2021年11月12日金曜日

【創作小説】タイカンオンド02

 


ある日。精神の領域に興味を持った。感情、心、思考……不確定なモノ。僕を含め、人間の誰もが内包しながらも触れることが叶わない場所。人類が足を浸す広大な海。

僕が人間である限り、それを認識することはできない。この肉体が邪魔だから。形有るものは形無いものに触れられない。けれど興味は尽きなかった。

いかにして精神の次元に肉薄するか。考えた末、一つの可能性に辿り着いた。

僕がそちらに行けないなら、精神をこちらに呼べばいい。偶像を崇めて神を貶めるように、高次の精神を三次元に引き摺り下ろす。僕の興味はその先へ向かった。

精神が、心が形を持ったとき。人間は、世界は、どんな風に変化するのか。どんな風に……。

僕は、実験することにした。(全4話)


学校にいると、人が黒く見えるようになった。



 ある日。
 学校にいると、人が黒く見えるようになった。同級生、先輩、後輩、先生……あらゆる人間の肌が、黒いインクを零したように見えるのだ。人によってその場所や面積はまちまちだけれど、俺は学校で出会うほとんどの人間に、その黒い模様を見つけていた。
 最初は寝ぼけているとか、光の具合でそう見えるものかな、と気楽に考えていたが、何日経っても朝夕構わずそれは見える。次に疑ったのは視力の低下だけれど、顔が見えなくなるほどの黒い模様も、一歩学校を出ると嘘のように消えてしまうのである。こうなると目の問題ではなく、精神的な問題では……と考えて、医療機関に行くべきか悩んでいる。
 悩みながらも、平生を装って学校生活を送っていた。




 週明け。放課後。
 俺の目の前には女子生徒がいる。三年生、先輩だ。ネイルつやつや、アクセじゃらじゃら、メイクばっちりの立派なイケイケギャルである。残念ながら厚化粧のせいで、俺の好みからはだいぶ逸れ……いや、そこはどうでもいい。要するに、この学校ヒエラルキーにおいて頂点でも下底でもない俺が、おおよそ関わる可能性のないタイプの女性である。
「ま、待ってください、先輩……」
 そんなイケイケギャル先輩に対して、なぜ俺が積極的に関わろうとしているかというと。
「待ってくださいってばその傘捨ててくださいこっちこないで!!」
 先輩が、俺に向かって可愛いストライプの傘を振り回しながら、追いかけてくるからである!!
 どういうこと!? 俺、何で知らない先輩に追いかけられてんの!? しかも振り回している傘は細身で、当然その先端も細く、その辺のビニール傘とは比べものにならない鋭さ。刺されれば怪我するのは必至だ。当たりどころが悪ければ……死ぬ? 殺される!?
「先輩! 先輩!? よく分かりませんが落ち着いて!!」
 どれだけ静止を叫んでも、反応ゼロ。言葉が通じない以上、俺は逃げるのみ。肩で揺れる荷物が重くて鬱陶しい。そして先輩の足がめっちゃ速い。ギャルすごい。
 今駆け抜けているのは廊下だ。このまま直線を走っていては追いつかれる。何か足止めをする方法は、と考え、手近な教室に飛び込んだ。扉の裏側に回って、肩の荷物を降ろす。課題のための辞書を詰め込んだ、最高に重いリュック……鈍器として、申し分ない。
 先輩の足音が近づき、教室に飛び込んできたところを。
「すんませんっ!!」
 ばごん。重いリュックでフルスイング。リュックは先輩の背中に当たり、小柄な体が面白いように吹っ飛んだ。さらに机の角に顔をぶつけて、倒れる。……せ、正当防衛、だよな……?
「あ、あの、先輩……?」
 万が一があっては怖いので、恐る恐る近づきながら声をかける。先輩は腕を動かしているので、死んではいない。自分が彼女に襲われていたことを一旦置いて、安堵する。
「えーと……先輩、落ち着いて話をしませんか? というか、教えてくれませんか? 俺、先輩に何か恨まれることしましたか? 人違いとかじゃないですかね?」
 机の足を掴んで、よろよろ立ち上がる先輩。その足元に、血が落ちていた。額を割ったか、鼻血でも出したのか。申し訳ないけれど、俺の言い分も聞いてほしい。
「もし俺が悪いことをしたなら、きちんと謝りますから……暴力に訴える前に、話し合いで解決できることは、すべきだと思うんで……、っ!」
 顔を上げた先輩の目を見た瞬間に分かった。あれはまともな目ではない。何かに取り憑かれたような虚空。
 先輩は顔を垂れ落ちる血もそのままに、床に転がった傘に手を伸ばし、掴んだ。ぎりっ。傘の骨が軋む音に戦慄する。話が通じない。相手をしてはいけない。助けを求めなければ。誰か……そうだ、一階。降りて、まだ残っているはずの先生に、助けを、頼むしか。
 リュックを捨て、教室を飛び出す。そういえば、廊下を走る間に生徒を見かけない。今日は部活動もあるのに、なぜこんなに人がいないのだろう。
 階段を駆け下りる。先輩が追いついてきていた。踊り場を曲がる際に見えた姿は、いつか見たホラー映画のゾンビを彷彿とさせる。グロテスクなわけではないけれど、血を流し虚空に視線を彷徨わせながら、武器を手に一直線に向かってくる様は、恐怖を感じずにはいられない。
 逃げたい。その一心で、階段の手すりに飛びついて滑り下りた。一段ずつ駆け下りるよりよっぽど速い。踊り場に着き、そのまま手すりを掴んで片足を軸に半回転。眼下に一階の床が見えた。最後の長い手すりに向かって、手を伸ばす。
 ぼきっ。
「っ、え」
 途端、背中に衝撃。息が詰まる。前につんのめって足が浮く。衝撃でぶれた手は、掴む場所を見つけられない。
 無様に空を切る指の隙間から、先刻まで自分が足をつけていた踊り場が見えた。そこには、額から血を流す先輩。折れたビニール傘。それを握るのは、黒い腕。
 俺の体は景気よく浮遊し、気前よく落下する。ああ、駄目だこれ。
 目を閉じた。

 ……どふっ。

「ぐえっ」
 腹部への圧迫感。無視できない衝撃に目を開ける。
 下りる……否、落ちるはずだった階段を、今の俺は上っていた。それを後ろ向きに見ている。つまり、一階の床が遠のいていくのだ。
 それはどうやら、俺を抱えている誰かによって為されているらしい。
「だ、誰だ!?」
「ちょっと黙っててねー。あと動かないで、重い」
 理解が追いつかずじたばたもがくと、軽薄そうな男の声が投げられた。言い返すより早く、だんっ。高く足音が鳴る。視界の上下が止まった。
「逃げるな、よっ!」
 どごっ。がたん。どたん。背後で連続する謎の音。それが収まると、俺を抱える腕の力が緩んだ。体がずり落ちて足、次いで膝が床につく。這いつくばるような体勢で、恐る恐る後ろを見た。
 踊り場に、ギャル先輩が倒れている。腕は黒くなく、元の肌色に戻っていた。すぐ横に折れた傘……見ていると、背中の痛みがぶり返してくる。先輩は微動だにせずぐったりとしていて、見た目だけでは安否が分からない。死んではいない、と、信じたい。
 次の問題に意識を向ける。この踊り場にいる、俺と先輩以外の人間……青ジャージの男。推測するに、彼が俺を落下から救い、先輩の凶行からも救ってくれた、平たく言って命の恩人だろう。しかし……青ジャージに水色の髪、青い目と特徴的な色合いなのに、全く見覚えがない。誰だ? 校内にこんな奴がいたら、一日で噂になりそうなんだけどな。
 俺の視線に気づいて、青ジャージはにこりと笑った。爽やかな笑顔。
「無事? 通りかかったら階段飛び下りてたから、咄嗟に手を出しちゃったけど」
「飛び下りたんじゃなくて、傘で殴られて落とされたんだ……」
 腹に力が入らなくて、弱々しい発声になってしまう。けれど廊下は静かなので、か弱い声でもよく響いた。
「なるほど、傘が折れてるのってそういうわけ。あー、怪我はない?」
 視界が薄らぐ。少しずつ、傾いでいく。恐怖が去って安心したのだろうか。
「ない……」
 呟いた瞬間、瞼が視覚による情報供給を強制終了。脳もシャットダウン。体から力が抜ける。あれ、体が傾いた先って、階段……また落ちる……いや、もう止められない。
「えっ? ちょ、おーい!」


 視界に天井が広がっていた。仕切りのカーテンに囲まれている……保健室のベッドに寝ているのか。滅多に世話にならないけど、やっぱ良い。学校で寝るという背徳感と、公共の場に生成されるパーソナルスペースの安心感。うんうん、これくらいの非日常が丁度良い。見ず知らずの先輩に追いかけ回され、階段から叩き落とされるようなアグレッシブな非日常はお呼びじゃない。
 …………。
「はあっ!? い、ててて……」
 飛び起きた。途端、背中に激痛。痛い場所を触ってみると、湿布が貼ってあった。いつの間に? そもそも何で保健室に? 青ジャージが運んでくれたのか?
 しゃっ。ベッドを仕切るカーテンが開かれる音に、顔を上げる。
「……」
「……」
 カーテンの隙間から、華奢で背の低い少年が覗いていた。明るい茶色の髪に、房のついた髪飾り。白黒ボーダーのカーディガンは、絶対サイズが合っていない。大きすぎて、カーテンを握っている手元が全く見えていない。
 見つめ合うこと数秒、茶髪が先に目を逸らした。カーテンの向こう側に声を掛ける。
「青冴、坂上起きた」
「お、マジ?」
「まじ」
 向こうから聞こえた声は青ジャージだ。軽い口調もそれっぽい。より大きく開いたカーテンから、やっぱり青ジャージが顔を出した。
「おはよう、坂上君。気分はどう?」
「気分……えーと、痛いとこはあるけど。気持ち悪いとかは特に」
「そう。ったく、運ぶ手間考えて気絶してよね。二人も担ぐの大変だったんだから」
「二人……ってそうか、あの先輩は? どうなった?」
 訊くと、青ジャージはカーテンの向こうに消えてしまった。がたがたと音がして、持ってきたのはパイプ椅子。乱暴にそれを開くと、彼は俺の枕元に座った。
「死んだ」
「……は?」
「嘘だよ。彼女の悪心自体はそんなに強くなかったからね、素手で対処できたよ。今頃君への傷害沙汰も綺麗さっぱり忘れて帰宅、テレビ見ながらおやつ食べてんじゃない?」
「……あ? い、生きてるの、か?」
 言っていることがよく分からず、また一発目の嘘で完全に信用できなくなった。もう一度確認すると、青ジャージは笑顔はそのまま、面倒くさそうに数度頷く。
「生きてる生きてる。殺されかけておいて相手の心配をするとは、余裕だね」
 それはそうだけど、俺は結果的に生きてるんだから、相手の安否を心配するのはごく自然だと思う。その結果で安心したり、不安になったりするのもまた然り。
「とにかく助けてくれてありがとう。……えーと」
「吉川=青冴ね。呼ぶなら「青冴」で。苗字は呼ばれてる気がしないから」
「それじゃあ青冴、そのー……こんなこと訊くのもあれだけどさ。今まで一切関わったことのない先輩が、傘振り回して俺を一直線に追いかけてくるっていう、さっきの状況について……知ってることとか、推測とか噂とかでもいいんだけど、なんか分からないか? 思い当たる節が、今の所思いつかないんだよ」
 青冴は偶然俺を助けてくれたようだけれど、それにしては肝が据わっていて平然としていた。あの状況に慣れているような。何か知っているのではないか、と期待を込めて訊いてみる。
 青冴は笑顔を消して、俺をしばらく見つめた。
「……なあ道埋。近くに深紅いない? いたら呼んで欲しいんだけど」
「いない」
 そのまま喋ったと思ったら、奥から声が返ってくる。さっきの茶髪だ。俺に話したのではないらしい。茶髪のそっけない返事に、青冴は肩を落とす。
「えー、説明係俺かあ……。翡翠は?」
「いない」
「道埋は?」
「嫌」
「だよねー。分かった分かった、俺が一から百まで、手取り足取り説明しよう」
 パイプ椅子を軋ませながら青冴が言う。なんかすっごく嫌そうなので、ちょっと申し訳ない。しかし自分の命に関わる問題、引き下がるわけにもいかなかった。
「この学校では、人間の強い感情が実体化する。これを俺たちは悪心と呼ぶ。実体化した悪心は人間に取り憑いて心身を操り、感情の対象となる人間に危害を加える。あの女の子は悪心に操られていて、君はその被害者ってわけ」
 意気込んだ次の瞬間。突然のぶっ飛んだ話に置いてけぼりを食らう。
「……え? 待って、何言ってんだ? 感情、実体化? 操る? はあ?」
「君は「知らない先輩に殺されそうになった」っていう、非現実的な状況についての説明を求めているんでしょ? 非現実的状況の原因が非現実的であることは、当然だと思うなあ」
「それは……そうかもしれないけど」
「納得いかない? じゃあ、たとえ話でもしようか」
 青冴の声は、子供に常識を諭す親のようだった。
「ここに喧嘩をした友達がいる。後日、片方は非を認めて謝ろうとしたんだけど、もう片方は怒りが収まらなかった。相手への親愛が反転して、憎悪になってしまったんだ。結果、謝罪の言葉を受け入れられず、憎しみのままに相手を殺してしまいました。
 ……ほら、ニュースでよく見る突発的犯行でしょ? 人が感情に操られるのは、そう特別な話じゃない。ただ、悪心は宿主に人外の姿と力を与えるし、最終的に宿主は死ぬから、被害の規模が非現実的で危険ってだけ」
 難しいが、分からないでもない。人を操る悪心というのがいて、先輩はそれに操られて、俺はそんな先輩に襲われた、と。
 けれど、そうなると次の疑問が自然と生まれる。
「感情の対象となる人間に危害を加える……じゃあ、先輩が俺を襲う原因になった感情は?」
「それは君の胸に訊いて。多分君に原因があるから」
 俺の胸に問うて分かるなら、何時間でも胸中で問答する。しかし、相手は見ず知らずの先輩なのだ。彼女の何が俺を襲うに至ったのかなど、想像もつかない。仮に想像できても、憶測の域を出ないだろう。真実は闇の中、か。
 とりあえず、青冴がこの奇妙な案件に関して知識があるのは確実だ。今後同じことが起こらないとも限らない、できるだけ情報を引き出したい……と考えていると、ふと閃く。非現実といえば、最近学校で見る、人体に浮かぶ黒い模様。
「俺、最近学校内の人間に、黒い模様が見えるようになったんだ。絵の具で汚したみたいな……。あの先輩も、腕が黒かっただろ。それって、悪心と何か関係があるのか?」
 そう訊くと、青冴は嬉しそうに頷く。
「そうだよ、それこそが表出した感情。その黒い模様が全身を覆うと手遅れ、人の姿も保てなくなって、死ぬまで殺し続ける化け物になる。あの女の子がそうなってたら、君はひとたまりもなかっただろうね。
 ちなみにそれ、誰にでも見えるわけじゃない。現状、悪心に狙われている者、悪心を抱えている者にしか見えないはずだ。君は前者だね、襲われてるし」
 さっきだって十分死の危険を感じたのに、ぞっとしないイフだ。笑顔で言うから尚更。そして、この件に関して他者との情報共有は難しい、と。なんか情報過多で頭痛くなってきた。
「えーと、とりあえず情報まとめてみるか。
 強い感情が悪心になる。悪心に憑かれると黒い模様が出る。先輩は腕が黒かった、つまり悪心に憑かれていた。悪心に操られて、先輩は俺を襲った。悪心は感情の対象を狙う。先輩は俺に強い感情を持っていた……」
 …………。
「つまり自業自得では!? 「強い感情」って、俺がなんかしたから先輩が恨んだとか、そういうのしか思いつかない!! 確かに、俺が日頃一切悪行を働いていない聖人かと言われれば「そうではない」と胸張って言うけど! 殺されなきゃいけないほど悪いことした記憶もない!!」
 ベッドの上で叫ぶと、青冴が愉快そうに笑う。何が面白いんだ!
「あはは、いい反応! ……でもね坂上君、そんな憂える君に朗報だよ。俺たちは、そんな君を助けるために存在している。君の死を望む悪心をぶち殺すために、俺たちがここにいる」
 笑顔で言う割に物騒で、でも物騒な言葉の割に内容は救済である。
「それって、悪心を追っ払うってことか? あっ、先輩もそうやって助けたのか」
「そー。俺たちは悪心を殺すことが存在意義で、それは同時に、悪心によって被害を被る人間を救うってこと。つまり、悪心に襲われた君は俺たちの救済対象ってわけだ」
「「殺す」なんて物騒な……。それに、俺を襲ってきた先輩の悪心は、もう追っ払ったんだろ? じゃあ俺を助ける必要なんてないんじゃ……」
「悪心は一人につき一つとは限らないぞ」
 突然、知らない声が割り込んできた。ほぼ同時に、青冴の後ろに背の高い影が現れる。
 立っていたのは、薄緑の髪の男。センターで分けた前髪は長く、後ろも同じような長さだがシュシュで括っていた。腕にもシュシュが一つ。細い目と長身の怖げな見た目に反した、ファンシーな小物使いである。
「人の感情は尽きない。原因を究明しない限り、同じことが繰り返される」
「そんなわけで、君にはもう少し悪心とのドンパチに付き合ってもらいまーす」
「えーと……わかった、付き合うけど、その人……さっきの茶髪もそうだけど、青冴の知り合い?」
「そう。四人で構成された悪心抹殺ボランティア。ねえ深紅は?」
 青冴が肩越しに訊くと、緑髪は視線を逸らした。その方向には多分、保健室の入り口がある。
「もうしばらく、校内を見て回るそうだ」
「えー。翡翠、深紅とチェンジ」
「俺としては、お前と深紅をチェンジしたい」
「辛辣ー。このでかいのは翡翠、小さいのは道埋って呼んで。もう一人、赤くて可愛いのがいるんだけど、それは深紅」
「道埋、あとで深紅にチクっておけ」
「了解」
「あははは、それ絶対俺死ぬから勘弁して」
 軽妙な掛け合いが愉快で、ちょっと笑ってしまった。胸に溜まった重い空気が、少し消えたような気がする。
 でも、この愉快な不思議集団が俺を救ってくれるとして、当事者である俺が事態を任せっきり、というわけにはいかないだろう。できることがあるはずだ。
「えーと、青冴と、翡翠に道埋、それとここにいない深紅って人が、悪心に対抗してくれるんだよな。……俺にも何か、できることはあるか?」
 青冴は指をぴんと弾く。
「もちろん働いてもらうよ。君の役目は囮だね。悪心はその存在を許容した相手……悪心と関わった人間に寄りつきやすい。悪心の気配が消えていないし、君は今後も悪心に狙われる可能性が高いってことだ。で、君に寄ってきた悪心を俺らが殺す。猟というか、漁というか、とりあえずそんな感じで」
 しれっと言ってくれるが、つまりは今日のように、悪心に取り憑かれた人間と何度も相対しなきゃいけないってことかよ!? いつか本当に死ぬぞ。
「そ、それ、いつまで続く?」
「悪心の核が出張ってくるまで。今日みたいな下っ端を片付けてれば、いつか真打が出てくるさ。そうすれば、君を狙う理由も分かるはずだよ」
「悪心に操られた奴の襲撃を受けたら?」
「俺たちは悪心を察知できるから、一番近くにいる奴が駆けつけて対処するよ」
「駆けつけるまで俺が耐えられなかったら?」
「君がお陀仏」
 ……。
「そうならないように頑張るから、君も頑張ってね。特別なことをするわけじゃない。「襲われるかも」って緊張感を持って生活するだけでいいから」
 ぽんぽん、と肩を叩かれる。待ってくれ、いきなりそんなぎりぎり生活を送れって言われても、困るんですけど。一歩間違えれば死ぬって、映画かゲームの世界じゃあるまいし。
 俺の苦悩など知る由もなく、青冴は席を立った。
「怪我もあるし、今日は帰って安静に。囮の役目は明日からよろしくねー」
 俺が応えるより早く、青冴は手を振って椅子から立ち上がった。視界から消え、扉の開閉音がする。保健室を出てしまったらしい。それを目で追っていた翡翠が、小さく息を吐いた。
「すまないな。あいつは口が捻くれているから、不安にさせたかもしれない。だが青冴を含め俺たちは、君を助けるために努力する。それは信じてくれていい」
「あ、ああ……」
 「努力する」という言葉にそこはかとない不安を感じるが、そうも言っていられない。感情、悪心、襲撃、死の可能性……どれほど非現実的でも、立ち向かわなければ俺は死ぬかもしれないんだ。平穏な現実を取り戻すためには、覚悟を決めるしかない。
「俺も囮として、頑張る」
「相手は心だ、どうにもならない時だってある。無茶はするなよ。
 ……道埋、俺たちもそろそろ行こう」
 翡翠が声をかけると、道埋がひょこりと顔を出して手を振った。振り返すと二人がカーテンの向こうに消え、がらっ、ぱたん。保健室から出て行く。
 部屋が静かになる。横になって天井を睨みながら、一変した自分の状況を思う。
 狙われている。救われている。囮として求められている。全ては、俺の言動に起因する。悪心が発生する原因。俺に向かう悪心とは、感情とは何であるか。それを知ることは、俺を狙う悪心を見つける、最短にして最善の手段ではないだろうか?
 考えてみる。俺は誰かに何かをしただろうか。誰かを傷つけたり、貶めたり、そういったことをしただろうか。「強い感情」としか言っていなかったが、善意であっても強い感情ならば悪心になるのだろうか。ならば、誰かにとって良いことをしても悪心の発生に繋がるのか。前に、俺自身に悪心を示す黒い模様が出たことがあったけれど、何かされて嫌な気分になった、という時でなくても出ていたような。あれは俺の中に悪心が生まれているってことだけど……狙われている俺自身が悪心に憑かれたら、どうなるんだろう。俺が死んだ場合、俺を狙う悪心はどうなるんだろう……。
 疑問は留まるところを知らず、静寂に溢れていく。答えを求めない思考に埋もれていくうち、眠ってしまった。


 がらっ。養護教諭が保健室に入ってくる音で目が覚める。時計を見ると、部活動が終わる時間だ。そろそろ帰ろう。教室に置いてきたはずのリュックが枕元に置かれていたので、それを掴んでベッドを出る。
 そういえば、勝手に保健室を使用していることになっていないか、俺。何か突っ込まれて訊かれたら困るな……と思っていたのだが、教諭は後ろから「急な運動は気をつけなさい」と、俺の怪我を知らないはずなのに的確なアドバイスをくれた。しかし時すでに遅し、背負ったリュックの重みで背中が軋む。諦めて荷物を手で持ち、学校を出た。




 次の日。朝。
 囮としての生活の始まりに、神経が尖る。自分なりに考えた安全策は、視界に入る人々をそれとなく見て、黒い模様が見えたら距離を取る、だ。……見えない位置に模様があったら、どうしようもないのだが。
 生徒の間を縫いながら、昨日落ちた長い階段にさしかかる。青冴が来なければ良くて骨折、悪くて死んでいただろう。思い返すだけで怖い。手すりを掴んで安全に着実に上っていく、と。
「坂上、大丈夫?」
 軽く背中を叩かれる。振り返った先にいたのは和田……クラスメイトで、俺の友達の幼馴染。そんな縁で仲の良い女生徒だ。反射的に全身に目を向けるが、黒い模様は見当たらない。彼女は眼鏡の奥で、俺を見上げる目を細めた。
「何、じろじろ見て。足取りもふらついてるし、正直言って挙動不審よ」
「いや、ごめん、えーと」
 返答に困る。昨日起こったことを馬鹿正直に話せるわけもない。かといって、いいごまかしもぱっとは思いつかない。もごもごしている間に、和田が隣に並ぶ。
「体調不良かしら。よく眠れなかったとか?」
 それだ、それでいこう! ナイスパス、和田。
「あーうん、うんそう。ちょっと寝つきが悪かったんだよな。ようやく寝られたと思ったら、背中を押されて階段から突き落とされる夢を見た」
「道理で、階段を及び腰で上っているわけね」
 嘘ではない。経験を焼き直した酷い夢に、今朝は冷や汗をかきながら起きたのだ。その流れで、昨日の現実も夢として処理したかったけれど、まだ痛む背中が逃避を許してくれない。
 和田と話をしながらも、人々を観察、回避するのは忘れない。さすがに和田も、俺の視線が泳いでいることに気づいた。
「誰か探してる?」
「あー、明確に誰かを探してるっていうんじゃないんだけど、こう……自然と人間観察に走っちゃうというか……生徒諸君の流行りのビジュアルをリサーチしたいというか……」
 これは説明しづらい。しかも変な設定付け加えた気がする。しどろもどろになっていると、和田が呆れた様子で言った。
「まあ、好きにしたら。でもほどほどにしなさいよね。みっともないから」
「はい……すんませんでした」
「何謝ってるのよ」
 くすくすと笑うので冗談なのは分かったが、冗談それ自体は真顔で言うので判断がつかない。また、ばっさりとした物言いは青冴を思い出させて、彼の存在は、現状が見慣れた平穏ではないことを突きつけてくる。まあとにかく、深く突っ込まないでくれるのは助かった。
 そうこうする間に教室。教室内の何人かに模様は見られるが、突然襲いかかってくるような様子はない。そういえば、授業中に襲われたらどう対処しよう。逃げても許されるよな。だって命の危機だもの。窓際の最後列で、死角がないのは不幸中の幸い。
 一時間目は移動教室だ。準備をしていると、手に授業道具を持った和田が来た。
「あいつ、まだ来てないわ」
「え、「連帯責任でペナルティあるから遅れんな」ってきつく言ったんだけどな……」
 時計を見ると、あと十分もない。寝坊の線が濃厚、遅刻するか否か。
「移動先は一階だし、玄関から直で行けば間に合うだろ。俺たちは先に」
 「行こうか」と続ける前に、ばたーん。
「うわああああ遅れる遅れる遅れるう!!」
 やかましいのが教室に飛び込んできた。乱れ髪、しわっしわの制服、閉まりきってない鞄からはペンケースが顔を覗かせている。見苦しいことこの上ないが、遅れまいと全力を尽くした結果だろう。
 その男は俺の友人にして和田の幼馴染、そして俺たちの待ち人。名を千秋。雅な名前にそぐわない落ち着きのなさだが、代わりに備えた明るいキャラクターにより、クラスのムードメーカーと言って差し支えない存在だった。簡単に言うと、愛すべき馬鹿。
「待ってろ坂上、和田、すぐ準備する!」
 彼は机の上に荷物を投げつけ、その中を探る。が、出てくるのは明らかに不要な雑誌とくしゃくしゃになった重要書類ばかり。見かねた和田が近づき、床に落ちたプリントを拾った。
「全く……寝坊も整理下手も、小学生の頃から変わらないわね。困るのあなたなんだから、いい加減直したら?」
「あ。今和田が拾ったやつ、今日提出の古文の宿題だろ。真っ白だけど大丈夫か?」
「え、嘘、どれ、マジで言ってる?」
 みるみる顔が青白くなり、手を止める千秋に、きーんこーんかーんこーん。追い打ちをかけるチャイムの音。授業開始まで残り五分を切っていた。今この瞬間から走れば、目的の教室にギリギリ間に合う、というレベル。
 俺と和田は視線で状況と最善策を確認し合い、同時に教室の扉へ向かう。
「まま待ってえ! あっ見つけた、ノート見つけたから! 一緒に行くからあ!!」
 千秋の情けない悲鳴は無視。奴は数メートルのビハインドなどすぐに埋めて、俺と和田の先へさっさと躍り出てしまうからだ。運動はできるけど勉強ができない、典型的な奴である。
 予鈴の余韻が響く階段を見下ろす。昨日の恐怖が一瞬よぎった。
「坂上、いっそげー!」
 速度を緩めた俺を、和田と千秋が追い抜いていく。恐怖を振り払って、階段を駆け下りた。


 昼休み。放課後。
 結局、昨日のような恐ろしい経験はせずに済んだ。気を抜くわけにはいかないけれど、一日無事に生き抜いた事実は、俺に安心をもたらしてくれた。何気ない日常って素晴らしい。




 次の日。昼休み。
 廊下を歩いていると、前方に目立つ髪色が二人。一人は翡翠だ。もう一人……燃えるような、という表現が実にぴったりな赤い長髪の奴は、見覚えがない。ないが、奴が翡翠や青冴、道埋の仲間であることは容易に想像できた。
 翡翠がこちらに気づいて、気さくに声をかけてくれた。
「よう。調子はどうだ、坂上」
「直接襲われてはいないけど、どうしてもいろんな人の黒い模様が気になる、かな」
 周りを見る。数人に黒い模様が見えて、少しうんざりした。
「注意は怠るなよ。……そう、こいつの紹介をしていなかったよな」
 翡翠が手で示したのは、隣に立つ赤髪。翡翠の上背があることを差し引いても小柄だ。細い上体を綺麗に折って、お辞儀をする。低いところで二つにまとめた髪が、肩から滑り落ちた。
「初めまして、長谷川=深紅と言います。「深紅」と呼んでください。翡翠たちと同じく悪心を殺すものですので、以後お見知り置きを」
「はあ、どうも。坂上です。この度はお世話になります」
 俺もつられてお辞儀をすると、深紅は顔を上げながらしみじみ呟いた。
「近年稀に見る礼儀正しさ、素晴らしいですね。青冴に分けたいです」
「思いやりに欠けているからな、あいつは」
 青冴は俺の命の恩人なのだが、仲間の評価はひどいものである。まあ……言われてみれば思い当たる節がないでもないけど。一昨日のちょっとしたやりとりだけで、あいつの底意地の悪さというか、薄情さみたいなものは感じられた。
「ところで、なんであんたたちはここに?」
「ああ、それは……っ」
 深紅がいきなり肩を掴んできた。俺を飛び越えるような形で、掴んだ肩に体重をかけてジャンプ。視界の端に取り残される長い髪。流れる風。
 どごっ。背後の音と、肩に上乗せされる反動の重み。それらを感じて、状況を理解する。
「……あ、あのー……もしかして、背後に?」
「ああ、背後に悪心が」
 翡翠がのんびりと言う。肩の重みがなくなって、深紅は俺の背後に回った。嫌がる本能をなだめすかして、首を回す。
 黒い、知らない生徒が床に倒れていた。それはそれで怖い。けれど、それよりも俺の背を凍らせたのは、ざわめきに包まれていたはずの廊下に淀む静寂だ。突然のことに驚いて声が出ないのかと思って、彼らを凝視し、否定する。
 指先から、足から、黒い模様が這い上がっていく。まるで空気感染するウイルスを可視化したようだ。顔のパーツが黒に埋もれる。指も足もぎこちなく軋み、出来損ないの人形のような……同じ人間とはあまり思いたくない生物と化していた。
「こ、これ、全部悪心にやられてるのか……?」
「坂上、俺の後ろにいろ」
 そう言って、翡翠は何処からともなく杖を出した。黒い棒の先端に石がついただけの、飾りけのない簡素な作り。しかしシンプルな分、石が映えて綺麗だった。石というより宝石と呼びたい透明感で、彼の名前と同じ翡翠色。深紅も色違いの杖を持ち出していて、ルビーを思わせる赤い石が乗っかっていた。
 だが、石の美しさに見とれている場合ではない。廊下という場所、昼休みの時間帯。悪心にあてられた人数はかなりのものだ。ざっと数えて二十人ほど。こいつらが全員、この狭い場所で襲ってくるとなると……あまり楽観的な予想はできない。
「数は多いですが、見境なく巻き込んでいるため、うまく操れていないようです。適当に蹴散らせるでしょう。翡翠、坂上さんをよろしくお願いします」
 深紅が飛び出した。炎の爆ぜる音がして、深紅が持つ杖の石から火が吹き出る。その杖を、あろうことか無防備な生徒達にぶち当てた。
「え、ええ!? ちょっと!!」
 思わず声を上げるが、深紅はお構いなしに生徒をぶっ叩く。ばこん。どたん。がしゃん。飛ぶ火の粉、なぎ倒される人々。何かに火がついた様子はないが、窓にはヒビが走り、扉は凹んで、被害は絶賛量産中。こ、これは俺の社会的立場が危うい。暴行、器物破損、提訴、裁判……頭に思い浮かぶ言葉は、マイナスイメージを伴いながら沈殿していく。
 深紅が討ち漏らした人が飛びかかってきた。こいつは黒い模様が大きく動きが滑らかで、俺を襲うことに迷いがない。いよいよ人間味がなくなり、人型の化け物の様相だ。逃げたくても廊下自体は広くないし、操られた生徒らに取り囲まれている状態。
 どうすれば……と焦った時。風が鳴った。俺の前に立つ翡翠が杖を振り、宝石が緑の軌跡を描く。緑の光が、俺に飛びかかってくる奴の前に入り込んだ。
 ばちん、どごん。相手の伸ばした腕が緑の軌跡に触れた途端、身体ごと弾け飛んだ。打ち付けた扉は耐えきれずに外れ、共に教室の中へ転がる。教室から悲鳴が上がった。……すっかり忘れていた、当然の事実。教室内にも無辜の生徒はいる。
「しまった、いらん面倒を増やした。深紅、俺も手を貸す! 手早く済ませよう」
「さすがに人の目が多すぎましたね……翡翠、くれぐれも坂上さん第一で」
 言った後、深紅が慌ててこちらを向いた。もしやと思って振り返ると、真っ黒な男子生徒がこちらに走ってきていた。先輩に襲われた記憶が重なる。
 だが、あの時と状況はまるで違っていた。翡翠に腕を引かれ、彼が黒い男子生徒の前に出る。杖を振るって光を描き、また相手を吹っ飛ばした。どだん。重い音がするが、すぐに靴底が廊下を擦る音が続く。駆けて、繰り出される拳。ばちん。それは弾かれるが、先ほどのように体ごと吹っ飛ぶことはない。足に力を込めて耐えているのだ。
 拳はまた光を叩き、弾かれる。もう一度殴る、もう一度弾かれる。もう一度殴る、もう一度弾かれる。もう一度、もう一度。
 翡翠が杖を差し向けるだけで光を維持する反面、相手の攻撃は怒涛。光を透かして見える男子生徒は、顔も真っ黒で表情が見えない。そんな見た目も、壊れたように同じ攻撃を繰り返し続ける行動も、人間のそれとは思えなかった。
 何故。
 疑問は浮かぶと同時に解答を得る。俺がそうさせているのだ。俺が彼に抱かせた感情が悪心を生み、彼を人らしく在ることから逸脱させている。
 では、俺の何がそうさせている?
「何なんだよ……」
 分からない。俺は一体何をしたんだ。無意識に、ここまで恨まれるほど悪いことをしていたのか。教えてくれ。俺を害したいほどの感情の名前を、俺に教えてくれ。
 だんっ。すぐ横で音がした。逆ギレしかかった思考が断ち切られ、音源を確認するより速く、赤……深紅が走る。細い体が跳び、緑の光への攻撃を緩めない男子生徒の、ほぼ隣に片足で着地。反対の足を前へ運び、上半身のひねりをそのままスイングの力に変える。ただでさえ暴力的な打撃は、炎を伴ってより凶暴に。
 どごっ。翡翠の鉄壁に、あるいはその向こうの俺に気を取られていた男子生徒が、廊下の壁に叩きつけられる。コンクリの壁にヒビを刻みつけた後、ずるずる、どさっ。倒れた。ぴくりとも動かない。咄嗟に翡翠の背中から飛び出して、安否を確認する。あんな攻撃、普通の人間なら即死じゃ……。
「あ、あれ?」
 仰向けに横たわっていたのは、気絶した普通の男子生徒。黒い模様が消えていて、表情も伺える。苦しげに歪んでいるものの、呼吸はちゃんとしていた。ちゃんと生きていることにほっとする反面、見覚えのないその顔に謎が深まる。前回の先輩といい、知らない人間が俺に対して攻撃してきている……何故だ?
 困惑に沈みかけた時、何かが動いた。見ると、黒い煙が男子生徒の胸から溢れ出して、流れている。それは、倒れた他の人からも同じように溢れていた。床を這って集まると球の形を取り、さらに流れ込んでくる煙を吸収して大きくなっていく。浮かぶ球体は月か太陽のようだが、純然たる黒なので禍々しいことこの上ない。
「この辺りの悪心は、これで全部のようだな」
「ええ。これだけの影響力を持ちながら、坂上さんを狙う悪心の核でなかった、というのは驚きますが」
 翡翠が黒い球体に歩み寄ると、それに向かって杖を軽く振り下ろした。ぼふん。球体は弛んで弾け、黒が空気に溶けていく。随分間の抜けた音だったので、不安になって訊く。
「……お、終わった?」
「この廊下での一件に関しては、収束を見たと言っていいでしょう」
「そうだな……っと」
 翡翠の視線が周囲を見渡す。討ち漏らしがいるのか、と俺も慌てて目を向けた。幸い、視界内に黒い人間はいない。
 けれど、そこに横たわるのは間違いなく非日常だった。廊下に倒れた多くの人。壁と床には戦闘の痕跡が無数に散らばる。そして、教室からこわごわ覗き込む無関係な生徒たちの目。数え切れないそれは、廊下の惨状と、その中でのうのうと立つ俺たちを交互に眺めている。これらの情報からどんな経緯を推察するのかは分からないが、どうやっても事実に肉薄することはできないだろう。
 問題は、真実から乖離した彼らの推察が、どんな結果を導き出すのか? ……簡単だ。どう考えたって、俺らに問題と、責任があると見る。俺が第三者なら、絶対そう考える。
「……グッバイ、俺の社会的地位」
 両手を合わせて追悼する。俺も被害者なのだが、そんな内訳は受け入れてもらえないだろう。ちょっと涙出そう。
 そんな俺の肩を深紅が叩いた。
「諦めるにはまだ早いですよ」
「いや、これはもう終わりだろ……俺、この状況を正しく説明できる気がしないし、したところで信じてもらえないだろうし。俺もうこの学校で生きていけない……修理費、貯金じゃ絶対賄えないだろうなあ……」
「大丈夫。翡翠がいますので」
「え……どういうことだ?」
 頭を抱える俺の横を、翡翠が通り抜けていく。その手にはまだ杖があるが、悪心を払いのけた今、何をするつもりなのだろうか。
 深紅は言う。
「心は脳です。心への介入は、脳への介入と言えるでしょう。感情は思考に影響を与え、思考は感情を変化させる。……人間の心を殺す私たちは、人間の脳に手を加える一面を持ちます」
 翡翠が廊下の中ほどで立ち止まった。杖を軽く持ち上げると、その先端の石が輝き出す。力を溜めるように、光は揺れながら石の中を満たしていく。
「私や青冴は感情に働きかける力しかありませんが、翡翠は脳に働きかける力があります」
 翡翠は輝く杖で床を叩いた。
 こーん。
 反響を伴う音が鳴り渡り、石に溜め込まれた光が溢れる。花火のように散った光は、俺たちを取り巻く衆人環視に降り注いだ。人々は光を仰ぎ、時間が止まったように身じろぎもしないで光を甘受する。
 しばらくして、音が止む。廊下は静まっている。一体何だったのか、どうなるのかとはらはらしながら状況を見ていると。
「……!」
 教室から身を乗り出していた生徒たちが、一人、また一人と教室へ戻っていく。興味を失ったかのように、今までのことを忘れてしまったかのように。この間に、廊下に倒れていた人たちも次々起き上がり、それぞれの方向に歩き出した。大立ち回りを演じた深紅と翡翠、無残な痕跡の残る壁、壊れた扉、割れた窓……それらに目もくれず、限られた昼休みを謳歌しようとする学生たち。彼らは誰ともなしに声を発し、笑い、足音を高く鳴らす。静かだった廊下は音で満たされ、あっという間に非日常が日常にすり替わった。
 正しいのに、間違った世界。
「何が、起こったんだ?」
「認識介入。悪心に関連する記憶を改竄したんだ」
 杖を消した翡翠が、こちらに戻ってくる。
「悪心の存在、悪心を殺そうとする俺たちの存在を記憶から排除する。悪心に憑かれた人は悪心に操られていた間の記憶を消すし、悪心に襲われた人は襲われたという記憶を……悪心が知り合いから生まれた場合は、その人物との記憶も消す。物品の損傷については、老朽化とか喧嘩とか、適当な理由をつけて納得させる。……深紅はさもすごいことのように言ったが、結局自分たちの行いを隠蔽するための、都合のいい能力でしかない」
「私や青冴は悪心を殺すしか能が無いのですから、それに比べれば立派な特殊能力です」
 感情の実体と戦ったり、炎だの光だのを自在に操ったり、果ては認識介入、記憶をいじるだなんて……分かってはいたが、こいつら普通じゃない。
「あんたら、本当何者なんだよ……」
「悪心を殺す存在です」
「それは聞いた気がするけど……普通の人間じゃないだろう? っていうか、何でこの学校で悪心退治なんてしてるんだよ。そうだよ、悪心って他の学校とか、町中とかにいたりしないのか?」
 二人は黙った。……何か、まずいこと言ったか? でも俺としては、自分に協力してくれる相手のことは信頼したい。信頼とは知ることではないだろうか。「全てをさらけ出せ」とまでは言わないが、せめて素性とか背景とか、種族くらいははっきりさせてもらえると安心できる。
 ぐるぐる自己弁護していると、深紅が自分の胸を手で押さえた。
「……「長谷川」は平凡な人間です。「深紅」は、人間に近いですが人間ではありません。悪心を殺すのは「深紅」の能力ですから、それを「長谷川」が行使している時点で、「長谷川」は普通の人間ではないのでしょう」
「人間じゃないなら、何なんだ?」
「悪心と大差ありません。無意識、精神の世界から生物によって生み出された感情です」
 長谷川は人間で、深紅は悪心と同じで、つまり長谷川=深紅という存在は……?
「……ごめん、聞いといてなんだけど、全然意味分からない」
 正直な感想を述べると、翡翠が苦笑した。
「まあ、そうだろうな。だが、深紅も真面目に正しく答えているから、意味は分からなくとも受け取ってやってくれ」
「あ、ああ……」
「あと、もう一つの質問だが。悪心はこの学校でしか実体化しないから、俺たちは学校外で活動する必要はない。そもそも俺たちは、学校の外に出られない」
「何で?」
「そういう設定、あるいは決定、か。俺たちでは覆せない決定だ」
 信頼を得るための質問は、信用すら揺らがせる結果になった。分からないことだらけだ。しかし、どうしたって俺は彼らの力を頼るしかない。彼らと手を切ったところで、俺が犬死にして終わるだけ。俺は生きたい。それは確固たる願いで、そのためなら多少理解が及ばなくても、俺を「助ける」と言ってくれている彼らを信じる以外の道なんて、ないのである。
「……まあいいか。よく分からないままだけど、これからもお世話になります」
「御丁寧にどうも」
「混乱させて悪い。だが、悪心さえ片付けばお前に認識介入を使って、悪心や俺たちに関連した記憶を変える。疑問に思うことも、疑問に思った事実もなくなるだろう。それまでの辛抱だ」
「では坂上さん、私たちはこれで。お気をつけて」
 そうか。すっかり彼らの側にいたつもりでいたが、俺も本来は、認識介入を受ける側なのだ。俺を狙う悪心が片付けば、この非日常も日常に上塗りされて消えてしまう。俺を助けてくれた四人のことを忘れて、平穏な日常に帰っていくのだ。そうあるべきだし、その際に悪心などという化け物の記憶など、邪魔でしかない。翡翠は「自分たちの行いを隠蔽する」と卑下していたが、巻き込まれた人々から悪心という異常を隠蔽し、日常を守っているのではないだろうか。
 でもそうなると、彼らは誰の記憶にも残らないまま、悪心との戦いを繰り返しているのか。何故? それもまた「決定」なのだろうか。彼らに踏み込むと、一段、また一段と暗闇の中を降りていくような感覚になる。謎が次の謎を呼び、果てが見えない。
 それでも彼らを信じたい。そして思う。俺が彼らにできることは、何かないのだろうか。忘れてしまうとしても、彼らに助けてもらったことは間違いない。その事実が変わるわけではない。俺は何も、彼らに返せないのだろうか。
 ……いやいや、待て。今の俺が優先すべきは、悪心をおびき寄せる囮としての役目。そして、悪心が俺を狙う理由を突き止めること。まずは彼らに余計な手間、迷惑をかけないことが、彼らの手助けになるだろう。やるべきことを着実にこなし、片付けていくべきだ。
 俺も歩き出す。ざわめきは心地よく、俺も確かにこの日常の恩恵を受ける一員なのだと思う。けれど罅が刻まれた壁の前を通る瞬間、壁に触れて思った。
 この壁の理由を忘れないうちは、俺はまだ、非日常側の存在なのだと。




 次の日。休み時間。
 直前の数学で小テストが返されたため、教室内はざわついている。誰もが薄っぺらい紙を悲喜こもごもの顔で眺めては、友人たちとその内容について語り合っていた。かく言う俺もその一人。和田と共に、千秋の元で答案について会話する。
「嘘だー、成績に影響するなんて聞いてねー」
「でもこれ、一週間前の授業で出た例題の改変版よ。できていない方が不思議」
「えっ、そうだったのか? 気づかなかった」
「……その割に、きっちりマルもらってんじゃん! 何で満点なんて取れんだよ!?」
「坂上が勉強をしていて、千秋が勉強をしていないから」
「お前そんなに悪かったの? ……うわあ」
「憐れむ目をやめろー! 違うんだよ、ここはただのケアレスミス! 気が抜けて掛け算間違えただけ! こっちは時間なくて問題文斜め読みしたせいだし、その下は……」
「はいはい、言い訳はどうでもいい。追試がなくてよかったわね」
「うう……次のテストは助けて……」
「まずは自力で頑張れよ。その上で、分からないところがあれば教えてやるから」
 命の危険があろうが、俺の学生生活はそんな事情など意に介さず続いている。正直、命の危険と成績の危険を抱えての生活は、精神的に厳しいところがあるのだが、努力が必要な日々にちょっとした充足感を覚えていた。変な話だ、命の危機によって満たされているなんて。
 「便所行ってくる!」と席を立った千秋を見送ると、和田と視線がぶつかった。
「……坂上、少し元気になったね」
「え? あー……まあ、ぼちぼちな」
 和田には、悪心に襲われた翌日に心配されていたっけか。その時に比べれば、悪心に慣れてきたから、心に余裕ができているのかもしれない。
「千秋も心配してたみたいよ。普段よりうるさくしてただけだけど」
「そういえば、ちょくちょく声かけてくれてたな……。なんか、心配かけてたんだな」
「別に。心配なんて、こっちの自己満足。坂上に対しては特に」
「どういうことだ? って、おい」
 和田は肩をすくめると、俺の手からぱっと答案を引き抜いた。
「心配なんてしなくても、坂上は一人で何でもできるから、抱えている事情も一人で解決してしまうんだろうな、ってこと。文武両道品行方正眉目秀麗を地でいくものね」
 違和感を覚える。和田は普段からちょっとブラックなところがあるけれど、これは少し違う。鋭利な刃物を隠しきれず、ちらつかせているような……。
 嫌な予感がして、俺は慎重に答えた。
「……俺は、心配してくれたって事実を嬉しく思う。ありがとな。あとで千秋にも言っておくよ、あいつが舞い上がらない程度に」
「……」
 和田が黙って俺を見つめるので、真正面から受け止める。
 ……やがて、息を吐いた和田が答案を突き返してきた。
「困るのよね、坂上って。根が良いから、多少の悪意じゃ傷つかない」
「それって、今ので傷つけるつもりだったってことか?」
「さあ? ああ、帰ってきた」
 彼女の視線に誘導されると、その先に千秋の姿。他のクラスメイトにテスト内容を心配されては、ムキになったように言い返して、笑い合っている。
「あのコミュニケーション能力の高さ……正直欲しくないレベルよね」
「はは、確かにな」
 和田の棘が消えたことに、肩の力を抜いて笑う。すると千秋がこちらに向かってきた。
「おいおい、今俺のこと褒め称えたのはどっちの友だー?」
「誰も褒めてない」
「空耳じゃない?」
「息ぴったりかよ!」
 千秋がぶーたれたところで、次の授業開始を告げるチャイムが鳴る。支度を始める生徒の流れに乗って、俺も自席に戻ろうとした、その時。手に鋭い痛みを感じた。
「いっ、た……何だ?」
 見ると、小指の付け根から手の甲にかけて、一本の傷が走っている。深くはないが、血がじわじわと滲んできた。
「どーした坂上? うわっ、手! どっか引っ掛けたか?」
「痛そう。洗う、のは間に合わないか。とりあえず、これあげる」
 俺の声に気付いた二人が、すぐに反応した。千秋はわたわた心配してくれて、和田は冷静に絆創膏をくれる。それを受け取って貼る、自分の手の奥。床で何かが蠢いた。黒い……煙だ。
「……!」
 息を呑んで一歩下がる。煙はしばらくその場に漂っていたが、やがて俺から離れていった。
「どーしたよ、次はなんかいた? 虫?」
「教師、もう来たわ。空気が読めないったら……坂上、千秋、目をつけられないうちに席に戻って」
「あ、ああ……」
 自席に戻りながらも、目は床を流動する靄を追っていた。薄く広がって千秋、和田、他のクラスメイトの足元にも入り込んでいき、見えなくなる。
 席に着くと同時に、教師が入ってきた。号令の後、授業が始まる。けれど、全く集中できない。悪心に緊張して思考が乱れる上、ずきずきと存在を主張する手の傷が鬱陶しい。だから自然と、その痛みに意識が向き、考え始める。
 手を切ったあの時……俺の後ろを誰かが通り抜けた。痛みを感じたのは、それとほぼ同時。だとすると、そいつの爪とか持ち物とかに引っ掛けた、という線が濃厚か。そういう過失は誰にでもあるものだ。責めるつもりは全くないが、後方の席ということもあって自然と相手を探してしまう。確か……そう、中央列の後ろ側にいる、髪の長い女子だ。長い髪とヘアバンドをちらっと見た。彼女が俯き、落ちてきた髪を耳にかける。
 その瞬間、見てしまった。彼女の耳……顔が、黒い。心臓が跳ねる。手の痛みが一層強まる。まさか、そんな、ここは日常のはずなのに。まさか、と彼女以外にも目を向けると、彼女の隣の人にも、さらに隣の人にも、黒い模様があることに気づいてしまう。顔を上げると、教師が白いチョークを握る指先、いや手そのものが黒い。
 嘘だ、まさかと思って千秋と和田を見る。……千秋は捲った袖から見える腕が。和田は髪をまとめ上げた首元が。
 ……一刻も早く、原因を突き止めなければならない。


 放課後。
「なあ、俺に不満ってある?」
 単刀直入に聞いてみた。当然、対象は和田と千秋になる。二人は顔を見合わせると、和田は俺の手首から脈拍を、千秋は俺の額から体温を測り始めた。
「脈拍は正常」
「熱もなし!」
「おい」
 確かに病気を疑うほど変な質問ではあるけれど。自分から見る自分と、他者から見る自分の乖離は必然だ。だから、俺に近しい二人からの意見を求めた次第だ。
「んなの聞いてどーすんだよ?」
「えーと……今後の行動の参考にする」
「なんだそりゃ。坂上最近変、それが不満!」
 なるほど。ただ、その不満を解決するための聴取である。この点に関しての解決は先送り。
「不満なあ……頭脳? 半分もあれば、絶対今日のテスト平均超えられた。くれよ!」
「それなら私、坂上の運動神経は羨ましいと思うわ。ちょうだいな」
「あー。坂上やたら水泳強いよな。走るのは俺のが速いけど!」
「あなたは逆に静止の方向……落ち着きとか見習いなさい」
「毎日宿題ができる強い精神力とか、宿題忘れないで家に持ち帰れる記憶力とか?」
「ついでに顔面偏差値ももらっておきなさい」
「俺そんなに不細工!? 平均は取れてるだろ!」
「自分で言うの? ああでも、人を惹きつける魅力っていうのも、悪くないかもね」
「いや、俺から二人に能力をプレゼントする企画じゃないんだけど」
  脱線してしまった。でもこれは、彼らが欲しがるものを俺が持っている、ということか。
 ……質問を変えてみよう。
「じゃあ、俺から何かしらの能力がもらえる状況で、能力の譲渡を拒否した場合、「憎い」とか、「殺したい」とか思うか?」
「まーた物騒だな。やっぱ変だぞ坂上」
 千秋は首をかしげながらも、ちゃんと答えてくれる。
「んー、普通に諦めるんじゃね? つーかさ、能力もらえないなら、自前の能力をパワーアップさせる方法を教えてもらえばいいんじゃん!」
「あら、千秋にしてはまともな意見ね。……私は、正当な譲渡拒否の理由を示してくれれば文句は言わない。あなたを殺して能力が手に入るとしても、そこまで欲しいとは思わないわね」
 思ったより冷静な反応だが、普通はそうだろう。誰かを殺したくなるほどの強い感情なんて、なかなか持てるものではない。そして、先ほど不満として挙げられた「頭脳」や「身体能力」は、諦めがつく程度の望みでしかないのだ。これらが悪心を生む原因とは思い難い。
 では、俺を殺そうとする悪心の根拠とは、一体なんなのか。どれほど強い感情があるのか。……もし、それを目の前の親友が抱えていたとして。彼らはそれを素直に教えてくれるのか?
「ああ、でも」
 ふと、和田が付け加える。思わせぶりに微笑んだ。
「受け渡しされる対象がどれだけ欲しいか、相手がどんな人物か、自分の精神状態……あらゆる条件で、結果は変わるわよね」
「同じ状況でも、それを構成する要素によって結末は変わる……って?」
「今の場合、私は「あなたから運動神経が欲しい」と言ったけれど。私にとってその優先度は高くないし、あなたを傷つけてまで欲しいとは思えないから、身を引いた。でも、成績が振るわない、大会間近の運動部員とかがそう考えたら、どうなるかしら」
「……要は、価値観?」
「そうね。不満とか憎悪とか、自分と他人を自分の価値観で測って、その優劣で生まれる感情でしょう。今の私は、坂上を憎みたくなるほどの不満はない。でも条件が変われば私の意見もころっと変わる。何に悩んでるのかは知らないけれど、これでいいかしら」
 多分、彼女はこう言いたいのだ。「くだらんことを訊くな」と。人の感情も価値観も千差万別。昨日好きだったものが明日は嫌いになれる、身勝手なところが人間らしさ。ころころ変わるものに、絶対唯一の解答を期待した俺が浅慮だったようだ。
「……ああ、理解はできたよ」
「えっ、俺は全然理解できてない!」
「千秋には難しいかもね」
「俺ばっか仲間はずれにすんな!」
 問答は終わった。俺は一定の成果を得たものの、結局問題は解決していない。
 憎しみを抱く条件が人それぞれならば、俺個人に対して幾多の人間が同じ感情を強く抱くことは難しいはずだ。前提が間違っているのか? 悪心に狙われているのは俺。悪心は俺以外の人間を操っている。彼らが俺に向ける感情の内容、そしてその数が、不確定なままだ。つまり……つまり?




 次の日。朝
 寝坊したため、走って生徒玄関を潜り抜ける。生活指導の先生には挨拶を忘れない。
 昨日は家に帰ってから、悪心の原因についてとことん考えていた。正直、見ず知らずの人に黒い模様が出ても緊迫感はなかったけど、友人に現れたのを目撃しては……受け身ではいられない。俺は和田や千秋に殺されたくないし、彼らにそんなことをさせたくないし、青冴たちに彼らが敵と認識され、ぶん殴られる様を見たくない。これ以上の深刻化を防ぎたくて、俺はひたすら頭をひねった。
 成果は……推測でしかないが、一つ。自信はないし、何より根本的な解決になっていない。解決するなら、やはり悪心を殺すか俺が死ぬかのデッドオアアライブしかないと思う。
 階段を一段飛ばしで駆け上る。死にかけた記憶を思い出す暇もない。悪心との攻防は命がけだが、学生にとっての社会である学校の規律を守ることも、また重要な問題なのである。悪心が消えても俺の学校生活は続くのだから、生き延びた未来のための布石を打つ。
 教室がある階に到着した。
 そして、その異様さに足が止まる。
「……?」
 まだチャイムは鳴っていない。普段なら、廊下にまで生徒が溢れて益体もない雑談が反響しているはず。だというのに、まっすぐ続く廊下には足音の一つもない。
 こんなの、明らかにおかしい。無音が威圧感すら伴って、すぐそこに構えている。一昨日似たような状況を体験したから、大方の予想はつくが、どうする? このまま突っ立っていたら、青冴たちは来てくれるんだろうか? でも、まだ何が起こったわけでもない。もしかしたら、世間の学生の間では無音を好むブームでも来ているかもしれない。……無理あるけどな、うん。
「……まあ、大丈夫だろう」
 呟いてみる。何もなければ御の字だし、これが悪心の仕業なら、あいつらがすぐ察知して来てくれるはずだ。一応、最初に襲われた時は先輩の攻撃を何度か避けられたのだし、少しの間なら一人でもなんとかできる、と思う。そう信じる。
 リュックの肩紐を強く握り、廊下を歩き出す。靴底の音が嫌に響く。夕方や夜の学校には非日常的な雰囲気があるけれど、朝っぱらからそんな異次元を味わえるとは思わなかった。むしろ異次元であればいいと思う。感情の実体化とか、人を操って襲うとか。なんでこんな現実で、そんな非現実が起こり得るのか。「そういうもの」だと彼らは言っていたが、それこそ彼らの武器と力で徹底粉砕していただきたい。
 扉の前。教室からは音がしない。息を潜めて獲物を待っているのか? 嫌な雰囲気はビシバシ伝わってくる。しかし、俺は廊下を歩き始めた時点で覚悟を決めているのだ。踵を返す選択肢はない。勢いをつけて引き戸を開けた。
 がらっ。
 ……時間が止まったように静止するクラスメイトたち。黒くはない。友の姿を探して、和田がいるのを確認した。千秋は……いない。このタイミングで遅刻しているらしい。今日は間に合わないかもな、あいつ。
 やはり突っ立っていても埒があかない。一歩、教室に足を踏み入れてみる。
 瞬間。
「っ!!」
 全員がこちらを見た。同時に彼らがみるみる黒に染まっていく。足元から黒い煙が溢れて、まとわりついて、膨張する。顔まで黒くなると、目や口などといったパーツも視認できなくなった。人というよりは人形か。悪心に操られるまま動く、真っ黒な人形。
 がた。がた。一人、二人と椅子から立ち上がり、ぎこちない動きを見せつけてくる。彼らの目標は当然扉、俺のいる方。
 最早明白。彼らは、悪心は、俺を殺そうとしている……!
「くそっ!」
 何とはなしに罵倒し、踵を返して教室を出た。あの動きなら、走れば十分引き離せる。
 ばんっ! 隣の教室前を走り出した途端、窓から衝撃音がした。反射的に目をやって、後悔する。曇りガラスに手形が並んでいた。一つや二つではきかない……数えるのも面倒で、前を向いて走り出すも、俺を追いかけるように音が鳴る。ホラー演出としての恐怖というよりは、現実的なそれが体に這い上がった。だってその教室の中に、悪心に憑かれて俺を殺そうとしている奴が、複数人いる計算になる。さらに後ろからは扉の開く音。確認する余裕も必要もない。ひたすら駆け抜け、階段を降りる選択をする。
 ちらと後ろを見ると、黒い人の大洪水。明らかにクラスメイト以上の人数によって形作られた波濤はゆっくりと、しかし確実に俺に向かって迫っている。どうすんだよこれ!? 俺が原因を究明したところで、どうにかなる問題なのか!? っていうか本当に意味わからん、こいつらが抱えている俺への感情は何なんだ!!
 なかなか解けない難問に怒りを覚えながら、階段を下りきって一階に辿り着く。と同時に、足音がした。後方ではない、前方から。
「いやー、派手に集めたねえ坂上君」
「「集まった」の間違いでしょう。坂上さんにその意思はありません」
 俺への皮肉が混じった言葉すら、ありがたく思う。そこには青冴と深紅がいた。既に杖を持ち、階段を崩れ落ちる黒い波を見据えている。
「しっかし、面倒臭いパターンだね。人の精神の強さに驚く反面、うんざりする」
「それは坂上さんの前で言うべきことですか」
「いやまあ、半分くらいは彼への当てつけえぐっ」
 どすっ。深紅の拳が青冴の腹に直撃する。この二人の組み合わせは初めてだ。深紅ってもう少し大人しいイメージを持っていたが、武力行使するタイプなのか。……いやいや。
「待ってそんな朗らかな会話してる間に悪心たち迫ってきてるんですけど!!」
 黒い波の先頭が、一階に降り立った。やはり動きは遅いが、明らかな敵意に気圧される。
「君は俺が深紅に殴られるのを「朗らか」って表現するわけ? センスどうなってんの……」
「あなたが血みどろにならないだけ、平和的な解決だったと思いますけれど」
「本当、俺のジョークに容赦ないよなあ、深紅って」
 ぶん。軽口の中で、青冴が杖を横に薙いだ。
 ざばん。杖の軌道を境界にして、悪心に操られる人波へと、リアルな水の波が襲いかかる。波と波のぶつかり合い。しかし人工物が自然現象に弱いのは自明の理だ。神の御手による透明な災害が、黒を飲み込みなぎ倒す。
 波が静かになると、目の前には水浸しの床と死屍累々……いや、死んではいないが苦悶の声をあげる生徒たちがうずくまっていた。誰も黒くない。青冴の一撃で悪心が払われたのだろう。……見回して、和田を認める。いつも綺麗にまとめている髪が見る影もないが、呼吸は見て取れる。無事そうで良かった。
 しかし、安心できない事柄もある。倒れた人々の中心で、真っ黒な男が一人、立ち続けている……。
「あれが悪心の中心、核でしょうね」
 黒い男は変貌する。腕がひしゃげて樹木の枝のように伸び、体は膨張し、顔からは涙のように血のように、黒い液体が零れ落ちる。それは床に広がる水を濁して揺らめいた。
「これだけの人間を操った悪心。相当手強いですよ」
「大丈夫。覚悟は決めてるし、死ぬ時は一緒だ」
「勝手に死ぬ前提で話をしないでください」
「はいはい」
 気の抜けた会話と、気がかりでならない変化。黒は膨張し続け、ついに廊下に収まらなくなって体を捻じ曲げた。腕部は壁に張り付き根を張るようにして、やがて俺たちを通さんとする壁になる。狭そうに逆さまになった頭……目もない漆黒の顔のくせに、なぜか視線を強く感じた。ここまでくると、あの男が俺の知人であるかなど、判別できるわけがない。
「じゃあ、殺しますか」
「ええ、殺しましょう」
 二人が同時に飛び出した。それを迎えるように、張り巡らされた腕から新たな腕が生えて襲いかかる。ざばん、青冴はそれを水塊で叩き落とし。ばごん、深紅はそれを爆発ではねのける。一直線に二人が狙うのは頭。けれど相手も簡単に攻撃させる気はないらしく、腕をいくつも生やして、どがん、ずごん、と強烈な張り手をかましてくる。おかげで床はヒビだらけ……って。
「待って、そこでぶっ倒れてる人たちは!?」
 悪心に注目しすぎて、奴の周りに無関係無抵抗無意識な人々が大勢転がっているのを失念していた。放っておけば、あの強烈な張り手を喰らってしまうだろう。そうなった場合……いや、考えたくない。安全な場所に避難させたいが、一人では無理だ。
 俺の、絶妙に内容の伴わない指摘に、青冴が振り向いて答えた。
「大丈夫。それは俺たちの専門じゃないから、放っといて」
「何が「大丈夫」要素か教えてもらっても!?」
「俺たちは殺すの専門なんだよね。守るのは、別の奴」
 黒い手が迫る。青冴は杖を構えようとしたが、突然前進を止めて後ろに下がった。深紅も同じ動きで攻撃を避ける。ばがん。床に手をついた悪心は、二人を掴むように手を伸ばした、が。
 めり、めり、べきっ、ぼきっ。嫌な音がした。本来そうしてはいけないものを無理に引き裂いているような、やけに生々しい音だ。みし、みし。悪心がぎこちなく痙攣する。気味の悪い呻き声が聞こえてきて、それが悪心の発したものだと気づいた。
 ぶち、ぶち、ぶち、ぶち。目に見える変化が現れる。悪心による黒い壁の隅……人体をねじ曲げて構成していることを鑑みると足、腿の部分か。そこに亀裂が走っていた。亀裂は少しずつ広がり、やがて廊下の向こう側の景色が見えてきた。それだけでなく、何者かのシルエットも見える。小柄なそれは道埋だ。彼が、悪心を素手で引き裂いている。
「んー……、えいっ」
 可愛らしい掛け声とともに、道埋が悪心の壁を一気に引き裂く。悪心の声にならない叫びが廊下を駆ける中、道埋は平然と裂け目を通ってこちらにやってきた。何をするのかと思ったら、倒れた人々の回収を始める。複数人を軽い荷物のように抱えて、裂け目に放り込んでいく。
「えっ、な、何してんの?」
「巻き込まれた人の回収。言ったでしょ、「人を守るのは他の奴」って」
「いや、確かに悪心の目の前にいるよりは良いかもしれないけど……あれでいいのか?」
 どかんどかん。深紅が杖を振る。痛みからか見境なく振り回される腕に、炎をぶち当てていた。深紅はそのまま俺の近くまでやってくると、道埋に声を掛ける。
「翡翠も来ていますか?」
「向こう側の教室に結界、張ってる。この悪心、背面に攻撃機能ないから、そこに人を隔離すれば、安全」
 道埋の声は小さいが、なんとか聞き取れた。結界というのは、前に悪心を弾いた光のことか。あれで皆が守られるなら安心だ。できれば俺もその結界で守られたい、とちらりと思ってしまうが、そうもいかない。俺には悪心と真正面から向かい合う義務がある。
 深紅と青冴の援護を受け、道埋の救助活動はあっさり終わった。最後の一人を投げ込むと、道埋はとことこやってくる。
「僕が坂上を守る。二人は引き続き、あれ、よろしく」
「了解しました」
「はーいはい」
 道埋を守っていた二人が、攻撃に転ずる。悪心は痛みと怒りによって攻撃速度と威力が増しているように見えたが、二人の動きもそれを予測していたように、先ほどよりもキレている。どごん、ずだん、ぼこっ、だばん。聞きなれない闘争の音が、廊下に打ち付けられて響き渡る。
「えーと……道埋、お前は戦わないのか?」
「……僕が前線で戦うと、リスクが高い。だから、最後の手段」
 話しかけると、道埋は肩越しに目線をこちらに投げ、答えた。あれだけの力があるならものすごい戦力になりそうだが、そう単純な話でもないらしい。
「あのでかい悪心に、深紅と青冴の二人だけで大丈夫か?」
「確証はない。けど、二人は強い」
 「信じろ」と目が訴えている。そりゃあそうだ。俺が信じなくてどうする。
 思ったより会話が通じているので、道埋との会話を続けることにした。というか、それしか出来ることがない。
「あれが、俺に向かっている感情、悪心の親玉ってことでいいんだよな?」
 首肯。
「あれ、人間らしからぬ姿に変貌してるけど、悪心を追っ払った後、ちゃんと人間に戻る……?」
 首を横に振られる。……え?
「じゃあ、どうなる?」
「死ぬ」
 道埋が悪心を見やった。
「強い悪心は、憑いた人間を悪心に変える。あれは手遅れ。殺すしかない」
「そう、か……」
 目の前の悪心……いや、悪心に憑かれた人間は死ぬ。そういえば、最初に青冴がそんな説明をしてくれた気もする。
 目の前で人の姿も保てず暴れるあの男が死ぬのは、俺のせい、なんだ。
「俺に、何かできることは?」
「ない」
 道埋は即答した。
 どがん。そこに一際大きい衝撃音。発生した風に目を閉じる。どたん、がしゃん。
「うわ、痛ってえな! こんなん久しぶりだわ」
「……ここまでよく成長した、と褒めたいくらいです」
 目を開けると、すぐ近くに青冴と深紅が転がっていた。先ほどの衝撃で吹っ飛ばされたのだろうが、とにかく怪我が目立った。服が汚れ、血が出ている箇所も見受けられる。悪心の方は真っ黒で怪我や傷など見えないが、腕が折れていたり頭部が凹んでいたりと、攻撃の跡は確かにあった。次の攻撃をなかなか仕掛けてこないのは、向こうも疲弊しているからなのか。
 杖を支えに、二人は立ち上がる。
「こうなる前に叩ければ楽だったねえ」
「追い詰められている現状、そう思わずにはいられませんね」
 俺ではない誰かが、俺が原因で発生した問題と命のやりとりをしているところを、俺自身は黙って見ている……なんて無力なんだ、俺は。
 かける言葉が見つからないまま、二人は今一度悪心へ走り出した。炎が散り、水が舞い、黒が踊る。目にも留まらない攻防が繰り広げられる中、俺は道埋に訊いた。
「あの悪心は、俺が原因で生まれたんだよな」
 首肯。けれど言葉が続く。
「君に起因する。けど、君だけが原因じゃない」
 意味不明、とは思わなかった。そういうことなのかもしれない。
「誰かが俺に向ける強い感情、それが悪心。間違ってないよな」
 首肯。ならば、と俺は自分の中で出した推測を思う。この状況で、この悪心の起源を知る事にさしたる意味はないのだろうけれど、考える事自体には意味があったはずだから。
「あれは、俺の一つの行動に対する複数の人間の一つの感情ではなくて、俺の複数の行動に対する複数の人間の複数の感情……なんじゃないのか?」
 道埋は無表情のまま、少し驚いたような声を出した。
「……大体、合ってる」
「一応、彼らの雑多な感情には、一つの名前が付けられると思うがな」
「翡翠!」
 なぜか俺たちの後ろ、つまり道埋が人を投げ込んだ方とは反対側から、翡翠がやってきた。服が妙に汚れているが、怪我はしていない。道埋が駆け寄ったと思ったら、俺から隠れるように翡翠の後ろに回った。な、なぜ。
「道埋は誰に対してもこうなんだ。こいつにも事情があるんで、許してやってくれ」
「別に怒ったりとかはしないけど……」
 さっきまでの会話は、彼なりに頑張ってくれていたのか。なんだか申し訳ない。
「ところで翡翠、何でこっちから来たんだ? 悪心の向こう側にいたんじゃ?」
「あの悪心、俺の結界を察知して、前面に展開していた腕のいくつかをわざわざ裏に回して攻撃してきてな。結界を壊すほどの力はないようだが、俺が近づけないんで、別の教室の扉を突き破ってこちら側に回ってきた」
 よく見ると、翡翠の後ろにある扉がひしゃげていた。冷静な割に強引だな……。
 いや、それより気になるのは、彼の最初の言葉だ。
「さっき言ってたけど、俺の推測はどれくらい合ってる?」
「道埋が言った通り、大体。より正確にするなら、坂上の複数の行動に対する複数の人間の一つの感情が、あの悪心になった。元になる感情が多いんで、こうも強い悪心になったわけだな」
「一つの感情……?」
 それは、俺の推測において大きなミス。多岐に渡る感情だからこそ、悪心に起因する黒い模様を持った人に問うても断定できない悪心なのでは、と思ったのだが。
 翡翠は俺の思考を読んだように、小さく首を振った。
「いや、この感情は同じ名前がつけられるだけで、その中身まで同じわけではない。名前というより、同じカテゴリに振り分けられる、と言おうか? クマもウサギもネコも違う生物だが、動物というカテゴリにまとめられるように」
 悪心を見る。黒い巨体。異形の暴力。人をそこまで堕とす感情は。
「坂上。学業はどうだ」
「は? え、何で今?」
 翡翠の問いの意味が分からず、変な声が出る。だが翡翠は真面目な顔をしていた。
「推測を決定づけるために必要なことだ。数値で表せる成績は、どの程度だ?」
「……通知表で言うなら、十段階評価で……大体八、かな」
「優秀だな。次、運動は得意か? 先ほどの問いと、若干重複するかもしれないが」
「保体、体育は……陸上と水泳は好きだな。得意、とはちょっと違うかもしれないけど」
 意図が読めないながらも答えると、次は道埋がひょこりと顔を出して言った。
「坂上、告白されたことはある?」
「え? 告白?」
「方法は問わない。手紙でも口頭でもメールでも、誰かから好意を告げられたことは、ある?」
「そっ、それ本当に意味ある!?」
「ある」
 曇りない目でまっすぐ求められては、応えるしかなかった。
「……ある」
「じゃあ、あの悪心の中身はほぼ決まり」
 そこまで言うと、道埋は翡翠の後ろに引っ込んだ。もう喋る気は無いらしい。翡翠は小さく息を吐くと、俺を見た。
「あれは嫉妬だ」
 簡潔な言葉を、口の中で反芻する。嫉妬。嫉妬。嫉妬。妬み、羨望……それらが凝り固まったものが、あの黒だと。それが、俺に向けられた不特定多数からの感情であると言うのか。
「文武両道で、誰かからの好意を受けるということは、外見及び内面に一定以上の価値がある、ということになる。ああ、十分嫉妬の、よく言えば羨望の対象だな」
「ま、待ってくれ。成績ならオール十取りまくる成績優秀者なんてザラにいるし、運動なら、それこそ同じクラスで全国大会行っちゃうような奴いるし、告白だって、その数五本の指に余裕で収まるぞ? 特定の人と付き合ってもいない、恋愛経験もない。俺より優れた奴はこの学校だけでも山ほどいるのに、何で俺なんだ!?」
 混乱した。俺は悪心がどのようにして生まれたか、の推測はできたが、感情の内容については分からなかったのだ。精々、俺の行動のいくつかを鬱陶しく思う奴がいたんだろうとか、その程度の予想だった。肩がぶつかったとか、授業の片付けが下手とか、そんな小さな不満の積み重ねだろう、と。
 嫉妬? 俺が嫉妬の対象? 勉強なら料理や裁縫、工作といった実技系は苦手だし、運動も球技となると目も当てられない感じになる。ジャンルを問わなければ、俺の欠点や苦手なことは嫌という程挙げられる。そんな奴が嫉妬されるのか?
「俺はそんな……そんな、完璧じゃない」
 呟く。けれど翡翠は、緩く首を振った。そして残念そうな声で言う。
「……ああ、坂上は決して完璧ではないのだろう。けれど、その主観は無意味なんだ。お前への嫉妬は客観から生まれた。お前に欠点があるとしても、見えなければ無いものと同じだ。坂上の欠点を見つけられない他者が作り上げた「坂上」は、完全無欠の天才だった。その誇張された妄想が、羨望と嫉妬の対象になってしまった」
 ……つまり俺の言葉など、反論など、現実など受け付けないのだ。俺を評価する相手が、俺を「欠点のない何でもできる天才」なのだと妄想してしまった。その偶像に集められた身勝手な嫉妬が、今現実において決して天才などではない俺の前に現れている。俺を殺そうとしている。
 悪心を生み出したのは俺のせいだと思っていた。友人すら巻き込んでしまったこの騒動は俺が原因で、だからこそ責任を負う覚悟も決めていた。だがどうだ? 確かに俺がいなければ、俺が思わせぶりな振る舞いをしなければ、誰彼の中で勝手な偶像が出来上がることもなかったのかもしれない。そういう意味では、俺が原因であり、自業自得なのだろう。
 でも。
「理不尽じゃないか……。勝手に俺を作り上げておいて、勝手に嫉妬しないでくれよ」
 溢れた言葉は呆れと怒り。「俺が起因だが、俺だけが原因ではない」という道埋の言葉に納得する。力が抜けて、ふらつきそうな足を何とか支える。
「……あまり自分を責めるな、坂上。お前は悪くない」
 喋りながら翡翠が杖を出した。間髪入れずに振り下ろすと、ばちん! 会話の間に迫っていた悪心の腕を弾いた。
 青冴の声が飛ぶ。
「あー、悪い! 正直ちょっと面倒見きれねえ!」
 目を向けると、青冴も深紅も、見慣れた廊下も壁も床も、満身創痍だった。二人の横顔からは余裕が消えている。悪心も、木の枝のように張り巡らされていた腕が何本も消えているし、元からねじれている体も余計にひしゃげているのだが、なにぶん真っ黒なので怪我や血痕などの生々しい傷が見つけられない。まるでこちらばかりが被害を被っているように錯覚してしまう。
「こちらに構うな、自分の身は自分で守る」
 言葉の通りに、翡翠は杖を振って悪心の攻撃を片っ端から防ぐ。腕の数は減ったのに、前方の二人と後方の俺たち、両方を攻撃する作戦のようだ。割合は、こっちの方が多い気がする。
「なるほど。本来の目的である、坂上さんの殺害を優先した、わけですね」
 深紅は肩で息をしながら、どかん、ばこん、悪心の腕を払いのけ本体を殴打する。本体への攻撃に対して回避行動はないため、ダメージはしっかり入っているはずだが、いかんせん耐久力と腕の攻撃力が高く、決定打には至らない。深紅がより深く、一歩踏み込む。
 不意に、悪心の本体が膨張した。
「っ!」
 深紅の目の前に巨大な手が生まれた。真正面から捕まれ、握られ、叩き落とされる。どごっ。床に激突した彼を押さえつけたまま、さらに横から別の腕が伸びる。
「何してんだ、よっ!!」
 ざしゅっ。青冴の杖から水が溢れ出して鋭利な刃物になる。深紅に迫る腕を中途からぶった切ると、深紅を圧迫する手も返す刀で切り裂いた。
 唸る悪心には目もくれず、青冴は一直線に深紅へと駆け寄る。深紅は蜘蛛の巣のような罅に覆われた床の上、仰向けに倒れていた。立とうとしない。
「……深紅、立てる?」
「ああ……ちょっと、無理、です」
 弱々しい返事の途中で咳き込む。その度口元から赤いものが溢れた。深紅の腕は床を押すが、とても体を持ち上げられる強さではない。ごぼっ、とより多量の……血を吐く。
「いくら非力な体とはいえ、完全に失態、ですね……」
「深紅、動くな。黙ってれば回復できるだろ。その間は俺が」
「いえ……回復するまでの時間が、勿体無い、です」
 深紅が視線を悪心に向けた。悪心は二人を捻れた首で覗き込み、数多の腕で囲い込むようにしている。さらに、深紅を捉えた巨大な手が、二つ。今決しつつある勝敗をさらに決定づけるため、万全の準備をしているのか。
「それで使い捨てる体が勿体無い、とかは思わないわけ」
「私たちの目的は、自己保存じゃないでしょう。悪心を殺すこと、悪心に狙われる人を、守ること。それだけは、貫かなければならない」
「……そう、だね」
 青冴が諦めたように呟く。顔が陰って、よく見えない。ただ、胸の中で嫌な予感だけが膨らんでいく。でも、だからって、二人を悪心から守れるような力は、俺には無い。
「離れていてください……。多分、殺しきれません。後を任せます」
「わかった。待ってて」
「はい。待っています」
 その言葉が終わる瞬間、黒く巨大な手が、二人を覆った。二対の闇は降り落ちて……青冴だけが、避けた。
 どごっ。手が一点、深紅に収束し、圧し潰した。
 ……ばんっ!!
 そこを起点とした、大爆発。翡翠が結界を張ったけれど、強い光、熱風、爆音が感覚を殴りつける。咄嗟に目を閉じて顔を腕で覆っても大した意味はなく、俺は嬲られるまま、ひたすらそれらの暴力が鎮まるのを待った。
 ……数秒か、数分か。服を引かれる感覚で、腕を解き目を開ける。服を引っ張っていたのは道埋だった。何事もなかったような無機質な目が、俺を見上げている。
「坂上、無事?」
「……あ、ああ。大丈夫」
 道埋は小さく頷いて前を向いた。俺も倣う。振り返った翡翠と目が合うと、彼は結界を解いた。薄緑の光が消えて現実を直視する。
 建物には、それまでの戦闘の跡はあっても爆発の痕跡は一切なかった。あれだけの熱を感じさせながら、燃えたものは一もつない。在るのは水を払う傷だらけの青冴と、人間サイズの悪心。
 ……いない。
「……どういうこと、だ?」
 深紅は、どこに行った?
 爆発の直前まで横たわっていた場所には、罅と血痕しか残されていない。深紅自身の姿は、肉体は、どこにも見当たらなかった。……いや、本当は分かっている。前後の状況からの推察は容易だ。だけど、それを認めたくない。信じたくない。
「長谷川=深紅は死んだ」
 逃げようとした結末は言葉になって耳に、脳に差し込まれる。発したのは道埋だった。
「あの爆発は「深紅」の力。だけど「長谷川」の、人間の体では耐えられない。だから、死を覚悟して使う、文字通り全身全霊の一撃」
 説明されるが、俺には最初の一言で十分だった。「深紅は死んだ」。それが悪心のせいであるならば……悪心を生んだ、俺の、責任だ。
「……っ」
 俺のせいで人が死んだ。その事実が胸から喉にせり上がってきて、呼吸を阻害する。生理的なものか感情的なものかはわからないけれど、涙がじわりと溢れた。
 息苦しさに耐えていると、青冴が振り向いた。いつも通りの軽薄そうな、けれど少し疲れたような笑顔だった。彼は翡翠に声をかける。
「じゃ、俺もさよならだ。またね、翡翠、道埋」
 軽く手を振って、青冴は前を向く。もう二度と振り向かない気がした。止めたかったのに声が出せなくて、結果何もできなかった。
 青冴が悪心に向かって歩いていく。彼の杖にはめ込まれた石が、ぱりん、音を立てて割れた。杖ごと空気に溶け消え、青冴自身にも変化が現れる。ぽた、ぽた、と彼から音を立てて落ちるのは、血ではなく透明な水。水は彼の足元に渦を作り、うねって白い飛沫を上げた。
 相対する悪心が、傾いだ体から声を吐く。意味の分からない、胸に嫌な感覚を与える不快な音。その音はしかし、青冴が生み出す渦の音に押し流されていった。嵐の中にいるような、水の音が満ちる。
 何かが猛烈に光った。水に反射して輝きを増した光が、いきなり目に突き刺さる。咄嗟に目を閉じた、瞬間。
 ばんっ!!
 二度目の音が、光が、圧が、他の何かが、あるいはその全てが。俺の意識を今度こそ破壊する。


「……」
 視界には電灯があり、広がる壁面が天井であることを認識する。俺は仰向けに寝ているわけだ。既視感あるな……ああそうだ、保健室の天井。ごく最近、保健室のベッドで寝たんだった。あの時はどうして保健室に……。
 思い出す。
「っ!!」
 体にかかっていた布団を跳ね飛ばして起きた。前には閉ざされていた仕切りのカーテンがかかっておらず、保健室を見渡せる。右を見て、左を見て。
「坂上、起きた」
「そうか、良かった」
 ソファに座る道埋と、その横のパイプ椅子に座る翡翠を確認した。
 何から話していいのか分からずにまごついていると、翡翠が立ち上がった。自分がかけていたパイプ椅子の背を掴むと、俺が寝ているベッドの脇にそれを置き、座り直す。……前に保健室に運ばれた時、その位置にいたのは青冴だった。彼の姿は今、見当たらない。
「気分はどうだ? 痛む場所や、不調は?」
 翡翠に問われ、意識を体に向けてみる。途端、脈動に応じた痛みを知覚した。飛び起きてから今まで気付かなかったのが不思議なほど、その存在は大きい。
「……頭が、痛い。いや、全身……? 全身痛い」
「まあ、動けて喋れるなら大丈夫か。とりあえず横になれ、安静にしたほうが早く回復する」
 軽く肩を叩かれ、その重みに従うように横になる。確かに寝た方が体が楽だった。倦怠感と疲労を嚙み殺して、枕元の翡翠に問う。
「青冴は」
「……死んだ」
「……そうか」
 予想はしていた。あの表情、あの言葉、あの状況、あの衝撃。しかし予想していても希望してはいなかった回答に、胸が苦しくなる。
 彼が死ぬ直前、俺が意識を失う直前までの光景を思い出して……その中にもう一つの疑問を見つけた。
「悪心は?」
「あの場にいた悪心は殺した。残っていたとしても、人間が抱いても害のない、少量にして適量の感情だろう。お前に実害が出ることはないはずだ」
「……つまり、あの時悪心の中心にあった人間は」
「……死んだ」
 強い悪心は人を悪心そのものに変える。強い悪心を殺すということは人間を殺すことなのだと、道埋は教えてくれた。名前も知らない上俺を殺そうとした奴に、憐れみは無い。そんな薄情な思いと同時に、俺がそいつを巻き込み殺してしまった事実が、罪悪感として共に残された。
 三人も殺してしまった。直接的ではないにせよ、俺を起点として三人も。ただの高校生に背負える重さではない。しかも、それを罰してくれる人も赦してくれる人もいない。
「……重いな」
 ぽつりと呟くと、それだけで翡翠は意味を察したようだった。静かに目を伏せる。
「救いにはならないだろうが、今回の悪心による一連の事象が終わった今、その中心にあったお前は認識介入の対象だ。つまり、今回の悪心に関連する全ての事柄を忘れることになる」
 前に廊下でやったあれのことか。悪心と翡翠、深紅の攻防を目の当たりにしながら、興味を失くしてその場を去っていく生徒たちの姿を思い出す。俺もあんな風になるのか。全部無かったことにして。命を賭けて助けてくれた人のことも忘れて。命を奪った罪も忘れて、のうのうと生きるのか。
「あんたたちのことも、忘れなきゃいけないのか」
「そうだ。俺たちは本来、存在してはいけないから」
「やめろよ」
 胸がぐちゃぐちゃになっていく感覚。怒りか悲しみかも判別がつかないが、何にせよ疲れた体で感情を制御できるはずもなかった。思ったままを言葉にして叩きつける。
「命の恩人が「自分は存在してはいけない」なんて言ったら、俺は生きられない。悪心がいてあんたたちがいなかったら、階段を突き落とされた時点で俺は死んでるんだ。そんなこと言ってんじゃねえよ! あんたたちがいたから、たとえ犠牲が出たとしても……少なくとも俺は、悪心に殺されなかった! 存在してくれたから、俺は生きてるんだ!」
 息が上がる。あまり意味の通った言葉にはなっていないかもしれないが、とにかく、俺が生きているのは彼らのおかげなのだと、感謝したかった。他者の命を奪ったくせに、厚かましくも生き延びたことは、間違いなく嬉しいのだ。
 少しして、翡翠がため息を吐いた。
「……すまない。お前の感情に対して失礼だった。俺たちを「忘れたくない」と思ってくれるのなら、忘れる瞬間までそう思っていてくれるだけで十分だ」
 当然だった。できることなら、認識介入など受けずに覚え続けていたい。俺が全てを忘れたって、悪心がいる限り彼らは戦い続けるのだろうから。きっとこれからも悪心は生まれる。人に害を与える。人を殺す。そして彼らに殺される。
「……悪心と、これからも戦うんだろう? いつ、終わるんだ」
 母体である人がある限り、悪心が生まれ続けるならば。彼らはいつまで戦い続けるのだろう。
 翡翠の返答に迷いはなかった。
「悪心がいなくなるまでだ」
「そんなの……どれだけかかるんだよ」
「坂上が気に病む必要のないことだ」
「「気にするな」って方が無理だろう。悪心に対抗できるのはあんたたちだけなのに、二人も死んでるんだぞ。それで戦い続けるなんて無謀だ」
「大丈夫だ。深紅と青冴なら、すぐに戻ってくる」
 それは喜ばしいことのはずなのに、翡翠の顔も声も暗かった。だから俺も、純粋に喜ぶことができない。心の隅で少しばかり安堵しただけで、不穏な反応に戸惑う方が大きい。
 しかし、そんな小さな安堵でも引き金になり得たのか、猛烈な眠気に襲われる。視界が狭まっていくのを他人事のように感じながら、抵抗として会話を続ける。
「翡翠が匿った生徒たちは、全員無事だったか……?」
「そこは問題ない。悪心に操られたことも忘れている。……そうだ。眠る前に一つ」
 声を出すのも億劫で、吐息で返事をする。体は無意識の沼へ沈みかけていた。
「意識を飛ばしたお前をここまで運んだのは、お前の友人だ。「千秋」と言ったか? 異変に気付いて、悪心の影響に耐えながら身を潜めていたらしい。怪我はなかったんで、認識に少し手を加えただけで帰したんだが」
 突然千秋の名前が出てきて驚くが、もう反応はできない。眠い。眠すぎる。
「また会えたら、覚えていたら……礼を言ってやるといい」


「……」
 視界には電灯があり、広がる壁面が天井であることを認識する。俺は仰向けに寝ているわけだ。既視感あるな……ああそうだ、保健室の天井。ごく最近、保健室のベッドで寝たんだった。あの時はどうして保健室に……。
 思い出す。最近体調が悪くて、今日も眩暈がひどくて。運悪く階段で足を滑らせ、打ち所が悪くて意識がすっ飛んだんだ。身体を起こすと、頭が痛む。腕にはガーゼが当てられていて、相当ひどい転び方をしたのだと間接的に知る。放置されず保健室のベッドに寝かされてるってことは、誰かが俺を回収、輸送して、養護教諭に話を通してくれたんだろう。
 ベッドを降り時計を確認すると、既に五限が終わろうとしていた。……まずい。今日の五限って、世界史のテストじゃなかったか? そもそも転んだのって、登校直後、ホームルーム前……。朝から寝てたってことは、今日ほとんどの授業をすっぽかしたことになる。
「最悪だ……」
 思わず声に出る。テストを落としただけでも面倒なのに、一日分の授業を落とすのはいただけない。普通は「休めたラッキー」と思うのかもしれないが、俺としては授業についていけなくなる方が怖かった。
 きーんこーんかーんこーん。五限終了のチャイム。今から行けば六限には間に合うだろう。テーブルを探ると問診票とペンがあったので、問診票の裏に授業に出る旨と名前を書いて、養護教諭の机に置いた。
 教室に向かいながら考える。授業を落としてしまったことは、今更悔やんでも仕方ない。けれど自主学習では対応しきれないだろう。こういうときは、頼れる親友に助力、を……。
「……?」
 なぜだろう。こういうとき、頼れる親友がいた気がするのに、名前が出てこない。




 週明け。放課後。
 週末は大変だった。学校から連絡を受けた母が心配して、あらゆる医療機関を巡る羽目になったのである。休診が多かったこともあり、五ヶ所を回る前に計画が打ち切られたのは幸いだったが……どこへ行っても俺は健康体、「特に問題はありませんね」などと言われて追い返された。母は不満げだったが、とりあえず健康管理をしっかりしよう、という具合に落ち着いた。
 そのあとは携帯電話の電話帳をあさって、友人に電話をかけまくった。落とした授業のノートを借りるためだ。何かと理由をつけて断ってくる奴が続出したが、何とか全ての授業をカバーすることに成功。今まではこんなに苦労してなかった気がするのだが……いや、現在の問題は、ノートを貸してくれた礼として、この後軽食をおごる約束になっていること。つまり財布事情。痛手ではあるが、それで感謝の意が伝わるなら喜んで金を出そう。
 世界史の追試を早めに済ませ、教室を出る。ノートを借りるついでにテストの傾向も軽く教わったから、出来は悪くないはずだ。吹奏楽部の練習音が響く廊下を急ぎ、階段を下りていく。
 三階から二階へ下りたところで顔を上げると、それが目に入った。
 窓から差し込む西日に照らされた、真っ赤な廊下に、黒い人がいる。
 認識した瞬間、強烈な既視感に襲われた。黒……消えない痣のような模様、それが人体を覆い尽くすと……人間とは思えない奇形にねじ曲がって……いや知らない、知らないんだ。だって俺は今日まで平凡な、真っ当な学生生活を営んできたはずで、あんな現実離れした事実を、人間離れした人形を、見たことなんてないはずなんだ。既視感だって、きっとアニメか何かで見たからだろう。あるいは意識を飛ばしていた間に見た夢とか。やっぱり本調子じゃないんだ、きっとそう、それしか思いつかない。この状況を「現実じゃない」と言い逃れるには、それくらいしか方法は……。
「坂上君だ。坂上君だ。何でも持ってる……みんながいいなあって言ってた、坂上君だ。いいなあ。いいなあ、いいなあいいなあいいなあ。欲しいなあ。欲しいなあ坂上君。その性能を全部、その才能が全部……憎いなあ」
 黒い人が、うわ言を呟きながらこちらに近づいてくる。俺はとっさに踵を返して階段を上った。悪寒が背中を這い回って、汗が伝う。頭では警鐘が痛いほど鳴らされる。逃げろ。逃げなければ死ぬ。知らないはずなのに、自分があれに敵わないと理解していた。対抗できない以上は逃げるしかない。
 三階に戻ったところで振り向くと、黒い人は俺のすぐ後ろにいた。顔を覗き込まれる。理由の分からない恐怖に襲われ、身動きが取れない。逃げなければ。でも立ち向かわなければいけない気もする。物理的に勝算はなくとも、心でこいつに……悪心、に、負けるわけにはいかなかった。だってこれは俺の、忘れたくなかった……人さえ殺した、業じゃないか。
「見ーつけ、たっ!!」
 ばきっ。突然の音と共に悪心が吹っ飛び、長い廊下の奥へと転がる。ああ助かった、また助けてくれたんだと思って、声の主を探ると……俺の思考はとうとう停止した。
「見事なフルスイングね。前より豪快じゃない、深紅?」
「大分動きやすい体なんだよなー。逆に青冴は動きづらくない?」
「少し、感覚は違うわね。でも健康体だし、困ることはなさそうよ」
「……って、あれ? やっべ、まだ悪心生きてた!」
「深紅の打撃を受けて生き延びるとは、頑健ね」
 ぶん。ずばんっ。
「……死んでる? 生きてる?」
「息はあるわ。悪心も残滓程度、影響は最小限。放っておけば起きるでしょう」
「そっか。やっぱし無駄に人殺しはしたくねーよなあ」
「それより、ねえ。深紅」
「ん、何だ? 青冴」
「こういう場面はなんて言うのかしら。修羅場? 土壇場?」
「ああー……別によくね、認識介入はしてんだろ? 思い出せるはずねーんだから」
「翡翠が言っていたでしょう、「記憶を改竄しても記録は消えない」って。悪心に襲われるショックと、私たちの姿。封じ込めた記憶を呼び起こすには、十分な要素じゃないかしら?」
「そっか、そーいえばそんなこと言ってた気が……ってことはやべーな!?」
「はあ……。体は良くても頭は若干難あり、ね。まあ、性能程度で私たちの関係が変わるなんてことは、無いのだけれど」
 ……なんで、どうして、今の今まで忘れ去っていた親友が、千秋と和田が、「深紅」「青冴」と、死んだはずの二人の名前で呼び合っているんだ……?
 混乱は言葉にできず、ただ呆然と二人の視線を受けた。千秋は赤い目、和田は青い目で、それぞれ火と水を彷彿とさせる。
 すっと和田が前に出た。
「私のこと、思い出したかしら。坂上?」
 乾いた喉で、なんとか言葉を絞り出す。
「……それは、和田として? それとも……」
「ええ、合格」
 彼女は満足げに笑うと自分の胸に手を当てて、滑らかに告げた。
「私は和田=青冴。後ろは千秋=深紅」
「……何なんだよ、それ」
 その名を聞いて回想するのは、満身創痍になりながら悪心と戦い、痕跡も残さず死に絶えた二人のことだ。
 ……同じ名を冠したということは、千秋と和田もああなるのか? 誰の記憶にも残らないまま戦い、遺体の欠片も残さずに死に絶え、戦って、死んで、戦って、死んで……そんなことを繰り返すのか? 千秋と和田は彼らと何の関係もなかったはずだ。つながるとしたら、悪心の影響を受けていたことぐらいで……だとしたら……二人が悪心と関わるきっかけになったのは……。
「……俺のせいなのか」
「和田と千秋がこうなっていることに、責任を感じる必要はないわ。彼らには拒否する権利があったのに、この道を選んだの。それは彼ら個人の意志であって、あなたには関係ない」
 反応する気力はない。感情の大波に揺られながら、情報を処理するので手一杯だった。
「簡単に説明すると、俺と青冴……あ、あと翡翠と道埋も。俺らって肉体を持たないんだ。魂……幽霊って言えば分かりやすいか? そのままだと知覚できないけど、人や物に乗り移って、人間に干渉してくるじゃん。ビビらせたり、なんかメッセージを伝えたり。俺らも肉体がないと、この物質世界を脅かす悪心に対抗できないんだよな」
「でも私たちの肉体は戦闘で壊れた。あなたも見たでしょう。だから千秋と和田に「肉体をくれ」と頼んだの。そうやって、この学校の人間の肉体を何度も取り替えて、私たちは存続しているの」
 感情が実体化するような世界だ。今更「肉体がない」だの「幽霊」だのといった程度で心は動かない。ただ疑問は湧く。
「じゃあ、なんでお前らなんだ。千秋と和田である必要性は、どこにあったんだよ」
「私たちがこの二人を選んだ理由は、悪心に近かったから。悪心の脅威を理解している人間なら、私たちの必要性を理解して、手を貸してくれる可能性が高いのよ」
「なら、やっぱり俺が、二人を巻き込んだから……」
「自惚れないで」
 和田がぴしゃりと言う。その辛辣な棘に、青冴の口の悪さを思い出した。いや、和田も元々こういう奴だったか。
「言ったでしょう、「これは二人の意思だ」って。私たちは相手の同意なしに、勝手に体を奪ったりしないわ。全ての経緯を話して理解した上で、二人は同意してくれたの」
 じゃあ千秋と和田は、俺が二人を危険にさらしたことも、人らしからぬ最期を迎えることも知った上で、体を譲ったのか。
「どうして、千秋と和田は同意したんだ。全て忘れて、普通に生きる道だって……」
「俺が入るために千秋の精神には退いてもらったんで、千秋の本心はもう分かんねーけど……「坂上に迷惑かけたから」ってのが一番大きいのかも」
 ……どういうことだ? 迷惑? それは俺の台詞じゃないか。
「千秋の気持ちが悪心の一片になって、坂上を殺しかけたから、その罪滅ぼしっつーか。「坂上や他の人を助けられるなら」って思った、と、思う! 青冴、じゃねーわ。和田は?」
「同じなんじゃないかしら。実際和田は悪心に操られて、坂上を襲おうとしていたようだし、罪の意識はより強かった、と思う。当然、「和田」として生きたいという未練もあったでしょうけど……自分と同じ人間を、後悔を増やさないために、手を貸してくれたんじゃないかしらね」
「……何、言ってんだ」
 確かに俺は悪心を憎んだ。悪心の原因を知って戸惑い、呆れ、恨んだ。けどそれは不特定多数へ向けた感情であって、千秋や和田を憎んでのことではなかった。確かに二人の感情はあの悪心の一部だったかもしれない。でも二人に悪心の黒い模様が出たのは、悪心が実体化する直前だった。それはつまり、力を蓄えた悪心でなければ彼らの心は動かせなかった、ということではないか。結果操られていようが、最後まで抵抗してくれたという事実だけで、俺は充分だった。
 ……そこまで考えて、何を馬鹿なことを、と気づく。そんな理屈をこねくり回さなくても、俺の気持ちが変わることなんてないじゃないか。ふっと肩の力が抜けた。
「……「罪滅ぼし」ってなんだよ。和田はともかく、千秋がそんな難しいこと考えてどうする」
「ひでえ! 確かに深紅から見て、千秋の精神年齢は幼いなって思わなくもないけど!」
「前の長谷川が冷静沈着だったから、ギャップが顕著よね」
「そういう和田は性別から変わってるけど。あんたたちにとって性別って関係ないのか?」
「私たちは精神、心そのものだから関係ないわね。感情に性差なんてないでしょう? 主になる人格、性別はあるけれど、使う肉体に近い精神を選んで肉体に入るのよ」
「性別は超越してる、ってこと?」
「男でも女でもある、ってこと。でも、青冴の主人格は吉川だったときのほうが近いわ」
「やっぱ、俺の理解の及ばない次元の話だな……」
「って、おいおい坂上」
 慌てる千秋、いや、深紅の様子が妙に滲んでいて、気付く。泣いている。止める気も起きなくて、ただぼんやり歪んだ世界で考える。
 千秋と和田と三人で笑えることが、俺にとっての日常だった。悪心の脅威を乗り越えて、取り戻したい日々だった。その二人は今目の前にいる。けれど今、かつての日常を演じて、これが最後だと気づいてしまった。俺は人間で、二人は人でなくなった。二人の未来が俺の未来と掛け離れる。俺と二人の道は、きっともう交わることなく離れていく。別れも言えず、残された俺は二人の親友の存在すら忘れてしまう。それはとても悲しい。
 けれど和田、青冴は「個人の意志で選んだ」と言った。これが千秋と和田の意思による決定なら、俺が何を言ったって後戻りさせられるとは思えない。二人がそれを望むとも思えない。
 かけたい言葉は一つ。しゃくりあげそうになる喉を必死に押さえ込む。
「……ありがとう」
 それは和田と千秋に向けてであり、深紅と青冴に向けてだった。
 涙を拭おうとする手が痺れる。力が入らない。その場に座り込むと、段々と意識が薄れていく。きっと目が覚めたら、目の前の二人のことを忘れて「日常」に戻るのだろう。けれど、命を賭けてくれた二人、いや四人に俺が感謝しているということは、伝えておきたかった。俺自身が忘れたとしても。彼らには覚えていてほしい……。


 何をしていたんだっけ? 階段の踊り場で座り込んでいる……? えっ、恥ずかしい。誰かに見られてないよな。また眩暈を起こしたか? 医者に健康体認定されてるのに、どうしたんだ俺の身体。あと、妙に瞼が重く腫れぼったい。本当、なんだろう。
 困惑していると、制服のポケットが振動した。携帯電話を取り出して確認すると、友人からのメールだった。「何してんだよ、玄関で待ってるからな」……ああ、そうだ。ノートを貸してくれた礼をするって話だ。いくらぐらい払わされるんだろう。今月の財布大丈夫だろうか。懐事情を憂いながら、俺は立ち上がった。
 友人の待つ生徒玄関へ歩き出す。胸にかすかに残る得体の知れない寂寥が、燃えるような西日に溶けて消えた。

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