2021年11月12日金曜日

【創作小説】タイカンオンド03

 


ある日。精神の領域に興味を持った。感情、心、思考……不確定なモノ。僕を含め、人間の誰もが内包しながらも触れることが叶わない場所。人類が足を浸す広大な海。

僕が人間である限り、それを認識することはできない。この肉体が邪魔だから。形有るものは形無いものに触れられない。けれど興味は尽きなかった。

いかにして精神の次元に肉薄するか。考えた末、一つの可能性に辿り着いた。

僕がそちらに行けないなら、精神をこちらに呼べばいい。偶像を崇めて神を貶めるように、高次の精神を三次元に引き摺り下ろす。僕の興味はその先へ向かった。

精神が、心が形を持ったとき。人間は、世界は、どんな風に変化するのか。どんな風に……。

僕は、実験することにした。(全4話)


僕は、「助けてくれ」と叫んだ。



 ある日。
 精神の領域に興味を持った。感情、心、思考……不確定なモノ。僕を含め、人間の誰もが内包しながらも触れることが叶わない場所。人類が足を浸す広大な海。
 僕が人間である限り、それを認識することはできない。この肉体が邪魔だから。形有るものは形無いものに触れられない。けれど興味は尽きなかった。
 いかにして精神の次元に肉薄するか。考えた末、一つの可能性に辿り着いた。
 僕がそちらに行けないなら、精神をこちらに呼べばいい。偶像を崇めて神を貶めるように、高次の精神を三次元に引き摺り下ろす。僕の興味はその先へ向かった。
 精神が、心が形を持ったとき。人間は、世界は、どんな風に変化するのか。どんな風に……。
 僕は、実験することにした。




 週明け。朝。
 教室に入ると、クラスがざわついていた。普段から他愛もない雑談が咲き乱れてはいるものの、今日は特別浮き足立っているように感じる。
 席について、所定の位置に荷物を押し込んでいると。
「はよっす、吾妻!」
「おっはよー」
 男女に声をかけられた。先に挨拶をしてきたのがゴーサムで、後のが佐藤。どちらもクラスメイトで友達。作業の手を止めて、二人を見上げた。
 ゴーサムは格好いい。異国の血が流れているからだろうけど、それは見た目だけじゃなくて、陽気な性格にも表れている。誰とでも話せるタイプだから内気な僕にも声をかけてくれて、友達として接してくれている。その明るさと優しさは眩しいくらいだ。
 佐藤も……女の子に言うのはちょっと悪いけれど、格好いい。自信に満ち溢れている強気な性格で、それが立ち居振る舞いにも滲み出ていた。たまにキツすぎたり、突っ走りすぎたりするところもあるけれど、見ていて迷いがなく爽やかだ。
 そんな華やかな二人に対して僕はというと、気弱、内気、自信は無くて見た目も平凡以下、勉強は苦手で運動も駄目……良いところなんて一つもない。二人と比べて人間性の差に落ち込むときもあるけれど、その劣等感を楽しい会話で忘れさせてくれるのも、また彼らだった。
「おはよう、二人とも。今日、なんか騒がしいね」
「だよなー。でも、俺も分かんねえ。今日って別に行事とかなかったよな?」
 僕とゴーサムが首をかしげていると、佐藤が眉をひそめた。
「えっ、あんたら覚えてないの? 担任が言ってたじゃない。教育実習生よ。二年の全クラスに一人ずつ、今日から配置されるの」
 そんなこと言ってたっけ……思い出せない。先生の連絡も忘れるなんて、記憶力も駄目だ。本当に褒められたところがないな、僕。
 静かに落ち込む僕とは対照的に、ゴーサムは明らかに面白そうな言葉に飛びついていた。
「教育実習生! まじか、どんな人? 女? 美人?」
「それが分からないから、想像して楽しんでるのよ。ちなみに私の理想はイケメン一択! 少女漫画みたいな出会いと別れ、一時のロマンス……!」
「いやいや、一夏のアバンチュールを男にもくれよ! 女性希望!」
「今、夏じゃないけどね……」
 ツッコミを入れたけれど拾われることはなく、二人は妄想をぶちまけ合っている。ちなみに今は夏の手前。梅雨に足を踏み入れていて、晴れたり曇ったりの不安定な気候が続いている。週末には雨が降るような予報も出ていた。
 きーんこーんかーんこーん。チャイムに教室がざわつく。それが鳴り終わらないうちに担任が現れたため、生徒たちは輪をかけて慌ただしく席に着いていった。いつもよりも早い担任の登場だけれど、不平不満は一切起こらない。早くホームルームをしたい担任と、早く教育実習生を迎えたい生徒の、利害の一致というやつだろう。
 僕の真後ろの席に座るゴーサムが、席に着いた後も楽しそうに声をかけてくる。
「担任今日早いな。絶対あれだろ、教育実習生の紹介だよな?」
「うん、そうだろうね」
「美人でクールな女性に期待! じゃないと、佐藤にジュースおごる羽目になる!」
 苦笑すると、担任の咳払いが聞こえた。口を噤んで、担任の言葉を待つ。
「おはよう。前に連絡した通り、今日から二年の全クラスに教育実習生が配置される。このクラスも然りだ。……入ってください」
 皆の視線が扉に集まる。
 足取り軽く入ってきたのは、すらっとした男性だった。ダークカラーのぱりっとしたスーツ、さらりと揺れる茶色の髪と無邪気な笑顔が、フレッシュな新入生を思わせる。これから出会う未知のものに、胸をときめかせているような。
 彼は担任の横で足を止めると、チョークを取って黒板に文字を書き始めた。右肩上がりの控えめなサイズで書かれるのは、彼の名前だ。チョークを置くと、生徒に向かって一礼。
「おはよう、そして初めまして。一条優也と言います。担当科目は数学。よろしくね」
 柔らかい声に軽やかな言葉遣い。かなりフランクな人のようだ。堅い担任は一条先生の横で苦い顔をしているけれど、生徒側、特に女子は彼の軽さを好意的に捉えているようだった。「格好いいね」「優しそう」「このクラス当たりじゃない?」……女子のざわめきが大きくなってきたところで、担任が咳払いをする。
「彼は一ヶ月、授業のサポートをする。君たちの教師だが、同時に君たちと同じ学徒でもある。適切な距離感で、実りある関わりを持てることを期待する。……出席を取るぞ。吾妻」
「はい」
 返事をすると、一条先生と目が合った。明るい笑顔に僕が反応する前に、次の人の名前が呼ばれて一条先生の視線が動く。一人ずつ顔を確認しているようだ。覚えられるのかな?
 後ろを見ると、ゴーサムは頭を抱えている。……ああ、さっき言っていた、佐藤との賭けか。
「……残念だったね。男の人だった」
「くそー! でもまあ、担任みたいにガッチガチのお堅い奴じゃなくて、そこは安心したぜ」
「確かに、とっつきやすそうな人だよね。あんまり華やかな人でも困るけど……まあ、女子はそっちの方が良いのかな? みんな釘付けになってる」
「見てみろ、佐藤なんか完全に虜になってんぞ」
 一条先生を見つめる佐藤の横顔は、熱に浮かされているように見える。佐藤好みのイケメンだったようだ。頭の中では既に、彼とのロマンスが始まっているかもしれない。
 そんな具合で、今までとは少し違った日常が始まった。




 次の日。朝。
 教室前の廊下に、やけに女子生徒がいる。見た感じ他学年もいるような……。いつもと違う、とは思ったが、変だとは思わない。一条先生の存在を認めた今、女子の行動も納得できた。一日で一条先生のことが広まり、一目見たいと集ったのだろう。その行動力はちょっと尊敬する。
 女子の合間を縫って教室に滑り込む。ゴーサムが席で佐藤と話しているのが見えた。近づくと、気付いたゴーサムが疲れた顔を見せる。
「おーす吾妻! 助けてくれよ、こいつさっきからずーっと一条の話!」
「吾妻が来たなら一から話し直すわね、昨日の一条先生レポート!」
「嫌だやめろ!」
 ……相当長い話を聞かされることになるらしい。女子から見た一条先生の印象には興味があるけれど、ゴーサムの反応を見るとちょっと……いや、かなり聞きたくなくなってくる。
「えーと……手短にお願いしたいんだけど……」
「は? 一条先生の魅力を全て伝えるには、最低一時間欲しいんですけど」
「はい、すみません」
「じゃあ始めるわよ。一条先生は、とにかく格好いい! 男でも分かるわよね? イケメンなのはもちろんのこと、すらっとして高身長なとこも良いわね……。足長いの。隣に並べたら、外国人体型のゴーサムでも負けるから」
「一条、俺より身長あるんだから普通だろ。つーか勝負してねえし!」
「手も大きかったわ。大きさ比較を口実に、手のひら合わせちゃったのよ! あったかかった! あと中身もイケメンよね。明るくてジェントル! さりげなく扉開けてくれたり、歩いてるときにつまづいた子がいたら、さっと支えて「大丈夫?」って。耳元で! はー、少女漫画を地で行く理想の王子様、みたいな? 学校中、いえ世界中の男子に見習って欲しいわ。あとは教育実習生だけあって、すっごく頭が良くって知的で……」
 ゴーサムと目を合わせると、静かに首を横に振られた。まだまだ続くらしい。佐藤のイケメン好きは今に始まったことじゃないけれど、ここまできらびやかなフィルターがかかっているとは思わなくて、正直ちょっと胸焼けしそうだ。
「聞いてる?」
「はいっ! き、聞いてます!」
 僕たちの意識が離れていることに気づいたのか、佐藤が低い声で凄む。慌てて姿勢を正したところで、閃いた。チャンスだ。佐藤は今、一条先生でなく僕たちに関心を向けている。ここでうまく話を振って別の流れに持っていけば、胸焼けを回避できる気がする!
「えっと、佐藤? 一条先生がすごいっていうのは、男子側としても共通の見解なんだけど」
「一条先生ってば、男子までときめかせちゃうのね! 無限のポテンシャルだわ」
「それはそれとして、その……こう……一条先生の意外な一面とか、驚きの発見みたいなのはあった……?」
 話を逸らそうとして、結局一条先生の話をしてしまった。ゴーサムは僕の意図に気付いたようだけど、会話の下手さに額に手を当てている。ごめん、僕ではゴーサムを救えない……。
 けれど僕らの予想に反して、質問を受けた佐藤は大人しくなった。ぽん、と手を叩く。
「ああ、あるわよ。一条先生、オカルトに興味があるらしいの」
 それは思ってもみない趣味趣向で、少し興味がわく。ゴーサムも身を乗り出しした。
「オカルトって? トイレの花子さんとか、都市伝説的なやつ?」
「うん、心霊とか、異世界とか……あと魔術的な。そういうの普通に信じてて、研究もしてたらしいよ」
「先生の担当って数学だよね。かけ離れてる気がするんだけど……意外だな」
「それがそうでもないらしいの」
 佐藤の言葉から熱が引いているのは、そこはときめくポイントではないからだろう。他の教師相手なら「キモい」と切り捨て心身ともに引きそうなところを普通の熱量で話しているだけ、一条先生に対する思いの強さを物語っているのかもしれない。
「魔術には数学的な要素が多いらしいわ。そこから、科学で解明できない心霊とか怨念……形のない精神とかにも興味を持って、数値や図式で解明できないか……みたいな研究をしてたって。私も聞いててよく分かんなかったけどね。さすがに女子の中でも賛否両論だったけど、先生のちょっとミステリアスなところが引き立って、個人的には好き」
「お前の感想は聞いてねえよ」
 きーんこーんかーんこーん。救いのチャイムが鳴った。同時に扉が開いて、黄色い声が上がる。一条先生の登場だった。佐藤も席に戻りがてら手を振っている。最早アイドル並みの人気の先生は、涼しげに手を振り返していた。一条先生の後ろから担任が来て、特大咳払いからのホームルームになったので、ぼんやりと一人で考える。
 オカルト趣味、ミステリアス……言われてみれば、一条先生は底知れない、謎めいた雰囲気がある。人当たりが良く、非の打ち所がない人だけれど、その裏に何か、得体の知れないものを持っているような気がするのだ。いや、人間なんて、表裏のない方がおかしいか。
 出席確認で名前を呼ばれる。応えて顔を上げると、一条先生が僕を見ていた。次の名前が呼ばれる前に視線が動く。もしかして、昨日の一回のでクラスの、都合四十名ほどの名前を覚えてしまったのだろうか。やっぱり教師を目指す人の脳って違うなあ……とささやかに凹んだ。


 放課後。
 ホームルームの後、担任が教室を出ると同時に女子生徒に群がられた一条先生。佐藤もその内の一人だ。また女子の黄色い声が溢れるのかな……と思ったら、違った。
 ぱんっ。一つ手が叩かれると、魔法にかかったように女子が静まった。少し気になって、帰り支度の手を止め顔を上げると、一条先生は相変わらずの笑顔、柔らかい声で話し始めた。
「君たちとの会話はとても楽しいけれど、今日は君たちに手伝って欲しいことがあるんだ。いいかな?」
 「否」と応える女子生徒はいない。佐藤もまた然り。我こそはと手を挙げる女子たちに、一条先生は満足そうに頷くと、紙を一枚取り出した。教卓に広げて何かを書き始める。書きながら言った。
「三人……いや、四人がいい。決めてくれるかな」
 途端、仁義なきじゃんけん合戦がスタート。最初はグー、じゃんけんぽん、の応酬である。佐藤は……三回戦で敗れた。悲喜こもごもの女子たちの中、一条先生はひたすら紙に向かっている。遠目に見た限り、何かの図形のようだった。今朝聞いた「オカルト好き」という側面を鑑みると、図形は魔方陣のようにも見えてくる。ファンタジー漫画とかでよく出てくるやつだ。
 公正なるじゃんけんの末に四人の女子が選抜された頃、ちょうど一条先生の手も止まった。四人を手招きして、先生がポケットから取り出したのは、五円玉。
「穴があれば十分だけど、五円玉の方が雰囲気あっていいよね。良い御縁が有ります様に」
 指で弾いてキャッチ。紙に描かれた図形の上に置くと、手で五円玉を示した。
「穴を塞がないように五円玉に触れて、上の文字を読んでみて。それだけだ、簡単だろう?」
 「これは何?」と問う女子の声に、一条先生は笑顔で答える。
「有名な降霊術があるだろう? 「こっくりさん」とかいうやつ。あれに似たものを考案してみたんだ。呼ぶのは霊ではないけれど……僕は「カミオロシ」と呼んでいる」
 いきなり何やってるんだこの人、そもそもそう簡単に降霊術って生み出せるものなのか、などと僕は疑問に思うのだけれど、一部の女子もそんな顔をしているけれど……未知なるものへの興味は、誰もが抱いているようだった。一条先生考案、という点もポイントが高そうだ。
 選ばれし女子生徒たちが頷き合い、「せーの」で声を合わせて文章を読み始める。
 ……来たれ真理。来たれ心意。来たれ心地。呼ぶものに応えて満ちよ、来たれ、来たれ、来たれ。
 声が空気に溶ける。教室にいる誰もが、固唾を飲んで見守った。
 静寂の中、数秒。
 誰かが悲鳴を上げた。選ばれざる女子たちが教卓ににじり寄って、覗き込んでいる。息を呑む者、身を乗り出す者様々だけれど、その反応を見る限り、教卓では何かが起こっているようだ。こっくりさんに類似しているなら……五円玉がひとりでに動いている、とか?
「大丈夫。それは悪いものじゃないし、指を離せばすぐ終了だ。リスクは無いけれど、怖いなら誰かと交代……続ける? 無理はしないようにね。
 このカミオロシ、こっくりさんを踏襲して、相手に質問できるようにしたんだ。左上がYES、右下がNO。簡略化しすぎてこれが限度だけど、それなりに正確な答えが出るはずだよ」
 「さあどうぞ」と一条先生が促す。その余裕ある態度で平静を取り戻したのか、女子の一人が何事かを呟いた。内容が聞き取れないほどの小声だったけれど、数拍後の歓声で推測できる。何かを問い、答えを得たのだろう。超常的に、五円玉が誰の意思とは関係なく動くことで。
 別の女子が質問する。また歓声。二度三度と成功することで、女子は超常現象に慣れ始めた。どこからか「誰かが動かしてるんじゃないの」という声も上がっているが、ありがちな疑念なので笑って流された。こう盛り上がってくると恐怖より興味が勝り、教室に残っていた男子や廊下にいた生徒も巻き込んで、だんだん教卓周辺の人口密度が上がっていく。
 僕は……眺めていたけれど、特別興味があるわけではなかった。いや、正直怖かった。提案したのが大人気の先生であっても、周りに仲間が何十人いようとも、五円玉が勝手に動くだけで怖い。呼び立てて質問に答えさせている相手が何者なのか、分からないのも怖い。臆病……な、だけなのだろうけれど。カミオロシにて問えば、これが真っ当な危機感か否か、答えを示してくれるのだろうか?
 ……問うまでもないか。僕は弱い。そんなこと、分かりきっている。
 僕は教卓に集う人々に逆らって、教室を出た。




 次の日。朝。
 カミオロシの話は広まっていた。その場にいなかったゴーサムに、佐藤が詳細を説明している。普段なら僕はゴーサムの側だろうけれど、今回は現場に居合わせていたから、僕の立場は佐藤寄り。佐藤の発言を裏付ける証人的扱いになっていた。
「マジで五円玉、動いたのかよ?」
「僕は見てないけど、女子の反応を見るに動いていたんだと思うよ」
「動いてたの! 吾妻も近くで見ればよかったのに。
 私、小学生の頃こっくりさんやったことあるけど、動かなかったのよねー。なんか、あの頃のワクワクを取り戻した気分」
「でもそういうの、誰かが無意識に動かしてる、ってのが相場じゃねえ?」
「それは思ったけどさ、五円玉がすーって、紙との摩擦を感じないレベルで滑るのよね。上から押さえつけて動かしてるなら、そんな風にならないでしょ? 紙も普通のわら半紙だし」
「じゃあ……手品とか。一条ならできそうだろ」
 あれこれと説を展開するゴーサムに対して、佐藤は大袈裟に肩をすくめた。
「はぁー。ゴーサムは神秘の何たるかをわかってないわー。最低」
「神秘だろうがオカルトだろうが、信じる信じないは個人の勝手だろ?」
「「目の前で実際に見た人間の意見を信じない」っていうのが納得いかないの!」
「吾妻はともかく、お前の発言は一条が絡むと途端に信憑性なくなるから!」
「はあー? 私が一条先生に関して、嘘をつく道理がないんですけどー!」
 言い争いが始まった……えーと、仲裁しよう。思い出したことを佐藤に訊いてみる。
「そういえば佐藤。一条先生は「手伝って欲しい」って言ってたよね。あれで何を手伝えたの?」
「え? ああ、吾妻は途中で帰ったから、聞いてないのか」
 佐藤は僕に向き直った。ゴーサムが彼女の後ろで、僕に両手を合わせている。仲裁成功だ。
「あの儀式には人数がいるらしいの。「来て欲しい」っていう強い願望がたくさんないと、相手を呼び出せないんだって。参加人数は単純に、五円玉に指を置ける人数で決めたらしいけど」
 ……ん?
「ああ、そうそう。見てこれ!」
 ふとした引っかかりを覚えたが、その理由が分からないまま、佐藤が話を転換させた。僕の興味もそちらに向いて、ささやかな違和感はあっという間に消え去る。
 彼女がポケットから取り出したのは、小さなメモ紙。そこには何かの図形……これは昨日見たぞ。魔方陣だ。
「儀式に必要な図形のメモ、もらったの! たくさんの人にやってもらうことで、成功率や精度を上げたいんだって」
 円と四角に直線、アルファベットのような文字で構成された図形は、まさしく簡略化された魔方陣。図形の上には、昨日唱えていた文言まできっちり書き記されている。初めて見たゴーサムは、掲げられたメモを見つめながら口を開いた。
「これと五円玉でできんの? その、カミオロシっつう儀式」
「このメモだと小さすぎるわね。そもそも、カミオロシをやる毎にこの図形は手書きしなきゃいけないんだって。思いを込める必要があるとか」
「じゃあ、これをでかい紙に書き写せばいいわけか。
 にしてもこの図形、簡単だな。こっくりさんは五十音書くのに」
「「簡略化したからYESかNOの二択しか答えられない」って言ってたね」
「そうそう、でも当たるの。やった子が、二週間前の予定を当てられたって言ってた。他校の友達と買い物してて、クラスメイトは知らないはずの予定よ」
 きーんこーんかーんこーん。チャイムが鳴った。今朝の雑談はここまでだ。


 昼休み。
 教室で本を読んでいたら、耳に入ってきたのは覚えのある文章。「来たれ」「来たれ」と繰り返す、懇願の文句だ。顔を上げると、この真昼間にかの儀式を行っている女子四人組がいた。
 来たれ、来たれ。あれは結局、何を呼び出しているんだろう。一条先生は「霊ではない」「悪いものじゃない」と言っていたけれど。天使とか、神様とか? ……待った。大前提に疑問が残っている。そもそも本当に呼び出しているのか。何かしらが、五円玉を動かしているのではないのか。佐藤に怒られそうだけど、朝聞いた佐藤の友人の話だって、人為的に五円玉を正しい方向へ動かすことは、可能性としてはかなり低いけれどゼロではないし……。
「吾妻君、ちょっといいかな?」
「は、はい……ひえっ!」
 思考に没頭していると、背後から声をかけられた。曖昧に頷いて振り向くと、そこには一条先生。女子に囲まれていない珍しい状態……なのはいいけれど、学校中の注目の的に呼ばれたことに驚いて、思いっきりのけぞってしまった。
「あ、いえ……えっと、な、何ですか?」
「そんなに身構えないで? 理解と親睦を深めるための対話だよ」
 一条先生は、そんな失礼な僕を一切気にせず、いつもの笑顔で手元のバインダーを示した。
「教育実習生として、審査員である君たちの意見をつぶさに知っておく必要がある。君とはまだ話したことがなかったから、貴重な昼休みの数分、借りてもいいかい?」
 「そういうことなら」と応じて、読んでいた本をしまう。一条先生が聴取を行っているなんて初めて知ったけれど、目的は納得できた。教育実習生って大変なんだな。
 始まった問答は、ごく真面目なものだった。僕の得意科目、苦手科目、授業の進行度、理解度。僕が答える度、一条先生はバインダーに挟まれた紙に何かを書きつけている。参考資料として提出したノートを、一条先生は頷きながらめくっていた。
「……うん、これで大体分かった。協力ありがとう吾妻君、参考になったよ」
 僕の何がどう参考になったかは分からないけれど、一条先生に収穫があったなら良かった。
 返されたノートをしまって向き直ると、一条先生は別の方向を見ていた。視線の先には、カミオロシを行う女子たち。五円玉は今回も動いているらしく、女子たちの声が上がる。
「自分で言うのも何だけど、日も高いうちからあんな儀式。雰囲気なくて間が抜けているね」
 くすくす笑うと、一条先生が僕に向き直った。
「君はカミオロシを、あの儀式をどう思う? 昨日見ていたよね?」
「気づいてたんですか? えっと、どう思う、ですか……」
 少し考えて、思うままを答えることにした。うまく取り繕えるはずもないし。
「正直疑わしい、ですけど。本当だったら怖いなーと……いや、先生を疑っているんじゃなくて、呼び出される相手が何者かわからない以上、安心できないというか。成功率とか、えっと……そう、先生のおっしゃる通り雰囲気がない、あまりに手軽すぎるから、信じたくても信じにくいと……」
 思うまますぎて、まとまっていなかった。変なこと言った気がする。恥ずかしい。けれど一条先生はその返答を気に入ったみたいで、うんうんと楽しそうに頷いている。
「率直な意見をありがとう。女の子たちの意見も大事だけれど、客観的視点も必要だからね」
 女子は一条先生に気に入られたい一心で、都合の良いことしか言わないのだろう。もしかして、先生も心の中ではうんざりしていたりするのだろうか。表には全く出ていないけど……。考えながらまじまじ先生の顔を見ていると、目が合ってしまった。
「ん? 何か気になることがあるなら、何でも言ってみて? 自慢じゃないけど、僕は並大抵のことで怒ったり、気分を悪くしたりしないから」
 そんなつもりではなかったのだが……でもせっかくなので、訊いてみることにする。
「……じゃあ、いつも楽しそうに笑っていらっしゃるのは、何故なのかなあ、とか……」
「僕は楽しんでいるからね、あらゆる出来事を。そしてそれらを生み出す人々を、世界を、次元を愛している。好きなものに囲まれていると、人間って幸せだろう?」
 僕では到達できそうにない境地だな、と思っていると、一条先生が僕の胸を指した。
「では僕からも質問だ、吾妻君。君は何故、いつも楽しくなさそうなのだろう?」
 首を傾げる。世界が傾く。
「え? えー……勉強苦手ですし、運動もできないですし。社交性は無い、笑顔も愛想も振りまけない。才能無くて、自分に自信が無い……。優秀で明るい先生とは、正反対なんですよ」
「……僕はカウンセラーではないから、確かなことは言えないけれど」
 一条先生は、僕に向けていた手を自分の胸に当てた。
「今はそう思っていてもいい。ただ、今後自分の長所や才能を見つけることができたら、誰かが認めてくれたら。その時は素直に受け入れて、大事に育てるといい。良いところの無い人間はいないんだよ。他者と比べて、優劣はあるかもしれないけれどね」
「……見つかる、でしょうか?」
「見つからないことは、存在しないことと同義ではない。「見つかる」と信じていれば、いつか見落とすことなく手に入れられるさ」
 人生経験を感じさせる含蓄のある発言に、何だか感動した。女子に囲まれている姿ばかり見ていたから、どこかで軽んじていたのかもしれない。その印象は修正された。
「……すごいです、一条先生。すっごく先生っぽいです」
「あはは。僕は先生を目指す者だからね、「先生っぽい」というのは最大の賛辞として受け取るよ!」
 笑う先生につられて、僕も少し笑う。女子が熱を上げる理由が、ちょっと分かる気がした。
 複数人の話し声が近づき、教室の扉が開かれる。反応して顔を上げると、佐藤を先頭に数人の女子がいた。一条先生を見つけると、口々に言いながらこちらに向かってくる。
「あーっ、先生見つけた!」
「学校中探したのに……どうやってここまで移動したんですか?」
「もしかして、オカルト的な何かしらとか? 魔術とかそういう!」
 ぴっと人差し指を立てて茶化した佐藤に、一条先生はきょとんとする。
「驚いたな、その通りだよ。移動魔術さ。「テレポート」と言うと分かりやすいかな。気配遮断の魔術も使えば、目くらましは簡単だよ」
「……え? えっ、と?」
 予想外の反応に戸惑う女子。一条先生は気にせず続けた。
「ああ、真偽は別にいいのか。「誰にも気づかれず移動している」という結果はあるのだから、その過程は君たちの好きに想像してもらって構わないよ」
 先生なりのジョークなのか、それともはぐらかしたのかよく分からない。佐藤も首を傾げていたが、すぐに角度を元に戻した。
「はあ……。
 あっ、そうだ一条先生! 今日、私もカミオロシやることにしたんですよ!」
「それは嬉しいなあ! たくさんの人にやってもらう必要があったから、君たちに協力を仰いで正解だったよ」
 一条先生は嬉しそうに手を叩く。
「こんなに広まるとは思っていなかった。この調子なら、そろそろ次の段階に行くかな」
 儀式に「次」とかあるのか。何かを呼び出して、知らないことを教えてもらう儀式。その「次」とは何だろうか。……今朝の違和感が胸にぶり返す。何が引っかかっているんだろう?
「ちょっとした変化が起こるかも。でも気にせずやってみて」
「変化……? 例えば、どんなですか?」
「質問した際にYES、NO以外の答えを出そうとしたり、関係ない文字を書き始めたり」
「そ、それめっちゃ怖いんですけど! 本気でホラーじゃないですか!」
「怖くはないよ。今は扉越しに問答をしている状態だから、扉を開けない限り実害はない。そこは製作者である僕が保証するよ」
「先生がそこまで言うなら信じますけど……」
 一条先生と佐藤の会話をBGMに考えて考えて……違和感の答えを、導き出す。
「……何で、カミオロシを教えたんですか?」
 口に出して、はっと顔を上げると訝しげな佐藤と一条先生。「あのね」と佐藤が出来の悪い生徒を諭すように説明する。
「朝教えたじゃない。たくさんの人にやってもらうことで、精度が上がる。だからこの儀式を広めたのよ」
「あ、うん、そうだけど……カミオロシの精度を挙げることは、一条先生にとって、手伝って欲しいほど大事なことなんですよね。でも、カミオロシの何が先生にとって大事……有益になるんでしょうか」
 努めて冷静に、かつ気分を害さないよう穏やかに質問を重ねる。
 僕の違和感は、儀式の意図が分からないことだった。一条先生はなぜこの儀式を生み出したのか。儀式を行うことによって得られる一条先生の利益は何か。一条先生が、ただ遊びの為だけにこのような儀式を考え、学生に広めるとは思えない。そんな些細な、けれど根本的な疑問が、引っかかっていたのではないか。
 僕の問いを受けて、先生は軽く首を傾けた。
「これは研究……実験なんだ。当然求めるのは結果だけれど、僕では結果が出せない。君たちでないと意味が無いんだよ」
「何の実験、なんですか?」
「……うーん、どう答えようかな」
 一条先生が天井を仰いだ。目を閉じて腕を組み思案する姿と、女子からの痛い視線に気づいて、僕の頭がどんどん白くなっていく。
「ごごごめんなさい、先生のやることに僕が口出しとか、おこがましいですよね! 困らせてしまって申し訳ないです! 聞いたところで、僕では理解できないような気がしますし!」
 素早く頭を下げる。けれど間髪入れず降ってきたのは笑い声だった。
「いや、謝る必要はないよ。初めてそこまで訊かれたから、説明の仕方を考えていなかったんだ。ごめんね吾妻君、返答は用意でき次第教えてあげる。それでいいかな?」
「はあ、すみません。えっと、よろしくお願いします……」
 もう一度頭を下げたところで、廊下から一条先生を呼ぶ声。そこには担任の先生がいて、「今後の授業の話し合いが」と渋い顔でまくし立てた。一条先生の顔に冷や汗が浮かぶ。
「……しまった、教育実習生としての本分を忘れていた。しかし、大変有意義な時間だったよ、吾妻君。みんなもまた後で」
「はーい!」
 去っていく一条先生の言葉は、女子が全面的に受け止めて手を振り返した。先生が廊下を歩いていくのを見えなくなるまで見送って……女子、特に佐藤がぎろりとこちらを睨む。
「……吾妻。何で一条先生といたのよ」
「いや、面談していて……授業のこととか、色々話してたんだ」
「よくも先生の、そして先生との貴重な時間を独占してくれたわね……!」
 案の定、怒りの矛先が僕に向いたのだった。そもそも僕に声をかけてきたのは一条先生なので、完璧に理不尽なのだけれど、言ったところで佐藤は聞き入れてくれないだろう。チャイムと共にゴーサムが戻ってくるまで、僕は佐藤から説教されることになってしまった。


 放課後。
 帰り仕度を済ませたところで、誰かに声をかけている佐藤が目に入った。相手は……吉田だ。一人でいることが多く、物静かで暗い印象の女子。一条先生フィーバーの波にも乗ること無く、休憩時間には読書を嗜む孤高のイメージだ。勝気な佐藤とは正反対っぽいのに、接点なんてあっただろうか? ゴーサムも気づいたようで、僕に話しかけてくる。
「珍しい組み合わせだよな、佐藤と吉田」
「うん。……佐藤、放課後は「カミオロシをやる」って言ってたから、それかな?」
「えっ、そうなのか? おい佐藤、吉田! カミオロシやるって本気か!」
 ゴーサムが突然興味を示して、佐藤と吉田に向かっていく。僕もついていった。
「何よゴーサム。そうだけど、何か問題ある?」
 なぜか胸を張る佐藤。一条先生に喜んでもらえたから、鼻が高いのかもしれない。吉田はどこか面倒くさそうに、長い髪を指でいじっている。
「いや、別に問題はない。でも興味はある。明日感想聞かせろよな」
「野次馬根性」
 吉田がぽつりと呟く。話したことがないけれど、佐藤とかみ合うのなら取りつく島もない、ってことはなさそうだ。ちょっと聞いてみようかな。
「吉田も……カミオロシをやるの?」
「……そ。興味無いけど、佐藤に誘われて人数合わせ」
「佐藤と吉田って、性格真逆そうだけどどんな接点が……ああいや、その、ごめん!」
 うっかり口が滑った。謝ると、吉田は「別に」と呟いた。
「同じ中学。隣の席になったんだけど……どうでもいい人に毎日話しかけられるの鬱陶しくて。だったら、友達にしておいた方が気持ち楽かなって」
「そんな理由だったの!? まあ、今現在も友情が繋がってるからいいわ!」
「今現在も、若干鬱陶しいと思ってるけどね」
 独特だ。でも、ああ言いながら佐藤と友達を続けているあたり、優しい人なんだろう。
「私たちの馴れ初めはいいのよ、今はカミオロシ! 隣の教室に残りのメンバー待たせてるから、早く行かなきゃ。じゃあね二人とも、報告待ってなさい!」
 佐藤と吉田が教室を出て行く。僕とゴーサムも帰路に着いた。




 次の日。朝。
「……動いたのよ」
 佐藤が告げたのは儀式の成功。一条先生の役に立ててさぞ喜んでいるはず……と思いきや、彼女の顔はやけに厳しかった。
「成功したのか? よかったな」
「……その割に、嬉しそうじゃないけど」
「怖がりな佐藤ちゃんは、五円玉が意味不明な動きして、びっくりしたんだよね。怖くて泣きそうだったんだよね」
「ちがっ、吉田、ばっ……泣いてない! まだ泣いてなかったし! いや、そっ、よし、吉田はどうだったのよ!」
 どもる佐藤は、吉田の発言をほぼ肯定しているも同然だった。対して、吉田はいつも通りの無表情で、髪の毛をいじっている。
「元から気味悪いと思ってたから、別に。私はむしろ、原理も分からない変なことを、疑いなく実行する方が怖い」
「そ、そっか……」
「「意味不明な動き」って何だよ? 五円玉、YESかNOにしか動かないんだろ?」
 ゴーサムの問いに、佐藤は腕を組んで難しい顔で説明する。
「最初の方は、ちゃんと二択で答えてたんだけど。途中から五円玉の動きが鈍くなって、はっきり答えを示さなくなってね……止まったり、震えたり。昨日やってた他のグループも、変な動きしたのがいくつかあったみたい。一条先生は「変化が起こるかも」って言ってたから、おかしいわけではないんだろうけど……どういう意味だったのかな?」
 考え込む佐藤。僕とゴーサムでは力になれそうにないので、顔を見合わせるばかり。そんな僕らを眺めて、吉田が面倒臭そうに口を挟んだ。
「……佐藤。そんなに気になるなら、大元に訊けばいい」
「大元って……一条先生?」
「呼んだかな?」
「うおああっ、びっくりした!!」
 ゴーサムの真後ろに、噂をすれば何とやら、一条先生が立っていた。いつもの笑顔でひらひらと手を振る。周りには当然のように、女子生徒の人だかりができていた。
「お、おはようございます……」
「うん、おはよう。
 君たちの会話を小耳に挟んだけれど、僕に何か用事かな?」
 吉田に肘で小突かれて、至近距離の一条先生に目を輝かせていた佐藤が現実に戻ってくる。
「あ、はい! 私、一条先生に訊きたいことが!
 えっとですね……昨日のカミオロシで五円玉が変な動きをしたんですけど。あれってどう読み解けば……というか、どんな意図があるんですか?」
「ああ、昨日少し話したやつだね。何を訊いて、どんな風に動いたか聞かせてもらっても?」
 佐藤と吉田が、昨日の儀式の状況を説明した。周りにいた女子からも、似たような体験談がいくつか出てくる。それらを聞く毎に、一条先生の顔は明るくなっていった。元々笑顔を切らさない明るい顔なんだけれど、にじみ出るオーラがより明るくなる。
「この不規則な動きには、どんな意味があるんですか」
 一通り説明をした後、吉田が問うと、一条先生は指を立てて説明を始めた。
「より高次の存在と接触したんだよ。今まで呼んでいたものよりレベル、純度が高い存在だ。今までの存在では、君たちの呼びかけの強さに対応しきれなかったんだよ」
「店で文句つけるときに、店員じゃ埒があかないから「店長呼んでこい」って言うような……?」
「なんかすごく乱暴だね……」
 ゴーサムの例えは一気に神秘性を失うものだったけれど、一条先生的には問題ないらしい。うんうんと頷いた後、先生が僕を見た。
「僕は、触れることの叶わない高次の存在と接触したい。形のない意思、魂……いや、いわゆる神かな。それらとの接触が、この儀式における僕の目的。彼らは人の強い思いに呼応して現れる。僕は呼びかける意思の強さを、意思の数で賄おうとしている。それが、多くの人に儀式の参加を持ちかけた理由だ。
 ……これは、昨日の質問への回答になったかい?」
 そこまで言われて、やっと気づく。儀式は一条先生にどんな利益をもたらすのか、という昨日の疑問。持ち越された答えは、たった一日で見事に提示されたわけだ。
 僕は数秒の硬直の後、首を縦に振った。先生の目的と、協力の意味は繋がった。
「はい……分かった、ような気がします。ありがとうございます」
 一条先生は頷くと、舞台俳優のように腕を広げ、周りの生徒たちを見渡した。
「今までと異なる状況にも、臆することなく挑んで欲しい。もちろん、儀式の遂行は個人の自由。無理強いはしないけれど、人助けだと思って付き合ってくれると嬉しいな!」
 賛同の声が上がる。主に女子からのものだけれど、ここまでくると男子も興味を示さずにはいられないようだった。ちょっとした肝試し、あるいは流行に乗っておきたい願望から、男子の間にも少しずつカミオロシは広まり始めている。
 ぽん、と肩に手を置かれた。一条先生が首を傾げて僕の顔を覗き込んでいる。
「そこで、相談なんだけど。吾妻君もカミオロシをやってみる気はないかい?」
「えっ!? ぼ、僕がですか!? なんで……!?」
 突然の誘いに大声を上げてしまうけれど、一条先生は至って冷静だった。
「君の着眼点が素晴らしかったから、かな。君なら、儀式の中で新たな発見を得て、それが僕の求める高次との接触に役立つかもしれない。「無理強いはしない」と言った直後だけれど、僕の身勝手を許してくれるなら、どうかな?」
 一条先生の身勝手に、反感はない。先生が手助けを求めているなら、助けたいとは思うけれど……積極的にやりたいとは思えなかった。カミオロシが、僕らには想像も及ばないような存在とのコンタクトを可能にするとしても、それは一条先生の目的であって、僕はそういった存在に興味はない。それにやっぱり怖かった。叩く扉の向こうに何がいるのか、僕は解明より安全を選びたい。そもそも、普段触れることのできない存在に、人間が軽々しく手を出してもいいのだろうか?
 誘いは嬉しいが、丁重に断ろうと口を開いた時。
「あーがーつーまぁ?」
 極端に抑揚をつけて、名前を呼ばれる。脅迫めいた佐藤の声。彼女は笑顔だった。細めた目は口ほどにものを言う。「断れば殺す」、そう聞こえた。未知の儀式の不安と、既知の佐藤の脅迫を天秤にかけて……結局僕は、首肯した。
「ありがとう吾妻君、君の協力に感謝するよ」
「先生! 吾妻が確定なら他三名はどうしますか? もしよければ、いや是非に、というか絶対、私もやりたいです! あとはゴーサムと吉田でぴったり四人です。採用してください!」
「佐藤君、君の積極性も素晴らしい。では君たちにお願いしようかな」
「やったあー! ありがとうございます! ってわけで、ゴーサムと吉田もよろしく」
「何で巻き込んだし」
「でも俺、まだやったことねーし、ちょっと楽しみかも。それやるとして、具体的にいつですか?」
「明日の午後はどうかな? 午前で授業が終わるし、午後は部活があるから、校内に残っていても問題ない。僕が監督についていれば、先生方も安心してくれるだろう」
「完璧な計画です! 全員、明日の午後空いてる? 特にゴーサム、部活あった?」
「奇跡的にミーティングだけだな。少し遅れるかもだけど」
「私も委員会の集まりがある……けど、上級生優秀だし、めんどいからすぐ抜ける」
「それ仕事放棄だろ」
「私が許す。私は用事ないし、吾妻も口を挟まないところを見ると大丈夫でしょ? 大丈夫じゃなくても大丈夫にするんで、先生の計画でいきましょう!」
「皆が協力的で嬉しいよ。では明日の午後、この教室に集まろう。用事がある二名が教室に到着次第、儀式を開始する。いいかな?」
「はいっ!」
「はーい」
「了解!」
「……は、はあ……」
 とんとん拍子に話が進んでしまった。僕の予定も感情もお構いなしらしい。まあ、主張していないのだから、慮られるはずもないのだけれど。
 話が終わるなり、一条先生は女子生徒たちに揉まれ、あっという間に別のグループに取り込まれていった。それを確認すると、安堵のような落胆のような、自分でもよく分からないため息が出てきた。
「どうした吾妻。どうせやるなら前向きに、楽しんでいこうぜ?」
「先生直々のご指名なんだから、もっと積極的になりなさい!」
 確かに、一条先生に認められたことは誇らしい、というミーハー心はある。けれど、それで不安が拭えるかといえばそんなことはない。むしろ期待が重い。気分も重い。
「憂鬱だ……」
「一条先生がついてるんだから、大丈夫だって! 相変わらずチキンなんだからー」
「ま、死にはしないよ、多分」
 励ましを受けても心は重い。でも、「やっぱり断る」という選択はなぜかしようとは思わなかった。怖いし嫌だとは思うけれど、それをいかになだめすかして明日に臨むか、という方向に気分が進んでいる。なぜだろう? 他三人がその気になっているから、引っ張られているんだろうか。一条先生がいてくれる安心感もあるかもしれない。ただ、どの理由も後付けでしかないような気がする。
 逃げられないと思った。それこそ何か、高次の存在……神に強いられているように。




 次の日。午後。
 その時は近づいていた。用事のない僕と佐藤は、人のいない教室の自席に荷物を置いて、ゴーサムと吉田、一条先生を待っていた。電気をつけているのに教室が暗い、と思ったら窓の外に暗雲が垂れ込めていて、雨がぽつぽつと降り始めている。折りたたみ傘を持ってきておいて良かった。
 佐藤と他愛のない話をして待っていると、一条先生が教室に入ってきた。筒を持っている……と思ったら、丸めた紙だった。発表なんかに使うような大きい紙だ。
 一条先生の姿を見るなり、佐藤が座っていた机からひょいと降りた。先生に向かって一直線に駆け寄る。
「先生、お疲れ様です! 何かお手伝いすることありますか?」
「ああ、机を二つくっつけてくれるかな? そこを儀式の場としよう」
「了解です! 吾妻、出番よ」
 二人で机を言われた通りに動かす。勝手に他人の机を動かして使うというのは、ちょっと申し訳ない気分になるけれど、佐藤はお構いなしみたいだった。「机に入れっぱなしの教科書が重い」と勝手に中身を出したりしている。
 一条先生は、合わせた机の上に抱えていた紙を広げた。マジックペンを取り出すと、白紙に迷いなく線を引き始める。円、直線、曲線、文字。魔方陣なのだろうけれど、佐藤が見せてくれたものよりも複雑に、細かく描かれている気がする。
「これ、かなり複雑ですね」
「皆に教えたのは、誰でも描けるよう簡略化したものだ。これは簡略化する前、いわば正式な魔方陣なんだけど……疲れるなあ。「手で描く」なんてルール、作らなければ良かった」
 顔を上げて腰を伸ばす先生。覗き込んだ佐藤が、模造紙をとんとん叩いた
「この図って、意味とか法則とかあるんですか?」
「ああ、あるとも。線の一本に至るまで、不可欠な要素だ。例えばここは門、手前の線は境界、この図形が意思を吸収し、この曲線を伝わって中央に集約する……みたいなね」
 僕には綺麗な文様だなー、といった感想がせいぜいだ。佐藤もそんな様子である。
「これ、先生が考えたんですよね。こういうの、どうやって勉強するんですか?」
「僕が生まれた場所では、魔術は基礎的な学習項目だから……足し算引き算と同じだよ」
「ええ……? じゃあ、私たちも、勉強すれば魔術が使えるようになるってことですか?」
「魔術には素質と素養が必要だから、誰でもできるってことはないね。
 ……よし、完成だ」
 先生の手が止まる。紙の上には、見事な魔方陣が描かれていた。ポケットから簡易版のメモを取り出した佐藤が、それらを見比べる。横から覗かせてもらうと、紙に描かれた魔方陣を目一杯引きで見ると、メモの簡易版に近くなるような気がした。
 一条先生がペンをしまう。それとほぼ同時に、また教室の扉が開いた。
「ゴーサム参上!」
「吉田到着」
 ゴーサムと吉田、二人が同時にやってきた。来る途中で出くわしたのだろうか。
「待ってたわよ、二人とも! 準備は整ってるわ。荷物、その辺に置きなさい」
「へいへい。って何だこの図形! 前見たのと全然違うじゃねえか!」
「ふーん。本当はこんななんだ」
 荷物を置いて、近づいてきた二人が魔方陣の感想を述べる。特に僕と同じくカミオロシ初参戦のゴーサムは、昨日も言っていた通り、儀式を本気で楽しむ方向にシフトしたらしく、目を輝かせている。そういう順応性の高さ、僕も欲しかったなあ。僕は未だに少々不安である。
 期せずして、四人で机を囲む形になっていた。僕の隣にゴーサム、正面に佐藤、斜め前に吉田。一条先生は教卓を背に一歩引いたところに立っている。
「じゃあゴーサムくん、これを」
 一条先生が指で弾いた五円玉を、ゴーサムがしっかりキャッチ。魔方陣の真ん中に置く。佐藤と吉田が人差し指でそれに触れたので、僕もならって指を置く。確か、穴を塞がないように、だったはず。
 準備は整ったようだ。
「じゃあ、始めようか。初めての人もいるし、僕に続いて詠唱して」
 一条先生の言葉に、皆で続く。
 来たれ真理。来たれ心意。来たれ心地。呼ぶものに応えて満ちよ、来たれ、来たれ、来たれ。
 そこには意志を感じる。切実に叶えたい願い。一条先生が、この儀式にかける強い思いが。
 考えていたら、指先が勝手に動いた。……正確には、指を載せた五円玉が、勝手に動いた。
「うお、マジで動くじゃん」
「うわあ、普通に怖い……。え、ゴーサムは怖くない?」
「「怖い」よりは「凄い」とか「面白い」の方が強いな!」
 ゴーサムとは初体験同士だというのに、受け取り方の差が大きい。僕も楽しむ側に行きたかったな……。対して、経験済みの佐藤と吉田は、特に驚く様子はない。僕たちの反応を眺めて、特に佐藤は楽しそうにしている。
「ったく、本当に吾妻はビビりね。「大丈夫」って散々言ったじゃない」
「ま、気持ちは分からなくもない。……質問、どうする?」
 五円玉は一度動いたきり止まっている。質問を投げかければ、二択の答えが返ってくるはずだ。ゴーサムが一条先生の方に首を回す。
「先生、二択なら何質問してもいいんすか?」
「ああ。好きに質問してもらって構わない」
「じゃあ遠慮なくやっちゃおっと。ゴーサムには好きな人がいますか?」
「ちょっ、お前勝手に人の……っ!!」
 佐藤が勝手に質問を投げかける。すると、五円玉は魔方陣の上を滑り出した。向かう先は佐藤の元。そことゴーサムの前には円が描かれていて、五円玉は佐藤側の円の中に収まる。
「先生がそこに立って描いたから、こっちはYESってことね。……あらあらあら? ゴーサムったら意中の人がいるの? 誰?」
「うわああああ何だこの公開処刑! やめろ!! いたとしても、言えるわけないだろ!!」
 ゴーサムの反応は、五円玉が出した答えが正しいことを如実に表していた。本当……なのか。
「二択だから「ゴーサムの意中の人は誰?」って質問はできないけど、「ゴーサムの意中の人は○○さんですか?」って質問には答えてもらえるわよ。ローラー作戦する?」
「何で俺だけ集中砲火なんだよ! ほら、次! 吾妻に好きな奴はいるか?」
「えっ!? まっ」
 抗議より早く、五円玉がすごい勢いでゴーサム側の円……NOに滑り込んだ。
 一瞬の後、大爆笑。
「あっはははははは!! 何、何今の高速移動、おっかしい……!!」
「やべえ、超ウケる……!!」
「今好きな人いなくても、将来見つかるんじゃない。がんば……っふふ」
 うう、なんか悔しい。高次の存在とやらは、なかなかお茶目なところもあるようだ。
「も、もう僕の話はいいから! 次の質問に行こう!」
「じゃあ次は……吉田の意中の人を」
「佐藤の片思いは実を結びますかー」
「はあ!?」
 騒ぎながら、カミオロシは進行していく。三人のおかげで儀式への恐怖は若干薄れ、見えざる者との問答を、他愛ない日常会話のように楽しめるようになっていった。ゴーサムや佐藤が言う通り、心配性が過ぎたところは否定できない。
 ただ、質問を重ねるにつれ五円玉の動きが鈍っている感覚がある。一条先生が言っていた「より高次の存在」の来訪が迫っているのか。その先には何が待つのだろう。
 何回目かの質問が終わると、肩を叩かれる。ゴーサムの笑顔が僕に向いていた。
「次は吾妻! そろそろ質問、思いついただろ?」
「え? あ、ああ……そっか」
 皆が出し合う質問と、その回答から広がる会話を楽しんでいたけれど、僕からの質問はまだ出していなかった。思いつく大体の質問は出尽くして、新たな話題を求めているらしい。
「さっきの問答を踏まえて、将来の自分にお嫁さんがいるか訊いておくか?」
「恋愛系は佐藤にいじられるから、回避したいかな……」
「吾妻のくせに失礼な!」
「賢明。じゃあ何にするの」
 ちらと一条先生の方を見ると、笑顔で一つ頷いた。それが何を意味しているかは分からない。
 ……分からないことは怖い。ずっと恐れていたのはこの儀式。この境界の向こうにいるのは誰なのか。それは本当に、僕らに仇なす存在では無いのか。友達のおかげで薄れたとしても、根底の不安、恐怖は浚われることなく淀み続けている。恐怖の底に光を当てても、いいのだろうか。自然と指に力がこもる。
「……この儀式、安全なんですか」
 か細い問いかけに、真っ先に呆れた声を上げたのは佐藤だった。
「また出た、心配性。何度も言ってるけど、大丈夫よ。私たちがやったときだって、五円玉が変な動きしただけで害は無かった。今だって先生がいるんだから……」
 その声は尻すぼみに消えていく。五円玉は、もたつきながらも一直線にNOを指した。
「……?」
 場に困惑が広がる。お互いの顔を見合わせ、でもそこには同じ疑問と不安が浮かぶだけで、何の解決にもならない。自然と目は一条先生に向かう。先生は微笑みながら言った。
「気にせず続けて? 訊けば、彼らは答えてくれるから」
「つったって、何訊けば……」
「この儀式は危険、ってことでいいの?」
 唐突な吉田の質問に、五円玉が今度はYESに滑る。やはり動きはぎこちない。
「はあ? 意味分からないんだけど。どこがどう危険なわけ?」
「その質問には答えられないだろ。えーっと、どう質問すりゃいいんだ?」
「私たちの命に関わる?」
「いや、さすがにそこまでは……」
 吉田の直球の質問を否定しようとしたけれど、五円玉が微動だにしない。……YES?
「質問として受け付けてないだけじゃない? 動いてないんだから、ねえ?」
「私たちは、命の危機を回避することができる?」
「ちょっと、吉田ってば……! 変なこと言ってないでよ!」
 隣で恐慌しはじめた佐藤をシャットアウトして、吉田が淡々と五円玉に問いかける。こんな状況でも、彼女は冷静を保っているように見えるが、内心はどうなのだろう。
 五円玉はぎこちなくNOの方向へ動く。けれど魔方陣の真ん中あたりでぴたりと止まってしまった。五円玉を見つめていると、YESでもNOでもない方向へ動き出す。それは縦、横、ゆるいカーブを不規則に描いた。
「んん……? 文字、か? でも、何書いてるかさっぱり分かんねえぞ」
「僕も……。もう止まっちゃったし、分からずじまいだね……」
 一条先生を見ると、興味深そうに五円玉の動きを注視していた。これが先生の望んだ変化だから、当然だろう。けれど、この儀式が「危険」と言われたことに対しては、今なお反応が無く、慌てる素振りも無い。ありえない、ということだろうか。提案者たる自分がいる以上は安全だと。
 不意に指が引っ張られる。吉田が、指を置いた五円玉を引っ張っていた。五円玉に触れている右指、それにつながる右腕を、左手で掴んでまで引っ張っている。五円玉がずりずりと吉田の方に動いていく。……え?
「離れない。指が、五円玉から」
 吉田の顔に、とうとう微かな焦りが浮かんでいた。反射的に僕も、指を離すように力を入れてみる。……接着剤でくっついたかのように、動かない。違う方向からの力も加わる。ゴーサムと、遅れながら佐藤も挑戦したけれど、四人の引っ張る力が拮抗しただけ。ゴーサムは机に足をかけてまで引っ張ったのに、離れなかった。腕を押さえたまま、吉田が低く言う。
「「てをはなせ」、そう書いてあった。私に読める向きで。五円玉から指を離して、儀式をやめろってこと……」
 質問をしたのは吉田だから、吉田に見えるように文字を書いて答えたのか。対角の位置にいる僕に読めないわけだ。……でも、そんなことはもう瑣末な問題だった。
「「命の危機は回避できるか」に対して「手を離せ」。でも叶わない……」
「それ、まずいんじゃ……?」
 腕が震え出す。静かに恐怖が広がっていく。命の危険があって、回避する方法があるというのに、それが実行できない……僕らには、命の危険が降りかかるということじゃないか!?
「危険とかどうとか……何よそれ、面白半分で誰か動かした? 笑えないわよ? ね、ねえ、そうでしょ? だって私たち、別に何も変なこと、悪いことしてないし……この、誰よ、接着剤でいたずらでもした? 馬鹿なんだから、もう……!」
 特に佐藤は、完全にパニック状態だった。ぶつぶつ呟きながら力任せに腕を引っ張り、僕らの顔をせわしなく見比べる。やがて、はっとして一条先生を見た。
「ねえ一条先生……? 安全ですよね? 先生がいるんだから、ねえ?」
 僕たちの目も一条先生の方へ向かう。混乱の解決を、すがるような希望を、救済を求めて。
 一条先生はこちらに歩み寄ってくる。この緊迫した状況においては過ぎるほど鷹揚に。そして、手を五円玉の上に翳した。
 ばちん。魔方陣から光が溢れ、雷となって爆ぜる。撃たれた、と感じた時には光が教室中を駆け回り、蛇のように教室の外へと這い出していった。
「大丈夫、心配はいらない。……ただ、僕では君たちを救うことはできないのだけれど」
「え? それ、は、どういう……」
「形無き精神の領土は目の前に。我は扉を叩く者。応えよ」
 先生が詩のような文言を呟くと、五円玉の上に光が走り、魔方陣が生まれた。途端、五円玉に置いた指に、とてつもない圧がかかる。鉄塊でも落とされたような重みに、指が潰れてしまいそうだ。歯を食いしばって耐えることしかできない。
「な、何してんだよ、一条……!!」
 ゴーサムの声に、一条先生は反応しない。魔方陣を見つめ、嘆息する。
「まだ駄目かい? これ以上は死人が出るかもしれないのに……まあ、僕には関係の無いことか。
 来たれ真理。来たれ心意。来たれ心地。呼ぶものに応えて満ちよ、来たれ、来たれ、来たれ」
 何が起こっているのか、分からなかった。指を五円玉に縫い付けられたまま、僕らは身動きも取れず、ただ一条先生の何らかの意図による行動を見つめることしかできない。脳は働いているけれど、何を考えればいいかを考えているような状態だ。ゴーサムも吉田も顔から血の気は引いていて、佐藤に至ってはぼろぼろと涙をこぼしていたが、それを笑ったり励ましたりする余裕は、誰の心にも存在していなかった。
 この場で唯一正常に活動しているであろう一条先生は、魔方陣が放つ光を微笑に受けながら、話しかけてきた。
「「店員に文句を言っても埒があかないから、上司を呼びつける」という話をしたのは、ゴーサム君だったよね?
 責任感は人を動かす。不利益だと分かっていても、動かざるを得なくなる。素晴らしい心構えだ。美徳と言っていい」
 一条先生は、意味は理解できるが意図が全く不明な言葉を吐きながら、五円玉の上に翳していた手をひっくり返した。指を鳴らす形にする。……嫌な予感がした。
「淀みし願望、汚れなき悪意よ。汝を象るままに目覚め……贄を喰らい、満ちよ」
 ぱちん。
 瞬間、五円玉の穴から黒い煙が勢いよく噴き出して、視界を覆い尽くした。すぐ隣のゴーサムの姿すら見えなくなる。黒い煙の流れ出る勢いは止まらず、嵐の只中にいるようだった。煙はちりちりと肌を刺激するけれど、逃げようにも指が固定されたままなので、身をよじるくらいしかできない。
「何だこれ……! みんな、大丈夫!? 返事を……!!」
 煙の流れる音に負けじと大声を張り上げるが、誰の声も返ってこない。煙に吹かれる体は痛みと共にだんだんと冷えてきて、声も出せなくなる。呼吸が精一杯、という体の震えに苛まれる。僕たちはどうなってしまうんだろう。解決の見込みのない現状に、混乱した思考は根源的な疑問を呈する。
 どうしてこんなことになったんだろう。カミオロシは安全な、ちょっとした遊びだったはずなのに。今までこんなことは起こらなかったのに。どうして今、この時、この場所で。……いや、本当は分かっている。現状を回避する方法は一つしかなかった。断る、ただそれだけの、しかし完璧な策だった。それをしなかったのは、こんな状況に陥っているのは、僕の責任だ。何も知らなかったとはいえ、いや知らなかったからこそ、僕はずっと儀式に対して恐怖という不信を抱いていたじゃないか。なのに僕は参加した。一条先生に誘われようと、佐藤に凄まれようと、毅然と断っていれば今日のカミオロシは行われず、こんなことにはならなかったんだ。せめて自分の不安を口にしていれば、同じく儀式に懐疑的だった吉田は味方についてくれたかもしれない。僕の勇気のなさが佐藤、ゴーサム、吉田を巻き込んで、皆を危険な目に遭わせている。この現象の起点は僕だ。僕が悪かったんだ。そう、出来の悪い僕が誰かの役に立とうなどと、おこがましい期待を抱いたのが間違いだった。分かっていたくせに。自分が何も成せない無力で無価値な生物だと、理解していたくせに、幻想を抱いたから。最低だ。最悪だ。全て僕のせいだ。
 いっそこのまま黒い煙にさらわれ、存在の欠片も残さず消えてしまえたらいい。友人を巻き込んでしまうような弱さを抱えた命など、さしたる価値もない。目を閉じると、凍えた肉体と外界の境界が曖昧に溶けた。
 このまま……自分など、死んでしまえ。


「……?」
 指先が熱い。その感覚が、自責と自棄に飲みこまれた意識を引き戻した。目を開かせ、僕を現実に呼び戻す。
 熱は、未だ指が離れない五円玉から発せられていた。ほんのささやかな温もりではあったが、それは沈んで凍結した思考を溶かすには十分だった。
 ……ああ、そうだ。僕は弱い。これは僕の弱さが招いた事態だ。ならば、だからこそ、僕が状況を打破して、皆を助けなきゃいけないんじゃないか? 死んで詫びを入れるのも結構だが、どうせ死ぬなら皆を助けて……そして、カミオロシの真実を知ってからの方が良い。ここで自罰に息絶えるより、よっぽど有意義な終わりになるだろう。鍵を握っているのは一条先生だ。先生に全てを問い質さなければならない。
 やるべきことを定めると、五円玉からの熱はすっと消えてしまった。「沈んでいる場合ではないぞ」と背を押されたのだろうか。一条先生が求め、五円玉を通じて接触しようとした高次の存在に。
 しかし、未だに視界は一寸先も見えない一面の黒。五円玉の熱も消え、嵐が吹き荒れる孤独の只中だ。どうすればいい。考えろ。体が動かないから、考えるしかない。儀式のこと、一条先生のこと……儀式の目的は、一条先生の目的。高次の存在に接触すること……。
 ……ふと思う。目的を確認した上で現状を認識すると、二つは合致していないのではないか?届かない声、離れない指、煙、孤立、沈む思考……これらがどう目的につながるんだ? 五円玉の熱はそれらしい現象だったけれど、それを求めていたはずの一条先生は、嵐を解くことも、姿を見せることすら無い。カミオロシは本当に、高次との接触を目的とした行為なのか? 僕たちは……何をさせられていた?
 五円玉から一際強い風が溢れた。それは黒い煙の奔流ではなく煙を吹き飛ばす清風で、煙を押し流していく。風を浴び、視界がだんだん開けてくると、五円玉にくっついていた指が前触れもなく離れた。突然のことで、僕は情けなく後ろに転がる。ごづん。後頭部に鈍い痛み。
「いっ……たあ……」
 頭をさすりながら体を起こす。目を開け、そして、言葉を失った。
 いつの間にか雨が降り始めて薄暗くなった教室は、一変していた。まるで獣が暴れ回ったかのように、机がひっくり返り椅子が転がり教科書が散乱している。僕が頭をぶつけたのも、横になった机だった。ゴーサム、佐藤、吉田も倒れていて、意識を失っている。その中でカミオロシを執り行った机は、模造紙と五円玉を載せたまま堂々と屹立していた。
 そして、もう一人。
「おはよう、吾妻君。君が最初の覚醒者だよ」
「先生……」
 一条先生は、誰のものか分からない椅子を勝手に持ち出して、座っていた。優雅に足を組み、相変わらずの微笑を浮かべている。この状況で、何が面白いんだろう。
「一番深く落ちると思っていたけれど、自己否定を肯定したのかな? 誤算だった、君の評価を上方修正しよう……。君はやはり見所があるよ、吾妻君」
 褒められているようだが、ちっとも嬉しくない。それよりも大事なことを問い質そうとした時、視界の端で何かが動いた。
「ぅ、う……あ……」
「ゴーサム! 大丈夫!?」
 呻きながら体を丸めたのはゴーサムだ。一条先生のことを放り投げて彼に近づく。ゴーサムは縮こまったまま、頭を抱えて何かを呟いていた。背中が細かく震えている……何かに怯えているのか?
「どうしたの、怪我した? どこか苦しい?」
「何で……違う、俺は望んでこんな風になったんじゃない……俺に外の血が混ざっていることは、俺の意思じゃない……! なのに何で、何で、何で非難するんだ……髪の色が違ったって、肌の色が違ったって、それで、それで何か悪い事したかよ……? 誰かを傷つけたか? 嫌がらせたか……? 本当の俺、俺は、イメージと違う、とか、無責任な事……だからキャラまで作って……やってんのに……どうして……どうして、どうして、まだ、誰も、許してくれない……?」
「ゴーサム……? し、しっかりして!」
 泣きそうなほどか細い、こんなゴーサムの声は初めて聞いた。背中を揺するけれど反応は無く、言葉を零すばかり。どうしよう、と視線を落とすと、僕らを飲み込んだ黒い煙が床に澱んでいた。それがゴーサムに向かって流れていく。咄嗟に手で払うとさっと退くけれど、遠巻きに揺蕩ってこちらを伺っているようだった。……ゴーサムの意識はまだ、あの嵐の中にいるのかもしれない。けれど、僕も偶然助けられた身で、どうすれば皆を現実に引き戻せるかなんて分からない。
 全てを知っているのは、一条先生だ。教えてもらうしかない。椅子に座る先生を見上げた。
「どういうことなんですか、これは。カミオロシは一体……何だったんですか?」
「儀式の目的は伝えた通りだ。僕は、高次の存在に接触したいんだよ」
「……そもそも、「高次の存在」って何なんですか?」
 神、と言われれば素直に理解できるけれど、先生は説明の際言葉を濁していた。あの時は分かった気になっていたけれど、そこには大きな秘密があるのではないか?
 一条先生は少し考えた後、舞台俳優のようにゆったりと腕を広げた。……この人の動きはいつも芝居がかっているけれど、今はどうにももどかしいばかりだ。
「ある日、僕は精神の領域に興味を持った。感情、心、思考……不確定なモノ。僕を含め、人間の誰もが内包しながらも触れることが叶わない場所。人類が足を浸す広大な海」
「精神の領域……?」
 精神というと、脳、思考……感情や心のことか。一条先生の語り口は詩的で、ついていけるか分からない。いや、既に僕と一条先生の間にはとてつもない距離がある気がする。理解度というか、世界の尺度が違うような。けれど、皆を助ける糸口を探るのだ、放り出すわけにはいかない。集中して理解に努める。
「僕が人間である限り、それを認識することはできない。この肉体が邪魔だから。形有るものは形無いものに触れられない。けれど興味は尽きなかった。
 いかにして精神の次元に肉薄するか。考えた末、一つの可能性に辿り着いた。
 僕がそちらに行けないなら、精神をこちらに呼べばいい。偶像を崇めて神を貶めるように、高次の精神を三次元に引き摺り下ろす。僕の興味はその先へ向かった」
 一条先生が立ち上がり、僕の方へゆっくりと歩いてくる。
「精神が、心が形を持ったとき。人間は、世界は、どんな風に変化するのか。どんな風に……」
 座り込んでいる僕の前で膝をつくと、肩に触れた。
「どんな風に壊れるのか。どんな風に、死んでいくのか」
「……っ!!」
 その言葉に、先ほど黒い煙の中で感じた寒気が、虚無感が、絶望が呼び覚まされた。肩に置かれた一条先生の手からそれらが滑り込んでくるような気がして、僕は彼の手を払う。一瞬「悪いことをした」と思ったが、一条先生は特に気にした様子はない。にこりと笑って立ち上がると身を翻した。肩越しに視線を寄越して、演説を締めくくる。
「僕は、実験することにした」
 はっとする。実験とは、何度も繰り返し行われることで結果の精度を上げていくものだ。参加する人間は多い方が良い。一条先生は、前にそんなことを言っていた……。
「……これが、カミオロシが……実験?」
「そう、その通りだよ吾妻君」
 一条先生の拍手が、暗い教室に響く。
「この儀式は高次との、精神世界との接触を目的とした実験だ。ただし今日までの儀式は、そこに至るための材料を集める段階。必要なのは「呼びたい」という意思、精神と同質の力だ。それを魔方陣に向けさせて、集めなければならなかった」
「……えっ、昨日までは何も呼べていなかった、っていうことですか? 五円玉は動いていたでしょう。その時点で既に、何かを呼んでいたのでは?」
「協力には報酬が必要だろう? あれは僕からのささやかなお礼だ。参加した人の記憶を読み取って反映させている。その場にいない人間の話や未来に関しての回答は、記憶から出した推測だから、実は結構不確定なのだけれどね」
 「どうやって」と問うのは馬鹿馬鹿しい気がした。今や一条先生が僕ら一般人とは一線を画す存在である、ということは認めざるを得なかったから。先生の言う高次の存在や魔術、意思の収集とやらも、今の僕は飲み込んでしまっていて、その存在を疑う余地はなかった。
 だからこそ理解できる。一条先生が、何かとんでもないことをしでかそうとしていること。その結実は間近であること。僕らは、それに加担していたということ。
「先生は……「五円玉がいつもと違う動きをした」という話に食いついてましたよね。それが、高次との接触の達成になるんですか」
「扉越しの会話に成功した、という程度だけれどね。それでも偉業さ。
 僕も生物である以上、精神という彼らの領域に足を突っ込んでいるから、彼らは僕の行動の意図を知っている。だから僕は警戒されていて、僕の呼びかけに彼らは応えてくれない。何も知らない、僕の意図を知り得ない君たちの純粋な意思で、呼びかける必要があったんだ。そして純粋であるが故に……彼らは警告しようと、扉の前までやってきた」
 吉田に「手を離せ」と警告したのは、高次の存在が一条先生の思惑を読み取り、こうなることを予期して回避させるため、だったのか。それでも指が五円玉から離れなかったのは、一条先生による策略、と考えるべきだろう。
 高次の存在は一条先生から、彼の思惑から、僕たちを守ろうとしてくれている……。けれど、直接助けることはできないのだ。やはり、僕にできることを探らなきゃいけない。
「じゃあ……なら、この状況はどういうことなんですか? これが、先生の望む「変化」……?」
 未だ倒れたままの佐藤と吉田。ゴーサムはうずくまって震えている。僕自身、黒い煙に飲まれて自己嫌悪から自棄になった。この状況と先生の目的、一体何の関係があるんだ?
 椅子に座り直した一条先生は、優雅に足を組み替える。
「高次の存在が境界近くまで来たことで、形無き感情の一部が境界を超えたのさ。先ほど君たちを飲み込んだ黒い煙、あれは実体化した感情だ。君たちが抱える感情を、極端に増幅させる。
 吾妻君、君は自己評価が大変低いようだけれど、あの煙を受けて「自分は駄目な人間だ」などと絶望しなかったかな?」
「それは……、っ! 他の三人も同じように!?」
「それぞれに抱えるものは違うようだけれど、強い感情の向かう先は二つに一つだ。己を憎むか、他者を恨むか。おそらくゴーサム君は前者、彼は血を理由に複雑な経験を重ねている。他者のイメージと個性とのギャップに悩んでいたようだね」
 そんな……初めて知った。いつも明るくて大らかなゴーサムが、そんな風に悩んでいたなんて。増幅させられているとはいえ、体を丸めて嘆く姿に何をしてあげたら良いのか分からない。震える背に手を置いて、存在を主張するしかできない、そんな自分が悔しかった。
 ずるり。布ずれの音がして、目を向けると佐藤が腕を立て、立ち上がろうとしていた。身軽でアクティブな普段の彼女とは似ても似つかない、重たい動きでやっと立ち上がるけれど、芯の無い立ち方で上半身がぐらついている。
「佐藤! 待って、どうしたの……」
「先生……いち、じょ、先生……」
 佐藤は力の無い足取りで、一条先生の元へのろのろと歩いていく。求めるように、縋るように、手を握りしめて声を絞り出す。
「先生、私、先生のこと……すごく、好きになった、んです……。格好良くて、頭も、良くて、優しくて……素敵な人だって、思った……」
 訥々と想いをこぼす佐藤。口を挟むこともできない感情の吐露。佐藤もまた感情が増幅されているのなら、その先に何があるのだろう。一条先生に、何を思うのか。
 しかし、一条先生は佐藤に見向きもしない。僕を見て、僕に向かって言葉を放る。
「話を戻そう。君たちが高次の存在を引き寄せたことで、僕が結界を張ったこの学校内では、精神と物質の境界が曖昧になっている。限定的な異世界だね。だが僕が呼び出せるのはこの煙、高次と比較してもごく微弱な感情が限界だ。効果もこの通り、人をちょっと鬱々とさせる程度。まあ、これでも自滅する人間はいるだろうけれど、僕が求める「変化」には程遠い。
 ここまでが現状。次は……高次の存在が、自らここに来なければならない状況を作り出すフェーズだ」
「同じような、女子はたくさんいて……でも、負けたく、なくて、本気で……先生、一緒に居られる期間、短いから、早く言わなきゃ……言いたい……本気なの、後悔したくない……っ」
 ばたん。佐藤がバランスを崩して倒れた。咄嗟に支えに行こうとしたけれど、佐藤は僕が見えていない……というより、一条先生しか見ていない。倒れた際打ち付けた腕が腫れていくのも構わず、這って一条先生の元へ向かおうとする。
 佐藤は、一条先生のことを本気で好きだったのか。また友人の知らなかった一面を知ってしまう。普通の恋なら、いろいろ問題はあっても応援したいが、一条先生相手だけは絶対に止めなければ……でも、感情が増幅されている今の佐藤を、僕の力、あるいは弁論力で止められるのか? どう言えば、どう止めれば、佐藤を傷つけずに抑えられるのか……何が正解か分からなくて、見ていることしかできなくなる。
 佐藤の想いを受け止めるべき当の一条先生は、佐藤のことなど完全に無視していた。意図的、というよりも、そもそも存在していないかのような振る舞いだ。ちらと目を向けることすら無い。
「そこでゴーサム君の「上司を呼びつける」という発想だ。僕が呼び出した黒い煙で人々を害い、高次の存在を呼び出すの、結構有りかなって思ったのさ。この煙が存在するのは、高次の存在がこちらに近づいたから。つまり高次の存在の責任だろう? それにこの煙……うん、面倒だなあ。感情を増幅……強い感情は自他を害するなら、「悪心」とでも呼ぼうか。悪心に感情を増幅され、我を失った人を助けられるのは、より高次の、精神に干渉できる存在だけってことだ。ほら、責任感を持つには十分だろう?」
 僕が煙の中で自己嫌悪から抜け出せたのは、五円玉から発せられた熱がきっかけだった。あれが、高次の存在が責任感から助けてくれた、というのなら、その救いを他の三人にも施してほしいが……もう境界とされた五円玉に触れる者はいない。五円玉をみんなに押し付ければ、あるいは助けられるだろうか?
「そうして高次の存在を呼び出して、世界を壊す……?」
「感情は人を害し、人は人を害し、高次の存在は感情と、感情に囚われた人を害す。人がいる限り感情は尽きない。しかし人を守らなければ高次の存在は勝利しえない。矛盾に捻れ、自責に責め立てられた殺し合いだ。とても楽しい物語になると……うん?」
 一条先生の言葉が途切れる。這いずっていた佐藤が、とうとう先生の足元に辿り着いていた。椅子の足を掴み、先生を見上げる佐藤の目から、ぼろぼろと大粒の涙が零れている。
「先生……先生……好きなんです、応えて……どうか答えて……お願い、受け入れてぇ……」
 間違いなく本心からの、切実な懇願だった。一条先生に手を伸ばし、唇を震わせている。
 ぐしゃ。
「五月蝿い女性はあまり好みじゃないんだ。悪いね」
 あろうことか。一条先生は笑顔で、佐藤の顔面を踏みつけた。一瞬事態が飲み込めず、遅れて佐藤を助けようと駆け出したけれど、混乱のせいか足がもつれた。五歩を待たず床に倒れる。うまく力が入らなくて、とにかく声を飛ばした。
「先生! 止めてください!!」
「言っただろう吾妻君。僕は君たちを救えない、君たちを救うのは高次の存在だ」
「「救わない」の間違いでしょう! 儀式も何もかも、止めればいいだけじゃないですか!!」
「それはそうだけれど、僕が儀式を止める理由は無い。君たちが高次の存在を呼び出す為に必要な贄である以上、「救えない」よ」
 ぎり、ぎり、と佐藤を踏む足に力がかかっていく。佐藤は逃げる素振りがなく、未だに一条先生からの愛情を求めるように手を伸ばしていた。愛情が増幅されたが故の盲目さなのか。みし、と嫌な音が鳴る。佐藤の顔の皮膚が裂け、血が流れ出す。駄目だ、このままじゃ佐藤が、でも、くそ、足が動かない、この位置じゃ頼みの五円玉にも手が届かない、こんな大事な時に……!!
 がたん! ばこん!
「わっ、危ないなあ。びっくりした……」
 ちゃりん、ばさっ。
 ……目で見ていたはずなのに、先に知覚したのは音だった。続いて目が捉えた情報を、脳が処理し始める。
 机が、一条先生のところへ吹っ飛んでいった。先生がぱっと上半身を傾けて避けると、机はその先の黒板にぶつかり、床に落ちた。重心が変わったおかげで、先生の足が佐藤から離れ、佐藤はそのまま倒れてしまった。吹っ飛んだ机はカミオロシに使用した机で、飛んでいった際に、上に載っていた五円玉と模造紙が音を立てて落ちた。
 首を回す。机を投げたのは、吉田だった。佐藤と違ってしっかり立ってはいるが、病気のように青ざめた顔をしていて、机を投げつけた腕はぶらんと垂れ下がっている。佐藤を、助けたのだろうか。吉田のそれとは思えない力だったけれど……。いや、万が一その意図が無かったとしても、救われたことは間違いない。そして、吉田が覚醒したのも喜ばしいことだ。
「吉田……! た、助かった……君は、大丈夫なの?」
「……」
 反応は無い。うなだれて落ちた前髪の隙間から、虚ろな目がまっすぐに一条先生を見ていた。その視線を受けて首を傾げた先生は、ふと思い当たった様子で、目を見開き吉田に体を向ける。
「……あれ。もしや君は……」
 すぐそばで、額から血を流し泣いている佐藤は眼中に無い。椅子から立ち上がって吉田の方へ向かう。一歩、二歩、三、歩。
 瞬間、吉田が一条先生に殴りかかった。完全に不意打ち、突然の襲撃だったが、一条先生は片手で難無く拳を受け止め、捕まえた。吉田の小さな拳は、押しても引いてもびくともしない。吉田は掴まれていない片手で一条先生の腕に爪を立てて逃げようとするけれど、細い血が流れ出してもなお一条先生は顔色一つ変えない。吉田は、封じられてしまった。
 一条先生はそんな吉田の青ざめた顔、虚ろな瞳を覗き込む。まるで礼節を重んじて、腰を折って礼をするように。
「やあ、初めまして。彼女が気を失ったところに、無理やり入り込んだのかな? だが君たちは完全に許容されたわけじゃない、この肉体を動かすだけでも相当苦労しているはずだ。僕もうっかり止めちゃったし、もう反撃の目が無くなったことは承知だね。
 このままでは誰も救えないよ。さあ、どうすべきか分かるだろう?」
 子供に物を教えるような言い方で、一条先生は語りかける。吉田は……あるいは彼女に宿った何者かは、反応しない。拘束に対しての抵抗は続けているけれど、先生の言葉への返事はなかった。
 薄暗い教室に時が流れる。くぐもった雨音と、吉田の抵抗の音が鳴る中、それが何分か、何十分だったのかは分からない。
「……そうか。君たちの意思はよく分かった」
 ぽつりと、感情を排した声がした。一条先生の声だと、気付くのとほぼ同時に。
 ――――。
 何かの音がした。良く、分からなかった。雨の音? 呼吸音? 風の音? 佐藤の首が落ちる音? 血飛沫が跳ねる音? 佐藤の結い上げた髪が散らばる音? 僕の知らない音だったのは確かだ。目に映った景色はコマ送りの映像に過ぎず、とうとう現実味がその仕事を放棄した。
「君たちがこちらに来ないなら、一人ずつ殺す。誰かが死体を見れば恐慌するだろう。悪心は迷いなくその感情を食らい、増幅させる。暴走した恐怖はどうなるだろうね?」
 ――――。
 また、あの聞き慣れない音がして、背中が濡れるのを感じる。後ろ……僕の後ろには、ゴーサムがいた。床についた手がやけに滑る。振り向くと、ゴーサムの頭が転がって、視界から消えていくところだった。切断された首から、溶岩のようにどろどろと赤い液体が流れ出るのをぼんやりと眺めて……やっと、分かった。それが死であること。それが友達に与えられたこと。それは僕にも等しく、与えられるだろうということ。全て、異界にて起きる、事実であること。
「君たちが境界を渡れば悪心も強く存在を肯定され、今より猛威を振るうだろうけれど。君たちが手を出さない限り、僕は殺し続けるよ。手を出して悪心を殺し続けるか、手を出さずに人を殺し続けるか。選びたまえ」
 吉田の手を掴んだまま、一条先生が僕の前に立ち影を落とす。見上げた先生の顔に笑みは無い。それが、一条優也という人の、本当の形なのだろう。
 先生の指が僕に向けられる。それだけの行為なのに、終わりを悟るのに十分だった。手にはゴーサムの血、目には佐藤の死体。僕もああなるのだ。体と首が離れて、冷たい床に転がされる。
 ……いやだ。死にたくない。
 シンプルな真理が脳で閃いた。僕はこの状況に全力で抗いたい。眼前に向けられた指先が淡く光る。時間は無い。何ができる? 誰一人救えなかった、結局先生の思惑に転がされただけだった。こんな終わりは嫌だ。こんな、恐ろしい始まりは、嫌だ。悔しい。なにか、どうにか、と足掻いた指先に、冷たさを感じた。触れていたのは五円玉……カミオロシに使って、吉田が……彼女の中の何かが、机を投げつけた時に転がってきたもの。それは境界ではなかったか。一条先生は「扉」と呼んだ。声は、届くだろうか。
 五円玉を握りしめる。
 ――――。
 彼らは押しとどめようとした。理由は分かっている。僕の存在は、奴が物質世界においてかろうじて実体化させた悪心を許容する。すなわち誰もが悪心を受け、感情を実体化させる危険を抱えることになる。それは自分を、他者を脅かす怪物となるだろう。それに奴の周到な計画……あの学校が結界により、一つの世界として閉ざされていることが分かった。あれは悪心を外に出さない、なんて可愛いものじゃない。僕らを閉じ込め、逃さないための檻だ。一度入れば出ることは困難だし、強固で複雑な結界は一朝一夕では破壊できない。積極的にできることといえば……感情を、悪心を殺し続けること。本来はそんなことをする必要はない。きっと本当は、この次元を見捨てるのが正しい選択。奴は人を殺し続けるかもしれないけれど。その手はこの次元の全土へ伸びるのかもしれないけれど。一つの物質世界が滅んだところで、僕らの有り様には一切傷は付かない。
 ああ、でも。兄弟、友、父にして母なる彼らはわかっている。僕がどうしたいか。僕らがどうすべきか。だって扉の向こうから、確かに届いたのだ。僕たちは感情だ。精神だ。声にならない叫びは、空気の振動よりもはるかに速く、強く、僕らに突き刺さった。
 「助けてくれ」と。
 僕らは人の心そのもの。救いを求める強い心に抗うなど、できるはずがなかったのだ。彼らはとうとう諦めた。諦めて、僕の背を押した。扉は開かれた。
 物質と精神の境界を、越える。

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