2020年9月5日土曜日

【創作小説】レイヴンズ05

     

雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)


(まだ、この気持ちに名前を付けたくない……)


(まだ、この気持ちに名前を付けたくない……)


「先輩、この書類の項目、どこを参考にすればいいですか?」
「えっと……ああ、それは資料の、この部分をまとめればいい」
「分かりました」
 書類に必要事項を書き込んでいく。私がこの支部でできる、数少ない仕事の一つだ。
 昨日は村正先輩の突然の報告を受けて、体が勝手に動いて支部を飛び出してしまったが、本当はあんな行動は許されていない。高校生で未成年の私にできることは、グループを組んでの近場の見回りと、簡単な書類作成や整理だけ。悔しい。もっと力になりたい。けれど、私がここに所属するだけでも周りの人に結構な迷惑をかけているので、今は我慢する。
 隣にいる白江保志弘先輩は、私が絶賛迷惑をかけている人代表だ。アポイントメントもなく突撃してきて「私も働かせてください」を連呼する、見ず知らずの女子高生の為に、頭を下げてくれた人。そして「私の行動の全責任を負う」という条件つきで、支部長の了承を取り付けてくれた人。時々頼りないこともあるけれど、私にとって恩人である。
 そんな先輩の横顔をちらと覗き見る。
「んー……」
 椅子の背を軋ませながら、思い切り伸びをしている。どういうわけか見回りのローテーションに組み込まれていない先輩は、デスクワークが中心だから、体が固まりやすいのかストレッチをするのをよく見る。
 けれど、今日はその回数がやけに多い気が……。
「先輩」
「何だ? 玲於奈」
 にこり。基本絶やさない、人の良い笑みを見せる。
「体の調子が悪いんですか?」
「そんなことは無いが……? 気になることでもあるのか?」
「今日はやけにストレッチの回数が多い気がして」
「ああ、それか」
 言いながら、先輩は肩を回している。
「昨日は床で寝たから、体が痛いんだ」
「床で? 何でですか」
 先輩は一人暮らしと聞いたことがある。何故床で寝る必要があるのか。
 考えて、思いつくのはもう一人の、親しい先輩のこと。
「村正先輩が泊まった、ですね」
「その名前が即座に出てくるのが遺憾極まりないが、その通りだ」
 先輩の顔が一気に険しくなる。本当に村正先輩には厳しい人だな。「腐れ縁」と聞いているけれど、実際どれくらいの付き合いなんだろう。というか、普段の先輩と対村正先輩用の厳しい先輩、どっちが本当の先輩なんだろう。
 先輩と村正先輩と言えば、昨日は私たちが出動して帰る間に、勝手に退社していたのだ。怪我を負った村正先輩の治療の為早退する、というメモを残してはいたが、今日やってきた先輩方は証拠を提出していないらしい。烏とのごたごたでの怪我はよくあることだから、証拠を提出するまでもない、と支部長は追求するつもりは無いそうだけれど。
「昨日の早退と、村正先輩の宿泊……つながりがありそうですね」
「そんな大層な話じゃない。奴が「家に帰るのだるい」とか「片腕うまく動かせないから」とか理由つけて居座ったんだ」
 確かに、あの出血量なら痛みも相応だろう。村正先輩は一人暮らしだったはずだから、一人ではいろいろ難儀だと思ったのかもしれない。
「そういうわけだ。あまり気にしないでくれ」
「お疲れ様です。でも、体調崩さないように気をつけてくださいね」
「気をつけるよ。ありがとう玲於奈」
 別に礼を言われるほどのことではないと思う。上司の体を気遣うのは、部下の常識だ。
 仕事に戻る。資料の内容を整理、簡潔な文章にまとめてから書類に書き込む。これが学校の授業でも活用できる技術で、国語の成績が少しばかりあがっていたりする。支部での活動のおかげで学習時間がかなり削られているので、こういう副産物はありがたい。
 少しすると、今度は先輩から声をかけられた。
「玲於奈。こっちは終わったんだが、次の書類は玲於奈が預かっていたよな?」
「あ、はい。ちょっと待ってください」
 私は、机に置いていた複数の書類を、隣の先輩の机にスライドさせる。それを手に取って眺めた先輩が、少し首を傾げた。
「昨日の報告書……村正が怪我したやつか?」
「いえ、それは村正先輩本人に任せています。この報告書は、先輩方が早退した後、夕方に起こった烏の襲撃を報告するものです」
「待ってくれ、俺は昨日」
「はい。早退しています。本当は出動した人に書いてもらうべきなんですが……」
 私は支部を見回した。先輩もそれに倣う。
 支部内には私と先輩の他にも職員がいる。けれどその人数は二人、それぞれパソコンと書類に向かって険しい顔をしていた。とても追加の仕事を振れそうにない。
「全国で烏による事件が多くなって来た中で、この件と村正先輩負傷の件。巡回が強化されている為、書類仕事の人手が足りないんです」
「今日やけに人が少ないのは、そういうわけか」
「安心してください。私も現場を見たので、手伝いはできます」
 ぱっと私を見た先輩は、どこか不安げな顔をしていた。その心情を察して、言葉をかける。
「私が行った時は、烏は去り際でした。また、私がやったのは民間人への声かけとか、道の封鎖とかです。危険はありませんでした」
「それならよかった」
 先輩は胸を撫で下ろした。私の、先輩の思考予測も手慣れたものだ。
 私が怪我などしたら困る、と先輩は過剰なほど私の身を心配している。それが「自分の部下だから」といった立場を守る為でなく、真剣に私の為だと言うから、この人は本当にお人好しである。「いい人」を通り越して「とにかく良すぎる人」と言うのが私の中の評価だった。
 でもまだ疑問があるようで、先輩は軽く眉根を寄せて私を見た。
「……なら、玲於奈が直接書いた方が早いじゃないか」
「私もその方が効率的だと思います。でも先輩、忘れたんですか? 私は非正規の職員です。本部に提出する公式文書を書くことはできないんです」
 無理やりもぎ取った居場所故に、私の数少ない仕事の中にも数多の制限がある。公式の書類を書くことができない。見回りの際、烏を攻撃できる道具の使用が認められていない。見回りの回数自体が少ない。被害が大きい事件の場合、その資料に触れることすらできない。一つ一つ確認するだけで悔しいけれど、我慢する。
 私がここにいて、烏という凶悪な敵を相手に安全をある程度保証されているのは、大人たちが私をその脅威から遠ざけてくれるからだ。迷惑、面倒をかけているのは百も承知。だから私はこの立場に満足して、できることに全力で取り組まなければならないし、実際そうしている。
 でも……もう少し、いや、もっと力が欲しいと思う自分を、偽れない。
 烏を倒す為の力が、欲しい。
「……そうだったな。分かった、教えてくれ」
 先輩の声に、はっと顔を上げる。先輩は書類を自分の前に置いて、ボールペンを手に取っていた。その横顔は複雑そうで……さっきの私の言い方が、嫌味っぽく聞こえてしまっただろうか? 謝ろうとしたけれど、その前に先輩が私を見てにこりと笑った。いつもの顔だ。気のせい、だったのだろうか。
 とにかく、先輩がやる気なんだから、こちらも集中しないと。資料はあるけれど、自分の記憶もしっかり呼び起こす。
「まず、事件現場」
「商店街の三番通です」
「目印になる建物はあったか?」
「えっと……あっ、ピザ屋「ぶれいく」が角にありました」
「次、発生時刻」
「十五時四十分です」
「被害内容……建造物や道路などの物質的被害は?」
「えっと、ピザ屋「ぶれいく」入り口の屋根が曲がりました。近くの道路標識にも歪みが。あと歩道の石畳が、一メートル四方ほど割れていました」
「人的被害は?」
「三名が負傷しています。四十代主婦が腕にかすり傷、三十代男性が……腕を深く切っています。あと一人、女子高校生が割れた歩道に足を取られ、脛に軽い切り傷を」
「そうか……重傷ではなさそうなのが幸いか」
 言いながら、先輩の手はさらさらと動く。綺麗な字で、私が口にした情報を報告文らしい文章に構築し直して書き込んでいく。間近でそれを見ていると、思わず口をついて言葉が出ていた。
「……さすがミスター書類ですね」
「それで呼ぶな」
 若干不機嫌そうになった先輩が、小さく呟く。予想していた反応だ。
 「ミスター書類」というのは、先輩のあだ名……というより、書類に関してあらゆる面で右に出る者はいない、という先輩に授けられた栄誉ある称号である。手がけた書類は、内容が具体的かつ簡潔にまとめられた、目で見ても美しいものになる。それだけでなく、書類整理もお手の物。その分別速度は村正先輩も「神速」と称えている上、正確さも群を抜く。
 誇っていいと思うんだけど、村正先輩も呼ぶせいなのか、というか名付け親が村正先輩だからなのか、言うと先輩は必ず嫌そうな顔をする。まあ、ちょっとセンスは古くさいというか、ださいのは否めない。
「これで、終わり。資料との齟齬はないか、確認を頼む」
「はい。……ええ、大丈夫です。提出しておきますね」
 立ち上がるけれど、支部長の席は空っぽ。そういえば、最近支部長の姿が見えない事が多い。烏の活動が活発だから、仕事が増えているのだろうか。提出された書類が溜まった箱に、そっと提出しておく。
「……私が預かっていた仕事は終わりましたが、時間はまだあります。他にできる事はありますか?」
「じゃあ、去年下半期の書類の整理を手伝ってくれたら、嬉しいかな」
 先輩は、支部長の机の横に並ぶ棚に立った。色とりどりのファイルの中から、とりわけ分厚いものをいくつか取り出して抱える。書類の端が飛び出しているところを見ると、適当に突っ込んだせいで日付がばらばらなのだろう。
 先輩はファイルを会議用の大きいテーブルに置き、書類を取り出してテーブルに広げ始めた。並べるのを手伝っていると、折れ曲がったり、少し汚れたりしている書類がある。もう少し、公的機関に所属している認識を持った方が良いと思う。
「今日は早くから来ていたが、学校は大丈夫だったのか?」
「はい。今日は委員会の会議で、授業が早めに終わったんです。おかげさまで、こちらでの仕事も早く片付きました」
「それなら早く帰ってもいいんだぞ?」
「いいえ、できることがあるならやりたいので」
 ここで仕事をするために委員会や部活動には所属していないから、放課後になればほとんど用事はない。だからといってさっさと帰るのも忍びないし、スキルアップや信頼関係構築の観点からも、できるだけ支部に居座るようにしている。
「私は何をすればいいですか?」
「今広げた一月分の書類を、まず十日ごとに分ける。それを日付順にして、ファイルに戻していく。それを……四月分だ。単純作業だし、やらなくてもいいといえばそうだが……」
「必要性は理解しています。早速始めましょう」
 過去の事件の資料が必要になったとき、しまうファイルを間違えていて、探し出すのにてんやわんやした経験が過去にある。この作業は地味かもしれないけれど、烏対策部の職務が滞らないために必要なことだ。
 二人で書類を眺めて、日付ごとに山を築いていく。それぞれの山をさらに眺めて順番に並べ直し、ファイルに戻していく。
「……」
「……」
 作業は単調。でも集中しているから、先輩が口を開く気配はない。私も口を開くつもりはない。代わりに、思考に没頭する。
 似通った文面の書類で踊るのは「烏」の文字。烏……人を襲う化け物。いつだったか、この世で最も恐ろしいのは人の姿をした魔物、と聞いたことがあるけど、烏はそれにぴったりだ。人と同じ姿で、人を傷つける。
 私の父さんと母さんだって、何の罪もなかったのに、烏に襲われて大怪我をした。もう何年も前なのに、まだ体に後遺症が残っていて、病院に通う毎日を送っている。
 ……そう、もう何年も前から、私は烏を憎んでいる。大切な家族を傷つけた、烏という存在を、ずっと。
 烏と相対する組織の人間は、私みたいな被害者が多いと思う。そうでもなければ、現実的に見て反則としか言いようの無い存在を相手に、積極的に行動なんてしないだろうから。人間、特に日本人とは見た目で区別がつきにくいのに、空が飛べる、身体能力も高い、ついでに不可思議な力まで使える。どう見たってアンフェアだ。
 だからって、この憎しみは止まらない。危険だとしても、一矢報いたい。
 ……この先輩にも、そういった感情があるのだろうか?
「先輩」
「何だ?」
 先輩はこっちを見ない。紙が擦れる音を立て続ける。
「先輩は、何でここに……烏対策部に来たんですか?」
「……給料がいいから」
「嘘ですね」
 微妙な間で判断すると、先輩は小さく笑った。この人、基本的に嘘を吐くのが下手なのだ。
「ああ。ここの給料は、飛びぬけていいというわけではない。生活する分には困らないけど」
「じゃあ、何でですか」
「……村正に誘われたから」
 それは初耳だった。今の間は、おそらく村正先輩が絡むが故に、口にすることを躊躇ったのだろう。この人本当に、村正先輩を認めたがらない。
「村正先輩が?」
「ああ。「面白そうだから一緒に来ないか」って」
 いかにも村正先輩っぽい招き方だ。
「それだけで、ここに来たんですか」
「ああ」
「……そうなんですか」
 拍子抜け。でも確かにこの人は、何かに憎しみを持つような顔をしていないから、納得はできた。そしてなんとなく、ほっとした。
「……よし、一月分終了」
 机の上の書類は、見事にファイルの中に収まっていた。飛び出す書類もない、整然とした姿に満足する。
「じゃあ、次の月いきましょう」
 翌月のファイルを出して、また機械的な作業を始める。一枚一枚、日付を確認しながらの分類は、少し面倒くさい。今度は気を紛らわせる意味も込めて、前から気になっていたことを口にした。
「先輩、もう一つ訊いていいですか」
「今度は何だ?」
「先輩って、髪染めてます?」
 先輩の髪は赤茶色。烏の特徴は黒髪黒目だから、人間、特に日本人は、間違えられて理不尽な非難を受けないように、髪を染めることが多い。学校でも容認されているから驚きだ。私だって間違えられたくないから、元から色素は薄いけれど、茶色に染めて学校に通っている。
「いや、染めてない」
 先輩は、何となく予想していた答えを返した。
「やっぱり」
「どういう意味だ?」
「先輩は、あまり頓着しないと思っていたので」
「ご名答。黒髪黒目で生まれたとしても、多分染めないだろうな。今時は烏も人間社会に紛れるために、髪を染めるそうだし。何色だろうと、生きづらさはさして変わらないさ」
 話を聞きながら、村正先輩はどうなんだろうと考える。あの人は黒髪黒目だ。地だろうけれど、困ることはないのだろうか。
「村正は地毛。困ることはあるだろうが、あいつのことだ。それすら面白がってるよ」
「……」
 考えていたことにピンポイントで答えられて、言葉が出なくなる。さらに手が止まったので、気づいた先輩が首を傾げた。
「あれ、どうした?」
「いえ……「村正先輩はどうだろうな」って、考えていたところだったので」
 先輩は、ふいと天井を見上げる。
「何となく、だったんだが」
「勘がいいんですね」
「どちらかというと、鈍い方だと思うよ。偶然だ、今のは」
 ふと気づけば、先輩は既に次の山の順序整理に突入していた。私はまだ、半分ほどしか並べ替えしていない。ちょっと考え事は止めて、仕事に集中しよう。


 最後の一枚が、すとんとファイルのポケットに滑り落ちる。ファイルは見違えるようにスリムになった。
「これで終わり。助かったよ、玲於奈」
「いえ。上司を手伝うのは部下の役目、当然のことをしたまでです」
「あはは。格好良いなあ」
 笑う先輩の背後、窓の向こうの空が夕焼けに染まり始めていた。時計を確認すると、私が仕事を許されている時間ギリギリ。
「そろそろ時間なので、急な仕事とかなければ……」
 烏対策部の非常勤である以前に、私は学生。帰宅すれば、山のような宿題と予習に忙殺される宿命なのだ。そのあたりも考慮してもらって、私の勤務時間はだいぶ短く設定されている。
「あとは俺でもなんとかなるよ。暗くなる前に帰りなさい。気をつけて」
「はい。お疲れ様でした」
 退勤の手続きを一通り終えてから、自分の椅子の下から学生鞄を引っ張り出して担ぐ。烏対策部の職員から学生へ戻るという意味でも、その重みに憂鬱になった。
 重い足取りで扉へ向かい、ドアノブに触れようと手を伸ばした瞬間。
 ばたーん!
「保志くーん!! 聞いて聞いて、大スクープ手に入れたよー!!」
 目の前で扉が開いて、村正先輩が大声を上げながら突入してきた。咄嗟に避けたので私に大事はない。けれど、嬉々とした村正先輩に近づいてこられたからか、いやおそらく村正先輩が存在しているから、先輩の顔が冷めていく。
「お前の声は聞くに堪えない。よって傾聴を拒否する。黙れ」
 この人の脳には、村正先輩専用の回路があると思う。声も表情も一転して、普段ならお目にかかれない暴言、暴力をさらりと行使するのだ。
「「聞くに堪えない」ってのは聞いたけど無理、つまり聞いてはいるってことだ! 聞いてればいいんだよ! っつーことで、話続けるよん」
 この人もこの人で、先輩の対応に全く不満を持っていないようで怖い。ある種のMでしょ、絶対。そして、言ってることは微妙に理に適っているような、そうでないような。納得してしまうと負けな気がする。
「「堪えない」は「できない」という意味だ。つまり聞いていない」
「わがままだなー。じゃあ保志君を振り向かせるために、面白おかしく報告しよう! 俺の腕の見せ所だねっ!」
「「聞かない」って言ってんだろ」
「気にしませーん。前に、俺の友が超有名モデルと付き合ってるって話したじゃん?」
「ああ、あの詐欺か」
 先輩、ドライすぎ。
「それがさ、詐欺じゃなくてマジらしいのね! 話がまとまったら、モデルの方から正式な発表をテレビでするんだって。超浮かれてた!」
「……お前、仕事時間に何してるんだ?」
 それは私も思いました。
 村正先輩はどちらかといえば先輩と同じくデスクワーク派だけれど、支部で大人しく仕事をしていることは少ない。というのも、彼は情報収集が得意で、烏の動向をいち早くキャッチするために街を飛び回っているのだ。
 その活動のおかげで事件を未然に防げたことも数知れず。村正先輩の情報網にはとても助かっているけれど……何で一切関係のない情報を仕入れているんだ。あなたが仕入れるべきは烏の情報ではなかったか。
「俺、結婚式呼ばれちゃうかも!!」
 しかも聞いてない!
 先輩の顔が華麗に無表情になった。殺気さえ感じる無です、先輩。
「その前に、お前の葬式開いてやるから心配しなくていいぞ」
「人の命日勝手に決めないでよ、俺は百二十歳まで生きる予定! ねぇ、玲於奈ちゃんからも何か言ってやって!」
「わ、私ですか!?」
 そこで振られるとは思わず、体が固まる。
 っていうか、村正先輩は私の存在にちゃんと気づいていたんだ……。勢い良く先輩の方へすっ飛んでいったから、扉の脇にいた私には絶対気づいていないと思っていた。抜け目がない。
 そんなことを考えている私の代わりに、先輩が口を開いた。私の沈黙を戸惑いと捉えたのだろう。
「何で玲於奈に話を振るんだ。彼女は帰るところだ、巻き込むな」
「えっ、そうだったの? いやはや、それは失礼。お仕事お疲れ様でした」
 深々と頭を下げられたので、反射で同じ角度に腰を折る。
「ありがとうございます。村正先輩も、残りの仕事頑張ってくださいね」
「うぐ、釘を刺された……他の人に適当に押し付けて帰る予定だったのに……」
「やっぱり。釘を刺して正解でした」
 顔を上げると、先ほどまでの生き生きした顔から一転、しょげた村正先輩。この人、やればできるのに大体手を抜くから、びしっと言っておかないと。
 と思って口を開くより先に、先輩が手で制した。
「こいつの尻叩きは俺がやるよ。早く帰りなさい」
「あ、いえ、えっと……はい。では、村正先輩はお願いします」
 急いでいるわけではないのだけれど、早く帰れた方がありがたいのは間違いない。それに、私が長々ここに居座っていると、監督役である先輩にも迷惑がかかる。村正先輩を監視するにも先輩の方が適任だし、お言葉に甘えることにした。
「お先に失礼します、先輩方」
「またな、玲於奈」
「ばいばーい!」
 二人の先輩が手を振ってくれたので、振り返しながら廊下に出て、歩き始める。扉はゆっくり閉まるので、二人の声はまだ聞こえていた。
「……はーあ。玲於奈ちゃんに言われちゃ、適当できないなー」
「俺がさせるか。さっさと席に戻れ」
「へいへーい。あっ、ところで保志君。実は先ほどの外出で、入用になりそうなものを買っておいたのだよ」
「……へえ、お前にしては役に立つな」
「ふふふ、やればできる男とはまさに俺のことなのサ! ってなわけで、第二のふるさと保志君の家に、今日もお邪魔しちゃいまーす!」
「いや、荷物寄越してくれれば十分だ。帰れ。来るな」
「やだー! だってもっと仲良く……」
 フェードアウトしていく声は、廊下の突き当たりを曲がったら聞こえなくなった。ちょっと頼りなく騒がしい人たちだが、やっぱり嫌いじゃない。
 憎しみを抱えて飛び込んだ場所だけれど、楽しい。居心地がいい。そう思えるのは、あの先輩たちのおかげだ。
 でも時々、本当に時々、胸が苦しくなる。何でだろう……?
 夕暮れの帰路で胸に手を当てれば、やけに大きい自分の鼓動が手を伝う。


 その時思い描いていたのは、先輩の横顔。


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