雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)
(こんな力があったって、俺はあまりにも無力だ)
(こんな力があったって、俺はあまりにも無力だ)
朝、村正から電話がかかってきた。内容は「退院はできたものの、包帯による雁字搦めでまともに動けないので、ちょっと助けてくれないか」というもの。具体的には、買い出しを主として家事諸々。
村正の頼みは八割型無視するが、今のあいつは怪我人だ。無視する訳にもいかない。今日は、仕事の後に村正の介護をすることにした。これが最初で最後であれ。
「悪いけど、今日は仕事の関係で遅くなりそうだ」
「わかったわ」
「了解ー」
朝食を食べながらクロウとナミに微妙なラインの嘘連絡をすると、二人は頷いて応じてくれた。その純粋さに、少し心が痛い。
最近、二人……というかクロウが、俺が朝食を食う時間に合わせて起きられるようになり、三人で食卓を囲む機会が増えた。まるで家族みたいで楽しい。早くに死んだ両親と食卓を囲んだ記憶はおぼろげだし、何より烏である二人と、こんなにも平穏に朝食を食べられるというのは、一年前の俺は想像もできなかった。
「そういやさ、最近村正どーしてる?」
不意に、ナミがそんなことを言った。クロウもそれを聞いて「そういえば、最近会ってないわね」と呟いている。
村正が烏に襲われて大怪我をしたことは、まだ二人には言っていない。これは村正の意向だ。余計な心配をかけないように、ということだろう。いつかは言わなければならないが、今はそのタイミングではない。
「あいつも仕事が立て込んでいてな。二人に会えないこと、結構堪えてるみたいだ。一段落すればすぐにでも突撃してくるから、虎挟みの準備を怠るなよ」
「……それは怠っていいと思う」
「保志弘、本当村正に容赦ねーな……」
二人の苦笑。俺もつい笑ってしまう。
クロウもナミも、いろんな表情をするようになった。笑ったり、呆れたり、怒ったり。傷だらけのクロウを拾ったのはもう何ヶ月前になるのか、ナミが窓ガラスをぶち破ってやってきたのは何ヶ月前か、当時はどれほど堅い表情をしていたのか……思い出すのが難しい。それほどまでに、この光景は俺の中で日常と化していた。
分かってはいる。この日常が異常だということは。
村正が烏に襲われたあの時に、ちゃんと思い出した。
「……そうだ。烏を騙す嘘、ちゃんと考えてるか?」
だから、訊いた。俺から問いかけるのは意地の悪いことだと思うが、だからこそ訊かなければならない気がした。二人が現実を認識して傷つく顔は見たくなかったので、視線を避けるように食器を片付け始める。……意地が悪いというより臆病だな、俺。
でも、返ってきたのは予想と異なる答えだった。
「……前に、保志弘と村正がくれた案がある。私たちもいくつか候補を出してみたから、今は煮詰めているところ」
思わず顔を上げると、クロウが俺をまっすぐ見つめていた。言葉が出なくなる。
ナミも笑って言葉を続けた。
「っへへ、俺たちである程度練ったら教えるからさ、保志弘の意見も聞かせてくれよ! あ、村正が来てくれたときの方がいいかなー。俺的には、俺とクロウのランデヴー案が最高にいいと」
「それはない。って、前も言った」
「えー!? じゃあじゃあ、クロウが保志弘に惚れて居候してました案?」
「ナミ、それは言、言わない約束……!! 保志弘、これらは全て企画段階で実際の仕様とは異なる可能性があるからご了承しなさい」
「あ、ひたいひたい、ひょ、ふろう、ほめんってほほひっはらないれー!!」
ナミの頬をつねりながら、クロウは顔を少し赤らめて早口に言う。
……なんだ。彼らも、ちゃんと覚悟しているのか。
そう言えば、いつだってこの現状、人と烏が共にあることを危惧していたのは、烏である二人だった。俺や村正が楽観的な発言ばかりで、少しは緊張感が薄れているかもしれないが、価値観や心の中の定規というものは、そう簡単に変わるはずがない。
俺がこんなに不甲斐なくては、駄目だな。よくない。俺も気合いを入れよう。
ぱん、と自分の頬をぶっ叩いて、とりあえず気合いらしいものを入れてみる。それを見た二人は、首を傾げた。
「?」
「いきなりどーした?」
「俺もしっかりしなきゃいけないな、と。二人の案、待ってるからな。行き詰まったら、俺も力になるから」
「ええ」
「任せろ!」
二人が笑顔で言う。俺に、笑顔を見せてくれる。それが信頼の証ならば、俺も報いなければならない。
俺は何をすべきだろう。俺にできることはなんだろう。
烏の活動が活発になる、ということは、仕事が増える、ということ。更に、当支部における情報収集の第一人者である村正がいないのも、地味に痛い。見回りと同時に情報収集を行った職員によると「村正を初めて尊敬した」とか。
人脈、場所、態度、言葉選びなど、他者から情報を引き出すために気を使うところは多々あるが、村正はそれらの点を熟知し、使いこなしているのだろう。その苦労を初めて知った職員の間では村正の株が上がっているようだが、それを本人に言ったら天より高く舞い上がり調子に乗ると思われるので、生涯伏せておくことにする。
「――よし、終わり」
目の前の書類との格闘に勝利する。と、自動的に書類が消え、新しい書類に素早く入れ替えられた。わんこそばならぬわんこ書類か。字面は可愛いのに、何という拷問。
顔を上げると、少し疲労の色が見える玲於奈の顔があった。
「書類は提出してきますから。次はそれをお願いします」
「これ……」
「先日、村正先輩が投げまくった閃光手榴弾についての苦情対応です。村正先輩いないんで、先輩お願いします」
村正が怪我をした件は、玲於奈には知らせていた。非正規であっても同じ職場で働く者同士。仲間の負傷、入院を知らせないのは道理に合わないから当然だが、それだけではない。その日は玲於奈が俺の家に来ていたのに、この件で彼女が帰路につくまでに家に戻れず、迷惑と心配をかけてしまったので、事の次第を説明する責任を果たしたかったのだ。
それはいいとして。
「何故俺?」
「先輩も投げたそうじゃないですか。関わりあると思いますけど」
「だが、俺が現場で動いたのは数分で……」
「何より、村正先輩の尻拭いは慣れているでしょう?」
酷い。酷いぞ玲於奈。君は俺を何だと思っている。
……まあ、奴の行為は正当防衛だ。烏に襲われたら、周りの迷惑なんて考えている暇は、普通ない。奴なりに物理的な被害が出ないよう気を遣っていたようだし、丁寧な説明文で真摯に対応すれば、住民たちも理解してくれるだろう。
「はあ……分かった。玲於奈、疲れているようだから少し休んで」
「いいえ。私にできること、まだありますから。頑張らせてもらいます」
玲於奈はきっぱり言った。颯爽と踵を返すと、周りの人の机を回り、俺と同じように提出可能な書類を集めて、支部長にまとめて提出する。その支部長から書類を渡され、指示を受けると部屋を出て行った。あれは資料のコピーをとるのだろうか。
机の上に目を戻すと、机の端に控えめに何かが置かれていた。「何か」というほど不思議なものではない。紙製のコップだ。中身はコーヒー。玲於奈が書類と共に置いていった、としか考えられなかった。
「……」
彼女は、この烏対策部支部での制約が多い。けれど、「自分にできることをやる」と宣言した。そして今、実践している。全く、彼女の行動力というか、意思の強さには感服する。無力を嘆いていたけれど、彼女は間違いなく強い。
「俺も、負けてられないな」
書類と向き合う。今の俺にできることを、する。昼過ぎに見回りをしたらそのまま直帰なので、そこから買い物をして村正の家に行こう。
謝罪の言葉を書きながら、考える。
……本当に、今の俺にできることは、これだけなのだろうか?
柄にも無く悩んでいる。いや、悩むこと自体はよくあるが、自分の内に答えがなさそうな問いを延々自分に投げかける行為は、徒労だと思っている。そういうときは、素直に他人を頼るべきであり、俺は今その段階にいると考える。
けれど、内容が内容だけに、誰にでも相談できることではない。相当顔に出ているのか、玲於奈はもちろん他の支部職員、更には支部長までもが気遣ってくれたのだが、残念ながら彼ら彼女らに俺の悩みを打ち明けることはできなかった。申し訳ない、と思うと同時に、やはりこれは俺一人ではどうにもならない問題なのだと再認識する。
「先輩、絶対におかしいです」
俺の隣を歩く玲於奈が、今日何度目かの指摘をした。
今は見回り中。俺と玲於奈、男性支部職員二人の四人で行動している。本来は三人で見回るのだが、玲於奈は正式な職員ではないので頭数に入っていない。だが、玲於奈が多方面で有能な人材であることは、彼女の働きぶりとして誰もが認めるところだ。むしろ、これが万全な体制と言っていいだろう。
そんな頼もしい玲於奈を見ると、訝しげな視線が刺さる。
「そんなに睨まないでくれ。俺にもいろいろあるんだ」
「勿論、いくら能天気で空気読めない先輩にも、いろいろあって当然ですけど」
「ひどいな」
俺たちの前を行く職員二人が笑うので、もう一度「ひどい」と呟いた。俺、今部下にぼろくそ言われたんだが。
「まあその、何と言いますか」
玲於奈は少し俯いてから、俺を見上げる。
「調子が狂うんですよ。今は村正先輩もいないし、仕事も多くて……何だか、いつもと色々なことが違いすぎるんです。言葉にするのは難しいですけど、なんて言うんでしょう……」
また俯く玲於奈。先ほどは「空気読めない」と評されてしまったが、彼女の言いたいことはぼんやりわかった。
「あれだろう、つまり……不安」
「……そうですね。何だかもやもやするんです。嫌な予感、でしょうか。段々何かが変わっていくような、それが怖いような……。一言で端的に表現するなら、きっと先輩の仰る通り、不安です」
「そうか。……俺が玲於奈を不安にさせる要因になっているなら、それは申し訳ない」
「先輩」
玲於奈は俺を見ていなかった。前を向いている。前髪のせいで、その目を見ることができない。
彼女は声を落として言った。街の喧噪に埋もれてしまいそうな声に、俺は注意を傾ける。
「前から言おうと思っていたんですが……先輩はどうしてそんなに優しいんですか」
「いや、俺は優しくなんか」
「知っています。「優しい」が過剰でむしろ病的と言ってもいいです。もちろん、私はそのおかげで支部に入れましたし、そのおかげで私自身の迷いを断ち切れました。それは感謝しています。でも、はっきり言わせてもらうと、変です」
俺の言葉を食って膨張する玲於奈の声が、頭の中に入り込む。その意味を焼き付ける。
「村正先輩と乱暴に言い合っている時の方が、よっぽど先輩の本心に近いような気がします。普段の温和な先輩は、まるでそうあろうとしているような不自然さがあるような……あ、ごめんなさい、生意気言って。仮にも上司部下なのに」
「「仮にも」って……いや、まあそこはいいか」
確かに玲於奈は正式な職員じゃないから、俺たちは正式な上司部下の関係ではない。そして、そこが問題ではないので、軽く流しておこう。
「……玲於奈は鋭いな」
正直、痛いところを突かれた。そしてそれは、俺の悩みに少なからず繋がる指摘。玲於奈の言葉は確かに俺を痛めたが、決して憎らしいとは思わない。むしろ、その痛みで微睡から目が覚めたような、吹っ切れたような気分だった。
「まあ、何だ。……昔から自分にコンプレックス……いや、劣等感があって、それでも他人と上手く付き合えるように、必要としてもらえるように、俺が身につけたのが優しさだった。癖みたいなものだが、意識して始めた癖、「異常」が、長い時間をかけて俺の「普通」にすり替わってしまったんだな。それでも玲於奈に言わせれば「不自然」らしいが」
「度を超えている、ということです。……先輩にコンプレックスがあるようには、見えないですけど。いえ、コンプレックスは自意識から来るものだから、外からの見識は関係ないですね」
俺の劣等感が何に起因するものであるかは、教える必要はないだろう。だからそこには触れず、話を続ける。
「村正は俺の劣等感を「気にしない」と言ってくれた。だから、比較的正直でいられる……のかもしれない。まあ、長く付き合っているから隠していることがあまりないだけだ」
「……そうなんですか」
俺はやはり人間として変なのか。まあそれなら「普通って何だ」という、今の俺の悩みより余程深い真理探究の領域に入っていくので、これ以上の思考はストップしておくべきだろう。
俯いた玲於奈は、次の言葉を探しているようだった。表情は見えないが、言いたいことが言えないもどかしさを感じる。ならばその前に、せっかくだから俺の悩みを教えようか、と考えた。何となく自分語りをしてしまったし、その内容は俺の悩みに繋がるから、流れは良いと言えるだろう。全ての事情を知る村正かセレスおばさんに訊こうと思っていたが、俺の不自然を見抜いた鋭い玲於奈なら、別の切り口から答えをくれるかもしれない。
俺が決意した時。
「――あれ、烏か?」
前に立つ職員が、ぴたりと止まって呟いた。彼が指差した空を見上げる。
黒い影だ。しかし鳥のそれではない。もっと大きい、人型の。
「……」
四人の誰もが息を呑み、身構えた。俺と職員二人は、見回り時に携帯を義務づけられている鞄に手を伸ばし、烏に対抗できるあらゆる武器のいくつかを確認する。玲於奈も同じ鞄を持っているが、中身は俺たちのそれよりかなり少ない。彼女は烏と対峙することを許されていないからだ。だがその代わりに、素早く携帯電話を手に取った。こういう場合、玲於奈がすべきことは支部との連絡とされている。
周りの一般市民たちも、俺たちと同じように空を見上げていた。不安そうな囁き声が広がる。恐慌状態にならないのは、烏がかなり上空を飛行していることと、俺たちがいることが理由だろう。俺たちが所持している鞄には、支部の名前が書かれている。格好はつかないが、それを見た者に守ってくれる者が近くにいるという安心感を与える、という意味ではとても効果があった。
……幸い、烏はこちらに下りてくる様子はない。だが、旋回している。まるで獲物を狙って……いや、探している、のか?
「――はい。烏が駅前中央通上空を旋回しています。一羽です。……高度はかなりあります。降下してくる気配はありませんが……烏、一羽増えました。二羽です」
玲於奈が支部と連絡を取る中、また烏がやってきた。何かを話し合っているようだが、当然俺たちにはその声が聞こえない。だが少なくとも、彼らはここから離れるつもりはないようだった。やってきた烏が離れていったが、もう一人は旋回を止めない。
職員の一人が、「危険ですから、出来るだけ屋内に避難して下さい」と周りの住民に声をかけた。烏による傷害は、屋外にいる時に受ける可能性が非常に高いことが分かっており、一般市民にも広く知れ渡っている。呼びかけに人々は頷き、足早に歩き出した。
「――では、旋回中の烏を警戒しながら、見回りを続けます。それでは、失礼します」
玲於奈の通話も終わった。目を向けると、彼女は小さく頷く。
「「こちらに害がないなら、無闇に刺激せず動向を見守るように」とのことです。あと、支部の方からも外出中の人に帰宅を促すよう指示するそうです」
「なら、見回りしつつ人々に帰宅喚起、か」
見回りのルートを辿りながら、周りに目を凝らし、烏がいないかを確認する。時折空を見上げ、旋回する烏が変な動きを見せないか注目。人に会えば注意喚起し、余裕があれば烏による被害などを聞き出す。
話を聞くと、烏の出没、目撃情報はかなり多くなっていることが分かった。ただ、烏が何かを破壊したり強奪したり、といった被害はあまり広がっていない。ゼロになったわけではないが、烏がよく見られるようになったことと、食料確保との関係はないのだろう。
「つまり、生存とは別の目的がある、ということですか」
「そうだろうな。目的が分からないと、対策のとりようがないのが辛いところだ」
しれっと言うと、二人の職員も頷き、可能性を考えようとしている。
「烏排斥派の活発な動きに対する抗議、みたいなものでしょうか?」
玲於奈の発言は、一理あるだろう。この辺りは支部のお膝元だからあまり目立った行動はないが、地方などでは烏排斥派の主導で、烏に対する過剰なまでの攻撃が行われているという。烏を網やら麻酔銃やらで捕まえて、暴行するのだとか。俺はほとんど観たことがないが、テレビでは特番が組まれるほど話題になっているらしい。その烏排斥派の重役に村正の父がいるというのは、皮肉にしては効きすぎている。
「排斥派の団体に、烏対策部の方から圧力をかけられないものでしょうか。私だって烏は嫌いですけど、彼らの行動は烏を焚きつける結果になっている気がします」
「難しいだろうな。お互い、名目上は烏から人を守る為に行動しているんだ。協力こそすれ「何故批判を受けなければならない」と人間同士で喧嘩になるぞ」
確かになあ、でも烏を不必要に刺激しているのは排斥派ですよ、排斥派は全国津々浦々に拠点を持っているし、政治家も絡んでいるなんて噂だ、つまり権力的な問題ですか、ややこしくなっちまうよ、法廷に持ち込まれる可能性だってある、市民は烏対策部に味方してくれると思いますけど、そりゃそうだろうけど、支部のない地域では排斥派が支部の代わりに烏を追っ払ってるから、ありがたがられてんだよ、方法は残酷なのにですか、烏は人間を脅かす敵だろ、でも、もう少しやり方ってものが……。
熱い議論が交わされる。うーん、烏の活動が「全国的に」活発になっているのは、排斥派団体が原因だろうが、「この地域で」活発になっている原因は、間違いなくクロウとナミの件だろう。村正という手掛かりを入手した烏が、彼を追い詰めたこの近辺で捜索を密にするのは、想像に難くない。と、皆に説明できないこの心苦しさ。そして、元を辿れば俺が原因であるというのも、苦しさに拍車をかける。
何度も自らに言い聞かせるが、クロウを救った事に関して後悔は全くない。だがこんな大事になって、「先々に不安がない」とは言い切れなくなった。ほとぼりが冷めるまで身を隠す、という作戦は、段々と悪い方向に転がり始めている気がする。方向転換をすべきか……とは思うが、これも一人でどうこう考えてもどうしようもないことだ。
それぞれが色々考えているうちに、見回りのルートを完全消化した。支部が入っているビル前に到着する。報告は職員二人がやってくれるそうなので、俺はこのまま帰りだ。
「玲於奈はどうする?」
「今日は少し早めに仕事に入りましたから、規定の就業時間は満たしています。先輩が帰るなら、私も帰ろうかと思っていますが」
「……この後、時間あるか?」
「え? ……ありますよ。学校の宿題はほとんど昼休みに終わらせましたし」
学校と支部の両立の為、頑張っているんだな……今更ながら感動した。
玲於奈が努力で手に入れた時間をもらうのは悪い気がするが、それでも提案した。
「もしよければ、村正の手伝いに付き合ってくれないか? 人手があると助かるんだが」
「そういうことでしたら、喜んで」
玲於奈は即答し、「荷物を取ってきます」とビルに入っていった。俺は私物を入れた鞄を持ってきていたし、支部の名を刻んだ鞄は職員に託していたので待つことにする。
ビルの壁に寄りかかり、数分。玲於奈が学生鞄を肩にかけて駆け足でやってきた。そんなに急がなくても良いのだが。少し申し訳ない。
玲於奈と並んで歩く。行き先はスーパーだ。欲しいものは村正からの電話の際に全て聞いているので、それらを片っ端から買えばいい。
スーパーに到着し、カートとかごを装備して店内を回る中、玲於奈が口を開いた。
「あの、先輩。見回りの時の話ですけど」
「え? ……ああ、俺のこと?」
「はい。烏のせいで話題が逸れましたから」
野菜類をかごに入れていく。玲於奈は二本のにんじんを睨みつけるように吟味しているが、俺にはその二本にどんな違いがあるのか、さっぱり分からない。いや、俺には分からない小さな違いだからこそ、玲於奈はあんなに厳しい顔をして選別しているのだろうか。
「結局、先輩が今日、いつもと違っておかしいのは何故ですか?」
やっと選んだにんじんをかごに入れながら、玲於奈は訊く。俺をまっすぐに見て。
まっすぐに見つめられるのは、少し苦手だ。多分、これも劣等感からくる反応なんだろうな。内側を見破られるのが怖い。
「それを隠すのは、優しさではないです。余計に不安を煽られます。あと、無力感もあります。つまり、逆効果なんです。もし私じゃ力になれない悩みなら、そう言ってほしいです」
思わず立ち止まっていた俺を、というか俺が持っているカートを、玲於奈は引っ張る。あくまでも買い物しながら話そう、ということらしい。改まって話をするよりも気が楽でいいけれど、単純な効率の問題でなく、玲於奈なりの気遣い……と受け取っていいのだろうか。
ふむ。俺の悩みについてだが、見回りの時点で話そうかとは思っていたのだ。さらっと言ってしまおう。
「玲於奈なら力になってくれるかもしれない。期待すらしている……なんて言ったら、重いかな」
「そ、そんなことありません。先輩が頼ってくれるなら、頑張ります」
ちくわに手を伸ばした玲於奈が、ばっと俺を見る。僅かに顔が赤い。そんなに興奮しなくてもいいのに。可愛いけれど。
えー、それでは遠慮なく。こほん。
「……この状況で、俺には何ができるかな、と考えていた」
「……はあ」
さすがにざっくりした説明だった。玲於奈も選んだちくわを手にしたまま、生返事をする。
「つまり、烏と人間の関係が少しずつ変化……いや、悪化してきた今、それを改善する為に俺ができることはなんだろう、ということだ」
俺が本当に改善したいのは、クロウとナミの危機的状況なのだが、二人が人間だと信じている玲於奈にそれを相談するわけにはいかない。少しだけ内容をずらして口にする。
「先輩にできること、ですか」
「俺一人でできることなんて、たかが知れているのは分かっている。でも、何かしたいんだ。支部で働くこともその一つなんだろうが、もっとできることがあるんじゃないか、と」
「……先輩らしくない焦りですね」
焦り。そうか、そうかもしれない。
無力感からくる焦り。だがこの焦りの儘がむしゃらに行動して、成功する例はそう多くない。かといって「冷静になれ」と言われて冷静になれるなら、焦ったりしない。人間の心とは難しい。何故かここで悟りを開く。
「……確かに、難しい問いです。あまり勝手なこと、言えないじゃないですか」
「だから、俺の心情なぞ気にせず勝手を言いそうな村正に、訊いてやろうと思っていたんだ」
「結局村正先輩頼みだったんですか。「喧嘩するほど仲が良い」ですね」
「止めてくれ。喧嘩をするのは仲が悪いからだ」
「はいはい照れ隠しは不要です分かっていますから」
「流しにかかるな玲於奈!」
叫びつつ、インスタント食品類をひょいひょいかごに入れていく。しばらく村正の食事はこれ頼りになるだろう。メタボになって見るに堪えない体つきになって笑われることを切に願う。……無理だろうな。あいつ、毎日トレーニングしているらしいし。
「先輩に何ができるか……。もし現状を改善する方法があるなら、私だってやりたいくらいですよ」
「そうだよなあ」
「直接干渉して、事態を一気に変えるっていうのは、相当難しいですよね」
「そうだよなあ」
「……」
菓子類、飲み物コーナー。菓子系はほぼ素通り、飲み物は水とお茶をセレクト。これで頼まれた物は集まったはずだ。予想通り大量。相当重いだろう。
レジ前で会計の順番を待つ。しばらく黙って考え事をしていた玲於奈が、ぽんと手を叩いた。
「先輩の意には添わないかもしれませんが、少しだけ状況を改善するために、先輩ができることを思いつきました」
おお、これは願ってもない。やはり他人に頼ることも大切だと気づかされる瞬間である。「俺の意には添わない」というのが少し謎だが、話を聞けば自ずと知れること。
「是非聞かせてくれ」
「えっと、結構フィーリングというか、ぼんやりした感じなので、うまく説明できないかもしれないんですけど」
「構わないよ」
「そうですか? では」
ひと呼吸置いてから、始める。
「……私たちは、不安ですよね。烏たちの増加、襲撃の被害、排斥派の過激行動、諸々の事情が良くない方向に変化してきて、不安を感じている」
それは見回り中にも話したことだ。頷いて先を促す。レジ待ちの列が少し動いた。
「変化の不安に対処するには、変化しないものを見つけることが手っ取り早いと思います。でも一般市民も支部も、浮き足立っている。特に支部は、村正先輩が襲撃により重傷。「次は自分じゃないか」って、内心怯えている人もいるかと思います」
……村正が手ひどくやられたのは、クロウやナミの手がかりに繋がるからであり、他の支部職員の皆様がそうそう追いかけ回されるとは思えないのだが、この状況ではそうとも言い切れないだろう。烏の人間へのヘイトが溜まっている今、「人間である」それだけで襲われる可能性は十分ある。いつ自分の身に危険が降りかかるか分からない、というのは相当の恐怖だろう。俺だって怖い。
「そこで先輩です」
「え?」
ぴっと指差されて、俺は思わず間の抜けた声を出してしまった。顔も、声と同じくらい呆けているかもしれない。しかし玲於奈は気にせず続けた。
「今日は周りにもそうと分かるほど悩んでいたので、あまり効果はありませんでしたが……普段の先輩は、こういう切羽詰まり気味の状況でも、能天気に笑っているような人だと思うんです」
「……あまり良い評価ではない気がするぞ」
「これでも褒めてるつもりです」
さいですか。
「つまり、先輩が余裕の振る舞いを見せることで、少しは私たちの不安が和らぐのではないか、と思うんです」
「……それは、俺は特に何もしていないことにならないか?」
「「何もしないこと」が一番難しいんです。こういうときに、変に気張らない……浮足立たないことが」
列が流れ、俺たちの会計の番になる。機械的な作業で品物がレジを通過し、かごに収められていく。支払いを済ませる間に、玲於奈が品物を大量に入れたかごを持ち去り、袋詰めを始めた。なかなか手際がいい。
玲於奈が出してくれた答えを、頭で少し吟味してみる。玲於奈が「俺の意に添わない」と言った理由は、「何かをしたい」という俺に「何もしない」という結論を出したからだろう。確かにそれはもどかしい意見だが、一理あると頷けるものでもあった。
それに、不安定で無常なるこの状況で、一人間にできる最大限の努力なんて、その程度だろう。自惚れるな、己の器を知れ、と諭されているような気分になる。
「俺は、逸っているようだ」
「はい?」
呟きは、玲於奈の耳に届いたらしい。俺が手伝うより早く袋詰めを済ませ、学生鞄とは反対の肩に袋の一つを担いだ彼女は、少し首を傾げた。
「逸っている……何か、特別な事情でも?」
そこまで言って、玲於奈は傾げていた首を元に戻し、続けた。
「そういえば、先輩が何故支部に来たのか、前に聞いたじゃないですか」
「え? ……ああ、そんなこともあったな」
いきなりのことで、少し戸惑う。
食料品などが詰まった袋を、玲於奈に倣って肩にかけてから、スーパーを出る。目指すは一直線に村正の家。しかし少し距離がある。会話をして暇潰しをしつつ、肩の重みを紛らわせることにしよう。
「「村正に誘われたから」と答えたはずだが、何かあったか?」
「いえ、問題というか……納得はできるんですけど、理由としては弱すぎません? 元々、烏に対して何か特別な感情があったとか……つまり、因縁もなしにこんな危険な職場に飛び込むのって、ちょっと変というか……」
「……玲於奈。君が一番普段通りではない気がするんだが」
玲於奈が他人の事情を詮索するなんて、珍しい。先ほどの話になぞらえて言うと、玲於奈ははっとして顔をうつむけた。
「す、すみません……「普段通りに」と言った口でずけずけと詮索を……」
しかし、俺は本気ではなかったので笑う。
「っはは、すまない。少しからかっただけだ。……烏に対しての感情か。うん、確かにそういうものはあるよ。それが支部にいる……い続けている理由になっている」
玲於奈はまっすぐに俺を見るだけで、口を開く気配はなかった。目は口ほどに物を言う。知りたいのだろう。
烏を嫌う玲於奈に、俺の烏に対する考えを言うのは少し気が引ける。だから前置きをしてから言った。
「怒らないで聞いてくれよ。……俺は、烏と仲良くなりたいと、思っている。今は人と烏がいがみ合い、卵が先かニワトリが先か、みたいな不毛な理由で争っているけれど、それを望まない烏がいることを、俺は知っている。だから、そんな烏たちと理解し合えたらいい、と思っている」
一気に言う。
……静寂。ただ歩く音と、鞄やビニール袋が擦れる音だけが道を埋める。
玲於奈が口を開いたのは、村正の家の屋根が見えてきたところだった。
「……それは、まるで夢みたいですね」
笑うしかなかった。
「ああ。俺もそう思っている」
「だから先輩は、支部にいるんですか」
「ああ。夢を叶えたくて……いや、叶える方法を知りたくて、支部に入った」
「ということは、誘った村正先輩はそのことを知っているんですね」
「あいつがどう思っているかは、本人から直接聞いた方がいいと思うが……俺の独断と偏見によれば、俺と同じ理想を持っている」
「……ふふっ」
笑った。この会話の流れの何処に笑う要素があったのか。
驚いて玲於奈を見ると、彼女は少し眉尻を下げて笑っていた。反応に困っているようにも見える。
「「変化は不安」と言いましたが、悪いことだけでもないですね。この状況のおかげで、先輩のいろいろな一面を知れた気がします」
「……確かに、今日は玲於奈にいろいろと話したな。コンプレックスから悩み事、果ては支部に入った理由か」
「先輩はあまり自分のことを語りませんから。私も、余程のことがない限りは踏み入りたいと思いませんし。だから、悪くない変化もあると思います」
どこかで聞いたような気がした。変化そのものが悪いわけじゃない。悪い変化と、良い変化がある。
ああ、これは確か……。
「烏も、そうなんだよ」
「え?」
「良い烏と、悪い烏がいる。少なくとも俺はそう思っている」
「……私も、良い烏に会えたら、この考えが変化するんでしょうか。先輩の理想を、夢物語だと断じてしまうような考えが」
村正が住むアパートの前に立つ。古い外観に釣り合う、かなり錆びた階段を上り、二階へ。キーリングに通っている数少ない鍵の一つを選り分ける。
鍵を開ける前に、俺の後についてきた玲於奈を振り返る。
そして、心から願って、言った。
「いつかそうなってくれたら、俺はとても嬉しいよ」
鍵を開ける。
「ほっしくおぶっ!!」
扉のノブを回した途端、飛び出してきた村正に問答無用でキックを見舞う。玄関に転がった村正を見て、玲於奈が慌てて駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか村正先輩!?」
「ああ、玲於奈ちゃんも来てくれたの? お、俺はもう駄目だ……保志君のキックが、致命、傷……がくっ」
完全な茶番だと知って、玲於奈の心配そうな顔が一気に元の表情に戻る。しかし俺を見て一言。
「先輩、さすがに怪我人の腹部を靴のまま蹴りつけるのはどうかと思います」
ならば俺も一言で切り返す。
「村正だから問題ない」
「変なところで絶大な信頼を発揮しないで下さい。村正先輩、お邪魔します。いろいろ買ってきましたから、片付けの指示をお願いします」
「おおーありがとー玲於奈ちゃん! 保志君も、いい加減常識を通常装備で固定してほしいね」
元気よく体を起こす村正。捲れた服の裾から白い包帯が見えた。
烏に希望を持ち、烏に傷つけられ、それでも「普段通り」である男。
悔しいことに、こいつはもしかしたら、俺の理想なのかもしれない。
「……お前、結構すごいな」
「は? ……保志君のが重症じゃね? 何言ってんの?」
俺の心の底からの賞賛に、奴は首を傾げて気持ち悪そうに返すものだから、さすがにむかっときてもう一度腹部を蹴り飛ばした。
ぎゃーぎゃー五月蝿い村正をちぎっては投げつつ、俺と玲於奈は買ったものの片付けを済ませた。一段落したので勝手に茶を用意し、一息つく。
村正の部屋はこぢんまりとしているが、それ故に安心感があった。畳敷きの和風な部屋で、なかなか好ましい。難点はとにかく古いことで、廊下の床が抜けそうだったり天井の罅が幾重にも走っていたりと、不安を煽る場所が多い。村正がやたら俺の家に泊まりたがるのはこういう理由か、と勘ぐりたくなるほどだ。
座布団に腰を落ち着けて、ほうじ茶を一杯。お茶請けは雰囲気に似合わずクッキーだが、気にするほどのことではない。
「いやー、二人ともありがとね! 助かったわ!」
笑顔で村正が言う。湯のみを持つ手が、包帯が巻かれていない左手であることに目がいった。
俺と玲於奈がいる手前、奴は怪我をそれなりに隠そうとしているようだが、動きがぎこちないし片足を引き摺って歩いている状態だしで、とても回復したとは言えそうにない。なんで退院したのか問いつめたいほどだ。
「まあ、お前に迷惑をかけられるのは今に始まったことじゃない」
「保志君たら照れちゃってー」
「もう一遍病院送りにしようか」
「笑顔で言わないで!!」
「先輩たちも飽きませんね。別にいいですけど。……村正先輩、今更ですけど怪我の容態はどうなんですか?」
「んー、まあ動ける程度」
包帯が巻かれた右手を軽く持ち上げて、握ったり開いたり。わざわざ右手を使ったのは安心させるためだったのだろうが、その動きはかなり緩い。玲於奈もそれに気づいていて、顔をしかめた。
「明らかに治り切ってないですよね。本当はもう少し入院しなきゃいけないんじゃないんですか?」
「俺がいないと支部の皆が心配すると思ってサ」
「そんなぼろい体で来られた方が余程心配です」
玲於奈のナイスなアタックが村正に直撃。のけぞる村正。
「ぐはっ……前々から知ってたけど、玲於奈ちゃんきっついね」
「先輩で鍛えました」
それはどういう意味だ。
「……本当に、もう少し入院していた方が良かったんじゃないんですか? 今更「戻れ」とは言えないですけど」
「……確かに、「もーちょい入院してろ」とは言われたんだけどね」
村正は少し視線を外した。家の中でも律儀にかけている伊達眼鏡が、照明の光を反射する。
「ほら、最近烏の動きが怪しいっしょ? 烏と排斥派の衝突が大きくなって、怪我人も相当出てるって話だ。そんなん聞いちゃったらさ、寝てる場合じゃねーなー、なーんて思っちゃったわけだ」
視線を戻した村正は、少し照れくさそうに笑っていた。
「ま、そうは言っても体がこんなだから、できることと言ったら頭脳労働だけなんだよねー! 情報収集と、あとはあらゆる事態を想定しての動きの確認とか。現場で頑張る皆様には申し訳ないけど、怪我が完治した暁にはばりばり活躍するつもりなんで、俺の復帰を心待ちにしていてほしい!」
……本当に。こいつはとんでもなく馬鹿だけど、その裏でとんでもなくいろいろなことを考えている奴だと、再認識した。昔からそうであることは知っていたけれど、普段通りでない今の俺には、彼の普段通りの振る舞いは鮮明に映る。
自分にできることが何か、彼は理解している。多分、俺のように余計な物が、彼にはないから。その分シンプルな思考で、答えを導き出せる。
俺が黙っている間、玲於奈も村正を見つめただ黙っていた。何を考えているかは分からない。
口上を述べ切って硬直数秒、村正が慌て始める。
「あ、あのーお二人さん? 俺そこそこスベる発言したんで、ツッコむなり笑い飛ばすなりしてもらわないと困るんですけど?」
うん、多少尊敬できるところはあるが、このようにすぐウケを取りにいこうとする悪癖だけは許容できない。
「いや、笑うだのツッコむだの、そんな失礼なことはできないな。お前の決意、俺たちの胸に熱く響いたぞ」
「違う違う違う違う!! 俺が欲しているのは保志君のそんな生暖かい微笑じゃねーんだよ!! もっとこう冷徹にびしっとツッコミ入れてよ!! いっそ殴って! 蹴って!!」
「発言が大分危険です村正先輩」
「うう、玲於奈ちゃんの冷えきった視線がサディスティックだよう」
「サディスティックというよりは、こう……女王様みたいな」
「あっ、それだ保志君ナイス形容」
「何をおっしゃっているんですか?」
「ほら! なんか玲於奈ちゃんの後ろにブリザード見える!」
「何か部屋寒くないか? 悪寒が……」
「隙間風だと思いますけど。この家相当ボロいんで」
「確かにボロいけど、主に向かってそれは酷いぜ!」
結局こんな流れになってしまう。まあ、これはこれでいいんだが。
しばらくそんな他愛もない話をしていると、突然玲於奈が顔を上げて俺を見た。
「そうです、先輩。さっきの話」
「さっきの話?」
頭に疑問符を浮かべる村正。俺も一瞬そうなりかけたが、記憶を逆再生してすぐに思い当たる事柄に辿り着く。玲於奈が言っているのは、おそらく俺の悩みのことだ。玲於奈から意見はもらえたが、元々村正に相談するつもりだった悩みだし、別の視点からの意見も参考にしたい。
俺が気づいたことに気づいたのだろう、玲於奈は立ち上がり言った。
「私、少しお手洗い借ります」
そして部屋を出て行く。全く、良くできた子だ。俺としては彼女がここにいても問題なかったのだが、気を利かせてくれたことは分かるので甘えることにする。
「話ってなーに? 今日保志君が絶妙に変なことと、関係あったりなかったり?」
村正はちゃぶ台に肘をついてそう訊いてきた。玲於奈に気づかれるくらいなら、俺が悩んでいること自体は、村正にも手に取るように分かっていたのだろう。そして、おそらくは何で悩んでいるのかも。だから、比較的すんなりとそれを口にできた。
「俺は、この状況でどうすべきかと思ってな。柄にもないことは分かっているんだが」
「本当、保志君らしくないね。普段は何処から湧いたか不思議な自信に満ちてるのに」
「俺は自信過剰じゃない」
「知ってるよ。むしろ逆でしょ。何年来の付き合いだと思うてか」
こういう時、言葉が少なくても通じるのはありがたい。
村正は笑ってから、小さくうなった。
「うーん、保志君がどうすればいいか、ねえ」
「俺個人の力で打破できないことは、重々分かっている。それでも……」
それでも、過ぎた願いはあって。
「クロウとナミを、守りたい」
「っはは、そりゃ俺たち二人の問題だよ。一人でどうにもならないのは当然サ。まあ、今の俺じゃ物理的な解決はちょっと手助けできないけど、その分精神的な解決には力になれる。ズバリ、覚悟だね」
「覚悟」
どこかで聞いたことがあるような気がした。
「そう、覚悟。クロたんとナミに今必要な物は、安心だ。そして、それを提供できるのは保志君だけ」
「それは違う」と反論したかったが、村正はそれを知ってか知らずか、間髪入れずに言葉を続ける。
「保志君は二人に居場所を提供する。海のように深い包容力で二人を安心させる。烏を騙す為の嘘案を時たま出してあげて、更に俺を理不尽に痛めつけて二人を笑かす。保志君にできるのは、多分こういう何でもないことなんだけど……」
玲於奈の意見を思い出した。普段通りの振る舞いを見せることで、周囲の不安が和らぐ、と彼女は言った。村正も同じことを言っている。
けれど村正の言葉は、まだ続いた。
「それらには覚悟が必要なんだな」
「……守る、という覚悟か?」
「それもある。けどそれは保志君の常駐スキルでしょ」
村正は一つ息を吐き、間を取ってからゆっくり言った。
「どんな結果も受け入れる覚悟、だよ」
やっぱり、どこかで聞いたことがある。いや、自分に言い聞かせたことだっただろうか。クロウを烏だと知りながら助け、その先にある未来の可能性を予測したとき。俺は確か、覚悟しなければならないと、自分に言い聞かせた気がする。どんな結末であっても、受け入れなければならないと。
「きっとこれも、保志君は前々から持ってると思うけど。例え俺が傷ついても、クロたんやナミが傷ついても、そして……保志君自身が傷ついても。それを受け入れる覚悟、いや……」
言いよどんだ村正が紡ごうとした先を、俺は短くまとめてみた。
「端的に言えば、死ぬ覚悟か」
「洒落にもならないから止めてよね保志君」
「「端的に言えば」と言っただろう。誰かが命を落とすことになっても、と言った方がいいか?」
自分で言いながら、やけに現実離れした言葉だと思った。クロウが、ナミが、村正が、俺が。誰かが欠けるなんて、死ぬなんて、想像がつかなくて。
思い返せば、初めて死を体感したのは、両親が死んだときだろうか。ほとんど覚えていないけれど、セレスおばさんと共に母の、そして父の最期を看取った、という記憶はある。あの時、病に倒れた二人へ俺からできることは何も無かった。罪悪感に苛まれたこともあったけれど、俺が二人の死を回避させることは、どうあがいてもできなかったのだ。
今は違う。方法さえあれば、僅かでも可能性があれば、上手く立ち回れば。死という結末から、皆を守れる。守ってみせる。
けれど、もしもその誓いが果たせなかったとき。そのときの保険が必要だと、そういうことなのだろう。
「……最悪の結末であっても、受け止めなければならない、か」
「そういうこと。保志君に言うのは、酷かもしれないけど」
「それはお前も一緒だろう?」
「……そうかもね」
村正は、俺が両親を早くに亡くしたことを知っている。そして俺は、村正が自分の力で友を救えなかったことを知っている。お互い、最悪の結末というのを一度味わっていた。
最悪は何度でも訪れる。だから、絶対にその結末に至らないという覚悟と、その結末に至っても、何も恨まず受け入れる覚悟、相反する二つを求められたのだ。
「……そうか。なるほど、俺に足りないのはそれだったのか」
「足りないってことはないでしょ。保志君はいつだって覚悟してるはずだ」
「さあ、そこまで出来た人間じゃないと思うが」
「悔しいけど、俺にはそこまで背負えないからさ。二人を救って匿ったのは保志君だ。クロたんたちとの繋がりが烏に露呈したら、重い罰を喰らうのは俺より保志君でしょ。何より……俺は本当にただの人間、保志君に比べりゃ無力なもんで」
俯いた村正の顔が見えない。
弱く消え入るような彼の言葉を、俺は聞かなかったことにした。彼の額にゆっくり手を伸ばし。
びしっ。
「いって!? な、何すんの!?」
「何って、デコピン。お前が全快したら殴ると言っただろう? その前払いみたいな」
「そんな分割払いサービス知らねーよ!?」
素早く顔を上げた村正は、額をさすりながらぶちぶち文句を言う。やっぱり、村正が俯くのは似合わない、と思う。
「お前がこの件に関して、背負えないことはない。俺も烏たちも、お前がいなければこうはならなかった。俺たちが協力し合っているのは、お前が四人の絆を深めたからに他ならない」
本心だった。嘘偽りなく。
「少なくとも、俺はお前を頼りにしているし、だからこそ今お前に相談した。そしてお前はすべきことを示した。他の誰にもできないことだ。十分背負えていると思うが、異論はあるか?」
「……」
「昔から、俺が実戦、お前が参謀担当だっただろうが。役割が違うなら、出来ること、背負えるものが違うのも当然だろう。同じ場所にいて、同じことをする必要はない。お互いにできることをするべきであり、今俺たちはそうしている。さあ、文句があるなら言ってみろ」
村正は、酷く間抜け面で俺を見つめていた。だがすぐに顔を歪める。呆れたような笑みを浮かべて、でも今にも泣いてしまいそうな。
「……っはは、ほんと今日の保志君変だわ」
「五月蝿い」
「あーもう、だから俺って保志君のことLOVEなんだけど。このときめきどうしてくれんの」
「どうもしない」
「責任取ってよね!」
「取らない」
「じゃあ俺を嫁にする覚悟を」
「持たない」
「つれねーなーもう!」
ばたん、と村正が仰向けに寝転がった。
「さんきゅー」
「お互い様だ」
俺は助言を得た。村正は無力を否定された。それでいい。
ちょうど話が終わったところで、玲於奈がそっと戻ってきた。その反応を見るに、おそらく話の内容を聞いていたようだが……って。ちょっと待て。俺、クロウとナミの名前を出して話したよな?
「玲於奈、もしかしなくても俺たちの話を聞いたな?」
「五分も目的なくトイレに籠れるわけないじゃないですか。適当なところで出て、戸の前で静かにしていましたけど……そんな怖い顔しないでください。内容は聞き取れませんでした。古い割に防音は悪くないですね、この家」
「そりゃー俺が住んでるから」
「……なるほど」
「玲於奈ちゃん、そこは納得するとこじゃないよーん」
聞こえていないならよかった。胸を撫で下ろしつつ、俺は立ち上がった。用事も済んだし、帰ることにしよう。
「村正、これだけ物資があれば、しばらくは何とかなるだろう?」
「ん? あー、そうね。あとは保志君が毎日ヘルパーとしてうちに来てくれたら、言うことないわ」
「玲於奈も暗くならないうちに帰った方がいい。良ければ、前の罪滅ぼし……になるか分からないが、送らせてくれ」
「あ、ありがとうございます。分かれ道まででいいので、お言葉に甘えてもいいですか」
「勿論」
「ちょっと、無視しないでー!!」
玲於奈も村正の扱い方が分かってきたらしい。俺に合わせて村正の半泣き声を完全に無視し、荷物をまとめて玄関に向かう。
靴を履いて扉を開けたところで、先に出た玲於奈が振り向いて村正を見た。
「村正先輩、お大事に。早く支部に復帰してください、仕事多くて困ってるんですから」
「まっかせて! 不肖村正、一週間もしたら余裕で全快予定だから、首洗って待ってるように支部の皆に言っといて!」
「……むしろ、首を洗うべきは村正先輩と見ました」
「え……そ、そんなに仕事ヤバい感じなの……?」
村正と目が合う。
「まあ、それなりに。見回りの頻度が上がってるし、苦情対応も増えてきているし。肉体的にも精神的にも、なかなかハードになってきた」
「うわあ、面倒くさい。俺、外で情報収集しまくるー」
「お前はガムテープで椅子に縛り付けられる」
「何その予言」
「確定事項だ」
「ひどい!」
俺も玄関を出る。扉を閉める前に、一言言っておいた。
「……無理はするな。連絡くれれば手伝いくらいはしてやるから」
「りょーかい。二人とも、今日はありがとね。……っあー!! ちょっと待った保志君、もう一つ言い忘れたことがっつーか言いたいことを今思いついたっつーかちょっと耳貸して!」
このまま帰れるかと思ったら、いきなり村正が大声で叫びだした。この大音量発生装置にわざわざ耳を貸す、というのは自殺行為に等しい。だが仕方ないので、扉に寄りかかり話を聞くことにする。玲於奈はその場で直立して、俺と村正を交互に見ていた。
「何だ?」
「さっきの覚悟の話だけどさ」
村正は玲於奈がいる手前、至近距離なのに更に声を低くして言った。
「保志君にはもう一つ、しておくべき覚悟があると思うんだよね」
「その心は?」
「最悪の結末を回避する為に、どんな手段でも用いる覚悟」
その言葉を聞いて、俺は少し考え、笑った。村正が言いたいことが分かったからだ。これは、その為なら非人道的なことでもやれ、といった言葉通りの意味ではない。
「っはは、そうだな。……大丈夫だ。その覚悟は、ある」
「ならいいんだよ。保志君なら、土壇場で躊躇うってこともなさそうだし」
「当たり前だ。それを言うなら、覚悟にせよ躊躇にせよ、お前の方が不安だが?」
「俺はほら、元から安全装置のない馬車馬ですから、ご安心くださいな。
……じゃ、そーいうことで! 保志君、明日もラブコールで起こしてあげるから、待っててねー!」
「電話線切っておくから、朝昼晩気兼ねなくかけてきていいぞ」
「良い笑顔で言わないでー!! 玲於奈ちゃんもありがとね、帰りは気をつけて!」
「はい、失礼します。お大事に、村正先輩」
俺と玲於奈は帰路についた。並んで歩く、暮れ始めた空に羽ばたきの音が広がっていく。見上げても烏の影は無いが、きっと近くを飛んでいるのだろう。
「先輩、悩みは解決したようですね」
不意に玲於奈が言った。俺は少し首を傾げてみる。
「解決、か。確かに、悔しいがあいつのおかげですべきことは分かった気がする。……勿論、玲於奈の意見も参考になった。明日からは平常心を心がけるよ」
「先輩も無理はしないでください。何かあってからでは遅いですから」
「玲於奈こそ、無理は禁物だ。今に始まったことじゃないが、学業と支部の両立は大変だろう」
「「大変じゃない」とは言いませんが……まあ、そうですね。私も今日はゆっくり休みます」
笑い合い、前を向いて、歩いていく。歩きながら、俺のすべきことをもう一度頭に描いた。
覚悟する。言葉にするのは簡単だ。だけど、良くないことに対して覚悟を決めるのは難しい。命がかかっているなら、比例してその覚悟も重くなるだろう。
だが、その重さは嫌じゃない。俺の願いは、その覚悟と命の重さに見合っていると確信できる。
どんなことをしても、どんなことがあっても、その結果を受け止める。それでも先へ進む意志があれば、俺の何も、終わりはしない。
できるさ、きっと。なんて、覚悟した後に軽く言ってしまうから、玲於奈に「能天気で空気読めない」なんて評されてしまうのだろう。でも、これが俺の「普段通り」ということなら、悪くはないか。
……自然と笑みがこぼれる。すると、玲於奈が怪訝そうな顔をした。「どうしたのか」と問う彼女に、俺は「なんでもないさ」と返す。
赤く染まっていく空の向こう、羽ばたきが止む。
0 件のコメント:
コメントを投稿