2020年9月5日土曜日

【創作小説】レイヴンズ03

   

雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)


(今頃彼女は、どうしているだろう)


(今頃彼女は、どうしているだろう)


 こん、と頭を軽く叩かれる感覚。次いで、ぼんやりした頭に届く声。
「先輩、先輩」
 叩かれた頭をさすりながらゆっくり上半身を起こしたところで、自分が寝ていたことをやっと理解した。
「……」
 頭ははっきりしないが、視界はクリアだ。見慣れた俺の机、向かいの空っぽの机、窓、青い空、白い雲、エトセトラ。
 そこにもう一度、頭に軽い衝撃。
「いっ……んん?」
「いつまで寝ぼけてるんですか、先輩。もう昼休みは終わってます」
 首を回すと、そこに少女が立っている。近所の高校の制服を纏った少女は、横に高く結った髪を払い、俺を見た。「見た」というより、その鋭さは「睨む」に近い。
「ああ、玲於奈……」
 俺の口から希薄な声が漏れると、玲於奈はわざとらしく横を向いてため息をついた。
「先輩も大人なんですから、勤務時間くらい守ってください」
 丸められた書類が、彼女の手の中にある。俺はおそらくあれで頭を殴られていたのだろう。いつも思うのだが、書類で上司の頭を叩く、というのは部下としてどうなのだろう。俺に上司としての何かが足りないのだろうか。……多分後者だ。少なくとも、今は寝過ごした俺が悪い。
「……玲於奈、今日は学校、早く上がる日だったのか」
「はい、午前で終わりました。ちょうど昼休みの時間に来ましたけど、先輩は寝てたからわかりませんでしたよね」
 玲於奈は制服が示す通り、現役高校生だ。だが諸々の事情があって、ここ烏対策部第二十一支部に勤めている。そしてこれまた諸々の事情で、俺の部下として仕事をしている。……まあ、俺が面倒を見るという条件で玲於奈を雇ってもらった、というだけのことだ。
 彼女が右も左もわからずここに飛び込んできて、もう一年になる。この大人顔負けの勤勉さで、支部の皆の評価は高い。しかし、主に俺に向けられる皮肉にも磨きがかかっている気がする。分かりやすく表現するなら「可愛げが足りない」だろうか。玲於奈が可愛くないとは思わないが。
「ああ、分からなかった。全然。全く」
「まぁ、その時は昼休みだったわけですから、問題はないんですけど……珍しいな、と思って」
 玲於奈は俺の隣、自分の席に座る。その際持っていた書類を丁寧に開いて、そっとこちらに押し出した。これが俺の午後の仕事らしい。
「日夜真面目に書類と取っ組み合う先輩が、昼休みの時間をぶっちぎってまで昼寝だなんて……天変地異の前触れか、先輩の体調の異変だとしか思えなくて、つい強めに起こしてしまいました。すみません」
 可能性のスケールのでかさが違いすぎる。
「そこまで珍しいか?」
「はい、とっても」
 大きく頷かれる。
 確かに、職場で昼寝をすることは時折あるが、いつも五分前には体内時計が起こしてくれる。今回もそれを頼っていたのだが……前日のことがストレートに響いたらしい。もう歳か。まだアラウンド30だけど。
「……まあ、俺もそういうときくらいあるさ。次は気をつけるよ」
 年齢はともかく俺も人間、失敗くらいする。そう言ったら、なぜか玲於奈は訝しげな目で見てきた。
「昨日、夜更かしでもしたんですか?」
「あー……昨日はベッドが使えなかったから、ソファで寝て……。そのせいで体の疲れが抜け切」
「「ベッドが使えなかった」?」
「……」
 玲於奈の復唱に、思わず黙る。まずい。まずった。
 俺は一人暮らしだ。ベッドが使えない理由などどこにもない。一人なら堂々とベッドを使えるじゃないか。何に遠慮して、部屋の主がベッドでなくソファで寝なければならない。
 弁明を考えるより先に、玲於奈の手が俺の胸倉に伸びていた。部下に締め上げられる、なんとも情けない上司の図。切ないが、胸を痛めている場合ではない。
「どういうことですか先輩。説明してください」
「その前に、玲於奈。部下というものは、先輩には普通そういうことはしない。女子高校生が二十代後半の男性に、そういうことをすべきではない」
「先輩の悪しき行いを正すことも、部下の仕事です。何なんですか、一体どんな理由でベッドが使えなかったんですか」
「待て待て待ってくれ。俺がやましい事をしているみたいな言い方はしないでくれ。本当に違う」
「じゃあ何なんですか? また喧嘩沙汰ですか?」
「「また」って何だ。そんなにたくさん喧嘩沙汰に遭遇したりしない」
「「保志君は自分から面倒事に巻き込まれに行くからねー」って、村正先輩が言ってたので、治安維持の一環かと」
 確かに夜中に素行の悪そうな若人に絡まれたら、できるだけ穏便にお引き取り願うことはあるが、それを「自分から巻き込まれに行く」などと言われるのは心外だ。あとで村正殴る。
 それはさておき、「喧嘩沙汰に巻き込まれた」設定は使えそうだ。想像力を働かせて、ストーリーを作ってみる。
「あーっと……そんな感じ、だな。巻き込まれて怪我をした一般市民を、うん、助けようとしてだ」
「たかが十代の不良が、一日ベッド貸さないといけないほどの大怪我を人に負わせられるんですか? というか、そんな大怪我なら救急車を呼ぶべきです。わざわざ家に連れ帰る必要はないと思うんですけど」
「時間が時間だったんだ、真夜中で……俺は携帯電話も車も持ってないから……」
「微妙にフォローになってないんですけど、それ。近所の人に通報頼んだり、家帰ってからでも遅くなかったのでは? 先輩がそういう判断を間違えるって、休憩時間ぶっちぎるよりありえないと思うんですけど」
 ……俺の創造力が低いのか、玲於奈が鋭すぎるのか。とにかく俺の分が悪いのは間違いない。玲於奈の「納得できない」という目線、無言の圧力が痛い。
 ここまできたら言葉は無用。嘘を貫きたい俺と、嘘を暴きたい玲於奈で睨み合う。どっちが折れるのが先か。
「……」
「……」
「……」
 ばたん!
 俺の心が降伏に傾きかけたとき、支部の扉が勢いよく開かれた。そこに転がりこんでくる、帽子を被った男。彼が腕から血を流しているのを見て、その場にいた誰もが動きを止めた。玲於奈も俺の胸倉を締めあげる手を緩めたので、やんわりとその手を押し戻しておく。
「はぁ、はぁ、はぁ……うわー超走ったよ、もー……」
 息も絶え絶えに飛び込んできた男は、上がった呼吸とは裏腹の呑気さでずれた眼鏡をかけ直し、帽子を被り直した。それからはっと顔を上げて、自分が大きく開けた扉の奥を指した。
「緊急事態! 外で烏が暴れてる! このビルからまっすぐ行った、商店街の十字路!!」
「そんな……まだ昼だから、一般人も多いはずです! すぐ行きましょう!」
 誰よりも先に玲於奈が声を上げると、俺と入ってきた男以外の全員が立ち上がり、肩に全く同じ鞄をかけた。この鞄は、烏対策部に属する者全員に支給されている物資だ。烏を弱らせたり仕留めたりする為の道具や、怪我を負った人々に応急処置を施す為の道具が入っている。
 机の下からその鞄を取り出した玲於奈は、一瞬俺を見て、
「村正先輩の手当は任せましたよ」
 ご丁寧に言ってから、支部の仲間を追って部屋を出て行った。足音が遠のいていく。
 残ったのは、俺と男。
「……さっすが、皆行動が素早いねー」
 男は、開きっぱなしの扉を閉ざすと、にっこり笑った。俺からしてみれば、別に好意的でも何でもない、逆に苛々してくる見慣れた笑みである。
「それは、あの状況で立ち上がろうとさえしなかった俺へのあてつけか、村正」
「そんなわけないでしょ。保志君は玲於奈ちゃんに俺の手当任されてんだから。第一、全員出払っちゃ駄目でしょ? この場合、保志君の方が責任重大だと思うね」
 「とりあえず手当して」と、村正は血まみれの腕を指す。
 この男は那字路村正。彼もれっきとした烏対策部第二十一支部の職員だ。広い人脈を活かして烏についての情報を集めることが、彼の趣味を生かした仕事なので、この支部にはほとんど姿を見せないが。
 ちなみに、残念ながら俺と彼は小学校からの腐れ縁で繋がっている。今すぐ腐れ縁を引きちぎりたい。こいつは基本的に鬱陶しいし、矯正したはずの俺の乱暴な性格が出やすくなってしまう。
「……結構な血だな。見る限りは羽根による攻撃か。何があった?」
 村正の、汚れた服の袖をめくって傷口を確認する。傷はそんなに深くはなさそうだが、出血量が多い。今もじわじわと溢れている。
 当の本人はそれを直視しながら「あっはっは」と能天気に笑った。
「さすが保志君、正解。羽根ですぱーんと。合意の上だったし、痛みはあんまりないんだけどねー」
「合意の上……? よく分からんが、経緯は後だ。廊下の手洗い場で傷口洗ってこい」
「えー! 絶対痛いでしょ!」 
「駄々をこねるな。さっさと行け」
「ちぇー」
 と口では文句を言いつつも、奴は小走りで廊下へ出て行った。
 水が流れる音と村正の悲鳴を聞きながら、棚を開いて治療道具を取り出す。といっても大したことはない、消毒の道具とガーゼにテープ、包帯といった、ご家庭にもあるオーソドックスなものばかりだ。
 会議用のテーブルに道具一式を揃えると、ちょうど村正が部屋に戻ってきたので、テーブルを叩いて呼び寄せる。先ほどまでの明るさが一転、苦悶に満ちた顔の村正はよろよろと歩き、椅子に座った。
「びっくりするほど痛み増したんだけど……これマジ勘弁して、消毒とかやめて……」
「細菌の侵入によって、より大変なことになってもいいのならやめてやる。ついでに腐れ縁もやめるから遠慮はするな」
 どんな治療法でもこいつが喚くのは目に見えていたので、「ついでに腐れ縁も」のタイミングで予告なく消毒液を噴射。
「いってええええええ!! 鬼!? 悪魔なの保志君!? なんで今かけた!? ぎゃああめっちゃしみる!!」
「お前の怪我を治療してやる優しい俺が「鬼」とか「悪魔」とかありえない」
 村正が叫ぶ間に余分な消毒液を拭き取り、乾いてきたところでガーゼや包帯を巻いて治療終了。本人の言う通り綺麗な切り傷なので、すぐに塞がるだろう。
「怪我したときより治療の方が痛いってどーなのよ……。とにかくありがと、保志君」
「どういたしまして」
「じゃあ、俺がどうして怪我をすることになったのか説明してあげよう!」
 村正は今までの絶叫やら苦悶やらが嘘のように、笑顔で話し始めた。確かに知りたいところではあるが、この切り替えの速さには面喰らう。
「烏の知り合いとこっそり立ち話をしていた俺は、うっかり通行人に見つかってしまう! 友達が痛い目と風評被害に遭うのは嫌なんで、俺は作戦を思いつく。友達が俺に怪我を負わせる、通行人に「俺が支部までダッシュして出動要請するからここから離れて」って伝える、俺と通行人がダッシュ、その間に友達逃げる、みんな安全。これを決行したよ。以上」
 不確定要素があるし、村正自身に被害が出てはいるものの、咄嗟に考えたにしては良かったのではないだろうか。
「……毎度毎度、よく思いつくよな、そういうの」
「俺は頭脳労働担当だから! まあ、怪我がなければ完璧だったので、今回は七十六点くらいの評価かな」
「どこから出た数字だ」
「そりゃあ俺の作戦データベースからサ!」
 とんとん、と誇らしげに頭を指す。心底鬱陶しい。しかし、俺にはそういった知謀を巡らせる脳はないので、その能力は認めざるを得ない。
「まあ、確かに次回からは怪我がない方がいい」
「でしょ? こう、保志君みたいに相手を傷つけず戦闘不能にするような技が俺にもあれば……ああ、ところでさあ保志君」
 村正の話題転換はとにかく急である。ついて行くのが面倒だが、その声に少し真剣な色があったので、居住まいを正す。
「最近、烏たちの動きが活発なのは知っているかい?」
「……知らない。新聞はチェックしているが、取り立ててそういった報道は……」
「あ、ここ近辺だけの話だから、全国規模では出てないかも。地方面でもギリかな。
 さっき話してた烏から聞いたんだけど、活動が活発な理由。ちょっと前に行方不明になった仲間を捜索していて、そのせいで烏がいっぱいうろついてるんだって」
「……へえ」
 そんな胡乱な返事をした瞬間、村正が笑った。イメージは歓喜。面白そうなネタを見つけた、情報屋の顔だ。
「じゃあ早速、その行方不明烏の特徴を挙げまーす。女の子、黒髪黒目。髪の長さは肩くらいで、体格は小柄。服装は烏らしく黒一色。黒いタートルネックにスカート、ロングブーツでーす」
 天井を見上げて思い返す。……まだ確認できていない目の色以外は、オールクリアだな。
「正直どう?」
 笑顔で村正が促す。玲於奈と違って、村正には事情を隠す必要が無い。深く息を吐いてから、白状した。
「……多分、俺が拾った子だ」
「やっぱりねー。保志君が玲於奈ちゃんに締め上げられてるの見て、「もしかして」って思って。確認したくてうずうずしてたんだー」
 村正は得意げに胸を反らせた。支部に飛び込んできたあの一瞬で検討をつけていたのか。そういう観察眼、本当に嫌いだ。
「何で拾ったの?」
「雨の真夜中に、道のど真ん中で倒れている少女を見つけて、助けないという選択肢が発生するか?」
「うん、保志君ならそこで疑問を挟む余地はないだろうね。……その子、今も部屋にいる?」
「目を覚まさなかったから、ベッドに寝かせたままだ」
 彼女、今はどうしているのだろう。目を覚ましただろうか。ご飯は食べただろうか。お腹が空いただろうと思っておにぎりを作っておいたが、大きすぎて困ってないだろうか。他人に食事を作る習慣がないので、つい自分基準で作ってしまった。無事を確認してから送り出したいので、勝手に出て行っていないといいんだが。
「……それって、まずくない?」
「は?」
 村正は笑顔のまま、眉根を寄せて困惑を混ぜ込んでいた。しかし彼の懸念の意味がわからず、俺は首をかしげる。
「だって、その子捜して、烏の皆が絶賛活動中なんだよ? もし保志君の家にいることがバレたら……っていうか見つかったら、どうなるか想像つく?」
「それは……」
「保志君の良く言えばセンス抜群、悪く言えば殺風景な部屋がしっちゃかめっちゃか、ご近所さんとのお付き合いにもヒビが……」
「知らん」
 こいつの真剣とおちゃらけの境界は随分と曖昧なので、ちゃらけた場合は遠慮なくぶった切る。俺の部屋などどうでもいい。ご近所さんとのお付き合いは努力でなんとかなる。
 「まあそれはさておき」と村正は話を続ける。
「分かってるとは思うけど。このご時世、烏と人間が馴れ合ってたなんて話が広まったら、しかもその場を特定されたりしたら、被害は部屋に留まらないよ?」
「……それはつまり、彼女、あるいは俺の身が危ない、ということか」
「そゆこと」
 俺が自分を指して問うと、村正は大きく頷いた。机に肘をついて、少し考えてみる。
 拾った時、既にある程度の困難は予測していた。人間であっても色々大変なことになるとは思っていたが、拾った彼女が烏だった場合、その「大変なこと」の大変さは段違いになるだろうことも、予想できていた。
「……確かに、まずい」
 しかし。
「だからといって、もう拾った以上は後戻りできないし、しない」
 じゃああの時、彼女を見捨てて去っていれば良かったのか。それが俺にできるのか。何度シミュレートしても、答えは否だ。倒れた少女を無視する人間ではありたくない。というか、俺より先に彼女を見つけられなかった烏が悪いのだ、うん。
 それに、烏を救助したことはリスクこそ莫大だが、俺にとってはかけがえのない利益になる。……が、ちょっと見栄を張って、そんな下心は口には出さないでおく。
「ったく、軽く言うけどねえ保志君。烏と人間の対立構図は結構根が深いんだよ」
「そんなことは支部にいれば一日五回は実感する」
「今すぐ解放してあげれば、保志君のリスクは最低限で済む」
「彼女は怪我をしているんだ。医者にも行けないんだから、せめて動けるようになるまでは面倒を見る」
「拾った子が保志君を襲うかもしれないよ。恩を仇で返すってやつ。それでも「しょうがない」って言える?」
「いい加減にしろ。こんな問答で俺の意志が変わると思ってないだろう? 俺はもう覚悟を決めたんだ」
 つまりは、そういうことだろう。俺はもう彼女を拾って介抱した。それは変え難い事実。それが社会的には悪行で、俺の日常が危険に曝されるのだとしても、時は戻せないのだから正しようがない。俺にできるのは、自分で起こしたことを受け入れる覚悟を決めること。
 そして、烏の少女にも危険が降り掛かるならば、それを防ぎ、彼女を守りきる覚悟も必要だろう。俺のせいで彼女が害を被る必要は一切ないのだから。彼女が無事に仲間の元へ帰る、それが俺の純粋な願いだ。
「……うん、それでこそ保志君!」
 突然、村正が俺の肩をばしばしと叩いた。先ほどまでの反対的な態度は消えている。
「何だ、いきなり」
「さっきは意地悪言ったけど、君は君の信念に従い、いいことをしたんだ。今みたいに、胸張ってればいいのサ!」
 俺の行動を肯定してくれる言葉は嬉しいのだが、妙に晴れやかな笑顔がムカついて、素直に受け入れられない。
「……それはどうも」
「こらー! 俺がせっかくいいこと言ったのに、反応薄い! まだ感動指数足りない?」
「求めてない」
 村正がおどけて、俺があしらう。
 その時遠くで、銃声が響いた。


 その昔、烏とは空を飛ぶ鳥の一種だったらしい。だがそれは教科書に載るような過去の話であり、現代において「烏」は全く異なる種族を意味している。
 人間と同じ姿を持ちながら、異能を操る種族。
 姿形は人間そのもの、黒髪黒目という特徴も日本では埋没して、普通にしていれば見分けなどつかない。しかし彼らは生まれながらに翼を持ち、また羽根を自在に操る能力を持って人間を脅かしている。
 その理由は、率直に言えば生きるためだ。人間を凌駕する能力を持つが故、住処や食料を得ようとすれば、人間は烏の能力を恐れて距離を置く。自然力に頼って強奪するしかなくなり、それが人間との間の溝を深くしていく……そんなことが繰り返されるうち、人間と烏は互いを敵視し、憎悪するようになった。実際、支部で働くほとんどの人間が、烏に対して何らかの憎しみや怒りを抱いている。
 螺旋状に沈んだ敵意は、いつしか深く根を張って二つの種族を隔てていた。


「お、みんな帰ってくる。俺の作戦は大成功かな?」
 窓辺に寄った村正が呟いた。先ほど飛び出して行った支部の面々が、現場検証やら安全確認やらを終えて帰って来たのだろう。村正と彼の友人がうまくやったのなら、大した痕跡は残っていないはずだ。
「だろうな。お前の友人も、無事離脱できたんだろう」
 応じながら、烏について考える。
 正直な話、俺は烏をそこまで嫌っていない。理由はいろいろある。運良く俺も身内も烏に襲われたことがないとか、人を傷つけるのではなく、人と共存している烏を知っているとか。どちらかというと後者の方が、俺の心を大きく傾けている要素だ。
 だから、思ってしまう。どんな人も烏も、いずれは傷つけ合うことなく、平穏に共存できる時が来るのではないか、と。それが今現在、まったくの夢物語であることは百も承知で、無謀にも願っている。
 ……ちなみに村正も、特別な烏との遭遇を経て、二種族の平穏を願っている。同志、とでも言おうか。語弊があるととても嬉しい。そんな重たい関係になりたくない。
 烏との共存を願う俺たちは、烏と相対する組織に属してはいるものの、玲於奈たちのように先陣を切って烏を退治することはほぼ無い。代わりに俺は書類、村正は情報収集を専門に仕事をしている。直接の対峙を避けているだけで、何も変わらないことは分かっている。ただ、何をすればいいか現状を変えられるのかも分からない毎日だった。
 俺が烏の少女を拾ったことで、何かが変わっていくのだろうか……?
「よし、じゃあみんなが帰ってくる前に、保志君は家に帰りましょう!」
「は? 何で?」
 窓を離れて駆け寄ってきた村正に腕を引かれて、俺は椅子から立ち上がる。真意が掴めず首をかしげると、村正は大袈裟に肩をすくめてみせた。
「さっきの話の流れなら、真っ先に拾った子の心配するっしょ! 目が覚めて状況が掴めてないと可哀想だし、保志君の部屋が荒らされないかも心配だし!」
 俺の部屋はどうでもいいが、確かに拾った彼女のことは気がかりだった。急なことだったので休みを取るわけにもいかず出勤したわけだが、彼女はもう目覚めただろうか。全身の怪我に困っていないだろうか。前後関係が分からず混乱していないだろうか。危機に曝されてはいないだろうか。
「あ、ちなみに俺もついてくよ?」
「いらん」
 村正の提案は即否定。これは俺の問題だからだ。しかし奴も食い下がる。
「だって、俺もその烏の子と面識持った方がいいと思わない? いざって時のために、顔と名前くらいは覚えてもらいたいし覚えたいなー。他の烏に、その子の居場所を隠蔽する嘘情報を流したりもできちゃうよ。かなり使えるお得物件じゃない、俺?」
 さらに笑顔で付け加える。
「つーか、俺たちの希望を叶えられそうな話じゃん。のけ者にしちゃ嫌だぜ保志君」
 後半の言葉が本音であることは分かったので、真面目にこいつの実用性について考えてみる。……いや、考えるまでもなく、俺一人で彼女を隠し続けるよりは、非常に不満だが村正を引き入れた方が都合が良いのは間違いない。情報戦に関しては、俺にも烏の伝手がないわけではないが……昔から頭脳労働はこいつの得意分野で、策士と呼んでも差し支えないだろう。
 村正をそれなりに頼りにしていることを認める苦痛。それに耐えきるのにたっぷり数十秒。
「……ついて来い」
「アイアイサー! この那字路村正、命尽きるまで親友の白江保志弘に尽くすことを誓います!」
「証人がいないから誓約不成立」
「ひどー!」
 そうと決まれば、出払った人々が帰ってきて問いつめられる前に、ここを抜け出した方がいい。それぞれの準備に取り掛かる。
 机を片付けて荷物をまとめる間に、村正は自分の机で何かを書き留めながら声をかけてきた。
「でも、二人で行ったら余計に混乱しないかな?」
「なんで」
「ほら、寝起きで記憶が混濁しているときに俺たちを見て、「もしやこの二人が私の両親?」とか」
「もし彼女がそんなことを口走ったら、その場で即座に否定して、夜が明けるまで説教と講義だ」
「怪我した女の子相手でも容赦ないね!」
「そしてお前は殴り倒す」
「俺関係なくない!?」
「お前の存在が彼女を惑わせたからお前の責任だろ。殴った後簀巻きにして窓から投げる」
「本当に俺のこと嫌いね保志君は! でも愛情の裏返しだって知ってるからご褒美です!」
「やかましい」
 村正が馬鹿を言っている間に、支度が終わる。村正もメモを書き終え、部長の机に置いた。
「……何を書いたんだ?」
「社会人として、早退理由をメモに書いてたんだよん。「俺の怪我の治療の為に医者に行ってきます」って書いといた。保志君は付き添いってことで」
「まあ、疑われずに済むか。じゃあ行くぞ」
「みんなと鉢合わせないように、裏口から行こうねー」
 支部を出て、裏口から建物の外に出る。迂回しながら表通りに出るが、見知った顔は見当たらない。支部の面子とは鉢合わせずに済んだようだ。
「さー保志君! 烏の美少女は目覚めたのか? 無事なのか? っつーか暴れたりしてないかな? を確かめるために、急いでレッツゴー!」
 そう言うと、村正は歩道をすたこら走り始めた。妙に浮かれている姿が大変癪なので、蹴りの一つでも入れたいところ、だが。
「……まあ、心配ではあるしな」
 烏の少女の容体が気がかりなのは事実だ。村正に続いて俺も走り出す。その先に何が起こるのか……不安がないわけではないが、見て見ぬ振りを決め込んだ。

 もう事実は曲げられないし、時間も戻りはしないから。


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