女の後ろには杖を振りかぶっている赤髪が見えるけれど、それが振り下ろされるより早く、針が私の頭を貫くだろう。もう逃げられない。防ぐ手立ても無い。諦めて目を閉じる。
……嗚呼、でも、怖い。
怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!
がしゃん。
音と共に、何かが顔に降りかかる。
「冷たっ!」
刺すような冷たさに目を開ける。
……私を突き刺そうと伸ばされた針も、私を縫い止めていた針も、全て砕けていた。透明な破片はきらきらと光を受けて、まるでガラスのようだ。
ばがん。幻想的な光景に似つかわしくない打撃音。針を砕かれた菅原の隙を突いた、赤髪の杖による打撃だった。菅原の体は壁に吹っ飛び、力なく床に倒れる。
咄嗟に菅原に伸ばした手に、透明な破片が載っていた。それは水の筋を付けながらするりと手を落ちて、床に割れ散らばる。更に砕けた欠片は小さな水の粒になった。
「……これ、氷?」
「そう、氷。おはよー」
声は左耳から。向くと、そこには青ジャージがしゃがみ込んでいた。赤髪と色違いの、青い石の杖を抱えて、笑っている。
「……何? なんで?」
「あはは、訊きたいことがさっぱり伝わらない質問だね。詳しい話は後で深紅から聞いてよ。とりあえずは目の前の」
どがん。言葉は途中で途切れた。会話の間に復活した菅原が、今一度針を射出したのだ。狙われたのは青ジャージの頭……しかし、針は深々と、壁に刺さる。青ジャージは軽く首を傾けて避けていた。
ぼかん。直後、菅原がまたも吹っ飛んだ。教卓に体がめり込み、一緒に倒れ込む。やったのは赤髪だ。フルスイングした杖をくるりと一回転させる。
「青冴、遅いです」
「結果オーライじゃん。怒らないでよ、深紅」
青ジャージ……青冴が杖を支えに立ち上がる。赤髪……深紅がふいと視線を逸らした先、教卓を軋ませて菅原が立ち上がった。
……ずっと「菅原」と呼んでいるけれど、顔以外は全部菅原だけれど、あれは本当に菅原なの? それ以前に、人間なの……?
二人が菅原に飛びかかった。深紅の杖が炎を纏うなら、青冴の杖は水を撒く。飛び散った雫が弾丸のように、菅原に飛んだ。菅原は針を振り回して叩き落とすけれど、反対側からの深紅の炎で挟撃され、対処しきれず被弾が重なっていく。
「思ったよりは強いけど、二人なら楽勝?」
「甘く見ていると、足元を掬われますよ。現に、私は一発食らいました」
「菅原ちゃんが痛くないように手加減したんでしょ。深紅はいつも甘優しいね。でもそういうとこ好き」
「その発言こそ慢心です。一度痛い目を見た方がいいのでは」
「えー、どうせなら驕り高ぶったまま制圧しちゃおうよー」
深紅と青冴は軽く言い合いながらも、菅原に容赦ない攻撃を叩き込んでいく。二対一の数的不利と傍目にも滑らかな二人の連携を菅原は捌き切れず、火を浴び、水を浴び、殴られた。何度も。何度も何度も何度も何度も。
それが人間とは呼び辛い、脅威を振りまく黒面の人形でも。私はあれを「菅原」という友と認識してしまっていた。絞殺も刺殺もされかけたけれど、それでも私は親友が攻撃される姿を見続けることができなかった。深紅と青冴が同時に杖を振り上げた瞬間、目を背ける。
どどどどっ。ぼごっ。
「うわっ、て、ああ……」
「……あー。どう、深紅?」
「どうもこうも……逃げられました。針を飛ばして視界を塞いだ、一瞬の隙を突いて」
「マジかー。追うの面倒臭いな」
「お互い、慢心のせいでは? 反省会でもしますか」
「松本ちゃんは無事だから、とりあえずは良しとしようよ。……あ、松本ちゃん。目開けて大丈夫だよ」
明るく言われて、ゆっくり目を開ける。
……忽然と、夢のように、黒い顔をした菅原は消えていた。けれど、壊れた机や飛び散った教科書、無残な教卓を見れば、今まで起こったことが現実であることは明白だった。
いつの間にか杖を消した深紅が、こちらに近づいてきた。私の横に片膝をつく。
「怪我はありませんか?」
「う、うん……針がかすったけど、大したことない」
「そうですか。今何が起こったか、分かりますか?」
「それは、分からない……」
「そうですね。今何が起こったか、知りたいですか?」
それは、「知らないままでいる」という選択肢もある、ということ? 今起こったことを白昼夢にすり替えることも、可能だということ?
できるならそうしたい……けど。
「……知りたい。あれは本当に菅原なの? 菅原、どうしちゃったの?」
小さく頷いて、深紅はその場に体育座りをした。肩越しに青冴を見る。
「では、私は説明責任を果たします。青冴はどうしますか? 暇なら手伝ってください」
「えー? そういう面倒かつ無駄なことはしたくないな。深紅一人でよろしく。俺はそんな深紅をひたすら眺める、楽しくて有益な任務に就く」
「説明責任を果たす前に、燃えるゴミを焼却処理する責任を果たした方がいい、ということですか。確かに、果たすべき責任に大小はありませんね。あなたにしては良いことを言うではありませんか。ええ、早急に全力で、目の前の青いゴミを荼毘に付しますとも」
「教室の被害がでかいから翡翠に認識介入頼んでくるねーあー忙しい忙しい」
「それも大事な責任でした。よろしくお願いします」
青冴が早足に教室を出て行く。遠ざかる足音を確認してから、深紅は私に向き直った。
「自己紹介をしていませんでしたね。私は長谷川=深紅。先程の青いのは吉川=青冴と言います。下の名前で呼んでいただけるとありがたいです」
二人がお互いを下の名前で呼び合っているのを聞いたから、違和感はさほどない。頷いて先を促す。
「では始めましょう。あれは「悪心」と言います」
……突然、固有名詞を出されても困る。しかし深紅の目は真摯だったから、私を困らせて楽しもう、というわけでもないらしい。「知りたい」と言った以上、積極的に質問を投げることにする。
「悪心……それは、さっきの菅原のこと?」
「正確には、菅原さんを変質させたものです。悪心とは、書いて字の如く「悪い心」です。厳密には善悪関係なく強すぎる心、感情を指しますが、そういったものは他者を害する悪に転じることが多いので、そう呼んでいます。
悪心は人を操り傷つけるもの。先ほどの菅原さんは、そういった悪心に支配され、操られている状態です」
「じゃあ、あれは菅原で間違いないのね……」
菅原に襲われた、殺されかけたことは事実として確定してしまった。今日は欠席だったのに学校に現れたのは、悪心に操られたからだろうか。
「顔が黒かったり、針を出したりとかは、その……悪心、の影響?」
「ええ。先ほどの菅原さんの異形、異能は、悪心により変化した結果です。強すぎる悪心が、外見や異能、つまり物質世界にまで影響を及ぼしているのです」
悪心が菅原を操り、姿まで変化させている。ということは、その悪心とやらをどうにかできれば、菅原を元に戻せるのでは?
そこまで考えて口に出す直前、別の疑問が浮かんだ。
「……ん? 悪心って心、形のない感情でしょう? 人を操るのは分かるけど、それで体が変わったり変な力が使えたり、って、なんで? 心が現実に表出するって、なんでそんな……?」
問うと、深紅は小さく息を吐いた。静かに私から目線を逸らし、呟く。
「……そういう世界、そういう設定なんです、ここは」
「え、その投げやりな説明は何。もう少し論理的に何か、あるんじゃないの?」
「ないです」
深紅は本気で言っているらしい。納得はいかないが……これ自体は適当に思いついた質問だったので、あまり気にしないことにした。そもそも悪心という存在自体、目の前で非現実的戦闘が起きたから受け入れたけど、現実的に考えたら意味不明なのだ。
「わかった……質問変える。その悪心、追い払うことはできる? 菅原を元に戻せる?」
今度は深紅も滑らかに応えた。感情の見えない目が私を見据える。
「悪心の侵食度合いによります。弱い悪心でしたら説得による対処も可能ですが……菅原さんは、説得が通用するぎりぎりの状態かと。なので先程は、武力による悪心の殺害を選択しました」
先ほどまでの光景を思い出す。元に戻すためとはいえ、できれば親友が殴り倒される様は見たくない。元に戻る可能性があるなら、菅原にとっても痛みの少ない方法を選ぶべきだろう。
「……説得が通用する可能性があったなら、何故戦ったの?」
「松本さんの安全確保もありますが、手っ取り早いので」
「普通、助けるなら最初は一番被害の少ない方法を選ぶべきでは!?」
「ええ、それは尤もですが……菅原さんはもうすぐ悪心に食い尽くされてしまう、危険な状態と見受けました。殺される前に殺さないと、被害が広がってしまいます」
「悪心に食い尽くされると……どうなるの」
「正常な感情、自我が消えます。人としての形を失い、悪心の凶暴性が導くまま、見境なく人を殺すでしょう。そうなった悪心を払うには、依り代となる人間ごと殺害するしかありません」
澄ました顔で言うが、それはつまり。
「菅原を殺すってこと……!? 馬鹿なこと言わないで!!」
「そうならないための戦闘でした。私は悪心を殺すことが目的であり、殺人は望みません」
あまりにも機械的な言葉に、思わず深紅の顔をまじまじと見てしまう。無感動な表情。赤い目に、私の引きつった顔が反射する。
「あなた……本当に人間なの?」
人の姿で救済を謳いながら、杖を持って人外の力を行使し、形なき悪心を冷徹に殲滅する。それは、私の命を救ってくれたヒーローというより、どちらかというと人の姿のままで人ならざる猛威を振るった菅原……悪心と、大差ないのではないか。
ぽつりと漏れ出た問いにも、深紅は律儀に答えた。
「私たちは悪心を殺すためだけに存在しています。人間の領域外の理論で生きる以上、人間とは、呼び難いでしょうね」
どういう意味かはよく分からない。結局敵か味方かも掴みづらい。けれど今、菅原を悪心から救うためには、深紅、青冴の能力と協力は不可欠だ。非人間だろうと何だろうと、力を貸してもらうしかない。
彼らが何者かについては、一旦打ち切ろう。私にとって大事なのは菅原の安否だ。
深呼吸をして、話題転換。深紅が示した可能性を追求する。
「菅原には「説得が通用する」と言ったわね?」
「ぎりぎりですが」
「上等。可能性があるなら、やりたい」
「うーん、松本ちゃんには分が悪くない?」
頭上から降ってきた声。顔を上げると、割れた廊下の窓から青冴が顔を覗かせていた。頬杖をついてにこにこと笑っている。深紅の無表情はロボットのようで気になるが、青冴の笑顔もどこかとってつけた感じがある。とりあえず浮かべとけ、みたいな。
「連絡はつきましたか」
「うん、「話が終わったら呼べ」って。
……で、松本ちゃん。言葉で菅原ちゃんを助けるつもり?」
青冴の目を見て力強く頷いた。すると青冴は「ふうん」と目を細める。笑っているのに目は冷ややかで、否定的な意思を感じた。
「危険だって認識はある? 失敗すれば、その場で殺される可能性が十分にあるよ。殴り合いなら君は黙っていればいいし、俺たちも次は逃さない。確実に仕留める。絶対こっちの方が楽だよね? ぶっちゃけ、君が負け戦に挑んで死んだ上、悪心に食われた菅原ちゃんが暴走、なんてことになったら、俺たちの後処理が面倒。
……ここまで聞いて、どう? リスクも掛け合う迷惑も、少ない方がいいと思わない?」
言っていることは分かる。説得は、勝ち目の薄い戦いかもしれない。深紅と青冴に、余計な手間をかけさせる行為なのかもしれない。
それでも、菅原を無傷で助けたい。喧嘩したけど、傷つけたけど、殺されかけたけど……大切な友達であることは揺らがない。もう一度、今度は間違えることなく菅原に謝意を伝えて、許しなり裁きなりを受けたい。そのためには、悪心を説得で追い払う以外の選択肢はない。
私は携帯電話を取り出した。傷もなく正常に起動しているそれを操作する。開いたのはメール作成画面、相手はもちろん菅原。静かな教室の中、ボタン音も気にせず猛スピードでメールを打つ。「明日学校に来て。話がしたい。」と打ち込み確定、送信。深紅と青冴は黙って成り行きを見ている。
「……来たっ!」
すぐに携帯電話が震えた。またエラーメッセージかと思ったけれど、表示された相手の名は菅原。音信不通だった数日間が嘘のように、喧嘩前と変わらない絵文字顔文字だらけの本文が展開される。「分かった! 朝七時に私のクラスに来て。」。
携帯の画面を見せて、私は二人に断言する。
「明日、朝七時。この教室に菅原が来る。私は、説得で、悪心から菅原を助ける」
青冴と深紅が顔を見合わせた。そして同時に、肩をすくめる。
「……分かりました。松本さんに賭けます。明日の朝七時ですね」
「俺も、もう何も言ーわない。見守っててあげるよ」
「ありがとう……って、明日二人とも来るの?」
「ええ。悪心の暴走や説得の失敗を確認したら、介入させていただきます」
二人の意見を無視する形なので、てっきり見放されると思った。啖呵を切った後で何だが、とても心強い。
「では、今日は帰った方がいいでしょう。心身を休めてください」
深紅に続いて立ち上がる。状況を理解できたからか、それともやるべきことがはっきりして活力が湧いたからか、体は痛みながらもきちんと反応してくれた。
「俺らも休むとするか……あ、その前に松本ちゃん。宿題だ」
「宿題?」
青冴が笑顔で頷いた。
「そう。説得っていうのは、悪心に「出て行ってください」ってお願いすることじゃない。菅原ちゃんの方に働きかけるんだよ」
「菅原に……「正気に戻れ」とか、「悪心に負けるな」とか?」
「悪心に憑かれた菅原ちゃんは、松本ちゃんを狙った。松本ちゃんに対して強い感情を持っていて、それを悪心が増幅させているんだ。その感情を理解して、鎮めるような言葉をかければ」
「悪心を払える。そうですね、菅原さんとの交流を振り返って、かけるべき言葉を選んでおくといいでしょう」
「分かった、考えてみる」
神妙に頷いて、ふと気づく。死にかけたところを助けられ、私のわがままに付き合ってもらい、こんなアドバイスまでしてくれるのに、深紅と青冴にまだお礼をしていなかった。教室を出る前に振り返り、二人に頭を下げる。
「助けてくれて、ありがとう。明日はよろしく」
「はい。気をつけてお帰りください」
「また明日―」
廊下に出た。あれほどの騒ぎがあったのに人がいない。不自然だが、顔が黒い菅原の姿や凄まじい戦闘が見られでもしたら大変だ。逆に良かったのかもしれない。
与えられた宿題について考える。私に向けられた強い感情を鎮める言葉。とっかかりはやはり、あの喧嘩だろう。私に向けられた感情が怒りなら、私から言えるのは謝罪しかない。もう一度素直に、ストレートに思いを伝えれば、悪心に阻まれず言葉が届くだろうか。
考えている間に校門を抜けていた。攻撃を受けて逃げた菅原はどうしているだろう。深紅と青冴も、明日に向けて何か準備をするのだろうか。明日はどうか、二人の力を借りずに事が収まりますように。
次の日。朝。
少し冷たい朝の空気の中、学校に行くと、玄関に深紅と青冴がいた。
「おっはよー松本ちゃん」
「おはようございます」
手を振る青冴と、お辞儀をする深紅。私も手を挙げて応じる。
靴を履き替えるついでに、菅原の下駄箱を確認する。中にはローファーがある、ということは内履きを使用している。よかった、菅原は約束通り来ているんだ。なら、早く彼女の元に向かおう。
私が先陣を切り、二人がついてくる。昨日は戦闘中も色々言い合っていたのに、今日の二人は何も喋らない。部活の朝練があるものの、大抵は運動部が外で活動しているから、校内は静寂そのものだった。足音だけが廊下に響く。
階段を上ると共に、緊張も増してくる。無言が息苦しくなってきたので、適当に話題を振ってみた。
「あ、あの。悪心って、他にも……菅原に憑いてるやつ以外にもいるの?」
「悪心はこの学校内のどこにでもいるよ、弱くて見えないだけでね。誰にでも、菅原ちゃんみたいに人を捨てる可能性と、松本ちゃんみたいに殺されかける可能性がある」
今回は被害者で、助けてもらえたけど、私も菅原のようになって、人を襲ってしまう危険がある……。昨日の戦闘、菅原の脅威を思い出して、体が硬くなる。
「学校は閉鎖された擬似社会、学生は心身共に未発達。悪心が生まれやすい環境と言えます。ですから私たちは悪心を殺し、正常な学校生活を取り戻したいのです」
私が知らない間にも、彼らは戦闘を繰り返して、密やかに平穏を守っていたのだろう。そんな中で私個人の希望に時間を割いてもらうことは、少し申し訳ない気分になる。
「ありがとう……ごめんね、大変なのに、私に付き合ってもらって」
「気にしないで。これは慈善事業だし、君たちの自己満足にも付き合い慣れてる。そりゃあ面倒だし、文句の一つも言いたくなる時はあるけど、種族単位でフィードバックなんて期待できないから、諦めて被害被った方が手っ取り早っ」
ぼごっ。青冴の言葉が止まる。深紅の肘が腕に入って、悶絶していた。
「青冴の言葉は気にしないでください。さあ、行きましょう」
この二人が今までどれほどの悪心と対峙しているのかは知らない。けれど、今回のような状況を何度も経験しているとしたら、説得など挟むよりさっさと暴力で倒した方がいい、という気持ちになってもおかしくない。私が立場を逆転させて軽く想像するだけでも、面倒臭いと思う。
それでも。迷惑だとしても、できる限りの手を尽くして、親友を無事に救いたいと思う。自己満足でも、可能性があるなら挑みたい。
昨日と同じ教室に辿り着いた。時間は七時を少し過ぎたところ、待ち合わせにはちょうどいい。この扉を開けたら命がけの説得が始まる……とても怖い。怖いけど、やらなければいけない。菅原を狂わせた責任を、深紅と青冴を巻き込んだ責任を負う覚悟を決める。
……よし。
がらっ。
「……」
扉の向こうには、昨日と同じように背を向けた菅原がいた。脳の防衛機能をもってしても忘れられない昨日の恐怖が、頭をよぎる。異形の友人、黒い暴力……怖がるな。助けに来たんだから。雑念を振り払って、呼びかけた。
「菅原」
菅原は少しだけ、首を動かした。無反応だった昨日とは、様子が違う。
「もう一回謝らせて。菅原、大内と一緒に選んでくれたプレゼント、すごく嬉しかったんだ。なのに私、あんな風に責めて……ごめん。嫌われるのも、許されないのも覚悟の上。でも」
「昨日も聞いたよ、それ」
「え」
何日かぶりに菅原の声を聞く。最後に聞いた怒鳴り声ではない、普段通りの声に懐かしさすら覚えた。あ、あれ……本当に昨日と全然違う。もしかして、もしかしたら。
「メールも見た。留守電も聞いた」
「……でも、反応してくれなかったってことは、ずっと私を許せなかったんでしょ?」
「許したかった」
菅原が体をこちらに向けた。今にも泣きそうな顔を、苦しそうな顔をしていた。
「松本が本気で謝ってくれてるって、感じてた。私はずっと松本に苛立って、避けて逃げていたのに、松本は毎日教室まで会いに来て、話そうとしてくれたんだよね。電話もメールもたくさんしてくれた。……応えたかった。「もういいよ」って言って、親友として、いつもみたいに一緒に笑いたかった」
無意識に一歩、菅原に向かって踏み出していた。私たちの気持ちがちゃんとかみ合っているのなら、きっとやり直せる。きっと……。
「そう、言われたかったんでしょ」
「…………え?」
「ねえ松本。私の心はもう駄目なの。あんたへの憎しみしかない」
ぼたり。ぼたり。語る菅原の口から……血のように……黒い液体が零れる。
「喧嘩した次の日。あんたは自分の非を認めたけど、私は自分で生み出した憎悪に取り憑かれていた。たった一日の出来事で、もう振り払えないほど、正常な心を犯された」
見開いた目は真っ黒で、そこから涙のように黒が溢れて、全身が黒に染まっていく。……助けられると、思ったのに。間に合うと、元に戻れると、期待したのに。呆然とする。
菅原の黒い手が不自然に伸びて、私の両肩を掴んだ。強引に引きずられて、菅原と至近距離で見つめ合う。さっきまで見えていた顔の欠片もない、黒の面。闇を覗き込んでいるような。
「全部遅かったの。分かる? 最初にあんたが一方的に私を糾弾した時点で、私の心はもう取り返しがつかないところまで食い尽くされたの。それ以降のあんたの行動は全部無駄。いや、完全な無駄ではなかったかもね。確かに昨日の時点では、まだ心を取り戻すチャンスがあった。あんたの真摯な連絡のおかげか、ほんの少しだけ正常な心は残ってた。
でも昨日、偶然あんたに会った。そこの二人に見つかった。それが最低な巡り合わせだったの。仲直りのチャンスだったのに、私は憎しみを抑えきれずあんたを傷つけて、二人は私を傷つけた。そこで私の心は……「松本と仲直りしたい」っていう希望は、力尽きたの。消えたの。死んじゃったの。傷ついた体に残されたなけなしの心は、あんたを傷つけたことで「もう戻れない」「きっと許してもらえない」って絶望に染まりきったんだよ。
残念だったね? 必死に関係を修復しようとしてたのに、結局あんたが勝手な思い込みで菅原を責め立てた時点で、ほとんど全部終わってたなんて。あんたの自分勝手な妄想と言動で、大事な親友の心をぶち壊しちゃったなんて。そしてもう取り返しのつかない、人間であることすら忘れて化け物になるなんてさあ!」
……。
「あはは、今のあんたは絶望してる。虚無を、悲しみを、後悔を、怒りを感じている。そういう感情の集合体、強い感情こそが「私」なの。そのまま自己嫌悪の渦に呑まれれば、あんたも菅原と同じになれるよ。
ねえ、それでいいんじゃない? どうせあんたは自分勝手に親友を壊したんだし、その償いに自分を壊せば許してもらえるかもしれないよ? こっちにおいでよ。委ねなよ。そうすれば、この感情に簡単に抗えないことがすぐにわかる。菅原の苦しみを、そこから解放される喜びを理解できる。我慢する必要はないの。ただ嫌な奴を傷つければいいだけ。楽しいよ、すっごく気持ちいいの。ねえよく見て、あんたも染まり始めてる。その調子だよ。ほら、早く」
突き飛ばされ、よろけながら目を落とす。指先が壊死したように黒くなっていて、腕に向かって侵食してきている。昨日の私なら慄いていただろうけれど、今の私は無感動だった。そんなことは些細な問題だった。自分が菅原のようになるとしても、別にどうでも、と他人事のように考えていた。菅原を救えなかった。その事実が私を空虚にしていく。
菅原の言う通り、この罪の意識に身を任せていれば、私は悪心に憑かれることで罰せられるのだろう。菅原のように人を捨てて黒い異形となり、絶望のままに破壊を撒き散らすのだろう。この世の法律では裁けない、親友を壊した罪を悪心が裁いてくれるのなら。それは、私にとっては素晴らしい救いなのではないか……。
「えーと、そろそろ首突っ込んでいい?」
能天気な声が後ろから。振り向かないけれど、青冴はきっと笑顔で立っている。……私は応えない。代わりのように菅原が言った。
「あんたたち二人もさ、自覚ある? あんたたちの存在が、行動が、菅原を壊したって自覚。悪心から人間を守るヒーロー気取りが、残念だったね? あんたたちの早計な判断が、暴力が、菅原が迫害されるべき化け物だと立証したんだよ」
「ああ、うん。俺ら別にヒーローじゃないからね。っていうか、君たちの細かい事情とか、心底どうでもいいよ。人の感情なんて、コントロールできるわけないじゃん」
ゆっくり振り向く。青冴は予想通り笑顔で、軽薄な声で、私たちの絶望を「どうでもいい」と断じた。怒るべきところだと思うけど、なぜか涙が出てきた。
「俺たちはただ、悪心を殺す。君が悪心に成り果てたなら、君を殺す」
「松本さん。説得は失敗、いえ不可能です。あれはもう菅原さんではない。私たちは速やかに、菅原さんを食い潰した悪心を殺そうと思いますが、あなたはどうしますか」
「……どう、って……」
こんな状況で、こんな私に何ができるというのだろう。
「あの悪心は手遅れで、あなたもまた自罰……あなた自身に向けられた強い感情から悪心を生み、影響を受けています。このままではあなたも悪心に苛まれて、己を失うでしょう。
ですが、あなたはまだ間に合う。選択肢が二つあります。一つは、このまま悪心になって私たちに殺される。もう一つは、悪心に打ち克った上で認識介入によって全てを忘れ、平穏に生き延びる。
……どうしますか?」
私の前に用意された二つの道。生きるべきか死ぬべきか……文学的な背景などない、文字通りの二択。
「じっくり考えておいてよ。その間に俺たちは、菅原ちゃんだった悪心をぶっ叩くからさ」
「それが一番効率的ですね」
二人が菅原を睨んだ。視線を受けながら、菅原はくすくすと笑う。
「あははは、馬鹿じゃないの? 松本にとって私は菅原という人間、親友なんだよ? たとえ人間らしい見た目を保っていなくても、自分の親友が目の前で傷つき、死んでいくのを見せつけられて、まともな判断できるわけがないじゃない?」
「それ、さっき「どうでもいい」って言ったじゃん」
「どちらに転ぶにせよ、あなたの死は松本さんの背中を押します。私たちはそれでいい」
言葉を置いて走り出す。私などいないかのように横をすり抜けて、杖を手に、菅原目掛けて。
息を吸って、言葉を吐こうとして、その形がないことに気づく。誰に、どんな言葉をかけたいのだろう。菅原に? 深紅と青冴に? 「待って」「止めて」「逃げて」……どれも違う気がする。どれも、手遅れな気がする。
迷う間に戦闘が始まった。黒い針が教室を走り、炎と水が飛び散る。
「そういや深紅。俺ちょっと気になってたことあるんだけどさ」
どどどっ。水滴の弾丸が、壁を穿ち電灯を割り、黒い腕を撃ち抜く。
「はい、何でしょう」
ごうっ。炎の尾が、机を飛ばし教科書を焦がし、黒い足を炙る。
「昨日、松本ちゃんが説得を希望したときに「賭けましょう」って言ったじゃん」
ばしゅ、どごん。菅原の、針の射出による反撃は、青冴の杖の一振りで叩き折られた。
「言いましたね」
黒い腕が伸びて、棘を備えた太い蔦のように変形する。ばがん、ぼこん。大きな音を立ててあらゆる物を壊し暴れるも、炎の弾で腕の動きを牽制されれば、菅原本体ががら空きになる。ずどん。その隙に素早く懐に入り込んだ青冴の、杖による純粋な殴打に、菅原はよろめく。
「何に賭けたのかなーって。やっぱ、松本ちゃんが菅原ちゃんの説得に成功すること?」
菅原の腕が教室のあらゆる物を抱き込む。巻き込まれないように深紅と青冴が大きく避けたところで、菅原は動く。私に向かって一直線に。そもそも菅原の目的は、二人との戦闘ではないことを思い出す。彼女が抱えた悪心の標的は私。彼女の憎悪は私に向かっているのだから。
迫り来る黒を、呆然と見つめ返す。これで死ぬなら、仕方がないのかもしれない……本気でそう思う。菅原が帰ってこないのだとしても、彼女の姿をしたモノの手にかかることもまた、一つの償い方なのではないか、と。
「いえ、少し違います」
でも、そうはいかなかった。もう少しで菅原の手が届く、というところで、ぼかん。彼女の動きが止まった。ぐらりと黒い体が傾き、倒れる。菅原の後ろには、杖を振り抜いた無表情の深紅。
「あ、そうなの? じゃあ何だろ」
菅原と私の間に、青冴が割り込んでくる。菅原は攻撃が効いたのか、力を込めてゆっくり起き上がる。深紅と青冴はそんな彼女を見下ろしながらも、まるでその存在がないもののように、穏やかな声で会話を重ねていた。
「あっ、菅原ちゃんが松本ちゃんとの約束を守って、時間通りに来てくれること?」
「それも違います」
菅原が黒い顔をきっと上げる。そこから針が飛び出したが、青冴はひらりと躱した。次の瞬間、彼は杖を持たない手で菅原の頭をわし掴み、引きずり上げる。菅原が苦しげに呻くが、それを前にしても青冴の笑顔は崩れない。
「えー……でもその賭け、勝っても負けても利益なくない?」
「この賭けに関しては、負けたいのです。経験からくる予測を……覆して欲しいんです」
会話の間に、ぎりぎり、めきめき。日常生活でまず聞くことのない、骨の軋む音が鳴り続けている。菅原の呻きは段々と細くなって、今はかすれた吸気音しか聞こえない。その結末を予期しながらも、私は黙ってその光景を目に焼くことしかできなかった。
「……ああ、もしかして深紅。その賭け……」
「っ!!」
微かに、息を詰める音。同時に菅原の腕が跳ね上がり、自分の頭を掴む青冴の腕を締め上げた。棘が突き刺さり、肉も骨も握り潰すような強さで指が食い込んでいく。それが最期の抵抗であることは、傍目にも明らかだった。青冴は言葉を止め、菅原を見つめる。
「……ね……邪魔、するな……っ、消えろ……死ね……!」
肺から絞り出すような怨嗟の声。けれど、それが合図だったように。
ずばっ。ごしゃ。
深紅の杖が菅原の体を切り落とした。青冴の手が菅原の頭を握り潰した。びちゃ。ぼたぼた。血が飛び散る。至近距離にいた青冴はもちろんのこと、深紅も、私も、その血を浴びた。生理的嫌悪を催す血の臭いを、生きていた証のように残る温もりを、浴びた。
「あーいててて、腕痛え。昨日みたいに逃げられないように確保したけど、仇になった……」
「後で翡翠か道埋に治療してもらってください」
深紅によって上下に分断された肉体が、血の中に投げ出されている。その肌は……黒に染まっていない。人間らしい、けれど生気の無い冷たい土色。黒い針も棘の腕も消え去っていて……目の前にある死体は異形のそれではない、間違いなく人間のものだった。
菅原は、死んだ。
「傷の手当はもちろんですが、服も替えた方がいいのでは? 返り血がひどいです」
何で、こんなことになったんだろう。何度も繰り返した自問。頭の中で渦巻く思考。
「これ結構ボロいしね、そうするか。深紅も替えたら? お揃いでジャージ着る?」
「ジャケットの替えは持っているので、お揃わなくて結構です」
でも、一つの答えが見えた。
混沌の渦の中、一筋の闇が。
「冷たいなあ。ケチ」
「五月蝿いです」
これは、私の所為だ。私があの日、菅原に不信感を抱かなければ。一方的に糾弾しなければ。後悔は先に立たない。思考の渦にねじ込まれる罪悪感は、何の役にも立ちはしない。後悔で私の罪は消えない。後悔で菅原は生き返らない。
それでも、私は罪を自覚してしまった。罪を悔いた。救われたいと願った。もう届かなくなってしまった謝罪の言葉を、菅原に伝えたかった。許して欲しかった。
どうすればいい? どうすれば、私は菅原に償える?
「さて……残る問題は」
「松本ちゃんなんだけど」
知っている。その方法は、他ならぬ菅原が教えてくれたじゃないか。菅原の形をした悪心が。
「……まあ、こうなるよね」
「……残念です」
闇に、救いを求めた。伸ばした手が黒く染まる。ノイズが混じって混濁していく視界の真ん中で、菅原を見た気がした。笑っていた。
「深紅。これが、深紅が賭けた未来でしょ?」
「はい。菅原さんの説得に失敗し、松本さんも悪心になる未来。……残念ながら、賭けは私の勝ちですね」
菅原の笑顔が消えた暗闇に、赤と青の光が灯る。大丈夫、深紅と青冴は口こそ軽いが、悪心を殺すことに忠実だった。きっと私のことも、躊躇いなく殺してくれる。
「松本さん。私たちは悪心の存在を……悪心によって人が壊れる様を見過ごせなくて、ここに来たんです。だから」
「人でなしなりに、少しは願っていたんだよ。救われますようにって」
二人の声は届かない。どんな言葉も、闇にさらわれて消えていく。
菅原。あんたがこっちに来られないなら、私がそっちに行く。行って、今度こそ謝るから。
「松本ちゃんは優しすぎだなあ。まあ、安心していいよ」
「悪心になった以上、私たちが最期まで面倒を見ますから」
謝るから、仲直りをしよう。待ってて。
ぐしゃっ。
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