2020年10月8日木曜日

【創作小説】レイヴンズ17


雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)


(どうして、こんな良い方向に行っちまうのかな?)


(どうして、こんな良い方向に行っちまうのかな?)


 天気が悪い日。雨の夕方。俺たちはやけに浮かれている気がする。
「んじゃ、行くか」
「ええ」
 一人一本、鮮やかなビニール傘。鍵は公平なるじゃんけんにより俺の担当。戸締りは完璧。電気オフ。
「いってきまーす」
「いってきます」
 暗い部屋に挨拶を残して、鍵をかけた。
 何度目の外出になるかは覚えていない。「雨が降るたびに」が一番曖昧なようで正確だ。俺とクロウは、雨の日だけ出現するレアキャラとして家を出て、散歩をする。
 歩く道は大体決まっていた。方向感覚がいいクロウが一緒だから、何処に行ったって必ず保志弘の家には帰れる。けれど不用意に遠くに行くのは危険だから、と近くの公園や人の少ない通りを巡る定番ルートができていた。
 橙と紫、色違いの傘を並べて歩く。
「雨が降ると、町は静かね」
「そーだな。人間も、雨の下に出るのは面倒なんだろ」
「まるで二人きりね」
「そう……だな」
 ……俺はクロウのことが好きだ。だから、こういうシチュエーションとか言動とかはとんでもなく緊張するというか、舞い上がっちまうというか、とにかく正常ではいられない。クロウが俺に特別な感情を抱いていないことは普段の態度から確認済みだから、切ない片思いなんだけど。無意識でそういう発言は控えてくれ、期待しちまうだろ! ……って言ったって、クロウは分かってくれないんだろうなあ。
 突風が吹いて、クロウの傘が飛んでいっちまったら、なんて考えてみる。そうしたら、傘がぶつからないように取られた距離が、一気に縮まるのに。
「……なー、クロウ」
「何?」
 不意に浮かんだ妄想を振り払うため、特に用も無いのに呼んでしまった。クロウは律儀に応じて首をかしげる。
「あー、えっとー……寒くない?」
「大丈夫。パーカーのおかげで、寒くない」
 軽くパーカーの袖を握って持ち上げる。俺たちが烏に見つからないように、保志弘と村正が用意してくれた衣服だ。
「そういうナミも、寒くない?」
「俺は元々寒いの平気だし、クロウと同じく上着あるしな!」
 今は普段着ている半袖のジャケットではなく、これまた保志弘と村正が用意してくれた長袖のジャケットである。両腕を上げてアピールすると、クロウがふっと笑った。ついつい俺の顔も緩んでしまう。
 保志弘の家に乗り込んで久々にクロウを見たときは、緊張しきった硬い表情だった。しばらくはすっごく不安だったけど、ここ数ヶ月でかなり柔らかくなった、と思う。
「……保志弘と村正のおかげだな」
「そうね。感謝しても、しきれない」
 俺の言葉に、クロウも頷いた。
 俺たちが同胞である烏に追われる身でありながら、こうして笑って外を歩けるのは、白江保志弘と那字路村正、二人の人間のおかげだ。二人が俺たちを尊重してくれるから、正常な精神状態を取り戻せた。
 ……でも。こんな生活も、終わる時が来てしまうんだよな。どんな風に終わってしまうのだろう。
 って、駄目だ駄目! 暗いこと考えるな! 保志弘と村正は必死になって俺たちを守ろうとしてくれてる。烏社会の重鎮であるセレベスさんだって俺たちに協力してくれてる。それに何より、俺たちは俺たち自身も、俺たちを守ってくれた人々も守ることを諦めていない。だから大丈夫だ。絶対に大丈夫。
 別れるときは、どんだけ寂しくても、きっと笑顔でいられる。
「どうしたの?」
 考えていると、突然クロウに訊かれた。
「え!? な、何が?」
「ナミ、表情がくるくる変わってたわ。百面相みたいに」
「マジで!? うわ、恥ずかしー」
「感情が出やすいのね」
「昔っから「分かりやすい」とは言われてたけど……」
 二人きりだと錯覚さえした静寂の中に、音が混ざる。前を向くと、黒い傘が近づいてきていた。傘が雨を弾く音がばたばたと五月蠅い。
 警戒から、自然と声のトーンが落ちる。
「……分かりやすいのは、悪くないと思う」
「俺としては大人の余裕とか、ポーカーフェイスとかに憧れる」
「ナミはそのままでいいわ」
 黒い傘とすれ違う。
「……」
「……」
 過剰反応しているだけだ、というのは分かっている。だけど、不安だ。
 烏は空から俺たちを捜索している、という前提で俺たちは防御し、行動している。それは「烏が人間を嫌っている」という事実に基づいた仮定だけれど、俺たちの捜索の為に人間にまぎれようと考えれば、できないわけではなかった。嫌いなものに馴染んで身を潜める、それに耐えられるかどうかが問題なだけ。
 俺と同じ事を考えているのだろうか。俺の身近な存在の中でポーカーフェイスの称号に大分近いクロウだけれど、緊張しているのが分かる。
 雨音の中、一歩二歩、遠ざかる足音。
 が。
「……」
 ぱしゃん、と浅い水溜りを踏んで止まった。
 黒に反応してしまうのは、烏が纏う物に黒が多いからだ。セレベスさんが紫のドレスを着たり、俺が髪を金に染めたりするのは、人間に近づけるため。本来の烏は、髪も目も衣服もクロウのように漆黒でまとめられており、人間も烏イコール黒の等式のもと黒を嫌う。
 黒い傘が、雨の中で立ち止まった。黒いブレザーに灰色のスカート。ハイソックスも黒だが、靴は濃い茶色。
「……」
 俺とクロウの足は、完全に止まっていた。疑念から沸く恐ろしい予測が、俺たちの足を引き止める。
 今立ち止まった黒い傘の持ち主は、烏では、ないか?
「……行かないと」
 俺は呟いた。このまま立ち止まっていてはいけない。傘の持ち主、おそらく女性が烏であろうがなかろうが、危険であることに違いはない。烏だとしたら、追ってくる。烏でなく人間だったとしても、こちらが烏だと何らかの原因で気づかれたら、通報されて大事になってしまう。
「……ええ」
 クロウが硬い声で応じ、俺の手を取った。頼られてんのか? なんてちょっと浮かれた自分に嫌気が差す。何考えてんの俺、今はそんな時じゃないだろ!
 こっちが烏だと気づかれていないなら、突然走り出したら不審がられる。出来る限り平静を装った早足で、この場を離れるのが最善だ。大股で歩き出す。
「ナミ、正面……!」
「え!?」
 だがすぐに、クロウが俺の手をぐいっと引っ張った。緊張マックスの声に従って、ビニール傘で遮られた正面に顔を向ける。
 こちらに向かって駆け込んでくる、傘をさした人影。傘を傾けているため顔が見えない。
「!!」
 嫌な予感が爆発した。
 さっきの黒傘の女は人間で、俺たちを烏だと見破って通報したのか? そのような気配はなかったが、その手のプロなら可能かもしれない。それとも女は烏で、周りに仲間を忍ばせて俺たちを捜していたのか? それとも偶然別の奴が気づいた?
 どちらにせよ危険度は変わらない。一刻も早くこの場から離れるべきだ。でもどうやって? どこに? 駆け込んでくるあの速度では、時間的猶予はほとんど残っていない。こうしている間にも距離が詰まっていく。
 見回すと、歩道横に並ぶ建物の間に細い隙間があった。傘を閉じれば何とか通れるだろう。クロウの手を握り返し、そこに飛び込むタイミングを計……。
「うおーい何してんのークロたんにナミー!! おおっと、その向こうにいるのってもしかして玲於奈ちゃんじゃね!? えーみんな揃って何してんのっつーか、ナミくん両手に花的なー!?」
「……」
「……」
 俺とクロウは絶句した。
 正面から走ってきた人影は、十メートルほど手前で顔を隠していた傘をばっと上げ、その姿をさらし、さらに大声でこちらに呼びかけてきた。
 あの顔、あの声、あの言葉。間違いなく間違えるはずもなく間違えようもなく間違えたくても間違えられない。
 村正だった。
「ぎゃああああああああこの村正あ!!」
「げっふ! ちょ、ナミ何すんのいきなりっ……」
「こっちの台詞だアホ! びびらせやがっててめー!!」
 行き場のない怒りを込めて、俺たちの前で立ち止まった村正に蹴りを入れた。俺とクロウの緊張感を返せ!! いややっぱ緊張感いらない! 見知った奴ですっげー安心した! 安心をありがとう!!
 そこに、クロウがおずおずと声をかけてくる。
「あ……あの……ナミ……ご、ごめんなさい……私、早とちりを……」
 迫り来る村正に、先に気づいて声をあげたのはクロウだった。誰だか分からなかったのだから、猛スピードで走ってくる人物に危機感を抱くのは当然のことだろう。結果村正だったことが気恥ずかしかったのか、クロウは顔を赤らめていた。うんうん、村正だったってことが、妙に悔しいんだよな。
「一切合切村正のせいだから、紛らわしい村正が全ての要因だから! 第一俺らの身の上考えたら、警戒すんのが当然だって」
「……ありがとう。それと……」
「ん?」
 クロウの視線が後ろを向いた。その意味にはっと気づいて背後を見ると。
「……村正、先輩?」
 女が……こっちを向いていた。こっち、というよりは村正個人を見ているようだが、俺とクロウもしっかりばっちり視界に入っていることだろう。そらそうだよな、村正の大声の呼びかけも俺の絶叫も、人目を引きつけるには十二分だもんな……。さっきまでの慎重な俺、消失すんの早すぎじゃね?
 まあ悔やんでも後の祭り。仕方ないから、村正に声をかける。
「あーえっと、村正。その人、は……知り合い?」
「うん。玲於奈ちゃん、かまん!」
 村正の知り合いなら危ない人じゃないだろうから、警戒は解いてもいいのかな……?
 戸惑いを全身からオーラの如く発しながらも、呼ばれるままに近づいてくる制服姿の女。名は玲於奈、らしい。
「……先輩、こんばんは。仕事は終わったんですか?」
 冷静で、意思の強そうな声だった。挨拶をしながら軽く会釈をする。
 そんな玲於奈に対して、村正はからから笑った。どっちが大人か一瞬迷った。
「まっさかー! 仕事はちょちょっと別の人の机に置いといて、情報収集がてら気分転換に現れた次第だよ!」
「「別の人の机」って、もしかしなくても先輩の机ですよね。しかも、気分転換が主なんですか。社会人として自覚あります?」
「心に突き刺さる発言だよ玲於奈ちゃん。でもそんなんでへこたれてたら「情報屋」の二つ名が廃れるからね」
「へこたれてください。二つ名も廃れていただいて結構です。というか、そんな二つ名知りませんでした」
「……うん、さすがにこの心の裂傷はリカバリー不能。クロたん助けて」
「え? あの……?」
 そこでなぜガチガチに緊張しているクロウの背後に隠れるんだ村正!? どう考えても人物チョイス間違ってるだろ!!
 女……玲於奈の視線がクロウをとらえる。クロウは緊張したまま、まっすぐその目を見つめ返した。五秒ほど見つめ合った後、彼女は俺に目を移した。言動に違わず強そうな目。
「村正先輩、二人はお知り合いですか」
「そ。あ、じゃあ俺からざっと説明するよ」
 クロウの後ろからあっさり出てきた村正は、まず俺たちに顔を向け、玲於奈を手で示した。
「えー、ごほんごほん。僭越ながら私、那字路村正がご紹介します。こちらは玲於奈ちゃん、俺や保志君と同じく烏対策部支部で仕事してくれてるピチピチ高校生でーす」
「……どうも」
 玲於奈が軽く会釈をしたところで、今度は俺たちが紹介される。
「で、こっちはその金髪がナミ。こっちの美女が、えーと、クロ子ちゃん!」
「クロ、子?」
 クロウが首を傾げたので、俺は素早く小声で補足説明する。
「ほら、「クロウ」なんて名前、人間じゃ珍しいだろ? それに「日本女子の名前は最後に「子」がつけばそれっぽくなる」って聞いたことある」
「なるほど。「ナミ」は大丈夫なの?」
「セーフなんじゃね? 漢字変換できるし」
「漢字に変換できるかどうかが、和名の決め手なのね……」
 そうかどうかは分からないけど、納得してもらえたからいっか。
「えーとねえ玲於奈ちゃん、この二人はー」
「彼女」
 説明しようとした村正の言葉をぶった切って、玲於奈がクロウを見つめ言った。突然のことでクロウも驚き声を上げる。
「え……?」
「彼女……クロ子、ちゃん? 先輩の遠い親戚……で、間違いないですよね?」
「……うにゃ?」
 村正も話の流れについていけず、変な声を出した。が、玲於奈は気にせず話を続ける。
「先日先輩から「しばらく預かることになった」と聞きました」
 「先輩」ってのが保志弘だと仮定すると、どうやら保志弘は、事前に俺たちについて説明……っつか、人間社会での設定を伝えていたらしい。どこまでも心憎い奴だ。
 クロウは村正と俺とに目を合わせると、小さくうなずいた。設定に乗っかるようだ。わざわざ拒否する必要もないしな。
「……そう。保志弘には、お世話になっている」
「それで、こっちのナミ君は?」
「俺!?」
 えっ、俺に関しての予備知識はないの!? 保志弘が説明したのはクロウのことだけ!?
 安心していたところにこの攻撃で慌てていると、村正が割り込んできた。
「ナミは俺の友達! ちょっとごたごたした家庭の事情ってやつで家に帰れないから、保志君が預かってる!」
「……そうですか。村正先輩の友人なのに、なぜ先輩が預かるのかは疑問ですが」
「俺が住んでるとこより保志君のアパートの方が綺麗で広いからねー。いっそ俺も、住み込みメイド的に働こうかな?」
「村正、毎日床で寝ることになるわ」
「だな」
「家主にいじめられる下っ端メイド、でもあきらめないわ! 待っているのは下剋上からのサクセス!」
「何言ってるんですか」
 ぴしゃり、と玲於奈の一言。おお、村正の扱いに長けてんじゃん。俺の中の玲於奈株上昇。ま、クロウ株には負けるけど!
「玲於奈」
 俺がどうでもいいことを考えていると、クロウが玲於奈に話しかけた。珍しいな、クロウが見知らぬ人に自分から声を掛けるなんて。
 玲於奈はわずかに首を傾げてクロウを見返す。
「何?」
「……保志弘は、どうして私のことを、あなたに?」
 言われてみればそうだ。雨の日限定とはいえ、外をうろうろできる状況にはなったけれど、クロウと玲於奈が出会う可能性なんてめちゃくちゃ低いじゃないか。そもそも出会う必要がないっていうのに、わざわざ「遠い親戚」だなんて嘘を吐いてまで、存在を説明する必要があったのか?
 クロウは保志弘のことを信頼しているし、俺もクロウ共々助けてもらってる上村正の友達だから、当然信じてはいるけど、ちょっと不可解だ。
 玲於奈は少し視線をさまよわせてから、首を振った。
「言わない方がいいと思う。でも先輩に悪気があるわけじゃないから。多分、本人に直接訊いた方がいいよ」
「……そう」
 クロウは渋々引き下がった。保志弘に悪気がないってのは分かりきってることだから、それが裏付けされたならいいんだろう。
 あ、そういや玲於奈に挨拶してなかったな。最初が肝心、礼儀はちゃんとわきまえねーと。
「とにかく、あーっと、玲於奈? まあそのー、うん、初めまして」
「……よろしく?」
 俺の後にクロウも言うと、玲於奈は頷いた。意志の強い目が僅かに優しくなる。
「……よろしく、二人とも」
「よーし! お友達が増えたところで、その辺のファミレスあたりでおやつでも食べない?」
 ……村正は事あるごとに同じ釜の飯を食べたがるな。まるで通過儀礼のようだ。これはさすがに、俺だけでなくクロウや玲於奈もあきれ顔。
「村正、雨とはいえ長々と歩き回るのはよくないわ」
「彼女の言い分はよく分からないけど、村正先輩はそんなことをしている暇があったら、さっさと支部に戻って仕事をすべきです」
「二人の意見に賛成しまーす」
「ええー満場一致とかないわー! みんなもっと親睦深めようよー出会ったその晩枕を並べて寝られるくらいには仲良くなろうよーやだやだやだーみんなが仲良くしてくれないと俺泣くよーぅ」
「いい大人が道の真ん中で駄々こねないでください」
 玲於奈のきつい一撃。
 さらに追い打ちをかけるように、ぷるるる、ぷるるる、と聞き覚えのある音が鳴った。
「村正の携帯じゃね? 電話?」
 俺に言われるまでもなく、村正はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、二つ折りのそれを開いて相手方を確認。
 ……硬直十秒。
「村正、どうしたの」
 ゆっくり青ざめていく村正の顔。それの意味するところを察しているのかいないのか、クロウも玲於奈に続いて駄目押し。村正は今にも泣きそうな顔で俺らの顔を見回すけれど、残念ながら俺らは何もできない。
 村正は通話ボタンを押し、ゆっくりと携帯電話を耳に当てた。
「や、やっほー、保志君」
 やっぱり、相手は保志弘か。予想通り。
 そしてこれもまた予想通り、段々と村正の顔色が青を通り越して紫になる。
「……え? いや、あはははは。保志君、それを言ったら俺はもう二度と支部には戻れなくなる。というか戻りたくない。直帰して布団被って寝たい。……あのね保志君、それはほら、大人にもあるでしょ悪戯心。抑えきれないわくわくどきどき、それに身を任せることは人間という生命のはいごめんなさい今すぐ戻ります戻ります戻りますから許してください!!」
 最後は悲鳴になった。
 その後ぼそぼそと言葉を交わしてから通話は終了し、携帯電話を閉じた村正は力なく敬礼した。
「……不肖村正、仕事と保志君の信頼を失いたくないので職場に戻る次第であります」
 電話だけで村正をここまで怯えさせるとは、保志弘いったい何を告げたんだ。さっきまでの明るい村正が別人になったんだけど。
 とはいえ村正が真面目に働くことはこちら三名の願いでもあったから、爽やかに送り出すことにする。
「手遅れかもしれないけれど、頑張って」
「保志弘の信頼を守れるかはわからねーけど、ファイト!」
「仕事も守りきれる保証はありませんけど、応援しています」
「うーわーんみんなが厳しいー!! もっと優しく扱ってよーん!!」
 叫ぶなり、村正は回れ右して来た道をまっすぐ戻っていった。
 嵐は去った……いや待って、この面子で残るのすっげ気まずくね!? たった今知り合ったばかりなのに!!
「……私、そろそろ帰らないと」
 すると玲於奈がそう言ってきた。まあ向こうも気まずいよな。雨もちょっとひどくなってきたし、一つどころに留まって喋るのは、俺らとしても都合がよくない。
「そうだな。俺らも帰らねーと、クロウ……じゃねえ、クロ子」
「そうね」
 とはいえ方向は一緒なので、少しの間並んで歩く。喋ることもなく無言。
 アパートの前で、俺とクロウは足を止める。
「じゃ、俺らはここで」
「ああ、うん」
 玲於奈は歩を緩めたけど、立ち止まらない。振り向いて軽く頷き、背を向ける。
 中に入るか、と入り口に足を向けた時。
「クロ子ちゃん、ナミ君」
 名を呼ばれた。はっと見ると、玲於奈は体をこちらに向け、傘の中で控えめに手を振った。
「またね」
 小さな、でも確かな声。
 応じようとして、ふと冷静になった。玲於奈は人間だ。俺たちは烏。ここで手を振り返してどうなる? もう一度会いたいなんて考えても、いいのか? 俺たちは深く関わらない方がいい、彼女が危険な目に遭うかもしれない。俺たちが烏だと知ったら、彼女は傷つくかもしれない。どれをとっても、彼女の為にならないんじゃないか。
 考えていたら、俺の横ですっとクロウが動いた。
「また、ね」
 クロウは、返事と共に玲於奈に手を振り返した。控えめだけど確かに、「また」という再会の願いに応じた。
 俺は自分の頭の冷静な部分に笑ってやった。ほら見ろ、クロウはそんな理屈っぽくて難しいこと、考えてねーんだよ。不安だけどさ、それよりも嬉しいから。
 人間と、仲良くなれるかもしれないことが。
 保志弘や村正のように、全てを理解して受け入れてもらうことはすごく難しい。あいつらの包容力は半端じゃないから、常人にそこまで求めない。
 全部理解して受け入れなくていい。種族の先入観を持たれてない状態で、俺たちが玲於奈と仲良くなれたら、それってすげーことじゃん。烏だから、人間だから、そんなの関係なく繋がれるんだって、胸張って言えるじゃん。
 俺は、そうなったらいいなって思う。クロウもそう思ったから、きっと手を振ったんだ。
 だったら、俺が今すべきことは。
「……っ、まったなー! 玲於奈!!」
 大声あげて、傘からはみ出るほどに大きく手を振ってみせた。それに対抗するように、クロウも大きく手を振り始める。
 去っていく玲於奈は、おかしそうに笑って背を向けた。その背中が消えるのを待ってから、アパートの中に入る。
 階段を上りながら、クロウが呟いた。
「玲於奈と……仲良くなれるかしら」
 やっぱり、クロウもそう思ったんだな。だったら答えなんて出てる。
「仲良くなりたいって思ったら、なれるって! 俺も仲良くなりてーもん。一緒に玲於奈の友達になろうぜ!」
「……ええ」
 玲於奈との出会いは、やっぱり保志弘と村正がくれた奇跡。でもこっから先は、俺らの努力次第だ。俺らが能動して、やっと結果が現れる。いろいろしてもらってばっかりだった今までから、ちょっと進歩したんじゃね?
 危険な状況は全く変わっていないのに、何だかうきうきしてる。雨の空には相応しくない晴れやかな気分で、俺は部屋の鍵を開けた。


 こっからが、俺とクロウの本気の見せ所、だろ!


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