2021年11月12日金曜日

【創作小説】タイカンオンド04

 

ある日。精神の領域に興味を持った。感情、心、思考……不確定なモノ。僕を含め、人間の誰もが内包しながらも触れることが叶わない場所。人類が足を浸す広大な海。

僕が人間である限り、それを認識することはできない。この肉体が邪魔だから。形有るものは形無いものに触れられない。けれど興味は尽きなかった。

いかにして精神の次元に肉薄するか。考えた末、一つの可能性に辿り着いた。

僕がそちらに行けないなら、精神をこちらに呼べばいい。偶像を崇めて神を貶めるように、高次の精神を三次元に引き摺り下ろす。僕の興味はその先へ向かった。

精神が、心が形を持ったとき。人間は、世界は、どんな風に変化するのか。どんな風に……。

僕は、実験することにした。(全4話)


何も分からないと思うけど、伝えたかった。
ありがとう。



 ある日。
 鳴り響くチャイムをBGMに廊下を駆け抜ける。教師と会わないように一階へ降りて、昇降口の階段に座り込んだ。私が右端で、左に清水、川崎の順番。最初に話し出すのは決まって川崎で、今日の内容は最近できたカフェの話だ。スイーツが美味しい、店員にイケメンがいない……授業をすっぽかしている以外は至って普通の、女子高生の語らい。
「……ってか、ねえ。猪俣今日ノリ悪くない? 具合でも悪いの?」
 そんな、平たく言えば不良の集いに、馴染み切れていない私がいる。高校からの付き合いで、元から仲のいい清水と川崎が私を仲間に入れてくれた、という構図だ。不真面目だけど、友達への気遣いは一級品なところが憎みきれなくて、私もつられて授業をサボったりしている。
「今抜けた授業。進路調査あったでしょ」
 素直に言った途端、二人が笑う。
「なーんだ、そんなこと? うちら進路とか言われても、行けるとこロクにないし?」
「猪俣は頭いいから、選択肢あるんだろうけど。花の高校生、勉強してる暇あったら遊びたいじゃん! それとも今から授業戻る?」
 笑ってはいる。でも空気に感じる微かな棘。この楽園に現実を持ち込もうものなら許さない、と言うような、静かな隔たりだ。私は首を振った。
「そういう意味じゃない。親が「進学校行け」って五月蝿いの。思い出しただけで憂鬱になるでしょ」
「あー、猪俣んちって結構厳しいよね。私なんか前のテスト、親に見せたらさあ……」
 楽園に留まることを宣言すると壁は消えて、私は許された。多くの学生が真面目に未来を考える中で、益体のない馬鹿話が溢れる。私たちはいつも通り、今を謳歌する。
 でも、「いつも通り」はいつまでも続くわけじゃない。いつかは終わる。おそらく、清水や川崎が思うよりも早く。だから私は、未来のことも考えたかった。親や教師、進路といった現実は煩わしい、友達と駄弁って笑えるモラトリアムは楽しい。けれど現実から目を背けることはできないから、真摯に向き合いたいという気持ちもまた真だった。
 要するに私は、板挾みになっていた。




 週明け。昼休み。
「ぅおらああああっ!!」
 どすん。赤髪のハイキックが、私と瓜二つの真っ黒な人に炸裂する。哀れ、黒い私はぶん投げられた人形のように吹っ飛び、壁に激突。どっかん。そこに駆け込む赤髪は、携えた杖を振りかぶっていた。走る勢いのまま、黒い私の脳天めがけて杖を振り下ろす。ばがん。当たれば必殺の一撃、けれど黒い私は転がって避けた。杖の先端で輝く赤い石が、教室の床に罅を入れる。
 黒い私が体勢を立て直し、飛びかかった。手を前に、掴みかかるようなポーズだ。真正面から相対する赤髪。その眼前で、黒い私の手が膨れ上がり壁になる。
「えっ、おわぁー!?」
 変な声を上げた赤髪は、巨大な手に押され一気に壁に追い詰められる。壁に背をつけ、足と杖で黒い壁を押し返しているけれど、少しずつ隙間が小さくなっていく。
「やばいやばい潰れる潰れる潰れる、これどーすりゃいいんだ!?」
 赤髪の情けない悲鳴が上がる。いや、私にはどうすることもできない。助けを求めるなら外部にお願いしたい。けれど、これだけ騒いでいるのに誰も来ない、というのは不自然だった。
 そもそも、一体何がどうしてこうなったのか。トイレから帰ってきたら誰もいない教室に、私の形をした黒い何か……立体化した私の影、とでも形容したいものがいた。襲いかかられて戸惑っていたら赤髪が乱入、戦闘が始まったのである。「これどーすりゃいいんだ」は私の台詞でもあった。
「そっか、燃やせばいいのか! うおおおお!」
 赤髪の気合の声とともに、杖から炎が噴き出す。壁と黒い手の隙間からがんがん燃え上がるうちに、とうとう黒い私が怯んで手をわずかに引いた。赤髪はそれを見逃さない。黒い手を一気に押し返して空間を確保した上で、体ごと杖を振り回して手を殴打。ばこん、がしゃん。黒い私は机と椅子を巻き込んで床に倒れた。
「手こずらせやがって! よーし最後のとどめ、を?」
 ぶっ倒れた黒い私ににじり寄っていく赤髪。けれど言葉は途中で止まった。
 黒い私が音もなく「私」の形を失ったのだ。崩れるように煙になると、開きっぱなしの扉からあっという間に飛び出してしまう。赤髪は慌てて駆け寄り、煙が逃げていった方向を確認する。けれど追いかけようとしないところを見ると、見失ったか諦めたか。
「逃げられたー! やべ、「詰めが甘い」って怒られる。でも最近、悪心も知恵が働くっつか、妙にタフなんだもんな……なーんか最近おかしい……」
 教室内に引き返しながらぶつぶつ呟く赤髪を眺める。と、目が合った。赤髪は同時にびょっと飛び上がる。……私がいることに気づいてなかったのか。
「うわっ、びびった!! えっ、あれ? いたの?」
「ずっといたけど……」
「マジかー! ってことは、状況説明しないと駄目だよな。ちょっと待ってて!」
 私に背を向けてうんうん唸る赤髪。確かにこの状況、知りたいと言えば知りたいけど……突然始まった知らん人同士の戦闘の話なんて、聞いて理解できるだろうか。そもそもあの黒い私、人か? そこから疑問符。
 ……なんか、首突っ込んだら面倒臭い気がする。白昼夢で済ませた方が良さそう。
「いいよ、別に。なんか面倒だし。知らなくていいことってあるでしょ」
 座り込んでいたけれど、怪我をしたわけではなし、立ち上がることに支障はない。スカートを払って、改めて教室を見渡す。倒れた机、ひび割れた壁に床……なかなかの惨状だ。この中において壊れていない時計は、午後の授業開始まであと僅かを指している。
「それより、もうすぐ授業始まるんだけど。これどうすんの?」
「ん、それは大丈夫!」
 がらっ。タイミング良く教室の扉が開く。目を向けると、いたのは緑髪で長身の男だった。制服は着ているけれど、着崩しが激しいし、何よりその髪色を見た限り……。推測、こいつは赤髪の仲間。普通の生徒じゃない。まともな人間でもない。深入りしてはいけない。
 緑髪は教室を見回し、私と赤髪を交互に見て、小さく息を吐いた。
「……大体理解した。悪心は?」
「殴ったけど逃した。やけに頑丈だったし、自分から体を崩して逃げてく。最近そんなのばっかだ」
「この次元の有り様に、変化が起きているのかもしれんな」
 謎の言葉を吐きながら、緑髪はいつの間にか手にした杖をぐるりと回転させ、床を叩いた。杖の先についている緑の宝石は、赤髪のそれと色違いだから、やっぱり仲間なのだろう。
 こーん。こもった反響とともに、緑の光が弾け飛ぶ。教室を飛び交い、壁をすり抜けて廊下へも飛び散っていった。
「……認識介入は問題無いな。
 深紅、机は倒れているだけだから、元に戻しておくぞ」
「らじゃー!」
 二人は先ほどの戦闘で倒れた机を、仲良く元に戻し始めた。さすがに誰の机がどの位置かまでは分かっていないようだけれど、一応教室は教室らしさを取り戻す。……壁と床の罅が浮き立って、違和感が強調されている気がしないでもないけど。
 机並べが終わったところで、ちょうど良くチャイムが鳴った。午後の授業が始まる合図だ。
「げっ、これ授業開始のチャイムじゃん! 翡翠、急いで帰ろうぜ!」
「ああ、そうだな。……猪俣」
「何?」
 赤髪に続いて教室を去ろうとした緑髪が私を呼んだので、応える。……あれ、名前教えてないよね? 何で知ってるの? しかし疑問を挟む隙間はない。
「悪心はまたお前を襲うかもしれない。注意しておいてくれ」
「……よく分かんないけど、気をつけておけば良いの?」
「ああ、頼んだ」
 緑髪の姿が教室から消える。入れ替わるように清水と川崎、クラスメイトがぞろぞろとやってきた。一様に慌てているけれど、それはチャイムが鳴り終わろうとしているからであって、教室から出てきた阿呆みたいな髪色の男たちや、壁や床のあからさまに不自然な罅への対応ではなかった。
「マジ意味分かんない! いきなり呼び出されて、授業のプリントの印刷とかさあ!」
「しかもクラス別に分けろとか、最悪。それ教師の仕事じゃん? 職務怠慢!」
 清水と川崎は席につきながら、口々に不満を言い合っていた。壁や床に広がる戦闘の痕跡は目に入っているはずなのに、知らん顔だ。おかしい。不気味すぎる。
「……ねえ川崎。その足元の罅さあ、結構でかいけど何でできたんだっけ?」
 床を指して一石を投じてみるけれど、川崎はけろっとした顔でそれを何度か踏みつける。
「これ? 知らないけど、昔っからあるじゃんね」
「私知ってる、昔の生徒が暴れて作ったんだって噂だよ。
 ……てか、いきなりどうしたの?」
「あー……うん、いや……あまりに自然すぎて、今突然疑問に思った、みたいな」
 取り繕いながら、困惑する。私はこの罅が発生する瞬間を目の前で見ていた。なのに彼女らは、それが遠い過去から存在していたと思っている。それらしく整合性のとれた……私が見た荒唐無稽な現実よりも、よっぽどまともな理由を持ち合わせて。
 ……いや、何にせよ、多くの人がこれらの戦闘の痕跡を「普通」と捉えるなら、おかしいのは私の方だ。私は何も見ていない。あれは白昼夢。蓄積した疲労が見せた、ちょっとした現実逃避だ。そうして私自身の認識も塗り替えれば、世界は通常運転になる。
 それでいいや。そうしよう。




 次の日。三限目。
 今日も今日とて三人で授業を抜け出し、静かな廊下を歩いていた。見回りの教師に見つからないように気を配りながら、廊下の角を曲がる。先には実験室があり、空いているのではと期待を込めてやってきた……けれど。
「……あれ、うちらと同じサボり? 先客いるじゃん」
 実験室の扉の前には人がいた。女子生徒だ。一人でいるから移動教室ではなさそうだし、うちの制服なので他校の生徒が迷い込んだ、という様子もでない。
 ただ、それ以上に気になることがある。
「んんー……? あいつ、猪俣に激似じゃない?」
 川崎が女子生徒と私を見比べる。背を向けているが髪色、髪の長さ、身長や体格、制服の着崩し方に至るまで、私にそっくりだった。鏡写しのレベルである。
「……そう、だね。でもまあ、よく似てる人くらい、いるでしょ」
 昨日のこと、黒い私の存在を思い出す。ただそれは、自ら白昼夢と認定した幻想だ。それでも言葉にしたら現実になりそうで、私はそれ以上口にしなかった。
「とにかく、先客がいるならさっさと退散して、別の場所行こ」
「それがいいね……」
 三人で先客から視線を逸らし、顔を見合わせて頷いた。
 次の瞬間。
「ぐ、ぅっ!?」
 変な音がした。川崎の声だと気づいて彼女を見ると……顔が黒く塗り潰された私がすぐそこに立っていて、川崎の首を締め上げていた。黒い指が川崎の首にぎりぎりと食い込んでいる。
「え……え?」
 清水の間の抜けた声を聞いて、理解する。悪い予想が的中した、やっぱりあれは昨日の黒い私だ、あいつ私らの隙を突いて襲いかかってきたんだ、これは現実だ、このままでは川崎が窒息死する、清水は動けない、私が何とかするしかない!
「は、放せ、このっ!!」
 黒い私の腕に飛びついて、力任せに引っ張る。けれど腕は細いくせにびくともせず、川崎を宙に浮かせていた。そうだ、こいつが昨日暴れ回った黒い私なら、頑丈な上に変形して撲殺、圧殺なんかもできるはずだ。……私、死ぬかも。でも、川崎を助けて死ぬか、助けられずに死ぬかだったら、前者の方が気分が良いに決まっている。
 アプローチを変える。黒い私の背後に回り、パーツのないお面のような顔を思い切り引っ張る。攻撃としての効果は薄いけれど、鬱陶しがらせて標的を私に変えさせる作戦だ。それで少なくとも川崎は救えるはず。
 相手は絶対悪な上私に似ているとなれば、遠慮なんて微塵も無い。頭を殴り背中を蹴り耳を引っ張り髪を振り回し、思いつく限りの方法で暴れに暴れる。けれど相手は何の反応も示さず、淡々と川崎を死に追い詰めていく。
 ……だんだんむかついてきた。
「ふざけんな、無視してんじゃないわよっ!!」
 ばちん。黒い私の横っ面を思いっきり殴った。この打撃がやっと効いて、黒い私がよろめく。その隙に川崎の腕を引っ張って、やっと彼女を黒い手から解放することができた。
「川崎、川崎! しっかりして!」
「……ぅ、う……っげほ、げほ」
 倒れ込んだ川崎に声をかける。顔は真っ青だけれど、咳き込んで薄く目を開けた。良かった、生きてる。清水を見ると、戸惑った様子ながらも目を合わせ頷いた。川崎を支え、むせる彼女の背中をさすりながら、声をかけている。任せて大丈夫だろう。
 さて、問題は黒い私。あれを見たことがある私は落ち着いてこそいるけれど、退ける有効な手立てがあるわけではない。困った状況だ。これだけ騒いでいるのに教師が来ないのも困っている一因だけれど、来たところで被害が拡大するだけのような気もする。あいつ来ないかな、赤髪。まあ、願ったところで呼ぶ方法なんか知らないから、結局自力で出来そうなことをするしかないんだけど。
 黒い顔は私を見た。目は無いけれど、確かに私を見ている。怖い、かもしれない。そういえばドッペルゲンガー、同じ顔をした人が出会うと片方死ぬらしいけど、私たちはそれに該当するのだろうか。ならばどっちが本物で、どっちが死ぬのだろう?
 ……なんて、現実逃避をしたのがまずかった。気づいたときには、私は宙を浮いていた。「やばい」と思ったときには背中から落ちる。どだん。息が詰まる。どうやら黒い私に吹っ飛ばされたらしい。骨は大丈夫だと思うけど、ぶつけた背中と足が痛い。捻ったかも。
 黒い私は、足音もなく私の方に歩いてきた。清水と川崎に意識が向いていないのは幸いだけど、私の身に迫っているのは間違いなく不幸だ。腕で這って間合いを取ろうとするけれど、相手の歩行速度の方が格段に上。あっという間に私の足元に辿り着くと、静かに私を見下ろした。
「……苦しいね」
「え?」
 ぽつりと。黒い顔から声がした。喋れるのか、こいつ?
「痛いね。苦しいね。辛いね」
 私と同じ声で、私の心情を的確に告げた。確かに痛い。苦しい。辛い。でもそれ、あんたのせいじゃん。反論しようとしたら、すぐに声が重なる。
「……全部、投げ出したいと思わない?」
「は?」
 意味が分からない。
「その痛み苦しみから解放されるの。あなたには権利があるし、私には力がある」
「何言って……ぐ、ぁう!?」
 どすっ。奴は私の脛を思い切り踏みつけてきた。捻ったと思しき箇所だ。痛い。痛い、痛い。
「同じ堕落を求める友人は身勝手。苦い現実を突きつける大人も身勝手。誰も彼も自分の都合ばっかりで、どちらも大切にしたい私の悩みなんて、気づいてくれない。
 ……だったら私たちも、身勝手に振舞っていいんじゃない? 私たちの苦悩を、苦痛を、分からせてやるのよ。あなたにはその権利があって、私にはそれを実行する力がある。あなたが私を求めてくれるなら、私はこの力で、許しがたい全てを殺し尽くしてあげる」
 骨が軋み筋がねじれる痛みの中で、考える。黒い私の話は理解不能かと思ったけど、身に覚えがある気がした。嘘みたいな現在と、糞みたいな未来に挟まれた、今の私の心情。
「ねえ、それってとっても素敵なことじゃない? 思うよね? 私には分かる、だって私はあなただから。あなたから解離したあなたが私だから」
 現実も楽園も息苦しい。能天気な友人は憎らしいし、「進学だ」「就職だ」とうるさい大人は鬱陶しい。そういった攻撃的な負の感情は、確かに私の中にある。ぶち壊したいとも、思う。
「さあ、一緒に全部を壊そう」
 ただ、彼女の問いに対しての答えは直感的に閃いた。頭の中で何かがキレる音と共に。
「うるっさい!! 投げ出したいけど投げ出さないのは、「私」がそうしたいからだわ!!」
 叫んだ。声は廊下に反響して去っていく。
 解放されたい。壊したい。確かにそう思う時もある、否定はできない。でもそれは逃げたくないくらい大切で、投げ出せないくらい大事なことだからだ。生憎、私は人を害うまでは思い詰めてない。他人の命を犠牲にしてまで救われたいような絶望は、持ち合わせていない。
「そんな下らないことで絡まないでくれる? 私は乗り越えようとしてんの、あんたが私だっていうなら、私の邪魔すんな!!」
「……そんな……」
 私を踏みつける足の力が弱まった。腕で這って逃れる。見上げると、黒い私の輪郭がぐにゃぐにゃ揺らいでいた。川崎の首を締め上げ私を踏みつけた圧倒的な力強さは、その姿から抜けきっている。
 ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
「素晴らしい啖呵だった」
「うんうん。超かっこよかったぜ、猪俣ちゃん!」
「うわ!?」
 真後ろから拍手と共に声が聞こえて、振り向くと赤髪と緑髪がいた。いつからいた、何で来た、どこまで聞いた……訊きたいことが出てくるが、全て脇に追いやる。赤髪は昨日、黒い私を武力で退けた。つまり協力を得られれば、危機を脱することができる。
「……ちょっとあんたら。今あいつのせいで超絶困ってるんだけど、どうにかできる?」
 揺らめく黒い私を指し示す。赤髪と緑髪は頷くと、私が示した方向にすたすたと歩き始めた。
「ああ、元々そのつもりだ。……怪我人が出たか、遅くなってすまない。深紅」
「任せろ! 弱ってるみてーだし、一撃で仕留めるぜ!」
 緑髪に促され、赤髪が飛び出す。ぐるぐる腕を回しながら突進して、黒い私の手前で上に跳んだ。その時には彼の手に赤い宝石の杖があって、どがん。過たず黒い私の脳天に向かって振り下ろされていた。風が吹いて、黒い私は幻のようにかき消えてしまう。
 ……あっさりとした幕引きだった。昨日のような苦戦を想像していた私は呆気にとられる。
 こーん。惚けた頭に、聞いたことのある音が響いた。緑髪の杖から光がいくつも弾け飛ぶ、昨日と同じ光景だ。光は壁を天井を床を貫通して……私の胸を貫いた。


「あ、れ?」
 何、してたんだっけ。えーと、授業抜け出して、廊下を歩いていて……川崎が……。
「ちょっと猪俣! 手伝ってよぉ!」
「えっ? あ、ごめん!」
 清水の声に振り向くと、川崎に肩を貸して立たせているところだった。
 ……そう、廊下を歩いていたら、川崎が急に倒れたんだ。私の方に倒れてきたから、私も転んで足捻って……だから足痛いんだけど、意識朦朧の川崎の方が重大案件。清水の反対側に回って、川崎の腕を私の肩に回す。サボりを怒られるのは覚悟の上で、保健室に行くしかない。清水と歩幅を合わせて、その場を離れた。
 あれ、私たち以外に誰かいなかったっけ? ふとそんなことを考えて、廊下の曲がり際に確認する。人の影は何処にも無かった。


 昼休み。
 川崎はそのまま早退となってしまったけれど、原因は貧血。荷物を取りに教室に戻ってきた時には普段の彼女そのものだったので、重篤な病気を心配した私と清水は、胸を撫で下ろした。
まあ、その後昼休みを丸々使って、授業をサボったことに対して担任からきついお叱りを受けたりしたけれど。午後の授業が始まる頃にはけろっと忘れるのが、花の女子高生である。




 次の日。放課後。
 川崎は大事をとって休みだったので、私と清水は落ち着いた一日を過ごした。授業をサボらなかったのは、昨日の今日で教師陣の目が厳しかったことと、落とすとマズいテストが近づいていたことがある。清水はテストに対して足掻く気配すらなかったが、私は度重なるサボりがとうとう親の耳に入ってしまい、「次のテスト落としたら塾三つ掛け持ちさせるぞ」と脅しをかけられた。断固拒否したい私は、教師に直談判して、放課後の個人指導を仰いだのである。
「あれを足すとこっちが二乗で……次がマイナスで……」
 今は個人指導が終わり、帰るところ。突然積極的になった私に驚きつつ、喜んで指導してくれた教師の言葉を反芻しながら、廊下を歩いている。サボりの裏で打ち捨てられた知識の多さに辟易するが、自業自得なので仕方ない。脳内で数式を垂れ流しながら歩を進める。
 どん。不意に、背中に何かがぶつかった。振り向くと、茶髪の男が立っている。学校内だというのにスーツの上にロングコートを着ていた。背格好は大人……迷った客だろうか?
 男はぱたぱたと胸のあたりを払った。
「ああ、ごめんね。君、怪我はない?」
「……別にありません。大丈夫です」
「ならよかった」
 「にっこり」という擬音がよく似合う笑顔だった。私の美醜の価値観で言えば、美の方にかなり近い。平たく言うと見た目が良い。若々しく爽やかな声も好印象。
「久し振りに来てみたはいいけど、出る場所を間違えたみたいだ。ここは何階かな?」
「四階ですけど」
「四階。三年生の教室か。じゃあ、ここにいる君は三年生?」
「ええ、まあ」
「じゃあ大変な時期だ。モラトリアムの楽園から追放されて彷徨う罪人の群れ、なんてね」
「はあ……?」
「いいや、こっちの話だ。情報をありがとう」
 変な話をすると、返事をする前に男は歩き出す。私とすれ違う瞬間、笑った。
「君とはまた会えそうな気がするよ。またね」
 呆然と見送っていると、階段への曲がり角で立ち止まり、もう一度私の方を見た。
「そうだ、結構どうでもいい質問なのだけれど……「カミオロシ」って、知ってる?」
「……なんですかそれ。聞いたこと無いですけど」
「知らないか……いや、情報提供ありがとう。あれから何百年も経ってるし、廃れるのは仕方ないかな。いや、でもちょっと悔しい……七不思議とかで定着していたら面白かったのに……」
ぶつぶつ呟く声を引きずって、男はとうとう姿を消した。……何だったんだろう、今の人。
「って、やば」
 視界に入った窓の外は、既に夕暮れを通り越して藍色が迫っていた。日が落ちる前に帰りたい。咎める人がいないのをいいことに、私は廊下を走り出した。


夜。
川崎から「明日は登校できそう」とのメールが入る。良いことだ。早く元気な川崎の顔を見て、三人で世間話を咲かせたい。今日会った男の人の話、川崎食いつきそうだもんなあ。
 そんな平凡なことを考えながら、横になって目を閉じた。




 次の日。朝。
「……ふあ、あ?」
 目を開けたら学校だった。冷たい廊下の床に背中をつけて、細長い照明を見上げている。寝返りを打つけれど、床の固さで体を痛めるだけだ。ならばと縮こまってみる。少しは温まるけれど、大した防寒機能もない制服姿では、焼け石に水。何より「学校の廊下に寝転がっている」という状況のおかしさに、私は覚醒せざるを得ないことを悟った。
「どうなってんの……家で寝たよね、私……」
 体を起こし、わざわざ思考を口に出しても、混乱は収まらない。べしん。頬を叩いてもじんわり痛むだけ。夢でもなさそうだ。
 仕方がないので状況確認。周りを見回すと、廊下のそこかしこに私と似たように戸惑う生徒が転がっているではないか。この奇行、私だけじゃなかったんだ、と的外れな安心感を抱く一方、混乱は山場を迎えていた。
 おかしいじゃん。家で寝て目が覚めたら学校、パジャマ着て寝たはずなのにきっちり制服着込んでいて、一人ならまだしも同じ境遇っぽい人がわんさといる……それどんな集団催眠? 少なくとも、私の手持ちの常識では一切歯が立たない。廊下に寝転がる生徒も、この現実を飲み込めていなさそうだ。皆一様に目を白黒させて辺りを見回すだけで、それ以上の行動はできていない。
「……しょうがない。動くか」
 ここで座り込んでいたって、事態は解決しない。幸い舞台は見知った学校で、他の人間もいる。清水や川崎に会えれば安心するし、教師がいれば状況を確かめることもできるだろう。
 冷たい床から立ち上がる。まずここは何階か……手近の教室のプレートを見ると、二年五組。三階だ。廊下をざっと見渡して、顔見知りや頼れそうな大人がいないのを確認。学校は四階層プラス屋上の造りだから、上を見てから下りていくと効率良いのかな?
 階段に目を向けた時、ちょうど下階から女子が現れた。後ろで団子にまとめた髪、眼鏡、丈長めのスカートから生真面目さが伺える。……ただ、綺麗にまとめられた髪が水色であることが「生真面目」というイメージを大胆にぶち壊していた。
 そんな水色髪と、目が合った。上から下に視線が動いて、つかつかと歩み寄ってくる。え、何、と戸惑う間に距離は詰まって、水色髪は私の目の前に立っていた。
「あなた、猪俣さんね」
 冷たい印象の声が、私の名前を言い当てる。
「え……何で、知ってんの。知り合いじゃないよね?」
「ええ、初対面よ。私が一方的に知っているだけ」
 どういう意味かと問うより早く、水色髪の手が伸びた。手を握られる。温かい。私の体が冷えているのかな……などと考えていると、脳内に映像が飛び込んできた。
 私視点の映像。舞台はこの学校で、黒い影が……よく見ると……いや、よく見なくてもあれは私だ。黒い私だ。対して、杖を手に向かっていく派手な頭。炎を撒く赤髪と、緑髪……認識の介入、光、あれに貫かれて……。
 そうだ。今の状況はとてつもなくおかしいけれど、この学校は元からおかしかったんだ。私はその全てを、忘れていただけだ。
「……うわ。綺麗に忘れてた……」
 呟き、水色髪を見る。彼女は表情を変えずに小さく頷いた。
「深紅と翡翠に会っているわね。私は二人の……仲間、としましょう。和田=青冴よ。青冴と呼んで」
 「深紅」と「翡翠」は黒い私に対抗していた二人のことだろう。名前の色から察するに、赤髪が深紅で緑髪が翡翠か。そして二人の仲間を名乗る青冴……教師よりよっぽど力になってくれそうじゃないか。色々知っていそうなので、訊いてみる。
「あんたはこの状況、分かってる? あの黒い私の仕業なの?」
「この状況は、悪心のせいではないわ。ただ原因については……」
 ぴーんぽーんぱーんぽーん。話していると、突然校内放送が入った。
『皆さん、おはようございます』
 声に聞き覚えがあるな、と思って考えてみる。……多分、翡翠の声だ。この場において「おはようございます」とは呑気なものである。
『突然のことで驚かれているかと思いますが、落ち着いて近くの教室に移動、待機してください。怪我人がいる場合は保健室へ。できるだけ複数人で行動してください。繰り返します』
 翡翠は滑らかに連絡事項を伝える。その淀みのなさが、混乱していた生徒たちを落ち着かせたようだった。互いに声をかけて、教室の中へ入っていく。幸いこの階には怪我人がいないのか、ものの数分で廊下は私と青冴だけになった。
『新しい情報が入り次第、放送します。それまで待機していてください』
 ぴーんぽーんぱーんぽーん。静かな廊下にチャイムが響く。私は青冴に訊いた。
「私も教室待機?」
「あなたは私についてきて。私はあなたの回収が目的なの。歩きながら説明するわ」
 気づけば青冴の手は私から離れていた。身を翻した彼女の後に続き、階段を下りていく。
「あなた自身の悪心は消滅したようだけれど、あなたの悪心が周りの人間に影響を与えた可能性がある。本来なら認識介入を解くような真似はしないのだけれど、この突然の変化は予想外だった。最後に悪心に狙われた、あなたの周りで何かしらの変化が起こるんじゃないか、と思って保護することにしたの」
「……ちょ、ちょっと待って。ストップ。何言ってるかさっぱり分かんない」
 手を挙げてタンマを告げると、青冴は訝しげな顔で振り向いた。
「言葉が足りなかった? なら補足するわ、何が分からないの」
「全てが分かんない。そもそも「悪心」が何だか分からないし、「周りに影響」とか、どういうこと? 黒い私のこと? あれがやらかしてんの? 「認識介入」も分かるような分からないような……あれでしょ、教室の罅の……あーもう、とにかく全部分かんない!」
 困惑を怒りでごまかすと、青冴は頰に手を当てて首を傾ける。
「……猪俣さん。深紅と翡翠から、悪心について説明を受けた?」
 首を横に振る。悪心……深紅と翡翠がそんな単語を言っていたような気はするけれど、私に向かってその言葉を使われたのは初めてだと思う。
 青冴は目を閉じて少し考えていたが、やがてきっと顔を上げた。
「多分、深紅のせいね。制裁は後でするとして、最初から説明を……待って猪俣さん」
 先に進もうとして、腕を掴まれる。思ったより強い力に驚くが、文句を言う前に気づいてしまった。
 今私たちがいるのは踊り場で、階段を降りると二階。そこに、待ち構えるモノがいる。
 顔を、手を、足を黒く変色させた人の群れ。ざっと見積もって十と少し。行くあてを探すように蠢く様は、俯瞰するとゾンビみたいだ。思わず一歩足を引いてしまう。
「あれ、黒い私みたい……あんなにたくさんいるもんなの……?」
「あなたの前に現れたのは悪心そのもの。そこの彼らは悪心に憑かれて、操られている人間。少し違うわね」
 青冴が腕を横に振った。すると杖が現れて、彼女はそれを掴む。
「猪俣さんに引き寄せられて来たのだとしたら、やはり回収して正解だったわ。少し待っていて」
 言うなり、青冴は階段を一気に飛び降りた。落ちた先には一人目の悪心がいて、ずどん。脳天に体重の乗った重い一撃が入る。哀れ一人目は昏倒、倒れた身体から黒い煙が吹き出した。青冴は冷たく一瞥すると、煙に向かって杖を振る。ばすん。音を立てて煙が弾けて消えた。
 そこからは流れ作業。一人を殴り倒しては吹き出す煙を叩く、その繰り返し。悪心たちは青冴を敵と認めてわらわら集ってくるけれど、動きが鈍い上、リーチの長い杖で横薙ぎにストライクされては、物量に何の意味も無い。
 二分もしないうちに制圧したのではないだろうか。「あっという間」という言葉がしっくりくる。倒れた人々が呻く中、青冴はずれた眼鏡を直して、私を見上げた。
 その視線を受けるのと、私の上に影が降るのは同時だった。
「上から……!?」
 青冴の顔色が一気に変わり、自ら飛び降りた階段を今度は飛び上ろうとする。しかし床に転がる一人に足を掴まれた。素早く振り払うが、出遅れたのは間違いない。
 降る影を見上げると、私の上に黒い人がいた。3階から踊り場に飛び降りてきた、黒い女子生徒……私の形をしていない、つまり悪心とやらに操られているっていう……。
「清水?」
 顔も判別できない姿だけれど、耳元で揺れるピアスで分かる。間違いなく清水だ。
 どだんっ。相手を認識するので精一杯で、避けることはできなかった。清水の飛び蹴りが私の肩にぶつかり、そのまま押し倒される。背中を床に強打しただけでなく、清水がそのまま胸の位置に馬乗りになったため、呼吸ができない。苦しい。喘いでも酸素が足りない。清水をどけようとするが声は出ないし、動かそうにも制服の袖を踏まれて動かせない。
 清水がポケットから何かを取り出す。ぎらりと光ったのは、細身の鋏だ。何を思う間も無く振り下ろされる。刺される。青冴が視界の端に見えた。でも遅い、間に合わない。
「おらああああああっ!!」
 どんっ。雄叫びと共に、清水目掛けて何かが飛んできた。清水は私の上から吹っ飛び、鈍い音を立てる。ごづん。
 解放された肺に空気を送りながらのろのろ視線を向けると、壁にぶつかって動かない清水がいた。血は出ていないから、頭を強打して意識が飛んだのだろう。死んではいない、そう信じたい。
 清水の安否に思いを巡らせていると、手を引かれ立たされた。見知らぬ男子生徒だ。雄叫びと体当たりの張本人……命の恩人ってやつだ。内履きの色を確認すると、二年生。年下。
「無事ですか? 外傷は無いみたいですけど」
 呼吸が整わないので首肯する。そこに青冴が近づいてきた。彼女は男子生徒を驚きの表情で見つめている。
「坂上……? 何故、ここにいるの」
「和田……いや、青冴か。待機してた教室で数人が悪心にやられて、襲われたんで逃げてきた。そしたら道行く先でこの人が危なそうだったんで、つい手出しを」
「待って。何故私のことを思い出しているのよ、あなた。認識介入を二度も破るなんて」
「悪心に襲われた時に、前に似たようなことがあった気がして。逃げながら考えてるうちに思い出した。「何故」と問われると、ちょっと困るな」
「……どうこう言ってもしょうがないし、結果は良かったものね。そこは後で考えましょう。
 猪俣さんを助けてくれてありがとう、坂上。ただし、今後軽率な行動は慎んでちょうだい」
 「坂上」と呼ばれた男子生徒と青冴は、知り合いのようだ。私と同じように、悪心から助けてもらった経験があるのだろうか。まあ、どうでもいいんだけど。
 二人が話し、私が息を整えている間に、遠くで扉の開く音と騒ぐ声、足音が聞こえてきた。そうか、坂上の言うことが本当なら、階下で伸びてる奴らや清水のように、悪心に操られてる人がそこかしこにいるんだ。突っ立っていては危ないし、坂上のように追われて逃げる人も増えるだろうし、大混乱が起きる可能性が高い。
「それで、私たちどうするの?」
「ああ、そうね。放送室に行くわよ。一時的な拠点にしているから」
「放送室? 安全なの? それに、悪心に操られた人が暴れてるっていうなら、襲われてる他の人たちは……」
 ぴーんぽーんぱーんぽーん。この場の緊迫感にそぐわないチャイムが流れた。
『現在、校内各所において突発的な人格の凶暴化による暴動が起こっています。大変危険ですので、正気の方は各階の安全な教室に避難してください。まず一階……』
 前回と同じ翡翠の声による放送だ。落ち着き払った声で、選考理由が不明な各階のセーフティゾーンが読み上げられていく。
 青冴が顔を上げ、小さく頷いた。
「他の人たちはこれで大丈夫。そして放送室には翡翠がいる」
「翡翠ってのがいるのが、どう安全なの?」
 坂上に話を振ってみる。彼はこくこくと頷いた。
「は、はい。翡翠は悪心に対して結界が張れるんですよ。守りは堅いんじゃないかと。今読み上げている教室も、事前に結界を張ってあったとか……青冴、合ってるか?」
「百点満点、良くできました。理解できたなら行きましょう、長居は無用だわ。
 ……言うまでもないでしょうけれど、坂上もついてきなさい。記憶を取り戻している以上、守れないと寝覚めが悪いから」
「相変わらず冷たい言い分……いや、懐かしいっちゃそうなんだけど。
 えーっと、先輩、ですよね。俺、坂上です。よろしくお願いします」
「……猪俣。さっきはありがと、助かったよ」
「いえ、できることをしただけです」
 自己紹介も済んだところで、階段を降りて一階へ。別教室へ逃げ込む生徒数名とすれ違っただけで、黒い人とは遭遇せずに放送室へと辿り着く。防音加工の施された重い扉を、青冴がノックした。仕草としては「殴る」に近かったけど。
「翡翠。猪俣さんと、うっかり坂上を回収したわ」
 扉はすぐに開かれた。緑髪で背の高い、見覚えのある男が出迎えてくれる。
「ご苦労様。猪俣と……本当に坂上だ」
「えーと、久しぶり?」
「そうだな、数ヶ月ぶりか。
 ……いや、何故記憶が戻ってるんだ、お前」
「悪心との接触で思い出したそうよ。失礼するわね」
 つかつか入っていく青冴にならって、放送室の中へ。
 入学時のオリエンテーリングで入ったきりの放送室は、思った以上に狭かった。機材ブースの奥にあるスタジオならそこそこの広さがあるので、そちらに向かう。椅子がおあつらえ向きに人数分あったので、誰ともなしに着席した。
「無事に保護できて何よりだ。青冴、学校内の混乱について何か分かったことはあるか?」
 翡翠の問いに、青冴は目を伏せた。
「帰宅していたはずの生徒が校内に放り出されている。悪心が力を強めていて、前触れなく人間を変質させている。あと、私たちだけでなく生徒教師らも校外に出られないわね。分かったのはそこまで。残念ながら、原因解明につながる発見は無かった」
「そうか。悪心が影響力を増している点については、昨日今日の話じゃないが。個体差があるはずの感情の力が一律に上昇するのは、やはり異常と捉えていいだろう」
「あー、その。ちょっといい?」 
 真剣に話し込んでいるところを悪いなーとは思いつつ、声をかける。
「悪心とか、この状況とか。私、何一つ分かってないんだよね。忙しいところ悪いけど、一から説明してくれない? 命の危険を3回も感じて、もう無関係ってわけにもいかないしさ」
 依頼してみると、青冴がぽんと手を叩き、翡翠に言った。
「翡翠。彼女、前に悪心に襲われた時に説明を受けていないって」
「そうなのか? 深紅が説明を済ませているんだとばかり……それは悪かった」
「やっぱり、この件の原因は深紅にあるのね。後で殴る」
「加減してやれよ、現状大事な戦力だからな。
 ……では、悪心が何かについての説明からいこう。坂上も、記憶はあるようだが復習のつもりで」
「はーい」
 そこから翡翠先生の解説。
 要約すると、悪心は人間の持つ強い感情のことで、実体化し、抱えた人間を変化させたり、感情を向けた相手を傷つけたりする。そんな悪心に摩訶不思議な力で対抗するのが、翡翠たち四人組だという。今まで数え切れないほどの悪心と対峙してきたそうだが、私のケースは「理想と現実の板ばさみ」というストレスから悪心が発生、「脱却したい」という意思が私自身に向いたために、実体化した悪心が「黒い私」の姿をとって私を狙ったのだという。川崎が一時的に狙われたのは、友人の存在が私を苦しめていた一端だからだろう。ちなみに坂上も悪心被害者で、悪心に操られた人々に襲われたらしい。
 ところで、そんな厄介が徘徊している我が校だけど。
「なんでこの学校、そんなことになってんの?」
 聞けば悪心現象は、この学校内でのみ起こるものらしい。学校の敷地を出れば、悪心の影響は一切無いのだ。何でこんな現象が、この学校にピンポイントで起こっているのだろう。
 沈黙の後、翡翠が小さく息を吐いた。
「……元は、ある男だ。奴が実験と称し、この学校をそういう仕組みにした」
「仕組み?」
「人の強い感情が悪心となり、人を狂わせ、実体化して人を脅かす仕組み。世界観。設定。小さな社会である「学校」は格好の実験場だった。この学校である理由は、単なる偶然だろう」
「じゃあ、あんたたちはその仕組みを止めるために来たんだ?」
「……それは……そういうことに、なるのか……」
 絶妙に歯切れの悪い返事が気になったが、闖入者によって会話は遮られた。
「いえーい! 千秋=深紅、ただいま帰還しましたーっと!」
「ただいま」
 ばたーん。赤い五月蝿いのと、茶色い小さいのが登場。赤いのは深紅だと思うけど、茶色い方は見たことがない……と思っていたら、坂上が耳打ちしてくれた。
「赤いのが深紅、茶色いのが道埋です。今の深紅はかなり馬鹿なんで注意。道埋は人見知りだけど、悪い奴じゃないです」
 ふんふんなるほど、これが悪心に唯一対抗できる勢力というわけだ。道埋は翡翠にちょっかいをかけて、なだめられている。深紅は青冴に鉄拳制裁を受けて喚くけれど、青冴に説明不足の不手際を指摘されて視線を彷徨わせた。……家族的で大変微笑ましい。でも今そういう状況じゃないからね? こいつらが悪心蠢く檻の中の唯一の希望、とは信じ難い。
「避難者の様子はどうだった?」
 翡翠が道埋に聞くと、彼はぶかぶかなセーターの袖で翡翠を叩く手を止め、ふいと中空に目をやった。
「避難は、問題無さそう。結界も機能してる。でも悪心は、変な感じ」
「変?」
「ん。いっぱいいたり、弱いのに人を操ったり、倒しても消滅しなかったり」
 深紅がうんうんと頷いて同意する。
「悪心がめっちゃパワーアップしてるよな。んーでも、猪俣ちゃんの含め、最近の悪心って妙に強いじゃん? つまり悪心が変なのは、この状況のせいじゃないっつーか、えっとー……」
「なるべくしてなった?」
「そうそれ!」
 感覚で言ってみると、深紅が私を指差した。人を指すな。
 腕を組んで難しい顔をした青冴が口を開く。
「強くなっていく悪心だけならまだしも、人が閉じ込められ、強制的に悪心の脅威に晒されている……作為的なものを感じるわね。何らかの意図が働いているのではないかしら」
「悪心の意図的かつ強制的な強化や、人間の強制転移、内向きの結界を張ることが可能で、そんなことをして得をするのは……この実験をしかけた元凶、しかないだろうな」
「そう考えるのが自然でしょうね」
 翡翠の言う「元凶」とはさっき話していた、この学校を悪心だらけにしてくれた奴のことだろう。どうやって、とか考えるのも馬鹿馬鹿しいけれど、そんなことができるのなら、悪心以上に厄介な相手なのは間違いない。
「相手が分かってるなら、その元凶を探して倒せば解決する……とか、そう簡単な問題でもないの?」
「それができりゃあ楽だけど、今の所あいつの姿も気配もないしなあ。第一見つけたところで、あいつの気を変えさせるくらい叩き潰せるかっつーと、微妙……」
「元凶の前に、現状どうするかを考えたほうがいいかもしれないな。悪心は徘徊しているし、逃げた人々の心身も心配だ」
 確かに。元凶も大事だけど、差し迫った危機を疎かにはできない。すなわち、倒せども倒せども人に仇なす悪心の対処だ。私は運良く助かったけれど、教室に避難している人の間で、混乱や更なる怪我人が出たりもするだろう。清水はもちろん、まだ会えていない川崎も心配だ。
 相談の末、悪心を倒しつつ、避難した人を集めることになった。一箇所に集めた方が守りやすいし、精神も安定するだろう、とのことだ。避難場所には体育館が設定され、翡翠が結界を張る間に各階の人を誘導する。私と坂上も、青冴曰く「悪心に対しての囮」として同行することになった。ひどい言い草なので憤慨すると、道埋から負傷者の手当用にと救急箱を渡された。若干雑な役割設定ではあったけれど、甘んじて受け入れた。
 幸いというか何というか、囮にしても手当にしても出番はあった。訪れた教室には必ず怪我人がいたし、移動中は悪心が所構わず襲ってくる。手当をして、悪心の目を逸らすために走り回って、手当てして……正直めっちゃ疲れた。特に悪心相手。足を伸ばしたり胸から針が飛び出したり、本気で殺そうとしてきている。深紅と青冴が確実にぶちのめしてくれたけれど、黒い私の脅威、操られた清水に殺されかけた記憶がフラッシュバックして恐怖が募る。
 逃げ遅れた人も探すために、結局学校中を歩き回ることになったけれど、一時間ほどで避難誘導は無事に完了した。突然学校に転がされ、訳も分からぬまま誘導された生徒教師数十人は一様に不安そうで、中には悪心に襲われた恐怖から自失状態な奴もいたけれど、一箇所に集まったことで友人との再会がそこかしこで発生し、少しだけ和やかな空気が流れた。私と同じ役割を得て駆けずり回った坂上も、クラスメイトを見つけて肩を叩き合っている。
「い、猪俣ぁ〜!!」
「え? あっ、川崎、清水!」
 そして私にも感動の再会。川崎と、彼女に肩を貸してもらい歩いてきた清水だ。二人は顔色こそ悪いが、笑顔を見せている。いつぞやとは逆だな、と頭の端で思いつつ、素直に喜んだ。川崎はもちろん、何より清水が無事だったのは嬉しい。
「知らない奴らが学校占拠して、暴れてるらしいじゃん! 猪俣無事だった!?」
 翡翠の提案により、本案件はそういうことになっている。悪心がどうとか言っても信じてもらえない確率百パーセントなので、嘘も方便ってやつだ。皆が混乱していたので、それらしい嘘を信じ込ませるのは簡単だった。
「私は大丈夫。それより清水、その頭のガーゼ……」
「う、うん。なんか、襲われた時に転んで頭ぶったみたい。その時の記憶無いけど、ちょっと血が出て、あとはこぶができただけ。大したことないよ」
 「それ、犯人は坂上です。思いっきりあなたを壁にぶつけてました」とは、言えるわけもない。私が手当てした覚え無いってことは、多分坂上が手当てしてるんだよね。気まずかっただろうな。
 とにかく、友人の無事を確認できてよかった。安心して二人と喋っていると、青冴が近づいてきた。手招きをしている。
「ん、誰あいつ?」
「ああ、えっと……私を助けてくれた人。ごめん、ちょっと行ってくる」
 断りを入れて、その場を離れ青冴について行く。
 深紅、青冴、翡翠、道埋、坂上と私。体育館入り口に、放送室の面子が今一度集まった。体育館にいる数十人の中で事態を正しく理解し、対処できるのがこの六人だけとは、何とも心許ない。
「どうしたの。また何か、やることできた?」
「ええ、これから悪心を制圧しに行くわ」
「制圧。……物騒な」
「このまま閉じこもっているわけにはいかないでしょう? 悪心に人々を襲わせるのが元凶の目的なら、徹底的に抗って筋書きをぶち壊せば、慌てた奴を引きずり出せるかもしれないわ」
 言っていることは分かる。悪心さえどうにかすれば、閉じ込められているとはいえ学校、キャンプをしているようなものだし。安全度を高めつつ、その上元凶を引っ張り出せるなら、無理の無い範囲での悪心討伐は大歓迎だ。
「じゃあ、私と坂上がその集いに参加している理由は?」
「囮よ」
 青冴は悪びれもせずまた言う。去来するのは、悪心相手に逃げ回った疲労と恐怖だ。
「ま、またぁ!? 怖いんだけど!」
「正常な人間は、ここにいる者でほぼ全員。つまり体育館外には、悪心の付け入る隙のある人間がいない。そこにあなたたちが現れれば、危害を加えようとしてくるはず……ああ、あと先ほどの二人の活躍も加味したわ。それだけ動ければ大丈夫」
 さっきまでは治療役も兼任していたけど、今回はマジで囮役一本、悪心の餌ってわけだ。坂上の顔にも、何とも複雑そうな感情が浮かんでいた。気持ちめっちゃ分かる。悪心と殴り合ってる奴らの前で言うのも何だけど、こっちは生身の人間で、疲れるし怪我するし、下手すりゃ死ぬのに抗う術は無いなんて、危険すぎる。
 ただ……ここまで関わった以上、逃げるのは癪に障る。好き勝手されてこっちは死にかけて、怪我した人だってたくさんいる。なのに、悪心に対抗できる四人に事態収拾を丸投げ、ってのは……虫が良すぎないか、と考えてしまう。それに、出来るなら私も元凶の面を拝んで、一言物申したいくらいには、ムカついているのだ。
「……分かった、やるわよ。坂上は?」
「女性にそれ言われて、自分だけ「嫌」とは言えないです。よし、腹くくるよ」
「二人とも話が分かるー! かっちょいいぞ!」
 深紅に肩を掴まれ、ぐらぐらと揺さぶられる。シェイクされる脳内で、決意を固めた。
 やってやろうじゃないか、囮役。絶対に、生きて、この問題を解決するんだ。


 夕方。
「猪俣さん、頭下げて!」
「まっ、うわあ!? 来る、来てる! どこ逃げるの!?」
「こっち。急いで」
「ちょこまかと……待ちなさい、なっ!」
 ぶん。どがん。がしゃん。がこん。ばしゃん。
 悪心との対峙及び退治は、二組に分かれて行われた。私は青冴と道埋のコンビと行動を共にしていて、坂上は深紅と翡翠のチームだ。校舎の上から下まで巡回しながら、悪心と遭遇するたびにぶっ叩く。たまに別組と合流して情報交換。戦闘、会話、戦闘、会話、戦闘……その繰り返し。
 悪心は、私たち……というか、私を見つけるなり襲いかかってくる。囮としての効果は十分に発揮できているようだけれど、戦闘は場所を選ばない。廊下のみならず教室や階段、果てはトイレまで、日常の風景は瞬く間に戦場と化し、破損していった。砕け壊れ罅割れた日常風景の無残さに、初めは罪悪感や違和感があったりしたけれど、半日もそんな景色の中を駆けずり回れば見慣れるし、今や一種のアート表現に見えなくもない。
「道埋、そっちに逃げたわ!」
「任せて。えい」
 基本的には青冴が積極的に杖の殴打や水で悪心の相手をし、悪心が青冴の猛攻をかいくぐってきたら、道埋が殴ったり蹴ったり投げ飛ばしたりの肉体技を披露する。私より背の低い道埋が、掛け声もなしに成人男性サイズの悪心を投げとばすのも、見慣れたものである。どこからそのパワー出してるんだろう。
 どかっ。どさ。道埋の中段蹴りでぶっ飛んだ悪心から黒い煙が抜け、我が校の男子生徒として力無く倒れる。黒い煙……悪心の実体は集まり球を成して浮かび上がるけれど、青冴の杖がなぎ払った。ばすん。
 悪心を払った後の人は、体育館まで運ぶには面倒なので、その前に使われていた、結界を施してある一時避難場所に投げ込むことで後処理とし、状況終了。
 ぱんぱん。手を払って、青冴が呟く。
「ああ……さすがに疲れたわね。一つ一つが強いし、数も多い」
「悪心を払えない人も、多い」
 ……戦闘の合間に教えてもらったのは、悪心に憑かれた人の末路。悪心が弱ければ、こいつらが叩くか説得かで悪心を追い払える。けれど悪心が強すぎると……癒着し飲み込まれた人は悪心と同化し、悪心として殺すしかなくなる。実際、戦闘を重ねる中で避難所に移動させなかった人が何人かいた。あれは……死んでしまった、ということだ。私の場合、あの日悪心に「全て壊そう」という誘いを受け入れていたら、悪心にとり込まれていた可能性があったとか。あそこで逆ギレしていなければ、川崎や清水を巻き込んだ上で、死んでいたかもしれない……。悪心が脅威であることを、改めて痛感した。
「……戻る?」
「そうね。もう夜が近いし、体育館に戻りましょう。猪俣さん、まだ歩けるわね?」
「大丈夫」
 いつの間にか斜陽が差し、戦闘痕の凹凸がくっきり浮き出た廊下を歩く。先を行く青冴と道埋は足取りこそしっかりしているものの、服が破けて怪我だらけだ。私も二人ほどではないにせよ、悪心の攻撃を何度か受けてしまい、擦り傷やあざをいくつも作っている。ひどく打った片足を少し引きずって歩いた。
 体育館に着くと、既に別組が戻っていた。三人とも、私たちと似たような見た目である。
「お疲れー! そっちはどうよ?」
「悪心が強い。その一言に尽きるわね。悪心の侵食度に関係なく頑強だわ」
「助けきれない者も多い……。このままだとここが悪心で溢れるか、あるいは」
「僕たちが全滅する可能性も、ある、よね」
 四人は難しい顔で話し始める。暗い話題なので右から左に聞き流しつつ、坂上に話しかけた。
「悪心なんて、何で生み出したんだろう。意味わかんない」
「そうですね。「実験」とか言ってましたけど、いい迷惑なんてもんじゃないですよ。死人まで出て……俺も親友を二人失いました。もう普通の日常には帰ってこない」
「私だって死にかけたし、友達が悪心に憑かれたし。それって死ぬ可能性があったってことでしょ? 本当むかつく……何が実験よ、ふざけんな。会ったら絶対文句言ってやる」
「ああ、それいいですね。俺たちとことん戦力外ですけど、悪心に巻き込まれた当事者ですから。全校を代表して一言……いえ、一発ずつ殴る勢いでいきましょう!」
「……ふっ、あはは……うん、なんかそれ気分良さそう。いいね」
 元凶がどんな奴かは分からないし、悪心を生み出すようなヤバい奴を殴るなんて、きっと不可能。でも解決策も見当たらない、何の力にもなれない状況では、そんな空想を描くだけでも気持ちが上向いた。久々に笑った気がする。坂上も、肩をすくめて笑っていた。
 ぴーんぽーんぱーんぽーん。
 突然、チャイムが鳴り響いた。反射的に顔を上げる。わんわんと反響を伴って、その声はおそらく学校中に鳴った。
『生徒、教師、その他の皆さん。今日はお疲れ様でした』
 あれ、どっかで聞いた事あるような声……? でも思い出せない。もやもやしながらふと目を向けると……スピーカーを見上げる坂上以外の四名の顔が、一様に険しかった。緊張する。何だろう、この放送、どっかおかしい?
『特に、悪心に対抗する四人と協力者の二人。大変素晴らしい活躍でした。重ねて、お疲れ様です』
それは私たちのこと? 確かに今日のMVPは、悪心を倒しまくって平穏を取り戻そうとした四人で間違いない。私と坂上も結構頑張ったけど、そこは譲る。
……あれ、待って。
『おかげさまで、現在校内のほとんどの悪心が沈静化しています』
 まともな人はこの体育館に収容したし、悪心を払った人は一時避難所の教室に集めた。外に出ないように指示を出してるから、放送室に人はいないはずだ。放送が行なわれていることがまず不自然。それだけじゃない。なんでこの放送者、私たちが悪心と戦っていたことを知っているんだ。「悪心」という単語を知っているのもおかしい。生徒教師には「暴漢の犯行」と嘘を吐いて、混乱を避けている状態なのに。
 この放送を流している奴は、何者だ?
『ですがご安心ください。明日にはもっと元気な悪心となって、もっと陽気に皆さんを危険に晒します。簡潔に言うと、真剣に殺しに行きます』
「……は、あ?」
 浮かれた攻撃宣言、前向きな殺意を受けて、呆気にとられる。思わず、誰にとも無く問いかけた。
「これ、どういう……?」
「その疑問は、放送の内容についてか? それとも放送している奴の人間性についてか?」
 どっちも。一応、翡翠には皮肉を言う余裕はあるらしい。
 馬鹿みたいに明るい深紅すら難しい顔をしていて、それを見ていた坂上が腕を組む。
「気になるのは、この男の正体ですよね。まあ、想像はつくけど……」
 私も何となく分かってはいるが、確認も兼ねて口に出しながら推理する。
「私たちの行動を把握していて、悪心の存在も知っていて、「明日はもっとすごいぞ」なんて予言めいた宣言ができる奴……全てを俯瞰して、手を加えられるような超越的存在……」
「つまり」
 坂上が、ぴっと上に指を差し向ける。
「この放送をしてる奴が、今回の異常現象の元凶にして、悪心発生の元凶」
「やっぱ、そうなるよね」
 頷き合う。誰も異論を挟まないということは、この予想は他四名のそれと一致しているということだ。先ほど「殴る」と宣言した奴が、すぐ近くにいる……だけど、声を聞いてはっきりと実感した。こいつはヤバい。関わると大怪我する。直感だけど、ある意味本能だ。
『そういうわけですので、本日はゆっくり休みましょう。学校に宿泊する特別行事、修学旅行みたくワクワク気分で、思い残しの無い、楽しい夜をお過ごしください。
 それでは、おやすみなさい』
 ぴーんぽーんぱーんぽーん。
 ばづん。チャイムが鳴り終わると同時に、体育館の照明が落ちた。窓の外も暗いので、すぐ隣にいる坂上の輪郭も掴みきれない。突然のことに体育館内がざわつく。
「何で電気落ちるのよ! どうすんの、あれが元凶でしょう? 闇討ちされない!?」
「「ゆっくり休め」と言った以上、そういう卑怯な手は使わないと思うわ。自分で作ったルールは守るタイプよ……性格はクズ、思考回路はゴミだけど」
「すごい罵倒……って、いうか……」
 ばたん、どさっ。暗闇の中、ざわめきに紛れて何かが倒れる音が続出する。どさ。すぐ横でもそれが聞こえて、坂上が床に膝をついたことを何とか視認した。
「めっちゃ眠い……」
「いやいや待って、寝てる場合じゃ……うぅ……」
 あの放送が元凶によって行われていたなら、今から放送室に突撃して元凶の確保とフルボッコ、原状回復させるという手はどうだ……提案しようとしたのに、力が抜けていく。坂上に誘われるように、私にも突然、かつ急激な眠気が襲い掛かってきた。ふらついて、床に片足をつく。周りでどさどさ倒れる音はこれのせいか、と朦朧とし始めた頭で理解するけれど、私としては、元凶に仕組まれたこの状況であっさり倒れるのは不安しかない。
「だ、誰か……この眠気、はねのけられる、奴……いない……?」
「無理……これは、かなり、無理……」
 闇の中で、道埋の苦しげな声がした。間もなく彼も倒れる。そんな……こいつらでも抗えないのなら、私がどうにかできるわけないじゃん。諦めた途端、体から力が抜ける。抗えない眠気、というのがこんなに辛いものだとは思わなかった。意識が一瞬で遠のく。
 どさっ。




 次の日。朝。
「うわああよく寝た!! 寝ちゃいけない場面なのによく寝たおはよう!!」
 睡魔からの脱出は、きっかり八時のこと。大声を出してしまったけれど、周りも続々起き上がっているので問題無いこととする。
「うう、目覚め自体はすっきりなのに、心のもやもや感半端ない……」
 坂上は胸に手を当てながら起床する。うん、その気持ちめっちゃわかる。質の良い睡眠は、心と体が心地良くそれを受け入れた時に初めて成立するのだと、現状あまり必要のない知識を得た。
「いやー驚いたな! 俺らでも対抗できない眠気! 寝込み襲われなくて良かったけど!」
「俺たち自身の領域で留まれない程の深層まで、一気に落とされるとはな……」
 深紅の呑気な声に、翡翠が応じる。対悪心最終兵器の四人も目覚めたようだ。顔から疲労が消えているのは良かったけど、それが敵によって与えられ、享受したことは納得いかないのだろう。笑顔の深紅と無表情な道埋はともかく、翡翠と青冴はすこぶる機嫌が悪そうだ。
「さて、今日はどう出てくるかしらね」
 青冴が落ちていた眼鏡をかけ直して言うと、場が引き締まる。
「「どう」って……昨日放送してた奴のこと?」
 この異常の元凶で、そもそも学校が悪心に蝕まれることとなった元凶でもあるという奴。昨日の声の感じから男だと思うけれど、それ以外の情報は持ち合わせていない。敵と断じているのに姿も分からないので、私の中では未だふんわりした存在感しか持っていなかった。
 けれど四人は違う。今までの話しぶりから、相手を知っているようだった。確かな実感を持って、危機感と使命感で事に当たろうとしている。私にはそう見えた。
「そうだな。どう足掻いても、俺たちは奴の手の上で転がされているのだろうが」
「むかつくし面倒臭いから、あいつぶっ飛ばしに行こうぜ!」
「場所も分からないのに、何処に行くつもりなの。無鉄砲、無計画は命取りよ」
「えー、じゃあどうすんだ? 誰か良い計画立ててくれよ、俺には無理だから!」
「……やるべきは、悪心の対処、一時避難者の回収、元凶の捜索?」
「あ、あのー。口挟んでも大丈夫?」
「ああ、構わないぞ坂上。何か気づいたことでもあるか?」
「昨日の放送で「悪心がもっと強くなる」って言ってたよな。この体育館をがら空きにするのは、ちょっと危なくないか?」
「そんなこと言ってたわね……ここって結界張ってるんでしょう? 破られる可能性あるの?」
「残念ながら、「ない」とは言い切れない」
「そうね、ここの見張りも必要……四人で対処しきれるかしら」
「昨日みたいに手伝えることあったら、言ってよ。私の友達とか、手伝ってくれそうな人にも声かけてみるし」
「うんうん、戦闘員も非戦闘員も、総力戦で頑張ろう。さあ、どこから手をつける? 悪心の殲滅も大事だけれど、怪我人の回収、手当も継続したいね。その前に食べ物の確保かな? 飲まず食わずでは士気にも影響するよ。あと個人的オススメは、体育館の結界の補強。昨日から展開しっぱなしでは効果が薄まっているだろう。生身での防衛も悪くないけれど、結界自体を強めておくと、より安心だね」
 …………?
 滑らかに会話に侵入してきた、朗らかで饒舌な声は、私の後ろからした。
「多分、その計画全部無駄になっちゃうけれど。どうぞ続けて」
 どがん。気づいたら私は襟を引っ張られ壁際に投げ飛ばされていて、私がいた場所には深紅と青冴がいて、あの綺麗な色の石を冠した杖で床をぶっ叩いていた。
 その奥には、余裕の跳躍で杖の打撃を逃れた優男がいる。スーツにコート、茶髪の……。
「ああっ!? あんた、前に廊下で会った!」
「覚えていてくれた? その通り、あの時の僕だよ」
 それは間違い無く、数日前、帰りがけに廊下でぶつかり話しかけてきた男だった。翻るコートと浮かべた笑顔は、記憶と変わらない。心底嬉しそうな声は、昨日の放送で流れた声と違わず、あのときに感じた既視感は、間違っていなかったのだと知る。
 そしてそれらが示す事実は、こいつが……元凶、諸悪の根源である、ということだ。
 男は姿勢を正すと胸に手を置いて、優雅に一礼してみせた。
「改めまして自己紹介を。僕は一条優也、を名乗っている。この学校の現状を現状たらしめた、元凶の一つです」
 一条はあっさりと、自身の罪状を認めた。悪びれなさすぎて疑いたくなるけれど、深紅と青冴が真っ先に攻撃を仕掛けた点から、その可能性は否定。この二人、特に青冴が見境無く暴力を振るうような奴でないことは分かっている。こいつが、本当に元凶なのだ。
「なんで、元凶がいきなりこんな所に……。結界は機能してたんじゃなかったのか?」
 坂上の疑問に、一条は指を振って得意げに答えた。
「ここの結界は対悪心用であって、対僕用ではなかったからね。対象の異なる結界なら、余裕ですり抜けられるんだなあ。まあ、僕向きの結界でも十秒あれば壊せるけれど」
「何このチート野郎!? さすが学校をぐちゃぐちゃにしただけのことはある!!」
「お褒めに預かり恐悦至極!」
 一応話は通じているけれど、ちらと見た四人が明らかな敵意を発していて、説得の余地、いや余裕が無いことを感じる。そんなヤバいのが数メートルの距離にいるなんて……っていうか周りには人がたくさんいるのに、こんなとこで昨日の対悪心みたいな戦闘になったら、かなり危険なのでは。
「で、僕がここに来た理由というのはね。この学校での実験は十分に楽しませてもらったので、そろそろお開きにしようと思って。それを伝えに来た次第なんだ」
 教師が生徒に説明するように、手振りを交えて一条は言う。
「具体的には、この学校という世界、次元を綺麗さっぱり廃棄しようと思う」
「廃棄……?」
「文字通りの意味だよ。捨てる。価値を使い切ったゴミとして消却する。
 でも、ただ消すだけじゃもったいないから、最後に遊び倒そうと思うんだ。……昨日の放送で宣言した通り、悪心を目一杯暴走させて、自壊させたら、面白いんじゃないかなあって」
 かつん。一条の靴底が床を鳴らした。そこから光の円が広がる。ファンタジーでよくある魔方陣みたいなやつだ。一条の笑顔が照らされる。光が大きく広がって、弾けた。
 変化はすぐに現れた。床から黒い煙が滲み出て、体育館一帯に満ちる。足首を隠すほど濃くなって、あっという間に体育館は黒い煙の海に浸されてしまった。足で蹴散らせるような量ではないし、何より煙の質が問題だった。私はこれを昨日から、何度と無く見ている。
「この煙……これって、まさか悪心!?」
「まずい、ここにいる奴らに影響が……!」
 煙の噴出を止めることはできず、「逃げろ」と号令をかける余裕も無い。黒い煙は、悪心は、昨日何とか生き延びた人々を容赦無く包み込んだ。煙を吸い上げるように人々の体が黒くなるけれど、それで終わりではない。みしみし、ばき、ぼき。嫌な音を立てながら、人が人の器を捨てていく。
 ……一分と経たないうちに、黒い煙を蹴散らし暴れる、名状しがたい黒い生命体が体育館に溢れた。絶望的な光景だった。昨日文字通り必死に守った人が、友達が、希望が。こんなにもあっさりと奪われるなんて。
「う……俺も、悪心の影響、受けてるかも……」
「は!? だ、大丈夫!?」
 苦しげに胸を押さえる坂上の手が、じわりと黒くなる。それを見て生まれた心の揺れを狙っていたかのように、坂上の言う「影響」が私にも来た。
 唐突な思考の反転。全てが嫌になるような、全てを憎みたくなるような、そう感じる自分を否定したくなるような、そう感じる自分こそ恨みたくなるような……感情がマイナスの坩堝に向かっていく感覚。行き過ぎた自責による内罰。自己否定。根拠のない絶望だから、止める方法が分からない。俯向く視界、黒い煙が足を染めながら向かってくる。このままでは一条の思う壺、「駄目だ」と唱えるくらいしか、抵抗できない。
「一時凌ぎにしかならないだろうが……!」
 翡翠が杖を構えて床を払う。すると、私たちの足元から黒い煙が逃げていった。おかげで足の変色が薄まり、マイナス思考がストップする。けれど、煙はまたすぐ寄り集まってきた。煙だけで無く、悪心に変質した人々も向かってくる。昨日の悪心と同じく、唯一まともな私と坂上を狙っているのだろう。物理的、精神的な脅威を同時に相手取った危機的状況。
「どうすんのよこれ……! どうすりゃいいっての!?」
「私たちの勝ち筋が見当たらないわね」
「とりあえず、あいつ殴っとこうぜ!」
 深紅と青冴が、状況を見守っていた一条に殴りかかる。ずばどがん。水と火の二撃をひらりとかわし、一条は笑った。人を、学校を破滅に追い込んでおいてその笑顔……「話通じるかも」とか思った私が馬鹿だった。このサイコ野郎。絶対許せない。
「僕を倒したところで状況は好転しないよ?
 ……うーん。でも、ワンサイドゲームもつまらないね」
 悪心を巻き込みながら続く二人の攻撃をどこ吹く風と避けながら、一条は少し悩んだ末に手を叩いた。
「鬼ごっこはどうだろう? 悪心に対抗する術を持たない人間が、悪心に捕まらないよう逃げるのさ。そうだね、次の夜明けまで生き残ることができたら、君たちの勝ち。この学校という世界を存続させ、悪心の存在しない日常を返却しよう」
「俺と先輩が明日まで生き延びればいい、ってことか?」
「逃げ切るったって、こんな……」
 坂上と目線を合わせて、けれど彼の目には迷いがあった。きっと私にもあるだろう。
 見渡すまでもなく、今や体育館は悪心パラダイス。煙状の悪心の影響だって、薄まったとはいえ継続している。これが学校全体に蔓延しているとしたら、逃げ切るなんて……。
「無理じゃない!?」
「「無理」とか言わないで先輩! 希望はありますから!」
 無力な私に、同じく無力な坂上が叫ぶ。確かに勝ち目は生まれたのだろう。悪心に捕まるイコール死を意味する以上、生きたければ逃げるしかないんだし。でもこれ、ハードモードすぎやしない?
 展望の暗さに落胆すると、煙によってその感情が増幅され、足が止まる。そこに四つん這いの悪心が飛びかかってきた。ぼこん。その横っ腹を炎の玉がぶち抜き、さらに追撃として深紅の飛び膝蹴り。悪心から煙が噴き出すと、中から現れた人が体育館の隅に転がっていった。……ああなりたくない、落ち込んでる場合じゃない。頭を振って、逃げ延びる意志を奮い立たせる。
「勝ち筋は見えたけれど、ここにいるのは危険だわ。出ましょう」
 青冴の一声で方針が決まる。
「OK! えーと、じゃあ猪俣ちゃん。よっこいせ」
「うわっ! いきなり何……!?」
 断りもなく深紅の肩に担がれる。口では反抗したけれど、自分の足で逃げるよりこっちの方が速くて安全だろう。足元に溜まる煙に触れなくて済むのも精神的に大分楽なので、大人しく担がれておくことにした。深紅の背中側に私の頭があるので、彼が走ると景色が奥へと流れていくことになる。
「じゃあ、鬼ごっこを受理してくれたってことで。頑張ってね、二人とも」
 体育館を出る時、一条が笑顔で手を振っていた。むかつく、絶対勝ってやるからな。


 飛び込んだ先は二年の教室。翡翠がこれでもかと念入りに結界を張って、一時的な休憩所兼会議室となった。床には体育館ほどではないけれど黒い煙があるので、皆適当な机に腰掛けている。
「鬼ごっことか、意味わかんない……一条が直接攻撃してくる可能性は無いの? さっきみたいに結界破られたりしたら、本当に逃げ場無いよ」
「悪心と人の対決、と当人から定義した以上、こちらへの攻撃は悪心に任せるはずだ。奴の性格からの推測に過ぎないがな」
 とのこと。一条本人が手を出してこないなら、問題はやはり悪心ということになる。
「かと言って、このまま閉じこもっているだけで逃げ切れる、とは考え難いわ」
「今の強さの悪心にたくさん来られたら、力で結界破られるかもしれねーもんな」
「どこにいても、悪心に襲われるのは時間の問題と考えていいだろう。結界を張った地点で休憩、襲われたら戦いながら移動して、次の休憩地点を探す……そんなところか」
「坂上と猪俣を守る。単純。方針、変える必要無い」
「ついでに一条探して、潰した方が良くねえ? これだけで終わる気がしねーもん」
「そうね……ただし、あくまで二人の安全確保が優先よ。先走らないでちょうだいね、深紅」
「ういーす」
 勝利条件が決まっているからか、今後の方針はあっさりと決まった。要は昨日と変わらない、悪心との戦いだ。ただし私と坂上は囮としての能力も無用になり、能動的に手助けできることはいよいよなくなってしまった。情けないな。
 話がひと段落したとみて、坂上が口を開く。
「質問なんだけど……一条って、どんな奴なんだ? この事態の元凶ってことと、なんか軽いなー、ってくらいしか分からないんだけど」
 一条のことを知ったところで事態が好転するわけじゃないけど、敵を知って損はないはず。私もちょっと興味がわいた。
 質問を受けた四人は、四方を向いて唸る。一番に答えたのは深紅だった。
「性格と根性と性根が曲がってて、ムカつくけどすっげー強くて、手に負えない奴」
「あんたたちより強いの?」
「身体的には張り合えるけど、魔術的な能力では相手に軍配が上がるわね。深紅が炎を出したり、私が水を出したり、翡翠が結界を張ったりするような能力のことだけれど」
 青冴が弾いた指先から水が飛んだ。そういえば、悪心というまともじゃないのと相対しているせいで、対抗する彼らのまともじゃない技の数々を、あまり気にしていなかった。まあ、今更だけど。私たちの為に振るってくれている力なのだから、そこは突っ込まないことにする。
「あんたたちにそう言わせるって、つくづく規格外だな……本当、何で悪心なんか生み出して、この学校で実験なんてしたんだか……」
「奴の実験は……「心が実体化したらどうなるか」というものだ。だが……」
 坂上の独白に対して、翡翠が歯切れの悪い呟きを乗せた。
「……何。何か問題あるの?」
 その様子が気になって追求すると、一呼吸置いてから、翡翠が話し始めた。
「一条の存在及び彼による実験は、この学校に悪心を発生させた原因ではあるが、その全てではない。原因は、俺たちにもある」
「え? あんたたちが?」
 唐突な告白に、困惑する。四人は悪心と敵対している、それは絶対の構図で、一条の身勝手な実験に振り回されているだけだと思っていたのに。そうだとしたら、なぜ自分たちが生み出した悪心と戦っているのだろう?
「一条の実験目標は心の実体化だ。だがそれは心、感情、精神側の働きかけがなければ実現しえなかった。一条は、精神側が介入せざるをえない状況を作ることで、それを成した。
 彼は人の感情を集めて微弱な悪心を生み出し……生徒を殺した。感情である俺たちは……その身勝手を、見過ごすことができなかった。それこそが奴の目的だと知りながら介入した。そうして「精神が物質世界に物理的影響を及ぼす」という事実が生まれ、「感情は実体化しない」という現実は破綻した。
 だから……俺たちもこの状況の原因だ。介入したことに後悔はないが、ここに留まり悪心を殺しているのは、罪滅ぼしの面も、確かにあるな」
「……う、えーと、つまり……」
「私たちは悪心の敵だけれど、あなたたちにとっては私たちも悪心や一条と同列、憎むべき対象ってこと。あなたたちの平穏をぶち壊した破壊者。恨んで良いわよ」
「……。ごめん、ね」
 一息に説明を受け、私の脳はこんがらがっている。言葉を絞り出そうにも、何も出てきそうにない。つまりどういう事だ。何て言えば良いんだろう。
 ぐるぐる悩む頭を持ち上げると、説明してくれた翡翠を含む四人が、暗い顔をしていた。これが罪の告白であるなら、彼らが加害者で私たちが被害者だ。申し訳なく思っているのだろうか……ん? いや、待ってよ。ふっと肩の力が抜ける。
「……説明してくれたところ悪いんだけど、あんたらの事情についてはどうでも良かったわ」
「え?」
 私が言うと、翡翠がぽかんとする。他三人も、虚を突かれたような顔をしていた。
「今更文句なんか言わないわよ。第一、聞いても結局一条が原因の原因って感じじゃない。
 それに今の問題は、犯人探しじゃなくて悪心でしょ。悪心にはあんたたちしか対抗できないんだから、過去何があろうと私たちはあんたらを頼るしかないわけ。そうでしょ坂上!」
 振ってやると、坂上はなぜか敬礼のポーズで応えた。
「は、はい! その通りです! そもそも俺は四人……いや実質六人に命助けてもらってるので、恨むようなことは一切ありません!」
「つまり、私も坂上も、あんたらを責める気は一切ない。自省する暇あるなら、私たちを守る冴えた手立ての一つや二つ、考えたほうが建設的じゃん。異論ある?」
 手を叩いて発言を促すと、四人は顔を見合わせた。
「そう言われると……参ったわね」
「……正論」
「ふっ、確かに過去はどうあれ、やるべきことに変わりは無いか」
「異論なーし! 任せろ、二人ともばっちし守ってやっから!」
 四人は口々に言いながら笑った。
 難しく考える必要は無い。過去の追求も糾弾も、今この瞬間に必要なことじゃないんだ。自身の行いを悔いながら、許容した悪心を払う彼らは罰を受けているようなものだし、過去を差し引いても、現状完全悪は遊び感覚で悪心をけしかける一条だし。
 みしっ。突如嫌な音が響いて、緊張が走った。耳を澄ませると、遠くで破壊音が聞こえる。嫌な軋みはその破壊に連動して起きているようだった。みし、ばき、みしみし、どすん。破壊音はだんだんと近づいてきて……ばしん。扉の前で鳴った。
「嗅ぎつけられたわね。行くわよ」
 青冴と深紅がタイミングを合わせて、杖で扉をぶち破り、廊下へ出た。
 途端、すごい音が迫ってくる。どだどだどだどだ。それは廊下を走り出した二人に向かって一直線に向かっていく、人としての原型を留めない黒い異形。悪心だ。
「こっちで引きつけっから、逃がすのは任せた!」
「任された」
 どがんばがん。攻撃の音に混ざって飛んだ深紅の声に、道埋が小さな呟きで応じた。そして私と坂上の顔を見る。
「離れないで」
「そうだな、手の届く範囲にいてくれ。悪心に追いかけ回されるから、危険ではあるが」
「結局どこも危険だろ? 俺たちだって、近くで守られてた方が安心だよ」
 坂上の言葉に同意する。こんな状況で「一人で隠れてろ」とか言われても無理。いや、どうしても必要ならやるけど、心の準備が整ってからの最終手段にしてほしい。
「やってやるわよ。一条に負けたくないから」
 呟いて、私たちも教室を飛び出した。


 そこから先は、悪心との戦闘を繰り返しながら、校舎内をひたすら走る時間だった。言っていた通りの鬼ごっこだ。捕まれば死ぬ、命がけの遊び。昨日も移動中に悪心に襲われることはあったけれど、結界のある教室で怪我人の手当てをしながらの休憩ができた。今日はそんなインターバルも得られず、教室に逃げ込んで翡翠が結界を張ってくれても、数分で見つかっては全力疾走を再開する羽目になる。
 悪心はどこにでも、いくらでも現れ、攻撃してきた。索敵能力も、戦闘能力も、移動速度も昨日より格段に上がった悪心が、昨日よりも大量に襲いかかってくるのだ。対抗するのは深紅と青冴の攻撃、あるいは翡翠の防御。道埋は戦闘に参加せず、道をナビゲートしたり、破壊されて邪魔な備品を取り除いたりして逃走をサポートする。気合いの入った四人の連携のおかげで、悪心の怒涛の襲撃を受けながらも、私と坂上の怪我らしい怪我は軽い擦り傷程度で済んでいた。危機的状況はずっと続いていたけれど、抗い、戦う意志は誰の心からも消えていなかった。
 ……けれど、鬼ごっこの終わりが遠い。先ほど休憩した教室の時計は壊れていたから、正確な時間は分からないけれど、窓から差す光の雰囲気ではやっと午後かな、という推測がせいぜい。朝一番から極度の緊張感の中走り回って疲弊しているのに、まだ太陽が空に鎮座しているなんて、最悪。悪心と戦っている四人の負担、特に肉体的疲労は私たち以上だろう。柔らかく暖かい陽光が、だんだんと憎らしくなってきた。
 時間感覚の消失による徒労感、蓄積した疲労が、燃え続ける意志について行けず肉体の動きを鈍らせる。手強い悪心相手に一瞬の緩みが命取りになると分かっていても、肉体が脳の指示を受け付けないという事態が起こる。
 状況の変化は突然だったが、必然でもあった。
「わ、やばっ……」
 翡翠の結界に生じた僅かな隙間を通り抜けて、魚のような悪心が私の方に向かってきた。一匹一匹はししゃもほどの大きさだけれど、鋭い牙を持ち、数十匹で群れをなして襲ってくる。このままだと直撃する、逃げなければ……と頭では分かっているのに、私の体は動かない。疲労を溜めた足が、床にぐっと張り付いて擦ることもできない。
 どどどどっ。連続する衝撃に切り刻まれ弾き飛ばされ、階段に体を強かに打ちつけた。
「う、ぐっ……!」
「先輩、しっかり!!」
 坂上が駆け寄って、手を貸してくれる。あっという間に全身傷だらけの酷い有様になり、自分の緩みを痛感する。まだ動かなきゃ。次は死ぬかもしれない。でも、いつまでこんな綱渡りをすれば良いの……?
 迷いでまだ動きが鈍い私に、ししゃも悪心がもう一度狙いを定める。そこに、どがん。道埋が外れた扉を叩きつけて、群れ全体をぺしゃんこにした。翡翠と共にこっちに来ようとするけれど、教室から新たな悪心が姿を現して道を塞がれ、分断される。すぐに次の戦闘が始まってしまった。
「くそっ……坂上、猪俣! こいつを片付けたら合流するから、どこかに隠れていてくれ!」
 離れた私たちに気を配っていては、悪心との戦闘に集中できないのだろう。幸い、今出てきた悪心は私たちに気づいていない。廊下に備え付けられた非常用の担架を引っ張り出す道埋と目が合うと、頷かれる。「黙って行け」ということだ。
 私は坂上と目を合わせ、共に黙ってその場を離れた。怪我と疲労、どこから襲われるかわからない緊張感のため、小走りで廊下を進む中、坂上が訊いてくる。
「先輩、どこに隠れます? 良い場所ありますか?」
 鈍った頭で、選択肢を色々思い浮かべる。教室、特別教室、隠れるのに有利な設備……。
「……図書室は? 奥まった場所だから、見つかりにくいかも。本棚と机で死角も多いでしょ。準備室あるから、悪心が入ってきてもうまく逃げられるかも……いや、待って」
 問答無用の破壊者に対して、壊せる障害物が多い上どん詰まりの教室に逃げ込むのは危険、という考え方もできる。代替案を探そうとしたのに、坂上はあっさりと頷いた。
「分かりました」
「え、待ってよ。やっぱ危険じゃない? もう少し安全なとこ考えてからでも良いでしょ」
「どこにいたって、危険なのは変わらないですよ。とにかく行ってみましょう。駄目そうなら、改めて考えれば良いだけです」
 ポジティブな坂上に押し切られる形で、行き先が決定。二階に移動し、廊下を真っ直ぐ進む。道すがらの廊下と教室は壊滅的だったけれど、辿り着いた最奥、図書室の扉はきっちり閉まっていて、普段通りの佇まいだった。
「おお、手付かずって感じだ。先輩の言った通り、悪心も見逃したんですかね。早速中を確認……って、あれ?」
 がこん。がこんがこん。坂上が引き戸を開けようとするが、びくともしない。
「えっ、鍵閉まってる?」
「昨日見回りした時は開いてたでしょ。悪心が暴れた衝撃で歪んだとかじゃない? 坂上、蹴破っちゃえ」
「良いですけど……悪心来るなよ……せーのっ!」
 ばがん。坂上のキックが、扉のほぼ中央を打つ。扉は向こう側へ抜け、ゆっくりと倒れた。ばたん。その際大きな音といくらかの埃を立てたけれど、耳を澄ませても何かが駆けつけるような足音は無い。
「ナイスじゃん坂上。悪心は……大丈夫そう」
「中にもいない……ですね。入りましょう」
 図書室に入り、見渡す。静かで、窓からの光も穏やか。本は整然と並べられ、机と椅子にも乱れがない。日常にあっても違和感の無い、ごく普通の図書室だ。準備室も覗いたけれど異常無し。運良く悪心に見逃されていたのだろう。
 だからこそ、学校が破滅の憂き目に遭っている現状では、ひどく浮いている。こちらの方が正しいのに、間違っていると誤認する。
 壁に掛けられた時計を見上げる。ここの時計は壊れていない。秒針が滑らかに動いており、長針と短針は午後の五時半を指し示していた。
「夜明けまで、まだ結構時間あるのか……」
「え? ああ、そうですね」
 うろうろ歩き回っていた坂上も、足を止めて時計を見た。
「戦闘もひっきりなしだし、四人も相当きついでしょうね。こっちから攻勢に出られるような妙案が、あればいいんですけど」
「……無い。私たちって正直、できることないよね」
「まあ、起こっているのは俺たちにはどうしようもない事象ですからね……」
 自然と肩が落ちる。逃げ惑い守られてばかりで、何もできない現実が悔しい。自分の命くらい自分の責任で、自分の力で守りたい。この状況下でそんなことを願ったって無駄、自殺行為なのは分かっている。
 それでも、私の命は私の物であり、他者の慰みものなんかにはしたくない。それは十数年の短い人生ながら、立派に育った私の矜持であり、おそらくは生命に根付いた誇りだ。
「自分の意思、意志で生きたいと願って、生き延びる。「守られてるから」じゃなくて、生きることに能動的? 行動はできなくても、心構えとしては、そういうのが大事なんじゃない……って」
 悪心の気配が無くて口が緩んだのか、思考を声に出していた。何言った、今? 後輩に向かってポエム吐いてた? うっわ、恥ずかしい。顔熱い。坂上に顔を見られたくなくて、咄嗟に首を振る。
「……何でもない。今の忘れて」
「え、忘れませんけど?」
「は? 忘れろ」
「だって、すごく良い言葉でしたよ? 巻き込まれた、襲われてる、守られてる、って今まで受身な考えでしたけど、生きることに能動的……素敵です。響きました」
「復唱しないで。あーもう、ほんと恥ずかしい! 今の無し、忘れないなら椅子でぶん殴る」
「褒めてるのにひどくないですか!? 負の感情である悪心相手に、プラス思考で挑むのは大事なことだと思うんですけど!」
「そうかもしれないけど、今の議題は具体的に何ができるかって話で」
 どすっ。
 不意の音で、言葉が止まる。反射的に音源を定めようと動いた視界、その中に現れた光景が目に焼きついて、静止画になる。
「…………」
 黒く細い、針……いや、糸。糸が、壊れた扉から図書室内に侵入していた。何本もの糸が音も無くするする伸びて、途中にある本棚や椅子を易々と貫きながら、蜘蛛の巣のように部屋に張り巡らされていく。
「せん、ぱ、い」
 あらゆる備品を容赦なく貫いて、巨大な巣が組み上がる。すると廊下から案の定、鋭い足を備えた蜘蛛のような悪心が現れた。漆黒の体を引きずりながら、せわしなく足を動かして前進する。やがて巣にかかった獲物を認め、身震いをしながら笑った。元人間とは思えない、奇妙な声が鳴る。
「早く」
 坂上が、細い声を絞り出す。
 黒い糸の束に胸部を貫かれ、血を吐きながら縫いとめられた坂上が。
「逃げろ!!」
 叫びが私を弾き出した。準備室の扉へ走る。悪心が気づいて糸を飛ばすけれど、扉に飛び込んで何とか避けた。準備室は埃っぽくて視界が悪い上、物が多い。ぶつかっては蹴飛ばしながらがむしゃらに突き進んで、廊下に転がり出る。
 廊下にも黒い糸が巡らされていた。引き千切ろうと指をかけると、ぷつりと皮が切れて血が出てくる。糸はワイヤーか何かのように鋭いのだ。でも迷っている暇はない。覚悟を決めて駆け抜ける。当然、服も皮膚も切り裂かれ、体のあちこちが痛んだ。生温かい血が伝い落ちる感覚もあるけれど、止まるわけにはいかない。急げ。走れ。まだ間に合うかもしれない。だから、だから。
 階段の前に出て、上と下どちらに向かえば最適か迷う。すると、階下から近づいてくる足音が聞こえた。駆け下りると、角で深紅とぶつかりそうになる。後ろには青冴もいた。
「うわっ!? あー猪俣ちゃんか、びびったー……って、その傷どうした!?」
「翡翠と道埋が一緒にいたはずじゃ……坂上は?」
 青冴の的確な指摘に答えようとしたのに、歯が震えて、喉が収縮して、息が上がって、声が出せなかった。無様に荒い呼吸を繰り返しながら、図書室を指す。だんっ。次の瞬間には、目の前にいたはずの深紅が私の横を通り過ぎていた。青冴も階段を一足飛びで上って、視界から消える。ばがん、ずばん。後方で、荒い音が鳴り始めた。最早聞き飽きた、戦闘の音だ。
 力が抜けて、その場に座り込む。鼓動に合わせて体が痛み、手を見ると血だらけだった。生きている証。死んでいない実感。それらの中で、心は自然と祈っていた。祈りというよりは懇願に近い。言葉にならない願いをひたすら、どうにか、お願い、と。脳裏に焼きついた坂上の姿は、絶望するのに十分だったから。
 ……いつしか、廊下は静かになっていた。私は重い体を何とか立ち上がらせ、図書室へ向かう。
 私を散々切り裂いた廊下の糸は、綺麗に消えていた。そしてわずかに見える図書室は、棚が倒れ机が割れ本が散らばり椅子が焦げている。悪心に侵されること無くわずかに残されていた日常は、もう跡形も無かった。
 もうすぐ図書室に入る、というところで図書室から深紅が出てきた。そのまま歩み寄ってきて、私の目の前でぴたりと止まる。長身の彼に前に立たれると、前が見えない。先に進めない。
「……ちょっと、どいて」
「ごめん」
 脈絡なく吐かれた謝罪。この状況において、その言葉がどういう意味を含むかくらい、理解できる。そうなるだろうと予想もできていた。けれど、諦めきれない。
「どいて。私が自分で確かめる。見るまでは信じない」
「やめた方がいい。っていうか、駄目だ。心が折れる。悪心に付け込まれるぜ」
「心折れるとか、付け込まれるとか関係無いでしょ。あんたに止められる筋合いも無い」
「猪俣ちゃんには生きてもらわなきゃならねーんだ。自分の意志で」
 自分の意志で生きる。ほんの数分前、私が坂上に言った言葉だ。坂上に。
 眼前に立ち塞がる深紅の姿が歪んだ。
「五月蝿いな……!! 心が折れようが、悪心に付け込まれようがどうでも良いって言ってんの!! 私がここに来なければ、置いて逃げなければ……坂上は、まだ、助かったかも、生きてたかも、しれないのに! 最期ぐらい、顔見て謝って、感謝したいって思って、何が悪いのよ!!」
 廊下に反響する声が、悪心を呼び寄せることになろうとも、配慮する余裕は無かった。自分でも驚くほどに吐き出される涙と言葉を、何も悪くない深紅にぶつける。
「大した時間じゃなかったけど、あいつは私と同じだった。責任も後悔も、感じるに決まってんじゃん! 心なんか折れて当然でしょ、何が悪いの! そんなことも許されないなら、こんな世界、どうなろうが構わない!! 巻き込まれて、追い回されて殺されて、こんな理不尽な世界、一条の言う通り壊れた方がマシじゃない……!!」
 言いながら思う。坂上の存在は、私にとって少なからず影響を与えていたのだと。この異常な世界において、同じ境遇、同じ立場の人間がいることが、どれほど救いであったのか。坂上がいてくれるだけで、私は平静を保っていられたのだ。それだけではない。そもそも私が坂上と出会ったのは、彼が私を助けてくれたからだった。坂上がいなければ、私はもっと早くにこの世界から脱落していただろう。坂上は私を生かしてくれていた。そんな恩人を、失ったんだ。
 落とした視線、足元に黒い煙が揺蕩っている。人を狂わせ、悪心たらしめる煙。これに呑まれてしまえば、いっそ私も悪心から逃げる側でなく悪心の側になれれば、どれほど楽だろう。
 顔を覆う。闇が覆う。涙が流れるほどに心が冷えていく。このまま現実を遮断し続けていられたらいい。「死んだ坂上を見たら心が折れる」なんて、とんだ見当違いだ。ただの無力な女子高生でしかない私の心は、この命懸けのゲームの中でとうに折れている。坂上という存在によって何とか支えられていたものが、悪心の糸が坂上の胸を貫いたと同時に崩れただけだ。
「もう嫌……なんで、どうして……」
 あの時貫かれるのが、私であれば良かった。それが叶わないなら、もっと早くに悪心に殺されてしまえば良かった。無闇に生に縋らなければ良かった。もうこの学校に、まともな人は誰もいない。私しかいない。
 ……一人にしないで。置いていかないで。そっち側に連れて行ってよ。
「猪俣さん」
 闇の中に青冴の声。そして。
 ばちん。
「泣き言が終わったなら、顔を上げてもらえるかしら。あなたには、意地でも生きてもらわなければならなくなった。そんな態度だと困るのよ」
 頬をぶっ叩かれた。衝撃に思わず顔を上げると、冷たい目で私を見つめる青冴がいた。睨み返す気概もなく、その冷徹に晒される。
「あなたにできるのは、生きることだけよ。素直に認めて足掻きなさい」
「そんなこと……嫌だよ。もう疲れた。好きにさせて」
「無理な相談ね。あなたの夜明けまでの生存は絶対条件、分かっているでしょう。だからあなたは生きる、私たちはあなたを守る。それ以外の選択肢はないの」
「もういいよ……あんたらも疲れたでしょ。私は死んだって良い。放っておいて」
「分からない子ね。私たちが守ることを差し引いても、あなたは死なない。断言する」
「何で、そんなこと分かるっての……」
 吐き捨てるように問う。答えは酷く迷い無く、シンプルだった。
「あなたは命の尊さを知っている」
 陳腐な言葉。道徳の授業のつもりか。鼻で笑おうとしたけれど、青冴の目は一ミリも笑っていない。何より泣いてこわばった顔では、そんな気の利いた表情はできなかった。
「……これからどうする?」
 黙っていた深紅が口を開いた。廊下の薄暗がりで、赤い目がちかちかと光っている。
「翡翠と道埋がいねーけど、探した方が良くねえか」
「そうね。……見直したわ深紅。真っ先に飛び出さず、冷静でいられるなんて」
「猪俣ちゃんが最優先だろ、分かってる。さすがにそこは間違えねーよ。……そりゃあ、一条見つけたら即行で火葬するけど」
「私が滝壺に叩き込んで圧殺するのと、どっちが早いかしらね。早く競いたいわ」
 静かに一条の殺害計画を重ねた時。ずどん。上から一際重く、くぐもった音がした。天井の素材が粉になって落ちる。どすん、ばごん。音が立て続けに何度も響く中で、軽い足音が近づいてきた。それは階段を下りてきた道埋の足音で、私たちを認めると細い声に焦りを滲ませた。
「翡翠、危ない。僕じゃ助けきれない。来て」
「俺らを一人ずつ潰そうってか? させねーぞ!」
 声を残して、深紅が先行する。青冴も走り出し、道埋とすれ違いざま声をかけた。
「猪俣さんをお願い」
「ん。気をつけて」
 二人が階段を駆け上がって数秒。どばん、ぼごん。上からの音が激しさを増す。ぼんやりとその音を浴びていると道埋が近寄ってきて、私のぼろぼろになった制服の袖を掴んだ。
「移動。突っ立ってると、危ない」
「……坂上が」
 肯定でも否定でも無く、出た言葉は後輩の名だった。自然と図書室に目が行き、それだけでまた涙が出てしまう。坂上を一人で置いていくなんて、寂しい。助けてもらったのに打ち捨てていくような仕打ちは、あんまりだ。
 私の言動から、あるいは坂上がいないことから、道埋も気づいたのだろう。同じように図書室を見やり、そして首を振った。
「一緒には行けない。歩いて」
 道埋の静かな言葉が事実だった。引っ張られ、一歩、二歩と図書室から離れていく。逆らう気も起きず、結局私は道埋の進む方へ、前へ向いた。頬を拭いながら、自分の意志で足を動かす。
 階段は使わず、廊下を進んで教室へ向かった。ここは二階だから、一年生の教室が並んでいる。道埋は窓越しに中を確認しながら歩き、やがて一年五組の教室を選んだ。偶然にも私が一年の時のクラスだけれど、そんなことは教室の選定に一切関係無いんだろう。
 教室は例に漏れず崩壊していた。転がる机や椅子に、散乱した教科書類。壁にも黒板にも罅が入り、電灯が割れ散らばっている床には二人、生死不明の生徒が転がっている。驚くこともない、見慣れて安定感すらある惨状。
 道埋は奥に進み、壁に寄り掛かるひしゃげたロッカーの前で私の袖を離した。見ていると、歪んだロッカーの扉を掴み、思い切り引っ張って開ける。蝶番が吹っ飛んでいったので、「壊した」と言った方が近いか。中に入っていた雑誌や清掃用の箒などを、躊躇無く外に放り投げていくと、ロッカーの中には人間一人入れそうな空間が出来上がった。
「座って」
 道埋はその空間を私に勧める。やっぱり私には断る力が無くて、言われるがままロッカーに収まった。膝を抱えても足が収まらないし、冷たくてお尻から凍っていくようだけれど、立ち止まって座れることはこの上なく嬉しかった。今は動きたくない。動けない。
 道埋は壊したロッカーの扉を、私を隠すように立てかけた。入り口から見えにくくしているのかもしれない。彼自身はすぐ傍の壁に背をつけて、ちょこんと体育座りをした。
 戦闘の音を遠くに聞きながら、しばらくの沈黙。道埋はあまり話をしない印象だし、こっちから話題をひねり出して振る元気も無い。かといって、黙っているとさっきの……坂上のことを思い出してしまう。それを話題にしようものならまた泣いてしまいそうで、口にするのは躊躇われた。何をどうすれば良いのか、全く分からない。
 息を吐きながら視線を落とす。すると、異変に気付いた。膝から下が、黒くなっている。
「……これ」
「悪心の侵食。でも、この程度なら、大丈夫」
 私の吐息のような呟きに、道埋は応えた。
 この侵食が進めば、私も悪心になる。自我を失い、暴れるだけの存在に……。何も考えなくて済むなら、忘れてしまえるなら、悪心になってしまいたいと思う自分がいる。この状況から目を背けて逃げられる、それは魅力的な誘惑だった。
「駄目」
「……え?」
 道埋を見る。静かで、真っ直ぐな目とぶつかる。
「悲しむのも、絶望するのも良い。投げ出すのは、駄目」
「……」
 見つめる瞳の輝きに対して、道埋の服が汚れだらけなことに気づく。カーディガンの至る所に、黒い汚れや裂け目が見受けられるし、血の跡もある。私より小柄で線の細い彼も、戦っているのだと今更ながらに実感する。
 恥ずかしい。いくら異能の使い手とはいえ、私より小さい少年が冷静に振る舞い、私を守ってくれているというのに。私はといえば逃げるしかできず、仲間を失って取り乱し、気力を失くして投げやりになっている。
「……ごめん」
 自己嫌悪は謝意になって零れ落ちた。道埋の目を見ていられなくて、逸らす。
「……悪心が現れたのは一条とあんたたちが原因だ、って言ってたでしょ。でもさ、そもそも悪心は人の、私たちの感情なわけで……他人を、あるいは自分を、妬んだり恨んだり憎んだりする、私たちがそもそもの原因じゃん。この学校の人間が、あんたたちを巻き込んだ、ってことだよね」
 言いながら、自分の言葉に納得する。私たちは、自分が抱えた身勝手な感情のツケを払わされているだけなんだ。思いを抱かなければ、環境が整っていようと悪心は生まれない。つまり自制できない人間への天罰で、私たちは悪心に粛々と殺されて然るべきではないか。
「私たち、本当、どうしようもないな……」
 しかし道埋は首を振った。抱えた膝に顎を置いて、目を細める。
「……ここに介入することを決めたのは、僕。精神の領域で、人間の、どうしようもない感情を見てきた。「救いようがない」って、見捨てても良かった。……それでも反対を押して、来た。僕もまた、身勝手だから、翡翠と深紅と青冴を巻き込んで、ここまで来た。
 ……つまり、人間は、身勝手で良い、よ」
 ぽふん。道埋のカーディガンに包まれた手が、私の頭に載せられた。
「妬んで良い。恨んで良い。憎んで良い。君には、人間には、その権利があるし、僕らがそれを守る」
 その言葉で泣いていた。ぽたぽたと涙が落ちる。道埋は私の頭に置いた手をそっと持ち上げると、袖で涙を拭ってくれた。視界が晴れて、自棄に隠れていた本心が浮かび上がる。
「……死にたくない。でも、生き抜く自信が無い」
「守る。体が壊れても、君だけは絶対」
「清水も川崎も、悪心になった。坂上は死んじゃった。一人は、怖い……」
「坂上は……助けられない。でも、夜が明ければ、悪心は消える。友達は、助かるかもしれない」
「もう、私が生き延びるしかないなんて……重いよ、重すぎるよ……」
 答えは待たず、膝を抱える腕に顔を埋める。体と心の疲労がピークに達していた。腫れて重たい瞼を下ろすと、暗闇に包まれる。戦闘の音も遠い。
 意識の帳がすぐに下りる。


 漆黒の中を走る。誰もいない。私しかいない。身を切る空気に凍えながら、道無き道を走る。
 一つだけ、道標があった。声だ。声が聞こえている。私はその声に向かって走っていた。
 ……どれほど走っただろう。足は棒、息も上がって、辛くて苦しくて泣きそうになる。それでも声を求めて一歩、二歩……しかし十歩もいかず、つまずいて倒れた。起き上がる力はない。もういい。疲れた。止めよう。目を閉じようとする。
 その時。閉じかけた視界に、忽然と彼は現れた。のろのろと見上げた姿は、上半身を赤黒く染めた痛ましい格好。なのに痛みなど微塵も無いかのように、笑って手を差し伸べてくれる。私は躊躇った。首を振った。しかし差し出された手は引っ込まない。
 ……私は結局、手を取った。
 温かい手に引っ張られ、立たされ、背中を押される。振り向くと、もう彼の姿は無かった。
 それで十分だった。


「……」
 夢を見ていた。この緊迫した状況で爆睡したのか、と自分の図太さに呆れる。
「はあ……い、ってて……」
 狭いところに縮こまっていたせいで体は痛いし、疲労はさして回復していないし、足はまだ黒いし、怪我はまだ痛いし、顔なんか泣いたせいでぐしゃぐしゃだろうし……きっと今の私は酷い有様だろう。道埋なんか呆れを通り越して憐れむのではないか……。
「って、あれ?」
 すぐそこに座っていた道埋がいない。教室内を見渡しても姿が無い。
 代わりのように、私の足元に緑色の石が置かれていた。天然石のように艶やかで、自ら輝いているみたい。それに、持っているとなんか安心する。緑といえば翡翠……結界を張れる彼の、護りの能力を連想させた。悪いもののような気はしないので、制服のポケットに滑り込ませる。
 道埋の不在と並んでもう一つ気になるのが、静かすぎること。大小問わず響いていた戦闘の音が、今は一切聞こえない。悪心を殲滅した結果ならありがたいけど、戦っている様子がないのに道埋がここにいないのは、変じゃないか。状況はどうなっているんだろう。
「自分で調べるしかない……よね」
 無断で動くのは良くないかもしれないが、近くの教室を覗くだけなら大丈夫だろう。
 立ち上がり、暗い教室を見渡した。ばらまかれた破壊の痕跡は、「悪心に襲われ命の危機に瀕している」という事実を嫌でも再認識させる。しかも私が、勝利条件を満たせる最後の一人。絶望的な現実。
 さっきまでは責任の重さを嘆いていたのに、今の私は生き延びることに前向きになりつつあった。まだ少しは「どうにでもなれ」と捨て鉢な気持ちが残っている。でありながら、立ち上がり進もうとする意欲が湧いているのは、きっと夢のせい……いや、夢のおかげだ。
「……」
 夢で確かに触れた温もり。悲しいけれど、自分を責めもするけれど。坂上が守ってくれた命を自ら投げ捨てるのは、違う気がした。もう少しくらい、たった一人でも悪心に抗ってやる。あわよくば生き延びて、悪心のいない日常を取り返してやる。そんな決意を抱けていた。いなくなっても助けてくれるなんて、つくづく出来た後輩じゃないか。
 廊下に顔を出してみる。右、左と何もいないのを確認して、教室を出た。暗くて静かで、うすら寒い廊下はかなり不気味。各所に刻まれた戦闘の跡が、余計なホラー感を演出している。
「あー、嫌だ。夏休みのお化け屋敷以来だよ、こんなの。襲われたくないな……いや、むしろ襲われたらあいつらが助けにきて、合流できるかも……でもなぁ……」
 誰もいないのを良いことに、独り言を遠慮無く呟いて鼓舞しながら進む。
 細心の注意を払いながら隣の教室と、さらに隣の資料室を確認してみる。どちらもしっちゃかめっちゃかだけど、意識の無い……だけだと思いたい幾人かが転がっている以外は、さしたる情報は無さそうだった。現状把握という目標には程遠い成果である。
「……仕方無い。別の階、行ってみようか」
 元いた教室に戻って待機、も考えたけれど、やはり四人の行方が気になるので、探索を続行することにした。見つからないのは不安だけど、「死んだんじゃ」なんて弱気な妄想は脳内で速攻否定。私が生き延びるために頼れるのはあいつらだけ、信じないでどうするんだって話。身動きが取れなくなって私の救助を待ってる、なんて可能性もあるしね。
 廊下を進み、階段へ。完全なる勘で、下に行ってみることにした。
 三年も通って見慣れた校舎のはずなのに、まるで地獄に向かうような気分だ。誰か他の人がいてくれれば、お化け屋敷程度の怖さに留まったのだろうけれど、生憎一人なのでそうもいかない。ホラー得意じゃないんだよ。悪心に出くわさないのはありがたいけど、一切の気配が無い静寂というのも、それはそれで怖い。
 到着した一階も、暗くて肌寒い。外が白み始めているのか、明かりが必須というほどの暗さではないけれど、寒いのはどうしようもない。首を縮めて寒気に抵抗する。
 特に良い案が思いつかないので、歩き回って手当たり次第探索してみた。使い慣れた特別教室、教師の秘密渦巻く教員室、なかなか入れない管理人室……しかし、いるのは意識無く倒れた人たちだけで、意思疎通可能な生者は見当たらない。
 残る教室も少なくなってきたところで、生徒玄関を見に行く。
 ガラス扉の向こうには、いつもの校門の風景が広がっていた。「開かない」って聞いたけど物は試し、扉に手をかけて引っ張る。がたん、がたがたがた。音が無闇に反響するばかりで、開く気配は確かに無い。
 見回すと、来客用の傘立てを見つけた。金属製だし適度に重そう……あれをぶつければガラス、割れるのでは……いや、やめよう。いくら非現実的で命のかかった状況とはいえ、不良もかくやの暴れ方はちょっと躊躇う。そもそも私の目的は四人の捜索だし、「夜明けまで生き延びる」という脱出方法がきちんと存在するのだし。
 扉を離れてざっと調べたけれど、四人の足跡は見当たらない。もう玄関でできることはないだろう。次はどこに行こうか……と、踵を返した時。
 ずる、ずる、ずる。
 かすかな物音に、足が止まる。ずる、ずる、べた、ずる。何か、重たいものを引きずる音だ。私が降りてきた階段の方から、近づいてきている。ずる、べた、ずる、ずる、べた。
「……っ」
 それが何であるか、考えるよりも先に体は動いた。震える足を、音を立てないように下がらせる。廊下からは死角になる、靴箱の側面に体を押し付けて隠れた。深呼吸をしてから、目を閉じて聴覚に意識を集中する。
 ずる、ずる、べた、ずる、べた。引きずる音だけじゃない、素足で歩くような音も重なっている。これ、あの四人が出す音じゃない。絶対悪心だ。見つかったら……死ぬ。歯が細かく震えてぶつかる音にも敏感になって、口元を手で押さえつけた。指の隙間から、細く呼吸する。大丈夫、静かにしていればバレない。多分。絶対。そうであれ。
 ずる、べた、べた、ずる、ずる。音はすぐそこに迫っている。心拍数が一気に上がる。うるさい。空いている手で胸も押さえる。怖い。何でこんなピンチの時に、あいつらは来ないのよ。「守る」って言ってたくせに。……怒れども、あいつらが来る気配は無かった。
 ずる、ずる、べた。すぐそこで音が止まった。最早祈るしかできない。強く閉じた瞼から涙が滲んだ。来ないで。来るな。早くどっか行け。消えて。お願いだから。
「……」
 ……ずる、ずる、ずる。
 音が遠のいていく。靴箱や玄関の方には曲がらず、廊下を突き進んでいくようだ。良かった……気づかれていなかったんだ。
 でも、奴がこちらに戻ってこないとも限らない。隙を窺って、上階に逃げた方が良いだろう。
 極度の緊張と口部、胸部の圧迫で呼吸が浅くなっていたのか、息苦しい。予断は許さないけれど直近の危機は去った。口を押さえていた手を少し浮かせて、深呼吸をする。
 ぎいっ。
「っ!? 嘘でしょ……!」
 驚いた時には遅い。体重をかけていた靴箱が、深呼吸の際に軋んでしまった。静かな廊下に音が広がるのを、止めることはできない。
 ずる、ずる……べた、べた、ずる、ずるずる。靴箱の陰から飛び出してしまった私は、猛スピードで戻って来たそれの眼前に晒されることになる。
 天井に頭を擦りそうなほど大きな芋虫から、赤ちゃんのようにむくんだ足が生えた形。短足なので尾を引きずっている、巨大な、壁のような……悪心。
「ぁ、あ……」
 声は言葉にならない。どうしよう、助けて、誰か。細切れの思考だけが頭で渦巻く。
 ずる、べた、べたべたべたべたっ。行動は悪心の方が早かった。足を気味悪く動かして、音を引きながら突進してくる。これを無抵抗で受けた場合の私の末路を、脳が勝手に予想し始めた。よくて全身打撲、悪くて複雑骨折とか内臓破裂とか。第三者の助けが望めない状況で、絶望的なダメージなのは明白だ。
 死は明確な形をとって迫る。このまま……受け入れるしかないの……?
「い、嫌だっ!!」
 声を上げると、固まっていた体が解けた。靴箱に飛びついて目一杯身を寄せると、急な方向転換ができなかった悪心が、私がいた空間を突き抜けていった。びたんっ。その先にあるのが外へ繋がる扉なのだが、悪心の突撃をもってしてもびくともしない。攻撃を避けられた安堵と、人外の攻撃でも扉が開かない落胆が同時に訪れた。
 扉に張り付く形になった悪心が、次の突進方向を慎重に推し測っている。目がなくとも私を知覚して、狙っているのが分かった。どうしよう。次の突進も避け切れる保証は無い。もっと確実な方法で応戦、せめて足止めをして逃げる時間を稼げないか。方法は……探せ、探せ。
「あっ、これで……!」
 彷徨わせた視線の先に、先ほど扉を壊すために目をつけた、来客用傘立てがあった。迷っている暇は無い。金属製のフレームを掴む。
「おらあっ!!」
 迷わずぶん投げた。あれだけでかい的なら外さない。傘立てが手から離れた瞬間に、踵を返して走り出す。
 どかっ、がしゃん。傘立てがぶつかり落ちる音を背中に聞く。ばがん。続けて破壊音が聞こえた。悪心が暴れたんだろうけれど、確認する数秒すら惜しい。途中、チラシやパンフレットが置かれたテーブルも引き倒した。少しでも邪魔になれば良い。
 べたべたべたべたっ。悪心が動き出す。巨体のくせに足音の間隔が速く、すぐに追いつかれそうだ。廊下の角を曲がって、一度やり過ごそう。玄関で襲ってきた時も、急な方向転換ができていなかった。この直線の勢いのままで、直角には曲がれまい。
 と、踏んだのに。悪心は先ほどの失敗を生かしていた。私を追って廊下を曲がったところで、急激なブレーキをかけて方向転換をしたのだ。ばがん。慣性に振り回された巨体が電灯を破壊し、壁に穴を開ける。直撃こそしなかったけれど、間の悪いことに音にびびって足がもつれてしまった。尻餅をついて、逃げられる僅かなチャンスを逃す。
 見上げる悪心との距離はわずか三メートルほど。足が震えて立てない。這って逃げることもままならない。絶望するには十二分。
「……まだ。まだ、死なないし……!」
 それでも、生き延びたい。弛緩しそうな体を、諦めそうな心を抑え込む。目には強く意志をたぎらせ、逸らさない。悪心の巨体が、私の上に覆いかぶさった。
 押し潰される。
「……ん?」
 と、思ってから数秒。私の体には痛み一つ襲ってこない。
 そっと目を開けてみる。眼前の悪心は、私を押し潰そうとした、その瞬間の姿で固まっていた。止まるはずのない角度で静止した姿は、作り物のようである。
「え? あ、あれ?」
 戸惑いながらも、とりあえず悪心の下から逃れる。目の前で獲物が逃げているのに、悪心は動く気配が全く無い。もしかして、あの四人のスペシャルな力だろうか? こんなぎりぎりで助けに来るなんて遅すぎ、と悪態を吐こうとしたが、そうではなかった。
 悪心が落とす影の下から逃れ、距離を置いて見ることで、やっと気づいた。悪心が光を浴びているのだ。薄暗い中で真横から悪心を照らす光は橙みがかって、まるでスポットライトのよう……などと考えていると、悪心が煙になって溶け始めた。呆然としながら見ていると、やがて煙の中から背広姿の男、おそらく教師が現れて、廊下にぶっ倒れた。煙となった悪心の粒子もまた光を受けて、灰が尽きるように消えてしまう。
 何が、何故、起こったのか分からない。でも悪心が消えたってことは、命は助かったってことで、良いんだよね……? 危機が去ったことを理解すると、体からどっと力が抜けた。深く息を吐いて、安堵する。生きた心地がしなかった。乗り切れて良かった。
 ふと、青冴の言葉を思い出す。自分の手のひらを見下ろした。
「これが「命の尊さ」ってやつ、だったりするのかな……」
 死ぬかもしれない恐怖。それでも生き延びた安堵。死の恐怖に触れて尚生きたいという意志、生きている実感をそう呼ぶのなら。うん、確かに私はそれを知っていた。結果論かもしれないけれど、私の姿をした悪心と対峙した時から今まで何度も助けられてきた私が、勝手に自分の命を諦めるなんてこと、やっぱりできなかったんだ。「私たちが守ることを差し引いても、あなたは死なない」だっけ。青冴の言う通りじゃん。
 ……それにしても、本当にあの四人に会えないな。私が死んだら困るのだろうに。まあ悪心は光に当たって溶けたから、結果オーライだけど……ん? 光?
 手のひらから顔を上げる。倒れた教師に光は細く、柔らかく当たっていた。発生源は真横、ちょうど玄関から。
 ちょっと待ってよ。それって、つまり。もしかして。
 急いで玄関に駆け込む。外が明るい。
 夜が、明けたってことだ。
「や、やった……」
 悪心が光に当たって溶け消えたのは、タイムリミットが来たからだと考えれば納得がいく。つまり、悪趣味な鬼ごっこはこれで終わりだ。悪心は消えて、普段通りの日常に戻れるんだ。
「……いや、本当にこれで終わりだよね? 勝ったんだよね……?」
 困った。喜ぶところなんだろうけど、正直実感がわかない。悪心の脅威が、正常な日常を完全に上書きしてしまっているのだろう。というか、アナウンス無いから本当に終わったのかも怪しい。四人がいてくれれば、状況確認から喜びの分かち合いまでできたのにな。いや、とりあえず悪心は消えているんだから、この鬼ごっこは私の勝利で良いんでしょう。
 悪心がいなくなっても、やっぱり気になるのは四人の安否だ。校内が安全になったのだから、大手を振って探そう。万が一に備えて注意は怠らないようにしつつ、早足で教室を見回る。一階にはいないようなので二階へ。
 二階には図書室がある。あの時は深紅に入室を止められたけれど、今なら私の感情がどう振れようと影響は無い。それでも少しためらいながら、図書室に入った。
 血の飛び散った部屋の中心、机を退けた床に、坂上はいた。血塗れの凄惨な姿でありながら、誰かによって丁寧に拭われた顔は眠っているように穏やかだ。どれほどの苦痛だったかなんて想像もできないけれど、最期にこんな顔でいられたのなら、少しだけ救われる。
「……本当にありがとう、坂上」
 できたら一緒に朝日を見たかった。叶わない希望は胸にしまって、図書室を後にする。
 四人探しを再開する。二階を見回ったあと三階、さらに四階へ。声をかけながらあらゆる教室の扉を片っ端から遠慮無く開け放ち、倒れた机も棚もロッカーもひっくり返す。そこまでしても、出てくるのは意識の無い生徒教師の面々だけで、四人がどこにもいない。
「あいつら本当、どこ行ったっての? これじゃまるで……」
 悪心と同じように、消えてしまったみたいじゃないか。悪心が日常における異物だったなら、それを打ち払う彼らもまた、異物だったとでも言うのだろうか。私にとってはそんなこと無いし、感謝くらいちゃんと伝えたいのに。
 そういえば、騒動の元凶たる一条の姿も見当たらない。会いたくないのでいなくていいのだけれど、前みたいに校内放送してくれれば、状況は把握できるのに。奴は四人の消失にも関係があるのだろうか。「ラスボス」とか言って対峙しなきゃいけなくなったらすごく嫌、悪心以上に勝てる気がしない。
 せっかく万事解決が近づいたのに、気分は上がらない。とぼとぼ最後の階段を上り、屋上の扉に迎えられた。最後の探索場所だけれど、扉には鍵がかかっている。職員室で鍵を取ってこられれば良かったのだけれど、悪心の暴走あるいは四人による戦闘の結果だろう、鍵を収められていた棚が壊れており、鍵そのものも四方八方に散らばっていた為、探すのを諦めていた。
 それでも屋上探索を諦めなかったのには、当然理由がある。川崎から聞いた噂を思い出したのだ。屋上の扉は補修が後回しになっているため、校舎の中でもとりわけ古い。だから、鍵がなくても細いものを鍵穴に突っ込んでちょちょいとやれば、大したテクニックが無くてもあっさり開くらしい。ピッキング紛いの行為はそれなりに横行しており、屋上を遊び場にしている生徒が何人もいるんだとか。これを試さない手はない。無理なら素直に諦めて、鍵を探すなり屋上が見える窓を探すなりすれば良いだけだ。
 ポケットから前髪を留める為のピンを取り出す。U字のそれを真っ直ぐに伸ばして、遠慮なく鍵穴に突っ込んだ。
 がちがち、かちかちかち。……がちゃん。ほんの十秒ほどで、手応えと鍵の開く音。ピンを抜いて、扉を開け放った。
「……はあー……」
 第一印象は、広い。建物内に二日間も囚われていた事実が身に沁みる。
 ゆったりと呼吸をして、空気を味わった。閉鎖された学校の淀んだ空気とは、段違いに新鮮で美味しい。少し冷たい風も心地良い。明け方の空は複雑な色をしていて、悪心による暴虐とは別の意味で非現実的だ。
 ゆっくり歩きながら、屋上全体を見渡す。最後の捜索場所なのに、四人はやはり見つけられなかった。ここにもいないなんて、本当に消えてしまったみたいだ。ああ、でも……柵の向こうに広がる慣れ親しんだ町並みを見ていると、悪心だの何だのが夢のように思えてくる。悪心も、悪心に対抗する四人も、存在しないことが普通だった気がする。
 遠くに見える山の奥から、強い光が漏れ出ていた。あそこにいるだろう太陽が姿を表したら、完全な夜明け。私の、私たちの勝利。悪心は途絶え、死の恐怖は駆逐される。柵にかけた手に力が入る。
 もうすぐだ。もうすぐで。
「悪心との鬼ごっこ、お疲れさま」
 私のすぐ後ろで聞こえた。体が触れているんじゃないかってくらい近く、耳元で。
 朗らかな、一条の声が。
 威圧感も恐怖感も無い、むしろ友好的な声色なのに、その声を聞いただけで私の体は硬直した。その存在を認めたくない。信じたくない。だってもうすぐで勝ち切れるのに。助けの無い中、たった一人で全ての元凶と渡り合わなきゃいけなくなるなんて。浅くなる呼吸と震え始める体を押し殺して、黙した。
「君の、いや君たちの奮闘に敬意を表して、勝利を認めるよ。おめでとう」
 心の底から祝福しているような声。きっと顔には爽やかな笑顔が浮かんでいるのだろう。でも、それを確認したいと思えるような精神的余裕は無い。
 輝きを増す太陽光を受けながら、私は必死に考える。ここから逃げる方法、一条を退ける方法を。武器は無い。一介の女子高生の腕力では、突き飛ばすくらいはできるだろうけど、相手は荒唐無稽な戦力を持つ深紅たちをもってして「強い」と言わしめた男。生半可な攻撃など通用しないだろう。むしろ、下手な反抗をしようものなら、数倍の返り討ちに遭う結末が容易に想像できる。
「僕はもうすぐここを去るよ。でもせっかくだから、最後にもう一つだけゲームをしない?」
「……ゲーム?」
 唇が震えて、囁くような声しか出なかった。
「そう構えないで。僕と君の一対一、勝率は五分五分。魔術も武力も不要の、非常にシンプルなゲームだよ」
 そのゲームに勝てば、真実勝利を、生存権を手にするというわけ? そんなの……いや、私に拒否権は無いのだ。この場で主導権を握っているのは一条であり、私は彼に従う以外の生存方法なんて無い。未だに都合良く四人の助けを期待している自分がいるけれど、いない奴らをいつまでも頼ってはいられなかった。
 怖い。やっと勝てると思ったのに、今度こそ死ぬかもしれない。けど……やるしかない。私が、どうにかしなきゃいけないんだ。やるんだ。さっきは一人で悪心から逃げ切れた。運でも奇跡でも何でも良い、今回も同じように、やってやろうじゃん。
 声が震えないように、怖れを気取られないように、腹に力を入れた。
「……いいよ。ゲームの内容は何?」
 そんな私の背に、指が触れた。
「運試しだ。生きていられたら、君の勝ちだよ」
 と、思った時には。
 とんっ。
「……え?」
 体がつんのめって、足が浮き、体がバランスを失った。「強烈な力で押された」と認識した時には、体が柵を超えていた。「運試しってどういうこと」と思った時には、眼下に木と花壇と土があった。「ああ、そういうことか」と思った時には。
 私は輝かしい朝日を浴びながら、屋上から突き落とされていた。


 ぐしゃっ。


 ある日。
 目が覚めると、病院だった。真っ白な天井、清潔なベッドを囲うカーテン、独特の匂い。それらを微睡みの中で感じているうちに、ここは病院だと気付いた。少し首を動かすと、枕元にいた母が私の覚醒に気付いて、途端目に涙を浮かべながらナースを呼ぶ。毎日見ている母の顔なのに、懐かしく感じるのは何故?
 あっという間にナースや医師がやってきた。簡単な触診をしながら、様々な質問をしてくる。「名前は」「今日は何日か」「ここはどこか」「気分は」「体の調子は」「どうしてここにいるか分かるか」……矢継ぎ早の質問に答えようとして、咳き込む。喉がからからだった。母がペットボトルを差し出してくれたので、ありがたく受け取ろうとした時に気づく。布団から出した腕が、包帯でぐるぐる巻きになっているのだ。驚いて、思わず腕を引っ込めてしまう。
 おかしいのは喉と腕だけじゃなかった。体のあらゆるところに包帯が巻かれていて、片足にはギプスがはまっている状態だったのだ。何これ? どうして? 思い出そうとしても関連する記憶は無く、それもまた混乱を誘った。病院にいるのはこの怪我が原因だろう、という推測が精一杯で、怪我の原因には思い当たる節が全くなかった。
 母がペットボトルを開けて口元に添えてくれる。数口飲んで喉を潤すけれど、それでも発音に手間取った。掠れた声で何とか質問に答えた上で、こちらからも質問する。
「私、何が、あったの?」
 医師とナース、母が顔を見合わせた。低い声で何事かを相談して、それから全員が私を見る。「猪俣さん、落ち着いて聞いてくださいね」と医師が断った上で、母が説明を始めた。
 曰く。私の学校に暴漢が複数人押し入って、学校を占拠した。当然大騒ぎになって、警察や特殊機動部隊も出張る大事件へと発展。暴漢らは生徒教師を人質に丸一日籠城して、最後には全員逮捕。しかし学校内は、暴漢らが持ち込んだ爆発物や鈍器による破壊行動で酷い有様になり、暴行による死傷者も多数出た。
 私はそんな大事件の被害者の一人。ただ、犯人による暴行が主な原因とされる他の死傷者とは異なる。逃げ回った末追い詰められ、屋上から自ら飛び降りた、と推測されるそうだ。普通そんなことをしたら死ぬけれど、木に引っかかって落下の勢いが弱まったこと、下が柔らかい土だったこと、落下時ぶつけた箇所が生命に直結していなかったことなどの要素が絡まり、奇跡的に一命を取り留めたらしい。話しながら、母は涙を拭う。
 説明を受けた感想としては「はあ、なるほど」という程度。母に心配をかけたのは申し訳無いと思うけれど、その大事件の記憶がすっぽりと抜けているので、実感がわかないのだ。暴漢、占拠、暴行、死傷……どれも縁が無さすぎて、ぴんとこない。
 医師はそんな私の淡白さに気づいたようで、「身体的、精神的なショックで記憶が混濁する可能性は十分ある、記憶が今後戻るかどうかは現段階では分からない」と静かに言った。「だが目覚めたことは素直に喜ばしいことだ」と続ける。確かに。昏睡状態が続くよりは、記憶が曖昧でも意識を持って活動できる方がいい。幸い抜けているのは事件の記憶だけで、それ以前の記憶ははっきりしているし。
 目覚めたばかりなので、今日は安静。詳しい診察や検査については、明日以降やっていくことになった。医師とナースはスケジュールを話し合いながら退室していく。
 母も「関係各所に連絡する」と席を立つ。その動きを目で追っていると、サイドテーブルにハンカチに包まれた何かが置かれていることに気付いた。首を伸ばして見ようとすると、母が戻ってきて中身を見せてくれる。
 緑色の欠片。天然石を思わせるそれが、白いハンカチの上にいくつか転がっている。「病院に運び込まれ、着替えた際に制服から出てきた」と母が説明してくれた。放っておいたら失くしてしまいそうだったので、丁寧に回収しておいたらしい。しかし、私にはこの石の記憶も無かった。ってことは、事件の間に手に入れたのかな。「この石がお守りになってくれたから、怪我で済んだのかもね」と呟いて、母が病室から出て行く。うーん、そういうことにしておくか。石が身代わりになってくれたとか、なかなか良い話じゃん。
 一人になった私は、痛みとギプスで寝返りもまともにできないので、ぼんやりと天井を見上げながら記憶を辿ろうとした。けれど、思い出せない苛立ちと飽きを感じ始めたので、諦めて目を閉じる。


 夜の学校。ぐちゃぐちゃの教室の奥、ひしゃげたロッカーの中にうずくまっている。何をしているんだっけ? ぼんやりと、何かから逃げなければならないことは感じている。
 がらっ。扉が開く音に顔を上げると、小柄な少年が入ってきた。全身見るに堪えない怪我だらけなのに、しっかりした足取りで近づいてくる。誰だか分からない、けれど逃げるべきだとは思わなかった。
 少年は私を手招いた。逆らわずに、立ち上がって彼の元へ向かう。教室を出て行く足を追って、廊下に一歩踏み出した。
 すると、廊下の景色が丸ごと回転して、吹き飛んで、一気に明るくなった。暗さに慣れた目には眩しくて、咄嗟に目を閉じる。
 そこに、少年の小さな声が届いた。
「ごめん、ね。最後まで、守れなくて」
「……いい、いいよそんなの。守られてばっかりだったんだから、あれくらい当然でしょ」
 記憶は無いのに、少年が誰かも分からないのに、口が滑らかに動く。何を言っているんだろう。でもこの言葉は、私の本心から生じるものだと感じた。
「君は勝って、悪心は消えて、一条は去った。認識介入で、何も分からないと思う、けど……伝えたかった」
 分からない。理解ができない。でも訊き返す間もなく、優しい声で。
「ありがとう。さよなら」
「ま、待って……!!」
 私は手を伸ばした。白い光の中、少年の姿を探す。私からも言いたいことがある気がした。でも、何を伝えたいんだっけ……?


 目を開ける。母が戻ってきていて、「また意識を無くしたのかとびっくりした」とおどけて言った。
「ちょっと寝てただけだよ。夢を見てた」
 「どんな夢?」と質問される。瞬きを二度、三度。
「……はは。覚えてないや」




 その後。
 数ヶ月に及ぶ治療とリハビリを乗り越え、退院した私を待っていたのは、マスコミ。日本中の注目を集めた大事件の被害者として、しばらく付きまとわれることになった。けれど、それも時間が経つと落ち着いていき、半年も経てば事件前の日常に戻っていた。
 通っていた高校は取り壊されることが決定した。私は別の高校に転入し、勉学に励むことになる。入院していた期間の遅れに加えて、今まで遊んでいたツケもあって困難を極めたけれど、何とか卒業し、晴れて大学生になった。
 大学では、音信不通となっていた清水と偶然の再会を果たし、そこから川崎ともつながりを取り戻した。二人とも相変わらず、勉学そっちのけで遊びまわっているようだけれど、私は二人とのうまい付き合い方を覚えて、遊びと勉学のバランスを保つようにしている。そのため「単位がヤバイ」と二人に泣きつかれることもあるけれど、その度に開く勉強会も楽しかった。
 色々大変なことはあったし、今もあるのだけれど、ちゃんと楽しんだり悲しんだりして、生きている。たまに、それを誰かに感謝したくなる時がある。家族とか、友達とか、あるいは他の誰かとか。記憶が無いとはいえ、死にそうな経験をしたからかな? 素直に口に出すと大変恥ずかしいので、実際に言ったりはしないけど。
 私が平穏に生きていること。それってすごく、奇跡のような気がするから。
 ありがとう。




 END.

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