2020年9月11日金曜日

【創作小説】レイヴンズ06

      

雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)


(知りたいなんて思ったことはなかったんだけど、な)


(知りたいなんて思ったことはなかったんだけど、な)


「ただいま」
 最近やっと言い慣れた言葉をかけながら、家の扉を開ける。視界に入るのは、真正面のベッドに腰掛けている少女。
「おかえり、なさい」
 クロウはちらと俺の方を見て、表情を変えぬままに応じた。感情のこもらない機械的なやりとりだが、それでも俺にとっては新鮮だ。そもそも、部屋の中に俺以外の誰かがいる、ということが、新鮮を通り越していい刺激になっている。
 俺にとっては好ましい変化だが、それを目の前の少女、クロウという烏はどう考えているのか。
 彼女は人間と烏の線引きをしっかりしている。それは「人間が嫌い」という攻撃的理由ではなく、踏み込むことで烏の仲間たち、そして俺たち人間に危害が及ばないように、という防御的な理由によるものだと思う。優しい烏なのだ。
 それはとても素晴らしい……が、俺としては、もう少し柔軟な態度をとってもらいたいという欲があったりする。まあ、挨拶に返事してくれるようになっただけ、柔らかくなったほうなのだが。
「……保志弘」
 荷物を片付けていると、クロウが俺の名前を呼んだ。口数の少ない彼女が俺を呼ぶことが珍しくて、手を止めて体ごと向き直る。
「何?」
「質問があるの」
 片手を軽く挙げて、質問したいという意思を表明する。脈絡も際限もなくしゃべくり倒す、どこかの不謹慎な眼鏡と大違いだ。大変好ましい。
「あなた、どんな仕事をしているの?」
「仕事?」
 何の仕事をしているか、か。答えはもちろんあるし、答えるのはいいのだが……と口ごもっていると、クロウの顔が訝しげに歪んだ。
「……言えない仕事?」
 世間体的によろしくない仕事をしているみたいじゃないか。断じて違う。むしろ逆だ。
 けれど、烏であるクロウに、ずばっと言う勇気が出てこない。
「言えないわけでは……悪事ではない、んだが、どう伝えればいいのか……」
「烏関係なのね」
 あっさりと見通された。完敗。
「はい、そうです」
「そう」
「……えっ、それだけ?」
 わざわざ聞いてきた割にあっさりしているので、思わず追求してしまった。
 俺を見返してくるクロウの目は深い黒で、電灯に煌めいている。その奥はなかなか見えない。
「反応からして、烏に良いことをする……慈善活動家、とかではなさそう。烏を追う側、でしょう?」
「はい、そうです」
 二回目の全肯定。人間の社会や生活に関して、彼女の知識は心もとないのだが、深い考えからの推測は的を射ていることが多い。
 政府主導でつくられた烏対策部。俺が働いているのは、地方に設置されたその支部にあたる。烏から人を守るために、人の社会から烏を追放するために、日夜働いているわけだ。たとえ俺自身が前線に立つことが無かろうと、組織に所属する以上その行動原理は「烏は敵」。すなわち目の前の少女にとっての敵。
 だから伝えにくかったのだが。
「それだけ分かれば十分」
 そう呟くと、クロウはスリッパをつま先に引っかけて、ゆらゆら揺らし始めた。どうやらこれが気に入ったようで、たまに俺が帰ってきても熱中していることがある。怪我に痛む体では歩き回ることもままならないので、座ったままできる数少ない娯楽として楽しんでいるようだった。
 この部屋唯一のベッドは、負傷しているクロウの領地だ。必然的に俺はソファに腰を下ろすことになる。ベッドに座るクロウとは、ほぼ向かい合う形だ。
「えっと……いきなり仕事を訊くなんて、どうしたんだ? 何か気になることでも?」
 傷を負って倒れていたクロウを拾い、協議の末彼女の傷が完治するまで俺の家にいてもらうことになった。仕事で日中いないとはいえそれなりの時間を共に過ごしているが、俺個人に関する質問はもとより、クロウが自ら言葉を発すること自体多くはない。関わりを持ちたくないのだろうと思っていたが、前触れなく職業を問われて、正直驚いたのだ。
 彼女は俺には見向きもせず、スリッパを注視している。床に落ちるか落ちないか、ギリギリのラインで揺れている。
「考えていたから。知りたいと思わなかったのもあるけれど……」
 前髪の隙間から、一瞬の視線を受ける。
 俺と同じ、黒い視線。
「私、あなたについて何も知らない」
 烏と人は相容れない。現在におけるこの常識は、どれだけの数の烏と人がいた場合に成り立つものなのだろうか。ふと、そんなことを思った。
 目の前の小さな烏は、少なくとも俺について考え、何かを思って、俺について知りたいと思っている。彼女と俺の一対一なら、互いを知りたいと思える。「相容れない」と断言するには、早いのではないか。
 せめて俺の手の届く場所では、そうであればいいのに。
「だから、知りたくなったのか?」
「知っていた方が、都合がいいと思って。弱みを握れる」
「え、そういうこと?」
 真顔で言うので判別できないが、彼女なりのジョークだと思いたい。
 そう言われると、俺も俺でクロウの事を大して知らないのではないか。名前に性別、ここに来た経緯くらいで、例えば……そう、趣味趣向とか。あっ、食事の好みとか部屋の色合いとか枕が硬すぎとか、そういう細やかな配慮が出来ていなかったのではないか? ただでさえ怪我をした上に閉じ込められて参っているだろうに、不自由な生活をさせてしまっただろうか? しまった……全くもって駄目じゃないか白江保志弘!
「……保志弘は」
 突然声をかけられ、とりあえず頭の中で渦巻いた後悔を隅に追いやる。
 クロウは小さく首をかしげて、訊いた。
「今、自分が不幸だと思う?」
 ……また、難解な質問を。
 これが「俺を知るための質問」の続きなら、答えを受けて俺の何が分かるのだろうか。疑問は湧くが、彼女の問いに答えないまま逆質問は失礼だ。
 だから、笑顔を作って言った。
「いいや」
「どうして?」
 クロウは大して驚いている様子はない。ある程度予想していたんだろう。答えよりもその理由が気になるらしく、問う声は早かった。
 俺は自分の胸を指す。
「クロウから見て、俺が不幸に見えるか?」
「……いいえ」
 僅かに迷ってから、さっぱり首を横に振る。
「そういうことだ。俺は今をとても楽しんでいるから、不幸ではない」
「本心から、そう思う?」
「勿論」
 クロウはどうなのか……考えたが、訊くのは止めた。人間の世界で人間に匿われ、心の安まる時間などほとんど無いだろう今に、彼女が満足できる幸福があるはずがない。与えられればいいのだが、俺にできるのは結局環境を整える程度で、心の安息、充足には程遠い。分かりきった答えを言わせてお互いに傷つくくらいなら、触れなくてもいいだろう。
「……なら、いい」
 問答は終了のようで、クロウはスリッパをぶらぶらさせる遊びを再開した。俺の返答に納得したのだろうか。もしかしたら納得などしていなくて、俺が本心を隠していると思って諦めたのかもしれない。
 数少ない言葉からは、彼女の思いは掬いきれない。分からない。けれどそれは当然だ。心なんてものは見えない上に曖昧で、不確定だから。
 それを少しでも掴みたくて、言葉を重ねる。
「……クロウは、何で「俺が不幸か」なんて訊いてきたんだ?」
 質問に対する回答はしたので、そう尋ねる。
 クロウはスリッパを見つめたまま、さも当たり前のように答えた。
「私は烏。烏の気持ちや考え方はある程度分かっても、人間の……特にあなたたちの考えは、よく分からないから」
 「たち」というのは村正込みという意味だろうが……烏である彼女からしてみたら、烏だと分かってなお世話を焼き続ける俺たちの行動原理は、よく分からないだろう。
「知りたいと思うか? 俺の……人間の考えること」
 クロウは、静かに口にする。
「いいえ」
「そうか」
 迷いのない返事につられてあっさり応じてみせたが、自分自身、それに対してどう思ったかよく分からない。
 クロウは続けた。
「考え方……情報としては有用だけれど、私たちは不用意に馴れ合うべきではない。踏み込まず、最低限の関係で付き合うのが理想」
 何とも現実的な考え。そんな、壁を作るような寂しい言葉はどこから出てくるのか。
 ……俺が人間で、クロウが烏だから、だろう? そんなのは訊かなくても分かる。それに、彼女はそうやって自分と、俺も守ろうとしてくれているのだ。だから俺も甘んじて、その壁を前に立ち止まっている。
 それ以上訊きたいことが無かったので、クロウがスリッパで遊んでいる姿をしばらく見つめていた。そしてふと、腹が減っていたことに気づく。夕飯の支度をしなければならない。クロウの回復のために、食事は欠かせない。
 立ち上がり、台所に立つ。そこで、クロウの趣味趣向について考えていたことを思い出したので、訊いてみることにした。
「そういえばクロウ。食べ物の好みってあるか?」
「食べ物の、好み」
 クロウは足を止め、じっと俺を見つめる。質問の裏を探ろうとしている気がして、潔白の証明として彼女が納得できそうな理由を述べる。
「俺もクロウのことはよく知らないし、あまり踏み込んではいけないんだろう。でも、俺が君の心身の回復のためにできることって、まずは食事だと思って。自炊はあまり得意じゃないが、うん、努力はする。食べてみたいものとか、逆に苦手なものとかでもいいんだが、そういう情報が欲しいな」
「……」
 今度は俯いて考え込んでしまっている。うーん、この話の流れだと身構えられてしまうか。「弱みを握られる」とか思われたかな? 失敗した。単純に、好きなものがぱっと思いつかないっていうだけなら、まだ救いがあるんだけど。
 ……。
「おにぎり」
「えっ!?」
 呟いてみると、クロウが今までになく慌てた顔で俺を見た。声も上ずっていて、冷静ないつもの彼女とは別物。その変わりように、俺も内心慌てた。そんなに驚かせてしまうとは……最悪だ。
 ただそんな自己嫌悪を表に出さず、話を繋げることはできる。意地の悪いことだ、クロウが壁を作るのも無理はない。
「ほら、目を覚ました時に食べてくれていたおにぎり。あれ、結構大きかったのに全部食べてくれたから、気に入ってくれたのかな、と」
「あ、そう……」
 クロウは小さく呟いて、俺から目をそらした。
「……確かに、あれは好き」
「そうか」
 クロウに俺のことを教えた代わりに、俺もクロウのことを少し知った。それが何となく嬉しくて、でも同時に二つの理由で申し訳なくなった。
 一つは、今現在白米を切らしていて、クロウの好みを知っても晩飯を変更できないこと。
「悪い、今白米切らしてて……今日はパスタだ。明日米買ってくる」
「別にいい」
「明日の夜はおにぎりだな」
「いいって言ってる」
「好きな具は何かあるか?」
「もういい」
 調子に乗ったら拗ねられてしまった。俺に背を向け、ガーゼの当てられた肩越しにじろりと睨む瞳に苦笑する。
 申し訳なく思ったもう一つは……俺とクロウの距離を縮めてしまったこと。互いを隔てる壁に傷をつけようと試みていること。
 クロウに余計な不安を与えたくない気持ちはある。けれど烏と人を一緒に考えようとする、理解したいと思う無責任な俺のエゴが顔を出す。そのせいで、彼女に危険が及ぶかもしれないのに。
 台所の陰で目を閉じた。
 けれど、どうか許してくれ。


 酷く狡い方法でしか、君を理解できない俺を。


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