2020年9月11日金曜日

【創作小説】レイヴンズ07


雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)


(これで、終わりね)


(これで、終わりね)


「んん……」
 朝日の眩しさを感じて、意識がはっきりする。目を開けると、見慣れた天井が広がっていた。布団、枕、ベッド、窓、カーテン……全てが見慣れたものだ。いや、「見慣れてしまった」が正しいかしら。
 上半身を起こしたところで、この部屋の主から声がかかった。
「ああ、おはよう」
「おはよう」
 ベッドから少し離れたソファに座る、保志弘との挨拶。これも慣れたこと。人間と近づくことは望まないけれど、常識的な行動として挨拶くらいは、とやるようにしている。
 保志弘はソファに座ってコーヒーを飲んでいた。「飲んだことがない」と言ったら保志弘が一度淹れてくれたのだが、その苦さは私の好みには合わなかった。でも香りは悪くない。この香ばしい香りもまた、「慣れた朝」の一部となりかけている。
 保志弘は、自分の手前にある皿を指した。空だけれど、何かが載っていた形跡がある。
「サンドイッチ作ったけど、今食べるか?」
「いいえ」
「冷蔵庫に入ってるから、好きなときに食べてくれ」
 毎朝飽きもせず、同じことを繰り返している気がする。保志弘が「朝食を食べるか」と訊いて、私は「いらない」と答え、保志弘は「好きなときに食べろ」と言う。変わるのは朝食の内容くらい。手軽なものばかりだけれど、食べやすいし美味しいので不満はない。そもそも作ってもらっている立場なのだから、文句など言うはずもないのだけれど。
 コーヒーカップを勢いよく傾けた保志弘は、それをテーブルに置く。そしてふと、思い出したように訊いてきた。
「そういえば、クロウ。体の傷はどうだ?」
「……傷」
 ああ、そういえば……私は負傷して意識を失っていたところを、保志弘に保護された。それが見慣れてはいけない保志弘の、人間の世界を「日常」としつつある理由なのだけれど、そんなことすら忘れかけていた自分が恨めしい。私、しっかりして。食事に絆されている場合じゃないわ。
 心の中で自分を叱咤しながら、体の調子を確認する。意識を取り戻した直後は歩くこともままならなかったけれど、今は痛みこそあれ各部を動かすことに支障はない。傷は大方ふさがっていて、包帯をぐるぐる巻きにしたり、ガーゼを何度も取り替えたりといったことも減っていた。
「大体、治ってる」
「痛むところはないか?」
「ええ」
「よかった。じゃあ、帰れる日も近いな」
 寂しい顔でもするのかと思ったら、保志弘は嬉しそうな顔をしていた。本当に、私の回復を喜んでいるようだ。あれほど強く私を引き止めたのも、やはり私の体の具合ひとつだったのだろう。
「……保志弘」
「ん、何だ?」
 私は、自分でもよく分からないままに念押しした。
「本当にいいのね? 私の怪我が治ったら、勝手に出て行っても」
「勿論。そういう約束で君を引き止めてるんだ。前言撤回するほどの不安要素も、今のところないしね」
 返答は、あっさりしたもの。当然といえば当然だった。健康優良体の烏を人間が匿っていたところで、メリットは一つもなかった。種族としてではなく、私個人としても……危険を冒して助けてくれた保志弘に、これ以上の迷惑をかけたくない。
 保志弘は手早く食器を片付けると、服を着替えたり荷物を探したり戸締りを確認したり……と慌しく動き回る。一通り部屋を回ると、白い上着を纏い薄い鞄を肩にかけた。仕事に出かける準備が整ったのだ。
「じゃあ、行ってきます。ご飯はちゃんと食べるんだぞ」
「ええ」
 一言応じると、保志弘は家を出て行った。鍵をかける音の向こうで、足音が遠ざかっていく。
「……」
 誰もいなくなった部屋の中、目を閉じて考える。
 保志弘から、部屋を出て行く許可は得た。元から必要なかったのかもしれないけれど、あの返答は私の行動の正当性を保証してくれる。
 問題は、いつ出て行くかだ。この日々が日常として続いていることに違和感がなくなり、「明日も変わらない」とどこかで思っていたところがあるのは否めない。それだけ、ここでの生活は心地よかったのだ。他の烏に見つかるのではないか、帰った後の追求はどう逃れようか、と悩みは尽きなかったけれど、保志弘の尽力のおかげで、不自由な思いはほとんどせずに過ごせた。
 でも、これ以上保志弘に負担はかけられない。そして私の体は、完全復活とはいかなくても十分に回復している。飛行は可能だろう。
 出来る限り早く、ここから出て行くべきだ。頭では分かっている。
「……ご飯食べてからでも……いい、わよね」
 けれど私は目を開けて、帰還を引き伸ばす口実を呟いている。使い慣れたスリッパに足を収めて冷蔵庫に向かいながら、きっと今日という一日も、この部屋で消費するのだろうと思った。なんて優柔不断な私。でも、全てはご飯を食べてからでいいじゃない。腹が減っては何とやら。
 ご飯を食べて、烏の呼び声を聞き流して、たまに昼寝をして、スリッパを揺らしながら保志弘の帰りを待つ。全くいつもの一日が始まった。
 はずだった。


 保志弘が家を出てから数時間。私は違和感にざわついていた。
 程度の差こそあれ、毎日私を呼んでいた烏の声が、今日は聞こえてこない。初めは心地よかった静寂も、今は気になって仕方がない。おかしい、と思わずにはいられなかった。
「……」
 居場所がばれたのだろうか。
 窓にはカーテンをかけておらず、広い空を見せ付けている。空から烏が近づけば、窓際のベッドに座る私にすぐ気づけるだろう。
 まるで断罪を待つようだ、と思った。私は悪いことをした。自覚があるから逃げも隠れもしていない。私が人間に救われ、手当てをされ、生活を共にしていたことが罪なら、罰を受けよう。それが烏の社会において悪であることは、私自身がよく分かっているから、覚悟はできていた。
 でも、一つだけ頼みたいことがあった。
 私を助けてくれた人、私を思って名前を呼んでくれる人に、危害は加えないでほしい、と。それは、人とか烏とか関係なく、私個人の情による懇願だった。助けてもらった人に、恩を仇で返すようなことはしてはいけない。迫害することもなく受け入れてくれた人を、悲しませることはしたくない。
 ……きっと、笑われる。「まるで人と烏は同じみたい」って、馬鹿にされてしまう。けれど、どれだけ罵られても馬鹿にされても、一笑に付されようと、私は絶対にこの願いを押し通すつもりだった。どうやって烏たちを言いくるめようかと悩みもしたけれど、結局私一人で良い案が浮かぶわけもなかった。そもそも嘘を吐くのはあまり得意ではないし。だから「私が烏である」、その一点に賭けて、保志弘を守ろうと決めたのだ。
 「必ず果たす」という思いがあれば、それでいい。
 だから私は待った。不気味な静寂の中、同じくらい静かな心で。


「いつまで待たせるつもりかしら」
 思わず声に出して呟くほどに静寂は長く、退屈だった。
 昼も過ぎ、日が傾き始めたというのに、外の世界に動きはない。張り詰めていた緊張はゆっくりと溶けてしまい、今現在は完全に気が抜けている。
 烏たちが私を捜しているのは間違いないのに、呼び声が聞こえないのは解せない。見つからないなら見つからないで、また名前を呼べばいいだけではないか。
 ……もしかして、人間に襲われた?
 自分の予想に背筋が凍る。私の捜索に気をとられて人間に見つかってしまった、なんてありえない話ではない。自惚れではなく、人間が烏を見張る目は大分厳しくなっているのだ。
 一度考え始めると、あらゆるシチュエーションが脳内にとめどなく流れる。でも全てに共通するのは、「私のせいで他の烏が命の危険に晒された」という骨組み。そうでなければいい。でも、もしそうだったら? 保志弘だけでなく仲間の烏まで巻き込んだ、その責任まで背負えるだろうか。不安が一気に膨れ上がる。
 ……かたかたかた。
「え?」
 静寂の中、突如生まれた音。何かと思って部屋をきょろきょろ見回していると、窓が小刻みに揺れていることが分かった。音自体は小さいけれど、静寂に慣れた耳には大きく感じられた。
 そして気づく。この音は、自然に発生しているものではない。
 窓の鳴る音は、次第にがたがたと大きく変わっていく。何かを訴えているような窓の鳴り方に、私は思わず立ち上がった。ある程度距離を置いて、窓の前に立つ。
 何かが、来るような気がした。それは私が待ちわびていたものであり、心の片隅では「来ないで」と願っていたものだと思う。
 窓の揺れは視認できるほど大きくなった。反射した部屋の光が上下左右に揺れる。やがて小さな光が、私に向かって進んできたのが見えた。
 ぱんっ!!
「っ!」
 高い音と同時に、部屋に向かって窓が割れた。吹き込んでくる風は強く、腕では破片を防ぎきれない。私は手のひらを窓に向けて、集中した。
「――っ!」
 薄く開けた目で、羽根による壁……結界が張れていることを確認する。襲い掛かってくるはずのガラス片は、私に刺さる前に結界に当たって床に落ちていった。烏が人に恐れられる理由、烏にしか使えない力の一つを行使したのだ。
 風がゆっくり収まっていく。防ぐ相手をなくした結界越しに、私は黒い翼を見た。腹に力を入れて覚悟を決め、結界を解く。
 日光を背負ってベランダに降り立つ姿は、人間のようで人間ではなかった。でも、一般的な烏とも違う。普通の烏は黒い髪に黒い瞳を持つけれど、前に立つ烏はそうではなかった。陽光を透かす金の髪に、茶色の瞳。こんな出で立ちの烏は一人しか知らない。
 私はその烏を特定して呼ぶと同時に、安心した。
「……ナミ」
 よかった。ここに来て、私を見つけてくれたのが、彼で。
 私は自然に笑って、友達を迎え入れ……。
「クロウぅうああああああああああああ!!」
「え!?」
 ナミはまさに神速で、泣き叫びながら割れた窓を潜り抜けると私に抱きついてきた。私の頭は追いつかない。
「あ、あの、ナミ?」
「うぁあああああ本当によかったあぁあああ!! 俺は信じてた! クロウは生きてるって! 絶対生きてるって!! よかったぁあああああああああ!! 信じて捜しててよかったぁああああああ!! 無事でよかったぁあああああ!!」
「ナミ、その、心配かけ……うっ」
 私を抱きしめる腕に、余計に力が入った。うまく声が出ず、謝罪も感謝もできない。く、苦しい。
 そんな私には気づかず、ナミは肩を上下させはじめた。
「う、ぅう……っ、よかった、本当、よかった……! あ、あぎらめないで、ざがしでだ、甲斐、が……っ」
 泣いていた。「今までの捜索の苦労が実った」というよりは、純粋に「私が見つかって安心した」という感じで。自分でこんな推測を立てるなんて少し恥ずかしいけれど、ナミは私のことを昔から大切にしてくれていたから。
 私はそっと、ナミの背中をあやすように叩いた。泣いているおかげで、少しずつ拘束する腕の力が緩んでいる。私はゆっくり、気持ちが篭るように伝えた。
「……ありがとう、ナミ。心配かけてごめんなさい」
「い、ぃいんだよ、そんなのっ……! 確かに、心配はしたけど、それはクロウのせいじゃないんだから……っ」
 そんな優しさも、烏らしくない。烏は人間に襲われないように集団で生活してはいるけれど、コミュニティーと言うのか、つながりはそんなに強くない。ないわけではないけれど、ほとんどは利用しあうような、冷たい関係だ。他の烏のために危険を冒したり、泣いたりということを損得勘定抜きでできる烏を、私はナミ以外知らない。
 でも、やっぱりナミに危険なことをさせて、不安にさせて、心配をかけてしまったのは私。だから謝らなきゃいけないし、感謝しなきゃいけない。
「ごめんなさい。ありがとう、ナミ。……あなたが見つけてくれて、よかった」
「う、っく……ほ、本当?」
「ええ。あなたが無事でよかったし、私を一生懸命捜してくれたのも、嬉しい。あなたの顔が見られて、私も安心できた。見捨てられて、なかったんだ、って……」
 少し不安だった。私は切り捨てられたんじゃないか、と。
 自分で言った通り、烏は冷たい。だから私のような生死不明の足手まといは、血眼になって捜すようなことはないと思っていて。「烏はそんなもの」と理解してはいたけれど、それでも……烏という所属から切り離されたような気がして。保志弘との約束とはいえ、捜していた烏の「声」に応じなかったのは私自身の意思だったけれど、それでも……わがままかもしれないけれど、烏でいたかった。
 ナミは私を抱きしめていた腕を解くと、私の肩を掴んだ。さっきは逆光でよく見えなかったナミの顔が、よく見える。前と変わっていない。泣いたせいで目元が赤い。だけど私を見つめる目は真剣そのもの。
「当たり前だろ? たとえ他の烏がお前の捜索打ち切ったって、俺は絶対にクロウを見捨てたりしない!」
「……ええ」
 少し、自分の声が震えた。気づいて自覚すると、感情が昂っていく。「抑えろ」と命令しても遅くて、止められない。
「……ぅ、うう……」
「クロウ!?」
 今度は私が泣いていた。止めたくても止められない。保志弘に拾われてから今日まで、一人のときだって泣いたことはなかったのに。……ナミのせいだ、ナミが私を見て泣くから、きっともらい泣き。そう他人事のように考えていた。
 ナミはそんな私に少し戸惑いを見せたものの、頭を撫でてくれた。
「……クロウ、お前人間に見つかって囮になったんだって? 帰ってきた奴らから聞いた」
 言葉で返事は出来なくて、一つ頷いた。あの時のグループの中で、私が一番年上だったから義務的に守ろうとしただけだったけれど、それを囮というなら、私は囮になったんだと思う。
「頑張ったな。偉いよクロウ」
 その後は負傷、墜落、意識喪失と失態を続けたけれど。そのふがいなさは後で伝えるとして、今は頭を撫でてくれるナミの優しさに甘えて泣いた。


 落ち着いてから、私はナミをベッドに座らせた。私も隣に座る。床に散らばったガラスはどうしたらいいだろうか。直しようがないので捨てるしかないのだけれど、人間の世界にはごみ一つ出すのにも面倒が多いと聞いた。保志弘に任せるのは申し訳ないとは思うけれど、結局そのままにするしかなかった。
 きょろきょろと、落ち着かない様子でナミは部屋を見回した。
「……ここ、人間の家だよな」
「ええ」
「捕まってたのか?」
「違う」
 私は大きく首を横に振った。
「匿ってくれた人がいるの」
「匿って……?」
 ナミの不審げな顔に、私は強く頷いてみせる。
「私は他の烏を逃がした後、人間に攻撃されて翼を怪我した。飛べなくなって墜落して、その時の衝撃で意識を失ったの」
「そ、そんな……」
 ナミの顔が蒼白になっていくけれど、私は続ける。ちゃんと、彼には誤解のないよう、理解してくれるよう、説明しなければいけない。
「その時は夜中で、周りの家は寝静まってたのが幸いしたの。私は通報されることもなく、アスファルトの上に転がっていた」
「全然幸いじゃないって! つまりクロウはアスファルトの道路に墜落したんだろ!? 怪我だってひどかったんじゃ……」
「確かに、ひどかった。けど、私を助けてくれた人間がいたの」
 包帯でぐるぐる巻きにされていた、最初の数日間を思い出す。懐かしい。それだけ、ここで過ごした時間が長かったんだと考えると、少し複雑にはなるけれど。
「その人は、私が回復して空を飛べるようになるまで、私をこの部屋に匿ってくれた。回復したら、勝手に出て行っていいっていう約束だったの」
「じゃあクロウ、今の怪我の調子はどうなんだ? ぱっと見た感じは、大丈夫そうだけど……」
 私は自分の腕を見下ろし、足を軽く上げた。歩くのも辛かった最初の頃よりは、ずっとよかった。
「かなり回復した」
「帰れるか?」
「……」
 回復したら出て行っていい。そういう約束。確か、「私の意志で自由に」出て行っていい、だったはず。それはつまり……回復した今、ここを去っても、いいってこと。
「……ナミ、お願いがあるの」
 思いが一瞬で言葉になった。
「もう少しいさせて」
「なっ」
「お礼が言いたいの」
 反論しようとしたナミを制して、目的を述べた。ナミが口を開く気配がなかったので、続ける。
「私を助けてくれた人に、改めてお礼を言いたいの。あの人は純粋な気持ちで私を助けてくれたって、今までの生活でよく分かったから。言えたら、心残りはない。ナミと一緒に帰るわ。あの人、今は多分仕事してる。だから、帰ってくるまで待ってくれない?」
「うぅ……」
 小さく唸って、ナミは腕を組んで考え始めた。少し緊張しながら待っていると、ナミが小さく頷いてくれた。
「……分かった。助けてもらったなら、ちゃんとお礼は言わないとだよな」
「ありがとう」
 理解に感謝を述べると、ナミは手をぶんぶん振って制した。
「そ、そんなことでお礼言われるほどじゃないって! クロウのしたいことは、何も間違ってないんだからさ」
「でも、ここにいたのがナミじゃなかったら……「駄目」って言われていたと思う」
「あー……そうかもな」
 だから、ナミが私を見つけてくれてよかった。ナミは他の烏よりも、人間を理解してくれているから。純粋な思いを利用するようで申し訳ないけれど、押し通すと決めた気持ちだから、許してほしい。
「そうだな、じゃあその人間が帰ってくるのって、大体何時だ? 仕事なら、ある程度時間が決まってるだろ?」
 話を切り替えるように、ナミが訊いてきた。
「そうね……八時、かしら。遅いと九時とか」
「そっか。結構時間あるな」
 三、四時間ほど待つことになる。「どうしようかな」と呟くナミの横で、私は今一度決意を固めた。大丈夫、別れの挨拶を許してくれたナミなら、きっと協力してくれる。
「……ねえ、ナミ」
「んあ?」
「もう一つ、お願いがある。具体的にどうこうしてほしいということではなくて、すごく身勝手なお願いかもしれないけれど、聞いてくれる?」
「勿論! 何だ?」
 一つ呼吸を置いて。
「……私がここにいたこと、他の烏に黙っていてほしい」
「……うん」
 それは肯定ではなく、先を促す意味の言葉。
「私は私を助けてくれた人を、傷つけたくない。私を匿ったせいで、傷ついて欲しくない。だから、黙っていてほしい。弁明は私がする。だから」
「駄目だ!」
 ナミが大声を上げた。思わず肩が跳ね上がる。至近距離だったので驚いてしまった。それをナミに気付かれ、少し申し訳なさそうな表情をしたが、すぐに怒ったような顔になって、私を見た。
「それじゃあ駄目だ!」
「……何が?」
「一番辛いのはクロウじゃんか!」
 意味が分からない。私が烏にも人にも迷惑をかけているのだから、罰を受けるのは当然のことだ。私が背負わなければいけないことだ。
「ここにいたことを黙っていることに関しては、俺は構わないよ。協力するし、そのためなら適当な嘘だって吐ける。だけどさ? クロウはどうすんだよ」
「どうする、って……」
「ばれた場合、俺は単純に嘘吐いたってだけだから、大したことはないかもしれない。だけどクロウはどうなんのさ。人間に匿われてたことも、その口封じをしたことも、全部喋れば、クロウはどうなるかって考えてくれよ」
「……」
 ナミの真剣な声が、私に気付かせる。
「クロウは優しいから、「自分が全部背負っちゃえばいい」って思ってるんだと思う。でもそれってさ、俺らは傷つかないけど、クロウが辛い思いして、傷つくことになると思う。そんなの嫌だ。身体的な怪我だけが傷じゃないだろ? 危険な状況にクロウを置いて、クロウが傷つくなんて、少なくとも俺は絶対嫌だ。クロウがそんだけ信用してる人間だって、そういうの嫌だって、思うんじゃねーのかな」
 自分を助けてくれた人たちの思いを全てなげうって、自分を身代わりにする。それは駄目だと、ナミは言った。
「……」
 少し悔しいけど、「そうかも」と思ってしまった。そう、それは違うのかもしれない。
 ナミには今まで、私のことで泣くほどの不安を与えてしまっていた。もし私が、真実とはいえナミの嘘の原因であることを告白すれば……ナミには大した罰はないだろうが、私は味方をだましたことでどんな処罰を与えられるか分からない。烏は罰を厭わない。むしろ見せしめとして利用するだろう。
 そして……保志弘は? 烏を人間が匿うっていうことは、烏よりも人間の方が危険だ。私は自分の心配しかしていなかったような気がする。保志弘が、どんな思いで私を匿っていたのか。苦痛はなかったのか、不安はなかったのか。最後には感謝を伝えて安心させたとしても、あの人のことだから、心の片隅でずっと私の心配をしてくれるだろう。そんな中、私とナミの嘘がばれたら、私は極刑間違いなし。それに、もしかしたら保志弘にも……考えたくない。最悪のことは。それが起こらないための、私の決意ではなかったか。
 全てにおいて、「嘘がばれたら」の話だけれど。私とナミはそこまで楽観視はできなかった。ばれたときの事態の重さが、楽観させてくれない。
「……ナミの言いたいことは、わかったわ」
 私は俯いていた。分かるから、俯く。
「私自身を、大切にしないといけない、ってこと、よね?」
「そうだよ。クロウのことが大切だから、クロウにも自分を大切にしてほしい。……偉そうなこと言ってごめんな。俺が、クロウのこと守れればいいのに」
 首を横に振った。その思いだけで、すごく嬉しい。
「けど……じゃあどうしたらいいの?」
 問題はそこだ。
 自分もナミも保志弘も、皆を守るには、どうしたらいいの? 自分が身代わりになればいい。それしか考えられない私には、途方もない無理難題にしか聞こえない。ナミも、自分で言っておきながら代替案は頭にないようで、天井を見上げて考えながら、ぽつりぽつりと呟いた。
「つまり……嘘がばれないようにすれば、いいわけだろ……」
「そう、ね」
「うーん……」
「……その嘘の内容が、大事なんじゃないかしら」
 重要なのは、嘘だ。ばれない嘘……それはつまり真実味があって、裏も取れるような、嘘。
「完璧なアリバイがあれば、烏は済んだことに対して、積極的に首を突っ込んだりしないわ。人間相手ならなおさら、深追いはしないでしょう」
「そっか。そうだな! どんな嘘を吐くか、ってことか!」
 ナミと顔を見合わせて、頷いた。
 だけど。
「……何が、いいのかしら」
「……何て、言えばいいんだ?」
 同時に呟く。
 そもそも、二人とも嘘を吐くとか、物事を隠し続けるとかは苦手。私自身はその性格に気づいているし、ナミがそうであることも長い付き合いの中で理解している。
 またも俯いた私に、ナミが明るい声をかけてくれた。
「まあまあ、帰るまで時間はあるじゃん? 暇潰しができたと思って、気楽にのーんびり考えよう!」
「……そうね。ありがとう」
 その明るさに助けられる。確かに、保志弘が帰ってくるまで数時間ある。それだけ時間があれば、言い訳くらいいくつか思いつけるはず。
 ……と、思った時。
 こつ。
「え?」
 我が耳を疑った。今の音……。
 顔を上げて黙った私を、ナミが心配そうに見つめる。
「ど、どうしたクロウ? 他の烏か?」
「違う。まさか……」
 ナミの前に人差し指をぴっと出して、静かにするよう伝える。
 こつ、こつ、こつ、こつ。
 扉の向こうから、近づいてくる足音。ご丁寧に二人分! それだけでも嫌な予感が膨らむのに、さらに追い討ちをかけるように、話し声が……。
「――よかったねぇ、帰りの道で襲われなくって」
「回避する気概はあるが、確かによかった。それより心配なのはこっちだ」
「中々頭脳派だよね。まさかフェイント攻撃なんて!」
「お前と違ってな」
「ひでぇー! 俺は頭脳派! 頭脳労働担当! んで、保志君が肉体労働担当。完璧な分担、ニコイチ、欠けたることのない確かな絆、フォーエバー」
「気色悪い」
「とにかく、烏は動き出したわけだ。対策はちゃーんととらないとねっ。作戦会議頑張るぞー!」
「はしゃぐな。黙って一人で部屋の隅で茶すすって静かに帰れ」
「茶をすすらせてくれるところに優しさは感じますが作戦会議における頭脳労働担当者への仕打ちとは思えませんね!?」
 ……眩暈がしそう。今までの計画は水の泡だ。
 だけどここで凹んでいてはいけない。ここには今ナミがいる。あの二人が彼を頭ごなしに拒絶するとは思えないけれど、出会うなら穏便な方がいい。早急に対策を講じなくては。
「ナミ、帰ってきたわ。残念だけど」
「クロウを助けたっつう人間が!? マジか!」
「声量落として!」
「はいっ!」
 ナミがばっと口元に手を当てる。
「……あの二人なら、取って食うようなことはしないと思うけれど、とりあえず姿を隠したほうがいいわ。混乱を避けるためにも」
「お、おう。でも俺、透明化とか高度な魔術は使えねー……外の方がいいか?」
 ベランダを示され、嫌でも粉々の窓ガラスが目に入る。この説明もしなきゃいけないのかと思うと気が重いけれど、仕方ない。村正はともかく、保志弘には経緯を知る権利がある。
「外は目に付くわ。私が説明すれば、落ち着いて聞いてくれると思うから、それまで……あ、そことか」
 私はベッドの奥を指す。ベッドと壁の隙間だ。入口からは見えないし、空間も十分にある。もちろん近づけば見えるし、そこから斜めの位置にあるL字のソファからも見えてしまうけれど、床のガラス片と割れた窓に気をとられて、近づいてはこないはず。
「ここ?」
 ナミは言われるがまま、すとんと隙間に腰を下ろした。ぴったり。
「ええ。大丈夫そうなら声をかけるから」
「分かった、任せろ!」
 ナミが今までと変わらず笑顔を向けてくれる、それだけでとても嬉しい。今までにない勇気がわいてくる。


 扉の開く音を受けて、私は粉々の窓硝子と共に二人を迎え入れた。


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