2020年9月11日金曜日

【創作小説】レイヴンズ09


雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)


(修羅場……)


(修羅場……)


 がちゃん。
「ただいま……って、ん? 何だ、これ」
「どもども、失礼しまーストップ保志君その欠片に触れてはならぬ! それは硝子ではないかね!?」
 窓硝子は玄関まで飛び散っていたらしい。破片を拾おうとした保志弘を、後から入ってきた村正が止めた。その忠告を聞き入れた保志弘は、顔を上げて惨状と呼ぶに相応しい部屋を視界に収める。
「硝子、は……窓か。嗚呼、これは酷い」
 ふう、と腰に手を当ててため息。
 その後、私に目を向けて。
「クロウは怪我してないか?」
 笑顔でそんなことを訊く。
 その優しさは、嬉しい。今まで私の怪我を癒し心も支えてくれた優しさが、今この惨状の中でも私に向けられることは、純粋に嬉しかった。保志弘らしいと思う。
 だけど、裏腹に思う。この人は……本気で馬鹿だ。何故自分の部屋の窓硝子が割れていることに対して、疑問を口にしない?
「……」
 黙って見つめ返す私の態度をどう取ったか。保志弘は私の返答を少し待った後で目をそらし、玄関横のクローゼットを開いた。中からスリッパを二人分出す。
「どこまで破片が飛んでるか分からないから、とりあえず履いとけ」
「さんきゅー」
「多分お前を家に入れないことが全方位に対して最善の策だと思うから、強く推奨しておくぞ」
「拒絶に見せかけた俺への心配、確かに受け取ったので問題なし! お邪魔しまーす!」
 スリッパを履いた二人は、部屋に踏み込んでこようとする。私の後ろのベッドにはナミが隠れているから、どう説得して踏みとどまらせるか……と考え始めた時。
「その声……まさか村正!?」
 私の背後から、ナミの声が。
 慌てて背後を見ると、ナミは驚愕と困惑の表情で立ち上がっていた。その視線に対する村正は、軽く後ろにのけぞったが、すぐに笑顔満開になって言った。
「おおっ、ナミじゃんか! 久々!」
 すちゃっと片手を挙げた、極めて軽い挨拶に、ナミは視線を彷徨わせた。
「む、村正……あ、あのさ、あの時の腕の傷、は」
「腕? これのこと?」
 村正は右の袖をめくって見せた。その腕は特筆することもなく、ごく普通の腕。しかしそれを見たナミは、ほっと一息ついた。
「ずっと心配だったんだよ……作戦とはいえ、やりすぎたかもって。俺、加減とか出来ないから」
「ばーかにすんな! ナミの性格は理解してるし、発案は俺だし、俺ってまだまだ若いから、新陳代謝半端ないし? 何、まさかナミ君ってば、それが心配で顔出さなかったわけ!? うわー俺たちの友情ってそんなもん!? 村正悲しい」
「そっ、それこそ馬鹿にすんなよ! 確かに顔出さなかったのは、村正が言った通りの理由だけどさ! 俺って村正が思ってる以上に繊細だからさぁ!!」
「それも分かってるっての。まあ俺も、ナミが心配しすぎてないか心配だった。俺にもお前にも何もなかったんだから、この話はおーわーり。分かったかー?」
「分かった!」
「元気でよろしい!」
 ……私が話の半分も理解できないうちに、二人は笑顔で話を終結させてしまった。ベッドを挟んでハイタッチまでしている。本当に、意味が分からない。というか、ナミは何故ベッドから出てきたの。隠れているんじゃなかったの?
 ちらと保志弘を見ると、腕を組んで何か得心したように小さく頷いている。当事者の二人に訊くより、保志弘を頼ったほうが明確な答えを得られそう。
「保志弘……どういうことか、分かる?」
「大体は。そういえば、クロウは知らなかったんだよな。村正が烏に怪我負わされてたこと」
 初耳だ。
「……気づかなかった。いつ頃の話?」
「クロウに会う直前の話だ。結構傷が深くて、出血もあった。包帯巻かされたよ」
 まさか、初対面のあの時、怪我をしていたなんて。しかも、怪我をしていてあのテンションだったなんて。……テンションは関係ないか。
 それより、烏に怪我を負わされて、その後で烏である私にあんなに親しく話しかけてくれたのか……保志弘に劣らず村正もすごい人だ、と思う。
「烏と話をしている時に他の人に見つかって、騒ぎになったり被害が出たりしないように怪我作ってもらった、とは聞いていたが……その烏が彼、ナミだったというわけか」
 保志弘の視線がナミに向かう。村正とナミは知り合いらしいけれど、保志弘はナミと面識がないようだ。
「どういう、こと?」
「……村正とナミが話をしていた。当然人目は避けていただろうが、通行人がナミを見つけてしまい、騒ぎになりかける。とっさに村正はナミと共謀、自分が怪我を負うことで、場から人を遠ざける。支部に通報されるとナミが逃げる時間を確保できないから、村正は「自分が支部職員だ、近いから人を呼んでくる、建物の中に入ってじっとしていてくれ」みたいなことを言う。で、村正が走る間にナミが逃げ、支部の職員が来る頃にはほとんど痕跡が残っていない。三方無事ってわけだ」
 なるほど、「烏は危険」という人間の心理を見事に利用した作戦だ。これを咄嗟に思いつき、実行できる村正、すごい。自称保志弘の親友は、やっぱり一筋縄じゃ行かない。
「でも、怪我した村正は無事ではないんじゃ?」
「死にさえしなければ、あいつは大抵無事だよ」
 まとめ方が大雑把すぎるが、先ほどのやり取りの意味は理解した。
 次は叱責。ナミに目をやると、ベッドを飛び越え村正と変な踊りを始めていた。どうやら喜びがエスカレートしたらしい。
「……ナミ」
「うぇ? 何?」
 きょとんとするナミ。
「私が事情を説明して、落ち着くまで隠れているんじゃなかったの……?」
「……」
 沈黙数秒。
「っああああああああああああ!! そそそそそそそうだった!! うっわー俺って本当馬鹿な子!! ぎゃあああああああ!!」
 頭を抱えて叫び出す。やっと自分のしでかしたことに気づいたらしい。保志弘と村正の冷静な対応と、ナミが村正と知り合いだったらしいおかげで問題はなかったからいいけれど。
「ん? ナミは隠れてて、出て行くタイミングを見計らってたの?」
 村正が首を傾げた。自責に沈み込むナミに代わって、私が説明する。
「帰って来ていきなりナミがいたら混乱するかもしれないから、私が話を済ませるまで隠れている、という作戦……だったの」
「そうか。確かに、少し驚いたが」
 腕を組んだ保志弘が呟く。特に何も言わず、冷静に名前まで聞き取っていたあなたが何にどう驚いていたというの。
「クロウの「話」を聞かせて欲しいな。窓が割れていること、ここにナミがいることに関係のある話なんだろう?」
「……」
 そうだ。村正とナミの友好関係の発覚で忘れかけていたけれど、私はちゃんと話さなければならない。ちらとナミに視線を送ると、今までの騒ぎが嘘のように口を閉ざし、険しい顔をしていた。
 私がまず、何より先に言うべきは。
「保志弘、村正。改めて……今まで、ありがとう」
 頭を下げる。ごく自然に、体がそう動いた。少しして頭を上げると、まず先に村正が笑う。
「ま、俺よりも保志君のほうがいろいろしてあげてたと思うけど。ねー保志君?」
「俺はお前に助けられたけど」
「どっきーん! やべえキュン死にする。ばたん」
「うわー村正ー!?」
 罵声でなく労わりを受けた村正が、へなへなと床に膝をつく。硝子の破片が飛び散っているのだが、大丈夫だろうか。ナミもその危険に気づいて、慌てて村正に駆け寄る。村正は彼に任せておこう。
 保志弘を見ると、見慣れた微笑を浮かべていた。
「……どういたしまして。俺も君と一緒に生活できて、いろいろ考えることが出来た。ありがとう」
「お礼を言われることじゃない……」
 何でお礼を言われているのだろう。何かをしてあげたわけでもないのに。けれど、保志弘の様子から、決してお世辞や社交辞令ではないことは容易に分かった。
 私は、意志を口にする決意を固める。すっと息を吸って、はっきりと宣言した。
「私……住処に戻る。烏の元へ」
 保志弘の反応は。
「分かった」
 一つ頷いての、一言。「それだけ?」と思って唖然としていると、保志弘はまだ言葉を続けた。
「でも、一つだけ気にかかることがある」
「何?」
「戻った後の、君のこと」
 保志弘は僅かに顔をしかめた。
「住処に戻ることは賛成だ。君が望むことだし、そもそも「怪我が完治したら帰る」という約束だったからな。俺が引き止める理由はない。けれど、君が今のまま戻った場合を考えると、君の身が危険だと思うんだ。行方不明だった間の行動を追及されたら、言い逃れる自信はある?」
 ……正直、驚いた。彼は超能力者ではないだろうか。私とナミが考えていたことを、同じように頭に浮かべていたなんて。
「……それは、私も考えていたの」
「え? 本当?」
 考えを告げると、保志弘も少なからず驚いたようだった。つまり、お互いの意見が一致したのは全くの偶然であったということだ。保志弘は超能力者ではなかったらしい。より驚きが増す。
「私は、お世話になったあなたたちに、迷惑はかけたくない。けれど、烏から行方不明の間のことを追求されたら、二人の存在を隠し通せる自信は……あまり、ない。だから、どうやって追求をかわせばいいか、ナミと考えていたの」
「そうか……。ナミはどうしてここに? もしかして、この窓硝子は君が?」
 話を振られたナミは、「うっ」と気まずそうに呻いてから、小さく頷いた。
「そ、そういや、自己紹介がまだだったな……。俺はナミ。分かってるだろうけど烏だ。クロウの捜索がそろそろ終わるって聞いたから、「だったら一人ででも捜そう」って思って。今日運よく見つけられたけど、人間に捕まってるんだとばっかり思ってたから、窓割っちまった。ごめん!」
 素早く頭を下げる。そんな律儀なナミに、保志弘は笑みを見せた。
「分かった。窓は気にしなくていい、替えてもらえばいいだけだ。俺は白江保志弘。この部屋の家主で、村正とは腐れ縁。もしかして、村正から話聞いてる?」
「ああ。何度か聞いてる。……俺のイメージと、ちょっと違ってたけど」
「ははは。村正伝いの情報だからだろう。イメージは更新しておいてくれ」
 言いながら村正を笑顔で睨む保志弘。目を逸らして口笛を奏でる村正をしばらくそのまま睨んでいたけれど、やがて表情を戻して保志弘は言う。
「そうして現れたナミとも同じような話になって、烏からの追及を逃れる策を考えていたんだな」
「もう一度お礼を言ってからここを出ようと思っていたから、帰りを待つ間に考えるつもりで……だから、帰ってきたときは驚いたわ」
「……悪いことしたな。支部の人手が足りていたから、村正と一緒に早退して用事を済ませていた」
 用事とは、何のことだろう? 思ったけれど、個人的な用事なら私が踏み込むようなことではないし、今はあまり関係ないだろう。話を進めるべきね。
「そういうわけで、私たちにはいい案が浮かんでいないわ。嘘を吐くしか無い、という結論には至ったけれど、内容がまだ……更に迷惑をかけて申し訳ないけれど、できたら」
「俺たちも考える。な、村正」
 私の言葉にかぶせて、保志弘は村正にも呼びかけた。すると、村正が飛び上がってガッツポーズを見せる。
「もっちろーん!! クロたんもナミも、俺たちにどーんと頼っちゃってOKだ! そりゃあもう大船、クルーズ船、豪華客船に乗っちゃった気分で!」
「あいつの船には乗らなくてもいいけど、「お互いのために協力」っていうのは悪くないだろう?」
 その言葉に、何かが開けたような気がした。
 お互いのために協力する。私はここに来てからずっと、保志弘や村正に与えられてばかりだったと思う。衣食住などの物質的なもの。烏と人間という異種族だったのに、そんな隔たりを忘れてしまいそうなほどの安息。烏の世界、烏の尺度の中で生きてきた私に、いろいろなものを与えてくれた。
 私は何を与えられただろうか。さっき保志弘は「ありがとう」と言ったが、私には思い当たる節がない。それはつまり、私が何もしていないのと同じ。私が「これをした」って胸を張って言えない証。
 だから、「お互いのために協力する」のは、いい。プラスマイナスはゼロだけれど。今までの恩返しのひとかけらにだってならないけれど。私は、保志弘と村正のために、何かしたいから。
「俺の豪華客船、温水プールとシアターも付いて快適な旅をお約束するのにー」
「五月蝿い黙れ」
 村正がふざけると、保志弘がぴしゃりと言う。その自然な流れが心地いい。もっとこの時間が続けば……と心のどこかが呟いたけれど、私は黙殺した。
 二人のおかげで、人間の見方が少しだけ変わった。けれど、二人のような人はごく一部で、やっぱり烏と人は、一緒にいるべきじゃない。二人に夢を見てはいけない。現実は甘くないから。
「……ええ。協力、したい」
「もちろん俺も! 皆でこの状況、切り抜けようぜ!」
「はい二名様ご案内―! 俺らもいろいろ考える機会があったんだけど、やっぱり「ばれないように上手く嘘を吐いちゃえば?」って結論になったんだよね。まるで以心伝心?」
「そうなるよな。でも、その「ばれない嘘」ってどうすりゃいいんだ、って悩んじゃって。そもそも、嘘吐くのへたくそだし」
「確かに、ナミもクロたんも正直さんっぽいからなー。いいことなんだけど、こういうときは困っちゃうね。……保志君?」
 村正が、黙っている保志弘に気づいて声をかける。
 保志弘は、割れた窓の外を静かに睨みつけていた。これから夜になるから、割れた窓が気にかかるのだろうか。ナミが保志弘の横顔を見て、少し小さくなった気がした。
 村正の呼びかけに、保志弘は応じない。表情は険しく、それは普段村正を無視する彼の対応とは異なっていた。何だか嫌な予感がして、私も保志弘に声をかける。
「保志弘……?」
「……来る」
 保志弘が小さく呟いた。声がどこか硬い。そのすぐ後、私も気づいた。
 微かに耳に響く「声」。
 烏が近づいてきている。
「烏が……来てる」
「あ……ま、マジだ! やべえ、烏の声、段々こっちに近づいて来てる!」
「村正、二人連れて台所」
「りょうかーい。はいお二人様こちらへどうぞー」
 村正は保志弘の指示に従い、取り乱しかけている私とナミの腕を掴んで台所に入ると、その場にすとんと座り込んだ。
「この位置なら、窓からは見えないよな」
 台所から少し顔を出して、ナミが位置取りを確認する。台所は窓と向かい合っているので、座っていれば窓からは視認できない。
 保志弘は何をしているのだろう。私も顔を出して見ると、保志弘は足元の破片を軽く片付け、カーテンを閉めた。その後こちらにやってきて、私たちと同じように座る。
「カーテンを閉めるだけで、いいの?」
 思わず訊くと、保志弘は肩をすくめた。
「多分、無理。風で靡くし、硝子がないのは近づけば一目瞭然だろう。そこで、クロウとナミに頼みが」
「頼み?」
「烏は魔術が使えるだろう? 少し力を貸してほしい」
 私とナミは顔を見合わせた。二人とも、期待に応えたい意志と実力に対する不安のある表情。
 烏は人間と比較すると様々な違いがある。その中の最たるものは、魔術だ。人間では起こしえない不可解な事象のいくつかを具現化できる能力。でも、私もナミも魔術が得意ではなく、特に私は最近まともに使っていないので、勘が鈍っているはず。成功の確率が、頭の中でぐんぐん低くなっていく。
「正直、自信はないけれど……」
「やらねえとなんだろ? なら、やる!」
 やらないわけにはいかない。私は決意して、ナミと頷きあった。
 保志弘は、ぴっと窓を指差す。
「この部屋の幻影を作って欲しい」
「……割れていない窓と、靡かないカーテンの幻を作って相手に見せる、ということね」
 私が方針を簡潔にまとめて述べると、保志弘は首肯した。
 この部屋は地上から距離がある。なのに、窓には人一人が十分通れる盛大な穴が開いている。石などでは説明がつかない、不自然な状態だ。烏が近づいてきてこの窓の状態を知れば不審がり、下手をすれば烏が関係しているのでは、と勘繰られるだろう。この部屋に踏み込んできたりしたら、私たちのささやかな絆も協力関係も粉々に砕ける、悲惨な結末になる。
 そこで、幻覚を見せる魔術だ。割れていない窓、風に揺れないカーテンを再現し、烏に見せる。違和感がなければ、烏も無理に人間に近づいてくることはないはず。
「上手くいけばいいが……いや、クロウたちの能力を信用していないわけではない」
「作戦として、でしょ。あのまま放置しておくよりはいいと思うよ? ばれたらその時はその時! 烏ってあれ、空間移動の魔術もあるじゃん。それで愛の逃避行としゃれ込む!」
「そんな悠長な……俺、空間移動超絶苦手だし……。そうならない為にも、クロウ!」
 ナミの声、気迫に満ちた顔。躊躇っている時間はない。
「ええ。やりましょう」
「クロウのイメージに合わせていくから、任せた」
 差し出されたナミの手を握る。二人で目を閉じて、集中。音が聞こえなくなっていき、頭の中を記憶の映像が巡り出した。見慣れた景色を描くのに、時間はかからない。
 繋いだ手で印象を共有して、結ぶ偶像を重ねる。最初はぶれが激しかったが、段々と落ち着いてほぼぴたりと重なった。
「……これで映せば、大丈夫だと思う」
「ああ。いくぜっ!」
 深く息を吸って、窓に向けた指先に力を込める。窓に羽根を浮かべて、そこに投映するイメージだ。上手く映っているといいけれど、集中の為に目を閉じていて、結果は見えない。
「……」
 翼の音が迫る中、保志弘と村正は無言だった。何を思っているのだろうか……って、集中集中。
 ――ばさり。
 翼の音がすぐそこに聞こえた。心臓が高鳴る。繋いだナミの手が熱い。ひたすらに神経を集中させ、強く幻を結ぶ。風にはためく現実のカーテンの音が五月蠅く感じられた。
「……」
 集中しているせいで、時間感覚が曖昧になる。何分過ぎたのだろう、と疑問に思い始めたところで、ナミに握られていた手の圧迫が緩んだ。緩んで初めて、きつく握られていたことを知る。自分も、かなりの強さでナミの手を握り返していたことも。
 続いて肩を叩かれる。目を開けると、ナミが声を潜めて言った。
「……烏の声は、聞こえなくなったな。クロウはどう思う?」
 確認の為に耳を澄ませる。……確かに、烏の「声」は届かない。翼の音も去っていた。目を開け、ナミと同じように息をつく。
「そうね、去ったみたい」
「やれば出来るもんだなー。やったな、クロウ!」
「……ええ」
 私はナミとハイタッチを交わした。
 保志弘と村正に危機が去ったことを伝えようと、目を向けたその一瞬。二人は見たことも無いほど真剣な顔つきをしていた。けれど、すぐに私の視線に気づいてか、いつもの表情になる。柔らかい笑顔と、おちゃらけた笑顔。
「えっと……烏は去ったみたい。もう大丈夫だと思う」
「ああ、そうみたいだな」
「二人のお陰で助かったー! さんきゅーべりまっちだんけしぇーん!!」
「うっ」
 私から見て奥にいた村正が、手前の保志弘の背中にのしかかった。保志弘の小さな呻きは有罪判決が下された証なのでは、と少しドキドキしていたら、保志弘は村正を振り落とすことも頭突きをすることもなく、ごく普通に村正の体を横にずらした。村正は体を起こすと保志弘の隣に移動。
「ありがとう。二人とも」
「うんうん。ありがとね!」
 保志弘と村正、二人に正面切って言われると、何だか照れくさくてどうしたらいいか分からなくなる。
「さ……さっきから言っている通り、恩を仇で返したくないだけ……お礼を言われることじゃないわ」
「そうだよ、出来ることをしただけっつうか、だからーそのー、改まって言うことでもねえんだよ!」
 ナミも私と同じ心境らしく、せわしなく手をぶんぶん振っていた。
 私たちの反応に、保志弘と村正は顔を見合わせて少し笑った。一体何がどう通じ合ったのかは分からないけれど、珍しい光景に私もつい頬が緩んでしまった。
「……にしても」
 落ち着いたところで、ナミが声を上げる。見ると、腕を組んで珍しく難しそうな顔をしていた。ころころ変わる顔はせわしないけれど、そこがナミらしくて好ましい。
「何で烏は、ここに来たんだ? 「捜索は打ち切る」って言ってたのに……」
 そう言えば、ナミがここに来たときに、そんなことを言っていた。私が保志弘に拾われてから数ヶ月、それだけ探して見つからなければ、捜索は打ち切られて当然だ。なのに烏は来た。
 しかも。
「……この家を狙って、来たわね」
 翼の音も烏の「声」も、まっすぐここにやって来た。かつてのように「声」を周囲に飛ばすようなやり方ではなく、ピンポイントで。それはつまり、ここに私がいる可能性を向こうが知っていた、ということ? それは何故?
「どういう事……?」
「ナミ」
 保志弘が、ナミを呼んだ。まだ保志弘に慣れていないのか、ナミは少しぎこちなく応じる。
「な、何だ?」
「君は「クロウの捜索を打ち切る」と、誰から聞いた?」
「えっとー……捜索に関わってた奴。他の烏からも聞いたから、烏の中では広まってた情報だと思う」
「それを聞いて、君は必死にクロウを探し、ついに探し当てて、ここに来た。……何故そこまで?」
「「クロウは死んだ」なんて噂が流れてたけど、絶対に探し出すって決めてたからな。「俺だけは絶対に諦めない」って公言したし」
「……うん」
 保志弘は小さく頷いた。視線を落として何かを考えてから、顔を上げる。
「多分、ナミは利用された」
「え!? 俺が!?」
 自分を指さすナミの顔は、かなりの驚きを示していた。対して、保志弘は冷静。
「可能性はあると思う。「捜索を打ち切る」という情報の真偽はわからないが、その話を広めることで、君の「諦めない」と宣言するほどの熱意を利用した。君一人だけを動かすことでこちらを油断させ、居場所を突き止めようとしたんじゃないか……と思うんだけど」
 熱意。なるほど、ナミはまっすぐで、芯が強い。彼なら探し当てられるかも、と期待をかけた可能性は考えられる。
「マジかよ、尾行されてるような気配は……いや、探してる時に他の烏の気配は感じた。食料探しだと思って放っておいたけど、もしかしたらあれだったのかも……」
「烏はナミがこのアパートに近づいたことを知った。ナミがクロウを連れて帰ってくるかと待ったけれど、クロウはおろかナミも帰ってこない。だから、狙いを付けていたここにまっすぐやって来た。……想像でしかないがな」
 軽く肩をすくめて言う割には、説得力のある案だ。……けれど、これは本題ではない。問題は、行動により齎された結果だ。
「結果として、烏には私の位置が知られてしまった、ということ?」
「うう、俺の行動が各方面に迷惑を……ごめん……」
 責めたつもりはないけれど、ナミは土下座する勢いでうなだれた。その背を村正がばしばし叩く。
「そう悲観するなって! 結局相手は帰ったんだ、つまりここのマークは薄れるだろ? 逆にクロたんや俺らの命の危険度ダウン、すなわち結果オーライだ!」
「そうね……村正の言うとおりかも」
 ここにはいない、と思って引き下がったのだとすれば、当然の心理としてここ付近の、けれどここ以外の場所を徹底的に探すだろう。一時的にでもほんの少しでも、この部屋は安全になったのではないだろうか。
 村正の論理的な励ましを受けて、ナミの顔が少し上がる。
「そうだと……そうなら、いいけど」
「そう、それでいい! 顔を上げろ、君は英雄だ!」
「俺は皆を、助けられた……のか……?」
「そう、その通りだ! 胸を張れ少年!」
「お……おう! 俺、ちゃんとできた!!」
 なるほど、この二人はそういう関係か。保志弘を見ると、ナミに少し哀れみを込めた視線を送っていた。その気持ちはよく分かる。村正の口八丁と、ナミのまっすぐな性格は上手くかみ合っているらしい。だから友達になれたのだろうか。
「OK、ナミも元気になったとこで、話を戻そっか」
 話を脱線させた張本人である村正が、話をさくっと線路上に戻した。出発進行。
「つまり、クロたんとナミが帰るタイミングの話なんだけど」
「そうだな。この状況だと、今二人を帰すのは危険な気がする」
 保志弘が腕を組んで言った。同意せざるを得ない。
「居場所や期間の追求だけじゃない。私とナミで幻を張ったこと、意図的に烏の捜索を逃れた事実が知られたら……反逆行為だと思われてもおかしくない」
「俺たちは最初からデッドオアアライブだからいいとして、二人が必要の無い厳罰喰らうのは、俺と保志君としては見逃せないなぁ」
 頭の後ろで腕を組んで意思表示する村正。彼の視線を受けた保志弘は、迷いなく頷いた。
 私だって、せっかく二人に助けてもらった命を奪われるようなことは御免だ。それが二人を傷つける、ということもナミが教えてくれたから、分かる。そして、私を純粋に心配して来てくれたナミに、とばっちりを食わせるのも嫌。どうしたらいい?
 少し考えて、口にする。
「……私たちにできることは、現状維持?」
「「現状維持」って、つまりクロウはまだここに留まるってことか!?」
「私だけじゃない。ナミもよ。ここでナミが一人帰ったら、追求がナミ一人に集中する。ナミを身代わりにするようなこと、私にはできない」
「……ああ、うーん、そっか。さっき俺がクロウに言ったことだしな」
 私が傷つけば保志弘たちが悲しむ、という話を思い出してくれたようだ。私にとって、ナミは大切な友達。危険だと分かっていて見送るなんてできるはずがない。
「そーだね。俺としても、友であるナミが辛い目に遭うのは困る。クロたんに賛成。家主の保志君、いかが? って、訊くのも野暮か」
「野暮だな」
 挙手した村正に、微笑む保志弘。まず一つの案は承認を得た。
 だけど……正直なところ、他の案が見当たらない。
「他に、有効な案はある?」
「俺こういうの苦手だけど……大きく分けると、戻るか留まるかだろ? 戻れないなら、留まるしかないんじゃねーの……?」
「留まり方だって、この保志君ズルームか俺の家かしかない。ってなると、安全性でいけばここが一番いい」
 ナミらしいざっくりした見解に、村正が頷いた。そう、実際のところ私とナミがとれる行動は「人間側に留まる」しかないのだ。ならば、言わねばならないことがある。
 何事か考えこんでいる保志弘に、私は膝を向けた。
「保志弘」
「……ん?」
 保志弘の黒い目をじっと見る。保志弘の目は黒だったのか、今更知った。こうもまじまじ、正面から見たことはなかったから。
「……この件のほとぼりが冷めるまで、かしら。もうしばらく、いさせて欲しい」
「ああ、勿論」
 二つ返事……!?
 さすがに顔はぽかんと、心の中で常にない激しいツッコミを入れた。ええ、それは望んでいた答えではあったけれど、でも、もっと何かあってもいいのでは? その「何か」が何なのか、私にだって分からないけれど。
 そんな私の戸惑いを感じ取ったのか、保志弘はにこりと笑った。
「だって、それしかないだろう?」
「それは、そうだけれど……。もっと考えたっていいんじゃ……」
「考えた結果の即決だよ。それに、消極的な決断でもない。俺がそうしたいからそうするんだ」
 そこまで言われてしまうと、私もそれ以上は言えなかった。
「わ、かった……お願い、します」
「うん、よろしく。烏のところに戻るまでは、必ず守る」
 言うと、保志弘はナミを見た。
「ナミも、よろしく。狭い部屋だけど」
「い、いや、でも烏二人って……その、平気、なのか? 家族とか、その前に、あんたの感情的に……」
 どもりながら保志弘の心配をするナミ。基本大らかなナミでも、相手が人間となるといろいろ気配りをするらしい。その点私は図々しかったか。少し反省。
 そんなナミにも、保志弘は笑みを見せる。
「家族は大丈夫。家に来るのは、そこの村正くらいだし」
「通い妻ってやつ?」
「黙れ外に吊るすぞ。俺の心情としては、全く気にならない。だから頼ってくれればいい」
 前後の文の声音の違いといったら。私は慣れているからいいけれど、ナミは明らかに怯え、戸惑っている。
 しかしナミも決断した。
「……わかった。えっと、よろしく、な!」
「ああ。よろしく」
 保志弘がすっと手を出した。ナミは首を傾げたが、すぐに意味を理解して自分の手を出す。握手……保志弘なりの、初対面の相手とのコミュニケーション方法なのだろう。私は断ってしまったけれど、もう一度チャンスは来るかしら。
「さぁーて、今後の方針も決まったところで、今日はお泊りパーティー的なノリでいきますかー!!」
 突然立ち上がって大声を上げる村正。何だろう、デジャヴで頭が痛い。保志弘の笑みが一気に歪み、ゆっくりと立ち上がる。
「お前はさっさと帰れ。お前を泊めるなんて一言も言ってない」
「保志君の心の声が聞こえた」
「真顔で言うな気持ち悪い。窓も割れてんだ、それどころじゃない」
「クロたんがいるとはいえ、ナミは保志君と今日が初対面だよ? ド緊張しちゃって心休まらないでしょ。知り合いの俺が居た方がいいと思うのサ」
「え!? え、いや、俺、そのー?」
 突然自分を引き合いに……というか出汁にされて戸惑うナミ。けれど彼を慮る保志弘は、村正の意見を正論と捉えた。
「……分かった、もういい」
「よっしゃ!!」
 村正の宿泊許可が下りる。村正はガッツポーズをとったけれど、こうなるように仕向けたのでは……? 能天気なようで結構いろいろなことを考えている彼の態度は、どこまでが本気でどこからがノリなのかよく分からない。
 ひょろひょろと変なステップを踏みながら、村正が部屋の電気をつけた。ぱっと明るくなる室内。明るくなって初めて、日が暮れていたことに気づく。
「もう、夜」
 時間が経つのが早い。今日はいろいろあったから当然か。これからしばらくはナミも共にいるから、日中一人で過ごしていた今までよりも、時間を短く感じるはずだ。
 いつまで、そんな生活が続くのだろう。
 絶対に、この日々は終わる。私とナミは烏の社会に戻り、保志弘はここで一人暮らしをし、村正と共に働く。そんな、普通の日常に戻っていく。だけど、それはいつのことだろう。何日先? 何週間先? 何ヶ月か先? もしかして年単位? 年はありえないけれど、きっと遠くない未来のはず。
 その時が来たら、私はどうするのだろう。先ほど実行しようとしていた計画通りに、「今までありがとう」とお礼を言って、仲間を欺く嘘を携えて、すぐそこのベランダから飛び去るのだろうか。
 ……それ以外の未来なんてないじゃない。別離は、私と保志弘が出会った瞬間から決まっていたことだ。
「どうした、クロウ?」
「えっ?」
「ぼーっとしていたみたいだから。調子悪いか?」
 保志弘に声をかけられた。結構な至近距離で顔を覗き込まれている。全然気づかなかったなんて、不覚にも程がある。
「いいえ。今日はいろいろあったから、少し考え事」
 顔を背けたところで、お腹が鳴った。
「そうだ、そろそろ夕飯だよな。皆疲れただろうし」
 女としてかなり恥ずかしかったが、保志弘はそんな私の気など知らないのだろう。笑顔を見せると、村正に声をかけた。
「村正。俺はガラス片付けるから、飯の手配任せた」
「あーそうだね、もう飯だね! ……正直保志君も限界突破でしょ。ここは俺に任せて、がっつり食べようぜ」
「……俺のことはいい。二人の空腹と、不安が払拭できればそれで」
「格好つけやがってこの野郎。ヘイ少年少女! 何にするよ? 選び放題だぞっ!」
 二人はぼそぼそと喋っていたが、不意に村正が大声をあげてばっと腕を広げる。するとデリバリーのチラシが華やかに舞った。それを見てナミが目を輝かせる。
「やっべー、何度見てもすっげー!!」
「だろうよ! 何せ俺だから! さあ選べ!」
「おう! クロウも選ぼーぜ!」
「え、ええ」
 声に引っ張られ、ナミと村正の元に行く。保志弘は、と思って彼を見ると、床に散った窓ガラスを片付けながら、ベッドやソファを見比べていた。壊れた窓をどうするか、この人数でどうやって寝るかなど、いろいろ考えているのだろう。私たちが下手に手伝うと、かえって邪魔になりそうな雰囲気だ。ここは家主に任せよう。
「大人数なら王道はピザだよな!」
「そーだな。あ、一緒にチキンなんていかが?」
「烏にそれ薦める?」
「鶏肉の鶏はニワトリだから問題なし! クロたんは食べたいもんある?」
「私は……鶏肉、嫌いじゃないわ」
「あ、鶏肉にこだわるか」
「じゃあチキンとピザのセットでよくね? これ」
「それ安くなるクーポンあったなぁ。どこだっけなー」
「……ああ、何とか寝られるな」
「保志弘……大丈夫そう?」
「クロウがベッドで、ナミはあのソファ。あとは床で。村正、敷き布団ないからブランケットでいいな」
「まじかー保志君と枕並べて寝るかー! 修学旅行以来じゃね!? やべーときめくぅー!!」
「窓割れてるから大声出すな近所迷惑だ黙ってクーポン探せ」
「あのー、俺、別に床で寝ても文句ねーけど?」
「ナミは気にしなくていい。ソファ狭いし、硬いかもしれないけど、そこだけ我慢してもらえるかな」
「全っ然問題ねえって! 気ぃ遣うなよ!」
「保志君は気遣い大好きなお人好しボーイだから、遠慮せず厚意を受け取っておけばいいのサ」
「お前やっぱり五月蝿そうだから、ベランダで寝てくれないか?」
「真面目な顔で言わないでよ保志君。おっ、クーポンさん発見!」
 人間と烏の境界線のない穏やかな光景にも、いつか別れを告げなければならない。分かっている。保志弘に拾われたときから、ずっと分かっていた。
 ……だけど、そこに少しだけ、小さな願いが生まれた。小さすぎて、願いにもなりきれない思いだけれど。
「……もう少し」
「ん? クロウ、何か言った?」
「……何でもないわ」
 小さな呟きをナミに聞かれたけれど、首を振って無かったことにする。
「頼む品目が決まったなら、連絡を取らないといけない、のよね?」
「任せたまえ! 俺のセルフォンが唸るぜ!」
「早くしろ。お前はいちいち大げさに動かないと死ぬ病なのか?」
「容赦ないのね。……ナミ?」
「っへへ、何か気が抜けたら、一気に腹減ってきた」
「……そうね。私も、力が抜けた」
 小さすぎて、願いにもなりきれない思い。
 もう少し。
 もう少しだけ、この時間が、一瞬でも長く……。


 その日の夜はとてもとても楽しくて、簡単に忘れられそうになかった。


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