2020年10月11日日曜日

【創作小説】レイヴンズ25


雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)


(大丈夫、俺たちならきっと)


(大丈夫、俺たちならきっと)


 かつては地方運営の陸上競技場だったらしい。地域の陸上大会や、近隣学校の運動会も開催されたというその場所は、利用者の減少からか、はたまた予算の関係からか、気づけば併設された建物すら取り壊されないまま放置されていた。近くに住居や店舗といった人の目があるため、悪い人の溜まり場としては好まれないようだが、落書きだらけの古びた建物や塀は、一般市民を遠ざける威圧感がある。
 そんな感じで人気のない旧陸上競技場の駐車場に、俺たちはやってきた。
「いやー、久々のドライブ楽しかったね!」
 爽やかな笑顔で車の助手席から降りる村正を、後部から降りた玲於奈が睨む。
「どの口が言うんですか、どの口が」
「全くだ。序盤五分の貴様の運転が、玲於奈と俺の気分を盛大に害したことを忘れるなよ」
「え? だって車と言えばドリフトとスピンだよね?」
「最低です。こんな人に運転許可出したの誰なんですか。今なら、烏以上にその人間を憎めそうです」
 知り合いから車を借りてきた村正の運転で、俺たちはこの地へ出発することになった。だが、結果は玲於奈が言った通りの、ドライブというよりはレースやバトルに近い走行で、俺たちは即座に「次のコンビニで止めろ」と叫んだ。ぶーたれる村正をとりあえず殴って助手席に縛り付け、代わりに俺が運転することになったのである。この時以上に運転免許を取っておいて良かったと思うことは、後にも先にもないだろう。
「だって俺、免許はバイクがメインで、車はついでだったんだもん」
「ペーパードライバーより質悪いぞ。玲於奈、気分は大丈夫か?」
「はい、コンビニで買った酔い止めが効いたので」
 頷く玲於奈の顔は青いが、足取りは問題なさそうだ。
 これから命をかけた大勝負だというのに、こんな締まりのない感じで大丈夫なのか、とは思う。だが、村正がトンデモ走行を始める前は、俺含め誰もが葬式レベルの重暗い雰囲気だったのだ。それに比べれば、緊張も不安も多少軽くなった気がする。程良く肩の力が抜け、「普通」の俺たちに戻れたようだ。村正を許す気は無いが、怪我の功名は認めよう。
「それで、ここまで来たはいいが、中に入れるのか?」
 今回の目的は、競技場内で行うことになっていた。だがそこに行くためには、併設された建物を通り抜けなければならない。鍵がかかっているはずだし、勝手に入れば不法侵入になるのではないか、と発案者の村正に問うた。
 すると、奴は鞄から何かを取り出した。黒い小さな箱。機械、だろうか?
「大丈夫、これで開けるから」
「それは何だ?」
「鍵開ける機械」
「鍵そのものは無いのか」
「担当の人に訊いてみたんだけど、「古い建物だし、権利とかの問題で鍵渡すのに数日かかるかも」って言われちゃって。「予定に間に合わないからどうにかして」って頼んだら、「じゃあこれ送る」って言われて届いた」
 話す間に建物の入り口にやってきた。玲於奈が扉を押し引きするが、やはり鍵がかかっている。
 村正は、その鍵穴に合わせて機械の突起を差し込んだ。何やら操作をして、機械が小さな唸りを上げる。そのまま待つこと数十秒。
 がちゃん。
「……開いた」
「……開きましたね」
「だーから言ってんじゃん! それ用の機械なんだって!」
 笑顔で機械を取り外し、鞄にしまう村正。
「いやいやいや、先輩待ってください。これ私たち、完全不法侵入ですよね。担当者がこんなもの送ってくるのもどうかしてますけど、それを律儀に使っちゃう先輩もどうかしてますよね?」
 玲於奈が、俺が思っていたことを大体代弁してくれた。感謝。
 しかし村正は迷いなく扉を押し開けてしまう。嗚呼、俺たち不法侵入決定。そりゃあ烏たちだって、己の利益のために易々と法を破る人間を信じられるはずがない。
 薄暗い建物の中で、村正は指を振った。
「玲於奈ちゃん、こう考えようよ。確かに俺たちは、このマジカルグッズで公共施設の閉ざされた鍵を開いてしまった。けれど、もしこのガラスの扉を壊して入ったら? 俺たちは、不法侵入の上に器物破損の罪にも問われ」
「いえ、もういいです」
 訊いた自分が馬鹿だった、と言わんばかりに、玲於奈は先へ進んだ村正に向かって手を突き出した。
 俺と玲於奈は、まだ開いた扉の手前にいる。「早く早くー」などとはしゃぐ村正を眺めてから、二人で顔を見合わせた。
「……まあ、今更尻込みしてもしょうがないですよね」
「目的のためなら手段は選んでられない、とも言った手前、仕方ないな」
 俺たちは同時に、自らの意思で、扉の向こうへ踏み出した。
 薄暗い建物を突っ切ると、グラウンドに出た。様々な競技ができる広々としたグラウンドだが、周囲を囲う形で観客席が作られている。それが周りの視線をシャットアウトするのに一役買っていた。そもそも街はずれだし、昼前の時間帯なので大して人の視線がある場所ではないのだが、念には念を、というやつか。村正の用意周到さには感服する。
 トラックの中央に立ち、空を見上げる。まばらな白い雲がゆったりと流れる晴天。天気予報によれば、終日雨は降らないらしい。
 絶好の、決戦日和。
「さて。そろそろ時間か?」
 腕時計を確認する。予定時刻五分前。
「うう……さすがに、緊張してきました」
 玲於奈の声が重く震えている。見れば、握りしめた拳も細い肩も、細かく震えていた。これから対面する相手は、自分たちを一撃のもと殺してしまえるような存在なのだ。仕方ないだろう。あるいは……彼女は助力を求めた際「クロウやナミに伝えたいことがある」と言っていた。その内容は未だに分からないが、そこにも緊張の原因はあるのだろうか。
 震える玲於奈の肩に、村正が腕を載せた。肩を組む状態である。
「そーんなに緊張しなくても大丈夫! 保志君がぜーんぶうまくやってくれるからねっ」
「やめろ。俺が震える」
「もう震えてるから別によくね?」
 言われて、手を見下ろす。確かに……微かに震えていた。
 少しみっともないな、と思ったが、すぐに開き直った。
「……仕方ないだろ。初めての経験だし、何が起こるかわからない」
「うん。つまり当然のことなので、玲於奈ちゃんも保志君も、今のうちに存分にガクガクブルブルしとけばいいのサ。俺もしとくから」
 と言いながら、体を故意に震わせる村正。どこまで本気でどこから冗談なのかわからないが、玲於奈が少し笑顔を見せてくれたので良しとしよう。
 反面。俺の震えは、収まる気配はなかった。
 怖いのだ。それは二つの可能性に対する感情。一つは、下手を打てば死ぬ、という恐怖。俺は「死ぬかもしれない」という感情を少し前に味わったばかりなのだ。怪我は治っても、心が落ち着くまでには時間が短すぎた。そしてもう一つは……。
 首を振った。ここで弱気になってどうする。目的のためには手段を選ばないと決めたその時から、俺はその可能性に怯えていた。けれど、もう後には戻れない。戻りたくない。
 俺は進みたい。
「……来た」
 頭に突き刺さるような、直感めいた言葉が自然と吐き出された。俺自身が、俺の言葉に導かれるように顔を上げる。
 青い空の中に、黒い靄のようなものがあった。
「あらま。そこそこの大群じゃね?」
 村正の笑顔が引きつっている。さすがに想定外の人数らしい。
「今更、お引き取り願うわけにもいかないだろ」
「そりゃ当然。そもそも、やるのは殺し合いじゃなくて話し合いなんだ」
「頭数なんて関係ない、ってことですよね」
 三人で顔を見合わせ、頷く。もう迷いはなかった。
 俺たちは、現れた数十の烏たちを、迎え入れる。




 数十の軍勢で、わずか三人の人間の前に立ちはだかる。こちらの優位性を確かにし、威圧するための策なのだけれど、まるでその「わずか三人」を恐れているようにも見えて滑稽だ。
 しかし、向こうは嫌でも気圧されるだろう。誰もが黒、あるいはそれに近い色の衣服で固めている上、自分たちを見つめる漆黒の瞳は鋭いはずだ。もちろん、気圧されはしても、その内にある覚悟を曲げるような人間たちでないことは、私がよく知っている。この黒の中に、私やナミ、セレベスさんの姿を認めて、少しは安心してくれるといいのだけれど。
 私の前に立つ烏たちの隙間から、相手の様子を伺ってみる。
 一歩前に出ているのは……保志弘だ。まるで今まで何事もなかったかのようにぴんぴんした姿で、烏たちを見つめている。ナミの報告から彼の無事は知っていたけれど、実際にこの目で見て、やっと安心できた。良かった、私は彼を殺していなかった。今すぐに言葉を交わしたいけれど、それは無理そうなので、タイミングを計って向こう側につくことにしよう。
 彼の斜め後ろに村正と、さらにその後ろに玲於奈がいた。「人間側は三人」と言われた時から玲於奈の可能性は考えていたけれど、彼女が烏たちを前にして何を言うつもりなのか、私には全く見当がつかない。今まで騙していたこと……今日謝れればいいと思っているけれど、チャンスはあるだろうか。
「なんつーか」
 小さな声で、ナミが話しかけてくる。
「やべえ、緊張する」
「私もよ。でも」
「わかってる」
 二人で顔を見合わせ、震える拳を軽く合わせた。
 今回、私たちがすべきこと。それは、私が保志弘に打算無く救われた事実を烏たちに知らしめること。そして、保志弘たちの主張に賛成し、味方することだった。未だに彼らがこの場で何を主張したいのか知らないのが致命的だけれど、私たちは彼らを信じているから、何ら問題はない。私としては、それに加えて保志弘や玲於奈に謝罪、村正には感謝を伝えたい。
 視線を正面に戻す。両脇に屈強な男烏を二人連れて、軍勢の先頭に立っている老齢の烏が、長だ。彼らにとっては初対面になるだろう。一応は話を聞く体だからか、いきなり食ってかかるようなことはなさそうだけれど、張り詰めた雰囲気を漂わせている。
 競技場に降り立った、私含む烏の全てが、その翼を畳み、消した。
 場に静寂が満ちる。
 ……お互い、何と切り出せばよいやら分からないようだった。
 そもそも、このように烏と人間が面と向かっている状況からして前代未聞。前例なんてないのだから、戸惑うのは当然だった。この場合、呼び出した側である保志弘たちが進行役をすべきなのだろうけれど、眼前に命の危険が集まっているような状況で、その緊張感は如何程だろうか。心中察するけれど、正直私にはどうすることもできない。
 その時。一部の烏がざわついた。黒髪頭の隙間から銀髪が揺れるのが見えて、あっという間に彼女はふわりと飛び出した。
「やっほー保志弘! さすが私の子供、心身の頑丈さは折り紙付きねー」
 言うまでもなく、セレベスさんである。場にそぐわない、明るい大声でそう言うと、保志弘の肩をばしばしと叩いた。いい音、痛そう。
「あはは、おかげさまで」
 保志弘の声が若干震えているのは、緊張のせいだけではないだろう。
「まあ、さすがに今回ばかりはちょっぴり心配もしたけど。あんたは大体どうにかなるだろうって思ってたから!」
「期待のかけ方が大雑把すぎます」
「それが私でしょ? はぁい村正、今日も眼鏡ね!」
 もう一度ばしん、と保志弘を叩いてから、セレベスさんは村正の元に向かった。謎の声掛けに対して、彼も謎のテンションでハイタッチなぞしている。
「俺のアイデンティティですからね!」
「うんうん、自分を貫きなさい青年。さーて、こっちの玲於奈ちゃんは……」
 次は、村正の後ろにいた玲於奈をロックオンする。二人は確か、保志弘が入院してる間に一度会ったと聞いたけれど。
「今日も可愛いぞー! って、ありゃ?」
 飛びかかるセレベスさんを、玲於奈は軽く避けた。上手い。手ぬるいとばかりに腕を組んだ玲於奈は、冷ややかな目でセレベスさんを見やる。
「前回のようなヘマはしません」
 前回何があったのだろう。いや、想像はつくけれど。……被害者の会とか、作れないかしら。
「くっ、腕を上げたか。しかしそれでも挑まずにはいられない。それが美少女ハンターの性」
 セレベスさんは謎の闘志の元、何度も玲於奈に抱きつこうと飛びかかるが、玲於奈はそれをことごとくいなした。セレベスさんの闘志には尊敬を抱く前に呆れるが、玲於奈のフットワークは純粋に見事である。
「というか、なんでいきなりこっちに来てるんですか。あなた烏側でしょう」
「あら」
 玲於奈の一言に、ぱっと居住まいを正したセレベスさんは、保志弘と長のちょうど間に立った。そして、はっきりと宣言する。
「私、今回はどちら側にもつかない。中立な立場で、見届けさせてもらうわ」
 それは両方への宣言。烏たちはざわついたが、私やナミは納得したし、保志弘たちもすんなりと受け入れたようだった。烏の中でも発言力を持つ重鎮だけれど、人間社会に溶け込んで生きてきた、セレベスさんらしい選択だと思う。
「ってわけだから。あんたたちで何とかしなさいね」
 セレベスさんは、保志弘と視線を合わせるとウインクをした。そしてその場を退き、少し離れたところで腕を組む。そこで見守るつもりらしい。
 また沈黙が降りるだろうか、と思った時、保志弘が一歩前に出た。
 それが、始まりだった。
「今日は、来ていただいてありがとうございます。あなたが彼ら烏を率いる、長ですね」
 少し砕けた丁寧語で、相変わらず人当たりの良い笑顔を見せる。しかし長は返事をしようとしない。保志弘もそれは承知の上なのだろう、言葉を続ける。
「長話をする気はないですし、そちらもまどろっこしい話は嫌でしょうから、単刀直入にこちらの用件をお伝えします」
 保志弘は自分の胸に手を当て、淀みなく言った。
「俺たちと、クロウたちとの交流を許可してほしい」
「……」
 場は、静かになった。
 私も予想だにしなかった彼の要求に、ぽかんとしてしまう。思わずナミと顔を見合わせると、彼もまた唖然としていた。
 彼が人間と烏のつながりに関して、何らかの要求をするだろう、というところまでは予測できていた。純粋に助け合うことすらままならない関係を打開するために、対話を求めてきたのだろうと。
 けれど、まさか、こんなに狭い範囲の要求だとは。
「うーん、でも」
 私の背後から控えめに声がかかる。そこには腕を組んだコガがいて、どこか楽しそうに説明してくれた。
「「小さなことからコツコツと」ってことじゃないのかな。今の人間と烏の関係から大きな変化を望むと、戸惑いが起きると思うんだよね」
「た、確かにそうだよな……。この場では上手くまとまったとしても、他の烏や人間が「はいわかりました」ってすぐに順応してくれるとも思えねーし……」
「小規模な意識改革から少しずつ影響を広げていけば、いつかは……ってことなのかしら」
 保志弘たちは、その理想こそ立派だが、ただの一般人である。人間社会を丸ごと動かせるほどの権力があるわけではない。だからこそ彼らは烏たちとの関係改善を求めながらも、烏と敵対するような仕事を続けていた。
 これは燻っていた彼らにとって、唯一無二のチャンスだ。だからこそ、失敗するリスクを極限まで減らしながらも未来につながる一歩として、ごく小さな改革を望んだのか。前例ができれば、他の烏も人間も少しずつ理解を示し、ついてきてくれるかもしれない。そこまで考えているのだろうか。
「……」
 彼らはどこまで未来を見ているのだろう。私は、自分の身の回りを守るだけで精一杯なのに。
「……ふっざ、けるなぁああああ!!」
 いきなり大声が上がった。しかも至近距離から。耳を押さえたコガの隣で、レッドが空に向かって吠えていた。
 そうだった、と思い出す。レッドは人間が嫌いだ。しかも保志弘を特別敵視している。あの宣言を、今の会話を、素直に受け入れられるはずがない。
「長を呼び出しといてその用件は何だ! 夢見すぎだろ!! 何よりお前は、クロウを騙した張本人じゃねーか!!」
 その的を射た怒号は、他の烏たちも奮起させた。口々に声が上がり、静寂が破れる。
 が、長が背後に向かって手を出した。「静まれ」という合図に烏たちは口を閉ざす。
「……それだけか」
「はい」
 長の重みある問いに、保志弘はいたって軽く答える。そういうところが軽薄に見えてしまうことを、彼に伝えておければよかったかもしれない。まあ、村正に同じ役をやらせるよりは、よっぽどマシだろうけれど。
「……私を呼び出す意味は、わかっておるのだろうな」
「あなたから了承を得なければ、意味が無いですから」
 答えているようで答えていない。
「……目的は何だ」
「要求の、ですか?」
 保志弘は首を傾げた。心底疑問であるかのように。
「友人と親しくしたいと思うのに、理由が必要でしょうか」
「はぁ……?」
 レッドが真っ先に声を上げた。完全に怒っている声音だし、彼女が発する空気にも怒りがこもっている。周りからも、糸が張り詰めるような緊張感が漂ってきた。
 ……保志弘は、聡明なのか馬鹿なのか、どちらかにしてほしいと思う。烏側の認識では、自身が烏を騙した悪人であることを、理解していないわけではないだろうに。
「よくもぬけぬけと……」
 今にも飛びかかっていきそうなレッドをとりあえず止めよう、と腕を伸ばした時。
 その腕をナミに掴まれた。
「な、何?」
「行こう!」
「え? ま、待っ」
 ナミに引っ張られて、大人烏の間を強引に抜けていく。
 圧迫感が消えた時には、私たちは烏の輪から抜け出していた。そこはちょうど、長と保志弘が相対している場で、二人の視線が突き刺さる。特に長のそれは鋭利な針のようで、未だに私の腕を掴むナミ共々後方に戻りたい衝動に駆られるけれど、足はすくんで動かない。
「ナミ、どうするつもりなの!?」
 私の腕を引いたナミには、何らかの意図があるはずだ。それを問うと、ナミはやっと私の手を離してくれた。そして長に向き直ると。
「すみませんでしたっ!!」
 大声で叫び、頭を下げた。烏たちの緊張感の中に、戸惑いが混ざる。
 ナミはそれを意に介さない。頭を下げたまま、大声で続けた。
「ずっと、嘘吐いてました!!」
 彼の行動の意味と意図に気づく。突発的な告白で不穏な空気を一度収めつつ、注目を集めたところで、私たちの立場をはっきりさせたのだ。
 どこまで考えていたかは分からないけれど、効果は抜群だった。毒気を抜かれた上に告白を受けて、レッドを含めた烏たちは目を白黒させている。
 私たちの思いを、聞いてもらうチャンスだ。口火はナミが切ってくれた。彼を一人矢面に立たせるわけにはいかないし、私だって既に腹は括っているのだ。
 意を決して、口を開く。
「私とナミの報告。あれには、嘘があります」
 長の視線が、ナミから私に動く。感情が顔に出ない代わりに、この人の眼光はとても鋭い。目は口ほどに、というやつだろう。身が竦みそうだ。
「私は皆を騙した。それはどんな理由があっても、私を心配してくれた烏たちに対しての裏切りだと、自覚しています。……ごめんなさい」
 頭を下げる。本心から、申し訳ないと思っている。
 どうあがいても、私が烏であり、烏の社会と規律の中に生きていて、この先も烏として生き続けることは、覆しようがない。「烏」を逸脱した私の行動が数少ない仲間、集団を巻き込む一大事になったことに対しては、消しようもない罪悪感がある。謝って許されるものではないとしても、その思いが確かにあることは知っていて欲しかった。
「クロウ、ナミ……それって、どーいうこと?」
 レッドの声が聞こえた。烏らが立ち並ぶ隙間から、彼女の目が見えた。
 彼女の質問に答えるためにも、長に全てを明かすためにも。目線を長に戻す。
「私は、保志弘たちに、救われた。ただ、それだけ」
「俺たち、騙されてなんかない、です」
 顔を上げたナミが続けた。
 烏らが戸惑う中、長がゆっくり問いかける。
「……根拠は」
「……友人を信じるのに、理由は必要ない、と、思います」
 ナミの言葉は、上手い切り返しだったと思う。静かに場を見つめる保志弘の背後で、村正が笑うのが見えた。
 だが、それで長が納得するはずもない。
「……相手は人間だ。友人などという関係は成立しえない」
 それは暴論だ、と言う間もなく、続く。
「騙す者、騙した者は信頼を欠く。そしてお前たちはたった今、仲間を騙した。我々を騙す者の言葉を信じることはできぬ」
 ああ、なるほど納得。天を仰ぎたくなる。罪を告白した時点で、私たちの言葉から、説得力は消え失せているわけだ。それでも私たちが烏の「仲間」であることを認めてくれるのは、私たちが烏であり、彼らもまた烏だから。
 烏にとって最も信頼がおけるものは、種族という生まれつきどうしようもない、故に欺きようがない確固たる立場なのだ。
「俺は信じるよ」
 だから、烏ほど、他の人間ほど、種族というものに重きを置いていない男の言葉が、理解できないのだと思う。
 保志弘は、にこやかな顔でそう言った。そして長を見る。
「二人を責めないでください。二人にそうさせたのは俺ですから。その点では、俺は完全に悪人です。信頼も信用も得られるものとは思いません」
「……」
「あなたは二人を「仲間を騙した」と言いましたね。けれどそれは二人の意に反したものであり、二人は反省している。ならば許し、二人の言い分を聞くのがあなたの立場、あなたの仕事ではありませんか?」
「……」
 長の視線が、私とナミに刺さる。吐き出す言葉は決まっていた。
「私は、彼らの友人だから、離れたくない」
「俺もです。人間とか、烏とか、関係なしに。俺がこの人たちのこと、好きなんです」
 長の視線が一層鋭くなった、気がした。けれど私たちだって、一時の気の迷いなんかで言っているわけではない。その程度の覚悟で、多くの烏たちの前でこんな言葉が言えるわけない。
 しばらくして、長は視線を前に戻した。けれど保志弘には向けられていない。
「……貴様らは、どうなのだ。同じ要求であると?」
 彼の後ろにいる、村正と玲於奈への言葉だった。
 案の定というか当然というか、先に応えたのは村正。
「んー、まあそうですね! 保志君のお願いに、一字一句異論はないですよ」
 笑顔で言うと、彼は玲於奈を見遣って次を促した。
「……えっと、私は……」
 四方八方に視線を泳がせてから、俯いて首を振った。まるで何かを振り払うように。
 そして顔を上げると、はっきり言った。
「私は、先輩の要求以前に、重要なこと……やりたいことがあって来ました」
 保志弘が玲於奈を見る。けれどその顔を見ると、どうやら二人にもその内容は知らされていないらしい。
「すみません。先輩の覚悟は分かっているつもりですけど、私がそれに同調できるかどうかは、これ次第です」
「そうか。俺も内容は気になっていたし、頼むよ」
「ひゅー、玲於奈ちゃんの独擅場開幕だねっ!」
「茶化さないでください」
 村正にぴしゃりと言ってから、玲於奈は歩き出した。しっかりした足取りで、でもすぐに立ち止まる。
 私とナミの、目の前で。
「……」
「……」
「……」
 何を言っていいのか、何かを言うべきなのか、わからない。私にとっては友達のまま、何ら変わりない玲於奈なのだけれど……私たちは烏を嫌う彼女に素性を明かさず、交流していた。烏だけでなく人間をも騙していたわけだ。特にナミは玲於奈と言い合いをしたそうだから、居心地の悪さはひとしおだろう。視線を逸らそうとしては戻して、を繰り返している。
 数秒ののち、玲於奈がすっと息を吸った。
 そして。
「ごめん」
 頭を下げた。
「え?」
 思わず声を出してしまった。それを言うのは、彼女を騙していた私たちではないのか。
 玲於奈は頭を下げたまま、もう一度言った。
「ごめん」
「ま、待って玲於奈。それを言うなら私、まだあなたに謝っていない」
「そ、そーだよ! 俺だってさあ、あんな喧嘩別れみたいなことして」
 ナミと一緒に慌てていると、玲於奈が顔を上げた。
「少し、聞いてくれる?」
 神妙な顔でそう言われて、聞かないわけにはいかない。二人で頷く。
「……私は烏が嫌い。両親に大怪我負わせた烏が大っ嫌い。許せない。だから、私は烏を憎んできた。二人が烏だって知った時も、騙されたっていうのと同時に、「自分は自分が憎んできた相手と笑ってたのか」って不甲斐なくなった。二人は烏で、私は烏が嫌いで、つまり私は二人を嫌うべきなんだって思った」
 彼女を傷つけた痛みが、自分に返ってくるように、胸が痛む。
 けれど、彼女が続けた言葉は、とても優しかった。
「でも……どうしても、嫌いになれなかった」
 玲於奈は笑った。
「あんまり会う機会はなかったけどさ。出会ってからずっと、二人のこと不思議だなーとは思ってたけど、全然悪い気分になんかならなかったし、楽しかったんだよね。そうやって一つずつ考えてみたけど、嫌うとか、全然できなくて。それで気づいたんだ」
 一拍置いて、玲於奈は天を仰いだ。そこに宣言するように、声を上げる。
「私は烏が嫌い。だけどそれは烏っていう種族じゃなくて、考え方っていうのかな。人間を頭から敵と見なして排除しようとする、他者を傷つけて平気でいる、そんな考え方が嫌いなんだなって思った。まあ、烏を頭から敵と見なして排除しようとしてた私が、言えることじゃないのかもしれないけど……嫌いになれないものを無理に嫌わなくてもいっか、って思っちゃって。難しく考えすぎてたよね」
 あはは、と照れくさそうに笑う玲於奈の気持ちが、ほんの少し、分かる気がした。私もかつては、烏と人間は敵同士で、関わりあってはいけないって思っていた。思っていながら、保志弘や村正と出会って、関わっていく中で、よく悩んでいたから。
 私も、こんな風に人間を許せたらいい、とぼんやり思う。
「だから、さっきの「ごめん」は「二人を憎もうとしてごめんね」ってこと。ナミ君には特にさ、あの時ひどいこと言ったしね。ごめん」
「おっ、俺は、別にいいげど、ざぁ……」
 ナミは玲於奈の話を聞きながら泣いていた。声はがたがた、顔はぐしゃぐしゃである。彼の頭を撫でてあげてから、私も玲於奈に言いたかったことを伝えた。
「ごめんなさい。私、あなたをずっと騙していたこと、謝りたかった」
「最初に知った時は落ち込んだけどね。でも出会った頃に素直に暴露されてたら、こうして謝り合うことだってできなかっただろうし。
 これで今までのことはチャラ……ってことで、いいよね?」
「ええ」
「って、ことは、さ」
 ずびずびと鼻をすすりながら、ナミが呟く。
「俺たち、友達だよな?」
 玲於奈の返事は。
「当然」
 簡潔な、最高のものだった。
 本格的に泣き出したナミをなだめていると、玲於奈は保志弘たちに振り返った。
「先輩方、ありがとうございました。私の用事は済みました……って、何で二人、いやセレベスさんまで泣きそうな顔してるんですか」
 見ると、保志弘に村正、その奥にいるセレベスさんまで、目が潤んでいた。三人は口々に言う。
「玲於奈とはその辺の価値観でちょっと論争したけど、まさか烏への考えを変えるなんて……あの頃からは考えられなかった……」
「うんうん、俺たちの理想は、着実に次の世代へ受け継がれていくんだなーって感動した!」
「私は単純に美少女が並ぶと絵になるというか、ごめんなさい真面目に感動してたわ本当よ」
「皆さんもう少し真剣になってもらっていいですか」
 そう言われると恥ずかしいのか、玲於奈の顔が赤くなっている。
 彼女は咳払いをすると、晴れやかな顔で告げた。
「これで、私とナミ君とクロウちゃんはなんの遺恨もない、正真正銘の友達なわけです。私も、先輩たちと道を同じくする同志となりました」
「頼もしいな」
「これで、三人の意見はめでたく一致ってわけだ!」
 ここで玲於奈の意思は確定した。烏との交流を求める思いが一つ、加わった。
「と、いうわけなんですけど」
 保志弘は長に言う。保志弘の望みに、私たちは満場一致で賛成。しかも目の前で種族を超えた友情の結実を見せつけた。長はどんな反応を示すのか……。
「論外だ」
 一言。
 それだけ。
 烏は鎮まり返り、私たちはその意味を理解しようとする。
「それはつまり、俺たちの要求が、論外であると?」
「烏の社会は小さく脆い。故に、軽率な行動が即座に社会を乱し、壊す。貴様らの行動は、軽率も甚だしい行為だ」
「なるほど、一理ある」
 保志弘が小さく頷く。悔しいけれど、私も長の言葉を理解した。
 「社会」という言葉を使いはするが、烏のそれは一つの集団、コミュニティとしての意味合いが大きい。人間社会で言えば「村」が近いだろうか。とにかく、人間でいうところの「社会」とは規模が違う。
 絶対数が小さい世界では、わずか数人の行動が大きな影響を及ぼすことが往々にしてある。例えば、私やナミが失踪した際。烏たちは人海戦術で私たちを探した。それは私たちたった二人の行動が、多くの烏たちを動かしたことになる。これで私たちが下手な人間に捕まりでもしたら、この長を頂点とする社会は崩壊していたことだろう。
 長は確かに長である。烏の小さな社会を守るべき存在として、理性的に私たちと人間との交流を止めているのだ。
「でもさ」
 不意に村正が言った。
「それじゃあ何も変わらなくない?」
「……」
 長が村正を見た。村正の声は軽い調子で続く。
「確かにそら危険だよ。長さんの危惧も分かる。でも、永遠に人間との交流を断絶したって、結局烏は人間の社会にある程度の依存をしている。関わらないままではいられないでしょ?」
「それは、お前らが、あたしたちを、殺そうとする、からだろ!」
「あーもう、レッドってばー」
 ずるずるとコガを引きずりながら、レッドが烏たちの間から現れた。怒り心頭といった様子の彼女を止めるのは、さすがのコガでも無理だったらしい。
「あたしたちだって、放っといてくれれば上手くやっていくさ! でも人間どもがあたしたちを追いかけて、追い詰めてくるんだろ!」
「まあ、そりゃあ命の危険だもんねえ」
「実際烏に襲われる人間もいるんですから、仕方ない処置です」
 村正と玲於奈の言葉は、レッドの怒りに油を注いだ気がした。
「だーかーら!! それは、人間どもが!」
「待って待って、レッド。気持ちはわかるけど、それは卵が先か鶏が先か、って話じゃない。ここで論じてもしょうがないよ」
「……それ、どーいう意味?」
「あのねえ」
 コガの言葉にレッドがきょとんとしたことで、一触即発か、といった雰囲気は消えた。まあ、別の問題が生じている気はするけれど。
 コガがレッドに言葉の意味を教えている間に、村正の持論が今一度展開される。
「……こーんな感じで、どうしようもない憎しみは引き継がれていく。このままでいたってしょうがない、って思わないですかねえ?」
「今のバランスを保つことが大事だ」
「人も烏も傷つく今のバランスが? 犠牲と憎しみを生む平和なんて平和じゃないね」
「知った風に言うな」
「これでも対烏の最前線で働いてんの。一般人よりは烏のあり方に詳しいぜ」
 顔を歪める長に、にやりと笑う村正。立ち位置や雰囲気を見るに、今回の事の中心には保志弘が据えられているようだが、こういった論争は村正の方が得意そうである。現に保志弘は黙っているし、私たちも口を挟むべき場でないことは肌で感じ取れた。
「今のバランスを崩したとしても、より良いバランスに落ち着ける可能性はあるんじゃないの?」
「より悪い、バランスをとることすらできない崩壊に辿り着く可能性がある以上、長としてその決断を下すことはできない」
「それじゃあ堂々巡りだ。あんたはいいの? 今のまま、あんたが守るべき烏のいくらかを犠牲にして、苦しませてでも種を存続させる道を選ぶことが、正しいって胸張って言える? 「集団のために個を捨てろ」なんて社会の体制としては古臭いよ」
「貴様とは背負うものの重みが違う。一人間が偉そうなことを言うな」
 口で対等に渡り合っている。村正は手数が多く、長は一言が重い。けれど、その内容はただお互いの意見をぶつけ合っているだけのようでもあった。
「あー、まあ、俺は確かに一人間で、偉くもなんともないんだけど」
 村正が小さく首を振り、ため息をついた。
「あんたと同じくらい、大事なもん背負ってるつもりだよ」
「こっちは何十もの命をかけてんだ!」
 レッドの声が今一度割って入る。
「クロウやナミの意思は尊重したいけど、それが烏全体を危険に晒すんだ。ちゃんとわかってんだろ?」
「わかってるよ、そりゃ……」
 ナミは小さく頷く。
「だったらやっぱり、人間と烏はつながるべきじゃない。烏は烏で、人間は人間で生きていくべきだろ」
「お互いに怪我しない距離感を探ったっていいでしょ?」
「それはそうですが」
 コガも口を開いた。
「烏は長い歴史の中、人間からの迫害を受けながら、やっとの思いで何とか生きられるやり方を覚えたんです。クロウやナミに関連する騒動で、僕たち烏はやっぱり、人間とはできる限り関わるべきではないと感じました。僕たちが人間社会にある程度依存していることは認めますが、それでも」
「関わり合いは必要最小限で、か」
「はい。みなさんの考え、思想はわかります。けれど、この問題には命が関わってきます。そして、烏という種族は人間よりも数が少ない。種の存続という責任の重みに違いがあるのは、ご理解ください」
 コガは、他の烏よりも保志弘たちに対して寛容だ。だから私の手助けをしてくれた。けれど、それは私たちの肩を持っているわけではない。自分の意思でどちらが正しいかを決められる、ということだ。コガは正しく私たちの希望を計り、長の考えを計り、意見を述べていた。
「……背負える分母の差こそあれ、命の重みは平等だよ。数で決まるものじゃない。
 それに、このささやかな願いに命賭けてるのは、何も烏だけじゃないと思うけどね」
 ちらと村正は保志弘を見た。彼はそれに気づいていないようで、長を見つめている。
 そっとナミが手を挙げた。誰にでも発言権はあるはずなのに、律儀である。
「でも、さ。いきなり大規模にやって、混乱とか問題とかが起こらないように、まずは俺たちの間で、って話だろ。こんな小さな交流も駄目なのか? それってやっぱり俺らと、こいつらに信用ないからってこと?」
「おおーう、はっきり口にされると辛いな」
 村正が胸を押さえる。当然だ、とばかりにレッドが鼻を鳴らした。
「何てったって、クロウを騙したんだ。許さん」
「だから、言ってるじゃない。それはそうせざるを得なかったからで」
「だとしても傷つけたんだ。仲間はお互いを傷つけたりしない」
「……でも、待って。彼が、彼らが信じるに値する人間かを、たった今対面したばかりのみんなに測ることはできないわ」
 私が保志弘を信頼するのは、彼に救われて、長い間彼と共に暮らしたからだ。それを、レッドや長たちに同じように理解出来るはずがない。
「他者が理解しあうには、どうしたって時間が必要だわ。そのためにも」
「認めろ、と?」
 私の言葉を長が遮る。その通りだ。私は小さく頷いた。
「理解する必要があるかどうか、それも分からぬというのに」
「つーか必要ないだろ! 人間はあたしたちの敵なんだから!」
 レッドの言葉に烏たちは賛同する。頭数が多いから、その声は私たちを圧迫するようだった。
 どうするのだろう、と保志弘を見るが、彼はただじっと何かを見つめていた。言葉を発する気配はない。
 代わりなのか何なのか、村正が困ったように肩をすくめて言った。
「あはは、これじゃあ本当に堂々巡り。暖簾に腕押し、糠に釘。どうしたもんかね」
「単純な話ですよ」
 玲於奈がこれ見よがしにため息をつく。
「烏が臆病なだけです」
「……うわあ」
「言うねえ玲於奈ちゃん」
 ナミと村正が、ほぼ同時に呟いた。それは完全に挑発、あるいは宣戦布告で、どこか盛り上がっていた場の空気を一気に地面に叩き落とした。
「……何だって?」
 真っ先に食いついたのは、やはりというか何というか、レッドだった。もうコガも止めることを諦めたのか、何も言わずに彼女のやりたいようにさせるつもりらしい。あるいは、彼女の意見も尊重する、という彼の平等な立場の表れなのかもしれない。
 レッドの鋭い目にもたじろぐことなく、玲於奈は吐き捨てるように告げた。
「だってそうでしょう。そこのおっさんが言ったじゃない、「変化の先に何があるかわからない」って。それってつまり、変化が怖いんでしょう?」
 長を「おっさん」呼ばわりする玲於奈には、畏怖を覚える。ギャグでなければ、慎重な長を揶揄っているのだろう。
「じゃああんたらが、今ここで、信用に価する存在だって証明でもできんのかよ? 絶対にあたしたち烏を裏切らないって、証明できねえのにただ「信じろ」だの「繋がりたい」だの、本気で受け取れると思ってんのかよ!」
「大体こっちは「三人で来る」って言ったのに、こんだけ人数そろえてくるなんて、びびってるとしか言いようないんじゃない? あんただってそうよ、「烏のため」だ「クロウちゃんたちのため」だと威勢のいいこと言ってるけど、あんたこそ人間を信じたことがないから怖いんでしょ? 未知のものが怖いことは認めるし、それを嘲るつもりはないけれど、それを理由に変革を拒否するなら、愚かだと言わざるを得ないわね」
「質問に答えろよ! あと言わせてもらうと、あたしはクロウがお前らに裏切られる前から、何べんも人間にはやられてきたんだ。あたし自身大怪我したことあるし、仲間も友達も両親も、怪我だけじゃなく何羽も死んだんだ。あたしたちはただ、生きるための食料やら衣料品やらを探してただけなんだぞ!?」
「じゃあ答えるわよ。証明なんかできるはずないでしょ。少なくとも、人間を頭っから決めつけて受け入れる気のないあんたに、たとえ完璧な証明をしたところであんたは絶対にそれを撥ね退ける。それならやる意味なんてない。
 あとね、それを言うなら私だってさっき「両親が大怪我した」って言ったわよね? 病院送りにされて、今なお後遺症に悩まされてんのよ? こちとらただ生きてただけよ、買い物帰りに道歩いてただけ。烏に襲われる理由なんてこれっぽっちもなかったんだからお互い様!」
「だったら結局烏と人間が分かり合う必要なんてないんじゃねーか!!」
「それでも分かり合いたいから交流しつづけたいって言ってんじゃない!!」
 ぜえはあ、とレッドと玲於奈の息が荒く響く。しかし、やはり意見はぶつかり合うばかりでどうにも着地できない。
 肩で息をする二人を静かに見守っていたコガに、ナミがそっと訊く。
「なあ、コガはどう思う?」
「え? 僕?」
 瞬間、烏たちの視線はコガに集まった。「長の孫」という立ち位置での発言は、やはり注目すべきところだ。
「うん。交流に慎重なのはわかったけど、お互いの理解に関して、さ」
「うーん」
 コガは困ったように微笑むと、のんびりとした口調で言った。
「僕は……さっきも言ったけど、前例ができることで、将来このつながりを悪用する人間、烏が現れる危険性を考えたら、慎重にならざるを得ないと思ってる」
 コガは長を見た。長もまた、コガを見ている。
「でも、ね。僕の大事な友達が、「仲間を敵に回しても一緒にいたい」って言えるような人たちなら。その人たちを理解しようとするのは、悪くないと思うんだよね」
「……なんか、言ってること真逆じゃね?」
「僕は恨むより許したいタイプなんだ。彼女も言っていたでしょ? 「考え方が嫌い」って」
 それは玲於奈の言葉。彼女が烏を嫌うのは種族ではなく、考え方が原因なのだと。
「僕だって殺し合いなんかしたくない。考え方を理由に憎み合うのなら、力でなく言葉でお互いを理解し合うことに意味はあるはず。今はそのチャンスなんじゃないのかな……というのが、僕の個人的な意見だよ」
 レッドの背中をぽんぽんと叩くコガ。それでなだめているつもりなのかもしれないが、レッドは唇を噛み締めて俯いていた。
 レッドや多くの烏は、生きる為、存続する為に力を用い、敵を傷つけることを恐れはしないだろう。結果傷つき倒れたとしても、それは誇りですらあるはずだ。けれどそれを回避できるなら。力でなく言葉を交えることで、傷つく者を減らせるとしたら……。レッドの葛藤が、震える肩から伝わってくる。
 コガの言葉を受けて、長が口を開いた。
「……烏を追いやったのは人間。追いやられても生きようとした烏を痛めつけるのもまた人間。烏に手を差し伸べる人間には裏がある。その手を取って、生きて帰った烏は決して多くない。烏は純粋な力を持つが故に、社会的立場が弱すぎる。私は烏を守らなければならないのだ……例えば未来、人間と対等になることがあるのだとしても……なおのこと、今決断してはならない。もっと、烏が強くならねばならぬ……今では、ない」
 まるで言い聞かせるような言葉だった。誰に言い聞かせていたのかは、わからないけれど。
「迷われていますね」
 不意に、ずっと黙っていた保志弘が言った。
 もう彼は笑っていなかった。
「俺たちの独善的な行為があなたを苦しめていることは、申し訳ないと思っています。けれど、俺たちも譲れない。これは俺たちの夢の一歩だから。俺の、存在意義でもあるから」
 自分の痛みでもないだろうに、胸に手を当てて保志弘は続ける。
「烏であるあなた方の、仲間を……種族を大切にする強い気持ちを、今初めて知りました。知ってはいたつもりでしたが、実際目の当たりにして、人間のそれなんかよりよっぽど強くて、羨ましいくらいです」
 確かに、烏と人間の社会では、繋がりの強さは全く違うだろう。しかし、保志弘がそれを羨ましがるとは意外だった。彼は人間関係においては来る者は拒まず去る者は追わず、の淡泊なタイプだと思っていた。
 保志弘は少し間を置いて、訊いた。
「種族とは、なんなのでしょうか。それは何を以って分け隔てられるものだと、思いますか」
 その問いの意味を計りかねながら、字面通りの質問として考えてみる。
 種族。烏であること。人間であること。それを決める要素とは何なのか。姿形? 生まれた場所? 生まれつきの能力?
 問いの形を成しながらも、保志弘は長からの答えを求めているわけではなかったようだった。答えを聞くことなく続ける。
「俺も血だと思います。生まれる前から、生まれてもなお誤魔化しようのない場所に、断裂はあるのだと。考え方とか、生き方とか、そういうものは生まれてからの学習によって身につくものでしかない。それらしく振舞うことはできても、正確に自分を証明できるものは、結局、父と母から分け与えられた血ではないかと思うのです」
「……」
 長は、静かに息を呑んでいた。
 今の保志弘の言葉は少し不思議だった。なぜ「俺も」と言ったのか? それは自分以外に同じ意見を持つ人がいた場合に使われると思うのだけれど、あの場で彼の質問に答えた者は誰一人いなかった。
 どういうことなのか。疑問は晴れないまま、保志弘の言葉はまだ続く。
「烏にとって種族は、血は非常に大切なものでしょう。個体数が少なく、社会と種を存続させるには苦労がある。その苦労を一人一人が理解している。だから繋がりは守られ、大切にされ、強固になる。そこに他の種族が入り込む余地はほとんど無い」
「……何が言いたい」
 長の一言に、保志弘はわずかに目線を逸らして呟いた。
「俺たちの話を受け入れてもらえないのは、俺たちが別の種族だから、烏と異なる人間の血を流すから、ですよね。ならば……」
 保志弘が目線を上げて言葉を続けようとした、時だった。
 風を切る音がした。
「っ!」
 気づいた保志弘が一歩退いた。その足元に、黒い羽根が突き刺さる。烏たちを見ると、こちらに向けられたいくつもの手の平。そこに次々生まれる羽根は……魔術を発動する証だ。
「ナミ、玲於奈をお願い!」
「任せろっ!」
 私は走り、保志弘の前に立つ。両手を前に翳すと同時に、いくつもの羽根が矢のように放たれた。
「村正、こっちだ」
「うわっと!」
 村正は保志弘が私の真後ろに引き込んでくれた。確認する暇もなく、私は防御の魔術を使う。羽根をいくつも生み出し重ねて、盾のように展開させる魔術だ。クッションのような柔らかさで衝撃を受け止めることもできるが、今は可能な限り硬く、厚く展開して壁にする。玲於奈の前に立ったナミが、同じ魔術をほぼ同時に完成させた。
 途端、羽根が怒涛の勢いで羽根の盾に突き刺さる。一枚一枚は軽いけれど、数の暴力による衝撃は腕にじんわりと伝わってきた。
「クロウ、無理は」
「無理してだって、守るしかないじゃない……!」
 保志弘の気遣いに、私は必死に答える。
「前は、私のせいで傷つけたのだから……次は守ると、決めたのよ」
「……」
 今なお目を閉じれば、生々しく思い出せるのだ。保志弘がスローモーションで倒れる姿が。血の中で力尽きようとしている彼の姿が。私はもうあんな思いはしたくない。私がそれを防ぐことができるなら、たとえ私の命に危険が迫るとしても、守りたかった。実際には命を賭けるなんてこと、保志弘たちは許してくれそうもないのだけれど。
 この思いは、行動は、私と彼らの絆の証明になり得るだろうか。
「うう……」
 そうであるならば耐えたい。けれど、だんだんと苦しくなってくる。なにせ多勢に無勢な上、私はそもそも魔術は得意じゃないのだ。
 後ろに立つ保志弘と村正を見るが、怪我はないようだった。そして横を見ると、同じように結界を張るナミ、その後ろの玲於奈の無事を確認する。けれど、状況を打開できなければ、こちらが力尽きて命を落とす未来しかない。
「ど、どーいうことだよ、いきなり何してんだ! 人間はともかく、クロウとナミは仲間だろ! いきなり攻撃なんて!」
 レッドとコガは、攻撃の範囲外にあった。レッドが烏たちに向かって声を荒げると、羽根がぶつかる音の合間から声が響いた。
「結局こうすれば早いんだ!」「人間と烏は、結局相容れないんだよ……」「こいつらを殺せば手っ取り早く解決するわ」「レッド、お前だって人間は嫌いだろ?」
 そう言われて、レッドは困惑する。
「それは、そう、だけど……だからって、クロウとナミまで巻き込んで良い理由には……!」
 誰とも分からない声は重なり、膨れ上がっていく。
「あいつらは人間を守ってるだろ?」「別に、二人を嫌いになったわけじゃないけど……」「烏は人間を守ったりしないんだよ」「あいつらはもう、烏でありながら烏の敵と化してしまったのだ」「烏なら、人間を憎むべきだ」「同じ血が流れるならば、烏という種族であるならば、そうあるべきではないか!」
「はあ!?」
 叫んだのは、ナミだった。
「そんな決まり、どこにあんだよ!!」
 私たちに反発する烏たちの意思が、打ち出す羽根をより鋭く、素早くしていく。長く、強い衝撃に、腕が痺れてきた。集中力も削れていく。
 私も叫んだ。自分を叱咤するように。理由も分からないまま溢れる涙を、振り払うように。
「私は、私の大切な友人を守る! そこに種族なんて、関係ない!!」
 それと同時だった。
 腕に鋭い痛みが走って、血が紐のように細く飛ぶ。羽根が腕を掠めたのだ。それは、私の防御魔術が崩壊したことを意味した。
 目の前に広がる黒、羽根の盾が、千切れる。その向こうに広がる光の景色を切り裂いて、闇色の羽根が飛んでくる。逃げられない。視界の隅で、ナミが手を伸ばしているのが見えた。羽根を飛ばして私を守ろうとするけれど、きっと間に合わない。
 スローモーション。長の一歩踏み出す音も。レッドとコガが咄嗟に叫ぶ私の名前も、反響を伴って黒く揺蕩う闇に届く。
 私は、間違ってなんか、いない。
 最期の一瞬まで、それだけを強く信じたくて、恐怖を感じないように目を固く閉じた。


 私の腕を掴む手が温かかった。


 一秒。
 二秒。
 三、四、五秒。
「……?」
 いつまで経っても衝撃は無く、「ああ、もしかして痛みを感じないままに死んでしまったのか」なんて思ってもみたけれど。私の片腕を掴む手の強さと温かさは、死後の世界にしてはあまりに生気に満ちていたので、不思議に思って目を開けた。
 天国であれば、納得できたかもしれない。
 私の前には黒があった。たったさっきまで、私が生み出していた羽根の壁。空を駆ける翼で結界を成す、防御の魔術だ。私が生み出した壁よりいくらか薄いそれは、私の目の前に堂々と広がり、私と、私の後ろにいた大切な人たちの命を奪おうとした羽根を、悉く防いでいた。
 では、その守護をもたらしたのは誰なのか。
 ナミは間に合わなかった。レッドもコガも、長でさえこの突然の状況には対応できなかった。けれど確かに魔術は展開している。
 烏という種族に与えられた奇跡。人間という種族は持ち合わせていない異能。それが魔術である。
 守護したのは。
「……ほ、し、ひろ……?」
 私の腕を掴んで一歩下げさせ、代わりに私の前に出ている保志弘は、片手を掲げて結界を作り、羽根を防御していた。
 壁に阻まれ推進力を失った羽根が、地面に落ちていく。
 その光景に誰もが息を呑み、あれほど私たちを倒さんとしていた烏たちですら、攻撃の手を止めた。
 これ以上の攻撃が来ないことを確認して、保志弘が手を下ろす。同時に羽根の壁は崩れ、防御の魔術は解けた。
「……」
 保志弘は、黙して語る気配がない。
 けれど彼の言葉がなければ、どうしたってこの状況を理解できそうにない。だから私は、思うままに声を出した。
「あなた……烏だったの……?」
 だとしたら、今までのことは。私やナミの思いは。玲於奈は、村正は、セレベスさんは。今日この日に起こった全ては。
 一体、何の意味があるの?
「……違うよクロウ」
 保志弘は、ゆっくり私を振り返った。いつも顔に浮かべている笑顔なのに、今はいつもと違って、泣きそうだった。
「俺は人間だ」
「だ、けど」
「俺は人間だ……と、思ってる」
 そう言うと、保志弘は長に向き直った。長は細めた漆黒の目で、何かを見極めるようにじっと、彼を見つめている。その目を受けて、保志弘は告白した。
「俺の母は人間で、父は烏です」
「……やはり、そうか」
 長が重く、深くため息をつくように言った。まるで既に知っていたかのような様子である。
 保志弘が、烏と人間の混血。突然明かされた事実に、頭を殴られたような衝撃を感じた。ふらつきそうになるが、保志弘がまだ私の腕を握ってくれているので、倒れる心配はない。
 ……そこで初めて、保志弘の手が震えていることに気づいた。
「俺にも、烏の血は流れている」
「……だが、貴様は人間だ」
「烏でもある」
「だから、話を聞けと」
「ええ。同じ種族の、仲間の、意見の一つとして」
「随分と、虫のいい話だ」
「自覚はあります」
 保志弘は苦笑した。ほんの数分前まで、純然たる人間としての理論を展開しながら、いきなり立場を真逆にしてみるのだから、長の反応は当然だろう。
「でも、こうして俺の話をちゃんと聞いてくれている。それで十分、この告白には意味があった」
 私の腕を掴みながら震える手に、手を重ねる。気付いた保志弘は私を見ると、泣きそうな顔のまま小さく頷いた。その意味は分からなかったけれど、同時に声無く呟いた言葉は読み取れた。
 「ありがとう」と。
「……せ、先輩」
 玲於奈の弱々しい声がかかり、保志弘はぱっと顔を上げた。頭をかきながら笑う彼はもう、普段通りの姿だった。重ねた手からも震えは伝わらない。
「すまん玲於奈、今まで黙ってて」
「す、「すまん」で済む問題なんですか? 済みませんよね!? っていうか、ええ? 本当に、本当なんですか?」
「さっきので十分証明できたと思うけど」
「村正もセレベスさんも全っ然驚いてないけど、もしかして知ってた……?」
 玲於奈と同じくらい動揺しているナミの言葉につられて見ると、二人は顔を合わせて楽しそうに笑っていた。こんな重大局面でも、振る舞いだけは子供のように無邪気である。
「私はそもそも、保志弘の両親を引き合わせた恋のキューピットなのよ。それに、保志弘に力の使い方を叩き込んだの私よ? 知らないわけないでしょーが」
「俺と保志君の間に、隠し事なんて存在しないのサ」
 こちらが慌てふためくように、烏たちも烏たちで、前例のない「烏と人間の混血」という存在にどよめいていた。レッドとコガも、どんな反応をしていいやらわからない様子である。唯一、長だけは冷徹な沈黙を通しているけれど、その心中は誰にも分からない。
 烏たちのざわめきの中から、一際大きな声が上がる。
 「人間と交わるなんて、最低の烏だ」「我々を裏切った者の血を引くなら、仲間などとは呼べぬ」……そういった主旨の声は賛同を受けて押し出され、私たちの元に届いた。
「……まあ、そう言われると予想はしていた」
 保志弘が小さく呟く。烏と人、どちらの要素も持つということは、烏とも人とも呼べない存在、とも言える。そういった存在は、片方、あるいは両方に受け入れられるか、あるいはどちらにも受け入れてもらえないかだ。烏は今、彼を拒絶しようとしていた。
 否定の声が度合いを増す中、突然電子音が鳴った。何事か、と騒然とする。
「あー、ちょっと待って。俺俺」
 手を挙げて存在を示したのは、村正だった。保志弘が冷たい視線を送る。
「場の空気をぶち壊すな。マナーモードにしとけ」
「え、保志君機械音痴のくせに、マナーモードは知ってんだ?」
「公共の場によく広告出てるだろ」
「ああ、なるほどー」
 言いながら、村正はポケットから携帯電話を取り出した。ボタンを押して耳元にあてる。この緊迫した状況で、よく電話などできるものだ。保志弘が烏に対して恐怖を抱かないのは、生い立ちに由来するものだとしても、純然たる人間である村正の肝の据わり方は、感動を覚えるレベルである。
「はいもしもしー、朝からごめんね! どしたの、機械トラブル? ……うんうん……あーそれ? うん、そこだけカットでお願い。映像編集能力を見込んでのお願いだよーん」
 何の話か全く見えてこないけれど、村正を見る保志弘の目がだんだんと細まっていくのを見ると、良くないことなのだろうか。
「……いーや、何とか落ち着きそうよ。そろっと結論も出るでしょう! あ、そうなったら映像はいらないと思うけど……はいはいもちろん、謹んで晩飯おごりますよん。じゃ、引き続きよろしく!」
 通話はそこで終わった。携帯電話をポケットに戻した村正が顔を上げると、呆れたような、怒っているような保志弘と目が合う。
「やだなー、本日の主役がなんて顔をしているんだい」
「お前の「どんな手を使っても」には一抹の不安があったんだが、不安が的中したようでがっかりした」
「ひどいぞ保志君! 俺の本気は君もよーく分かっているだろうに!」
「どういうこと?」
 二人の間では通じているようだけれど、こちらはさっぱり分からない。訊いてみると、村正がにやりと笑って前に出た。大仰に手を広げて、烏たち全員に届くような声で宣う。
「言うの遅れて申し訳ないんだけど、今この場の話し合いは、ぜーんぶ映像として記録されてまーす!」
 ざわめきが引いた。けれど、それは意味を理解して、ではなく、意味が分からなくて、だろう。私にも、まだその意図が伝わってこない。目を伏せた保志弘と、村正の言葉に目を見開いたセレベスさんだけが、現段階でそれを知っている。
「ちなみに音声は無し、映像だけね。その状態で、この話し合いが始まってから今まで、そして今現在も情報は記録されている。人間数人に対して烏が数十で相対し、いきなり攻撃をしかけてきた場面とか、全部ばっちり完璧に。……どうどう、分かってきた?」
 村正はあくまで楽しそうな声である。
 が、だんだん、分かってきた。つまりそれは。
「脅迫、か」
「いや、マジで申し訳ないとは思ってるんですけどね」
 長の重い声に、村正は至って軽く明るく応える。
「こっちも命の危険背負ってるんで、かけられる保険は全力でかけていきますよ。言った通り音声は入ってないんで、適当な話つけてテレビ局にでも売り込めば、烏の人間社会内での地位はどん底に落ちる」
 烏が寄ってたかって数人の人間を囲み、攻撃を仕掛ける。そんな映像が人間社会に広まれば、烏に対する人間の感情は一気に悪くなる。烏排斥の声が、今以上に高まるだろう。人間の方が数では有利、勢いに乗じて本気で烏を消そうと思えば、消せるかもしれない。
 この広い競技場の中、どこから何人が撮っているかも分からない状況では、迂闊に襲いかかることもできない。烏たちは、村正の意図を理解しながらも、視線をそこかしこに抛つばかりとなる。「保険」の効果は絶大だった。
 しかし、これを誰にも言わずに思考して、実行したのか。今初めて、村正を怖いと思った。それが彼の作戦に対してなのか、彼本人に対してなのかは分からないけれど。
「……それは、この話し合いを、成功させるためにですか?」
 コガの戸惑いながらの問いに、村正は首を横に振った。
「この話し合いを生きて終わらせるために、だね。話し合いの内容に関しては、本当に保志君に一任したんだ。俺は自分の意見を以て立場を確立させていれば良かった。でも、俺って保志君ほどお人好しじゃないので」
 お人好し扱いされた保志弘は、村正の視線を受けてそっぽを向いた。
「……確かに、命の危険は考えていたが、具体的な対策は全くとっていない」
「ほら。だから、そっちは俺が全力サポートですよ。もちろん俺らの提案を受け入れてもらえればハッピーだけど、最悪突っぱねられたとしても「命あっての物種」ってやつですから? こうしておけば、種の存続を至上とする烏なら、そう簡単に俺たちに手出しできないでしょ」
 そう言われると、村正の作戦は怖いけれど、やりすぎということは……いえ、やっぱり怖い。ついでに命の危険を認識しながら、対策を何一つとらなかった保志弘も怖い。何なの、この人間たち。
「もちろん、俺たちを生かして帰してくれるなら、映像は責任持って綺麗に処分しますよ。だからこれ以上攻撃しないでくれると非常にありがたいでーす、っていう提案つーか注意喚起っつーか脅しでした! お粗末!」
 烏たちの間でざわめきは広がり続けるけれど、声を上げて攻撃してくる様子はなかった。保志弘たち人間と、彼らに味方した私、ナミの身の安全は、一応は確保されたということだろう。
 振り向いた村正が、保志弘の肩を軽く叩く。
「ほい、あとは君の独壇場だよ」
「昔からお前はやることが滅茶苦茶だな」
「保志君だって滅茶苦茶だよ。烏に対話挑もうなんて」
「そうか?」
「そうだよ」
 村正が下がる代わりに、保志弘が前に出る。
 私の横に立った村正が、手を軽く挙げて謝る仕草を見せた。
「ごめんねークロたん。ビビらせちゃったっしょ」
「驚いたわよ、本当に……」
「でも、思ったんだよねえ。保志君が部屋ん中でぶっ倒れてた時の、あれをまた見ることにならないようにって」
 ……村正もまた、私と同じように彼の姿が焼き付いて離れないらしい。私は保志弘だけでなく、村正の心をも傷つけていたのだ。
「なんて言ったらいいか、分からないけれど……」
「あっ、いやいやクロたんを責めてるわけじゃなくてね、むしろ逆! クロたんにあれを強いるような状況に持っていったのもまずかったんだ。誰も傷つかないように万全を期さないと駄目だなー、と思ったんだよ。そんな矢先、保志君御自ら「烏の中に飛び込む」なんて無茶言い出すから、不肖村正、全力で事に当たった次第なわけサ!」
「……そう、ね」
 結局のところ、私たちの思いは一緒で、それぞれにできることをしただけなのだ。
「でも酷いな」
「酷いですね」
 そこにナミと玲於奈の声がかかる。村正は目元を手で覆った。
「ううっ、頑張ったのにフレンズの言葉が刺さる……」
「ま、でも村正なりに頑張ったんだよな」
「うん。本当は銃撃部隊も配備して、物理的圧力もかけようと思ってたけど、俺の現在の財力では精神的圧力をかけるのが限界だった」
「やっぱひでー」
 ナミのフォロー虚しく、村正の下衆度はうなぎのぼりである。
 いつぞやのような和やかな空気が流れつつあるけれど、話はまだ終わっていない。保志弘は今一度長と向かい合っている。私たちは雑談を止め、その背中を見守った。
「人と烏は、関わるべきでは無いと、その気持ちも少しは分かります。傷つけ合うだけの今の関係では、そうなるのも当然のこと」
 保志弘の言葉が続く。
「けれど、人と烏の繋がりの否定は、繋がりを作った両親の、そしてその繋がりから生まれた俺の否定でもある。俺はそんなものは認めない。たとえ特異な存在だったとしても、あなた方に認められないのだとしても、繋がりを求める烏と人がいるのなら……いつか、関係を変えられると信じている」
「……私は、夢を見ていられるような立場ではないのだ」
「これは夢じゃなくて、希望です」
「……」
「いつか、人と烏が理解し合い、傷つけることなく、分け隔てなく接し合える日が来る。そんな未来を願うならば、烏を束ね、守り、導く長殿も、等しく持つことのできる、いや持つべき希望だ」
「……希望、か」
 希望。その言葉に、心が揺れた。
 未来より覚束ない、けれど夢や理想よりも確かな力を感じた。
「その希望が現実のものになるには、長い時間を要するでしょう。けれど、いつか必ず実現できると、俺は信じます」
 私はその力に促されるまま、歩き出した。
 希望を与えてくれた、保志弘の隣に立つ。
「私も、信じています。だって、私は、変われたから」
 最初は人間なんて嫌いだった。興味も無かった。敵でしかなかった。
 けれど、保志弘たちと出会って、関わって、楽しかった。困ることも、辛いこともあったけれど、悪くなかった。烏は人間と絆を繋げるのだと気付いた。それが大切なものになり、守りたいと思えるようになった。
「私は変われた。きっと他の烏たちにも、無理なことではないわ。同じ希望を持って、飛び立てると信じます」
「だから、どうか」
 保志弘は、長に手を差し出した。招くように。求めるように。
「俺たちに、力を貸してください」
「……」
 長は深い息を吐きながら、目を閉じた。保志弘も、私も、後ろにいる皆も、もう伝えるべきことは伝え切った。これが最終判断だと、誰もが感じ取っていた。
 長の目がゆっくりと、開かれる。
 自分の鼓動さえ響くような静寂が、長の声で破られる。






 コンビニで、缶コーヒーを二本買う。じゃんけんで負けたが故の使い走りだ。ビニール袋をぶらさげて、昼前の静かな住宅街を歩く。
 ものの数分で、公園が見えてきた。昼過ぎには近所の子供達で溢れるような小さなものだが、時間帯が時間帯なので、子供の姿は見当たらない。散歩なのか、時折ご老人が横を通っていく程度だ。
 そんな公園のベンチに、足を組んだ態度のでかい帽子眼鏡野郎がいる。
「やあやあ保志君、お勤め御苦労様!」
「うるせえ」
 おもむろにビニール袋の中から缶を一本取り出し、投げつける。が、真正面からの攻撃では不意打ちにもならず、簡単に缶をキャッチされてしまった。
「おおーう、期待通りの最新フレーバー! サンキュー!」
「うるせえ」
 同じ言葉を記号的に繰り返して、村正の隣に腰を下ろす。
 缶を開けて、コーヒーを飲んだ。村正は「最新フレーバー」というが、あまり缶コーヒーを飲まない俺は興味がわかない。村正は、横で「のどごしが〜」とか「香りが〜」とか言っているが、全く耳に入ってこなかった。
「というか、お前仕事はどうした。今日はデスクワークじゃなかったか?」
「情報収集の名目で逃げてきた」
「その名目で回避できるのか。お前の「情報収集」の信用性低いだろ」
「そう、そうなの村正がっかり。けど、玲於奈ちゃんや新人さんたちがバリバリ働いてるから、実質仕事は減ってきてんのよ。それに、保志君が万年書類整理マンを脱して実地で働くようになったから、俺も足で稼がないとねえ。
 ……今まで聞いてなかったけど、どういう風の吹き回しなわけ?」
 手の中のコーヒーをもう一口飲んでから、答える。
「……あれから、大分経ってるだろ」
「うん」
「俺も甘えるわけにはいかないな、と思っただけだ」


 正確には、あれから十年。
 雨の日に偶然拾った烏の少女と、繋がり続けたいと願ったあの日。
 あの日から、クロウとナミには会っていない。
 あの日、俺たちの希望は、長の言葉によって砕かれたのだ。
 長は静かに言った。
 「駄目だ」と。
 俺たちの言葉は届かず、誇張なく命を賭けた声は拒絶された。
 俺たちはただ静かに、別れた。
 あれから、十年も経った。


「ふーん?」
「あれだけ大口叩いた奴が、自分だけ安全なところにいるわけにもいかないだろ。烏対策の前線にいるからこそ、烏を傷つけずに、穏便に事を済ませる方法を探そうと思った。手間がかかろうが、俺が多少怪我をしようが、「烏を傷つけたくない人間もいる」と伝えたい。それだけだ」
「さっすが保志君、抜け目なくアピールしてますねー!」
 長い時が経ったが、俺の変化といえば、支部での仕事形態がまず大きい。村正に指摘された通り、実戦的な仕事も行うようになった。力加減は、未だにうまくいかないのだが。ちなみに、当然ながら俺が烏との混血であることは、あれ以来誰にも伝えていないし、人前で力を使ったりもしない。
「そういや、みんなびっくりしてたよ。「保志君の身体能力がやたら高い」って。デスクワーク徹底してたのは「運動神経が悪いから」だって思ってたみたい」
「別にどう思われていても良いんだがな。その分の事務仕事がお前に回っているそうだが、「なんだかんだでお前も仕事はこなす」って玲於奈がびっくりしてたぞ」
「俺はやれば出来るダンディな男ですから?」
 自称ダンディの村正は、さして変化がないように思う。そこそこ真面目に仕事をして、理由をつけては仕事場を抜け出し、あらゆる情報を集めている。独自の人脈から有用な情報を持ってくる信頼はあるだろうが、大半は支部長も諦めた様子で、村正の好きにやらせているようだった。
「……お前、家の方はどうなったんだ? あの日のこと、伝えたのか」
「ん? ああー、あの日映像撮ってたでしょ? あれ使わないで捨てるの勿体無かったから、見せた。活動の抑止力にはなってないけど、親父に一泡吹かせられたから満足」
「なんだそれ」
「こっちも一朝一夕で切れる因縁じゃないからねー。まあ、映像無駄にならなくて良かったってとこかな。
 ……あれ、それより玲於奈ちゃんは? 今日いないの?」
「外せない用事があるんだと」
「うわあ、かわいそ」
 玲於奈は、あの後支部での活動を辞めたが、大学卒業後に正式な職員として支部に復帰した。あれからいろいろ吹っ切れたようで、高校、大学と好きだった陸上に励み、勉学にも真面目に取り組んだという心身ともに元気な彼女は、全力で働いている。その実績は日に日に積み重なっており、じきに俺たちの上司になるのではないか、というのが俺たちの推測だ。まあ、彼女の能力の高さは分かっているから、特に文句はないのだが……実際そうなったら、ちょっと複雑だ。
「玲於奈ちゃんの話題と来れば、ねー保志君」
 コーヒーを煽った村正が、俺の肩に腕を回してくる。鬱陶しい。
「玲於奈ちゃんとのお付き合いはどーなってんのー?」
「酔っ払いみたいな絡み方すんな気持ち悪い」
「だってー大事じゃん? 同僚兼親友と大事な後輩の恋路の行方」
「死ね」
 俺の缶は既に空になっていたので、それを村正の額にぶつけてやる。ほぼゼロ距離からの直撃を食らった村正は額を押さえ、ブツブツ言いながら二人分の空き缶を捨てに行った。
 ……そう。俺は玲於奈と付き合っている。彼女から告白されたのは、確か彼女が支部に復帰してすぐの頃だったと思う。俺は鈍感らしく、彼女を落胆させることもしばしばだが、なんとかやっている……というか、やってくれている、というか。彼女にリードされっぱなしの付き合いなのは、ちょっと男として申し訳ないとも思う今日この頃である。
 が、それらを村正に報告する義理は全く無いので、この件に関して奴には何も言わない。奴も分かっていて、ただからかいたいだけだろう。
 戻ってきた村正が今一度ベンチに座り、空を見上げる。それにならって、俺も空を見上げた。
 雲ひとつない空は高く、太陽の光は暖かい。
「……今日、十一時半で間違いないよね?」
「……ああ、間違いない。セレスおばさんからちゃんと聞いた」
 公園の真ん中に立つ時計は、十一時二十八分ほどか。もうすぐ時間である。
 あの日までの時間。あの日からの時間。
 これから流れる時間。
 時計は時間を刻み示す。二十九分。
「……緊張してきた」
「うーん、こればっかりは、俺もだ」
 空に向かって言い合う。
「あの時は、本当に絶望した」
「俺もだよ。「嗚呼、努力は報われないのか」と神を殴りつけたい気分だった」
「神なんて信じてないだろ、お前」
「気分だからねー。いや、でもまさかこうなるとはねえ」
「予想できなかったな……ん?」
 予定時刻の十一時三十分を示す時計。
 その背景に広がる青い空に、黒い点が一つ、ある。
 一度目を逸らしてからもう一度空を見上げても、黒い点は変わらずそこにある。視線を動かしても黒い点の位置は変わらない。目の異常ではないということだ。
「……」
 目を細めてそれを注視していると、突然、強烈な思考が文字情報になって脳内に表示された。
 相手の思考を文字として読み取る。これが、俺の烏としての特殊能力である。ただし、その能力は自由に発動できるものではなく、必要な時に出なかったり、必要もないのに勝手に発動したり、発動しても読み取っていられる時間はまちまちだったり……と、俺の意思でコントロールできないのが現状だ。
 だから今も、思考が読めたのは一瞬だけ。けれど、強烈に脳裏に焼きついた一語。
 落ちる。
「……村正」
「どうした保志君?」
 立ち上がり、空を指す。
「あれ、落ちてくる」
「うえ、マジ?」
 村正は、今も変わらずかけている伊達眼鏡を軽く動かした。視力は良いので、そんなことをしなくても黒点は見えているはずだが。
「落下地点、予測できるか?」
「はいはい。どーんと任せなさい!」
 胸を叩き、村正も立ち上がる。
 しばらくは大した変化もなく、ただ晴れ渡った空に黒点があるだけだった。
 だが一分も経たないうちに黒点は大きくなり、人のような形をしていることも把握できた。
 細く長く、叫び声のような高い音が微かに聞こえてきたところで、村正がうろうろと歩き出す。
「えーっと、うーん……こっち? いや、この地点からこの角度だとこっちかな……」
 その間にも、人のような形はしっかりと人の形になる。黒髪をなびかせるその背に黒い小さな翼も見えてきた。
 烏の子供、女の子である。
 彼女は甲高い叫び声をあげながら、ひたすら地上に向かって落ちているのだった。理由は分からないし、彼女の後ろからさらに二つ黒点が現れ、かなりの勢いでこちらに向かってきているのが見えていたが、とにかく目の前のことに集中する。
「ここ付近、だと思う! 保志君ここ!」
「よし」
 村正の指示したポイントに移動する。正直、彼の計算にそこまでの正確性は求めていなかったのだが、烏の女の子はほぼ真上に迫っていた。
「いやああああああ!! 助けてええええええ!!」
 半泣きの悲鳴を引きながら、速度を上げてぐんぐん近づいてくる少女。
 ……待て。この勢いで落ちてくる少女を、俺の腕は安全に抱きとめることができるのか? 彼女に怪我をさせずに済むか? 俺の腕は折れずに済むのか?
「保志君、腕折らないようにね」
 村正のだめ押しを受けて、俺は腕で抱きとめる計画を早々に見限った。
 村正以外周りに誰もいないのを確認して、空に手をかざす。もう彼女は近い。距離にして数十メートルか。
「……」
 集中して、力を込める。すると黒い羽根が複数現れて、絨毯のように積み重なる。村正の口笛が鳴った気がしたが、女の子の悲鳴にかき消えた。
「いやああああああ!! 待って待ってまぶっ」
 ぼふ、とくぐもった音とともに、女の子が羽根の絨毯に落着した。腕に衝撃がかかるので、一方の腕で支えてなんとか堪える。
「んん……? わあ、もふもふ!」
 体を起こした女の子が、羽根に触れてぱっと笑顔を見せる。その反応なら、怪我はなさそうだ。
「えーと、君。下ろしても大丈夫?」
「えっ、あ、は、はひ……」
 声をかけると、そこで女の子は俺の存在に気づいたようで、びくっと肩を震わせておずおず返事をした。怖がられるのはもう仕方がないので、できるだけ優しく羽根絨毯から下ろしてやる。彼女が地面にしっかり立ったのを見届けてから、羽根を消した。
「保志君たら、人生二回目の烏の拾い物だねぇ」
「茶化すな」
「あ、あう、えっと」
 大の男、しかも人間二人に囲まれては、烏の女の子も怖いだろう。俺は魔術を使って見せたが、急展開に混乱して状況整理ができていないのか、その目に浮かぶ警戒の色は消えない。薄いピンクのワンピースの裾を握って、肩をこわばらせている。
「……で。このタイミングで降ってきたこの子の素性は?」
 俺が訊くと、村正は上を指した。
「それはほら、こっちの方々が説明してくれるでしょ」
「……ああ」
 そういえば、この子を追うような影があった、と思い出し、空を見上げる……より早く、件の影が二人の形をとって、地面に降り立った。
 一人は、赤いジャケットに金髪で。
 もう一人は、パーカーに花柄の帽子、黒く長い髪をなびかせて。


 あれから、十年。
 長はただ静かに、「駄目だ」と言った。
 俺たちの言葉は届かず、誇張なく命をかけた声は拒絶された。
 けれど、長は言葉を続けたのだ。
 「私は、お前たちを知らなさすぎる」と。
 「知らなければ、理解などできるはずもない」と。
 烏の長は、人を、俺たちを理解するための時間が必要だと言った。
 烏と人が分かり合う必要性を、認めてくれたのだ。
 あれから、十年も経った。


「こら、ルッカ! お前、俺と同じで飛ぶの下手なんだから、勝手に飛び出したら駄目だろ!」
 金髪の男烏が少女に歩み寄り、しゃがむと少女の頭を軽く小突いた。少女は唇を尖らせる。
「だって、パパは今ちゃんと飛べてるもん。だから、ルッカだっていっぱい練習すればできるんだもん」
「もーちっと簡単なとこから練習しないと危ないだろ? 実際、俺ら追いつけなかったし」
「あまり心配させないの」
 黒髪の女烏が静かに言うと、少女はうなだれた。
「……ごめんなさい」
「練習は付き合うから、勝手に危ないことしない。いいわね?」
「うん!」
「さあ、次は……」
 言って、女烏は俺を見た。
 どうしたって、言葉はうまく出てこなかった。十年という時の長さを、この時やっと思い知る。
 間違えるはずはなかった。雰囲気も、身長も、服装も、髪も、あらゆるところが変わっていたけれど。
 俺と玲於奈が選んだ花柄の帽子を持っている烏は、この世に一人しかいないのだから。
「……クロウ……?」
「……そんなに驚かなくても」
 小さく笑うクロウは、俺が知っていた十年前の姿を「少女」と形容するなら、今は立派な大人の女性になっていた。物腰はどこか余裕のある柔らかさになっていて、昔の面影がほとんどないようにも見える。
 けれど間違いなく彼女はクロウであり、それならば。
「ナミぃーっ!! 我が心の友その二よぉー!!」
「わああああ村正ぁー!! それに保志弘もぉー!! 元気かー!!」
 女の子に立派に諭していた男烏は、ナミに違いなかった。村正が飛びつくや否や、ナミもまた大声をあげ、親愛の抱擁を交わしている。こちらは上背以外、そんなに変わっていないように見える。
「ナミなのか……。時の流れは、思いの外早かったんだな……」
「保志弘と村正が、成長していないだけじゃないかしら」
「……言うなあ、クロウ」
「十年は、私が変わるには十分な時間だったわ。でも、あの時の気持ちも、決意も、何も忘れていないから」
「ああ。それは俺たちもだよ」
 クロウが笑う。昔はなかなか見られなくて苦労したものだが、無理のない自然な笑顔は、今の彼女によく似合っていた。
 感慨にふけっていると、烏の女の子がとことこ歩いてクロウに寄ってきた。
「ママ、このおじさんたちが「今日会いに行く」って言ってた人?」
「おじさ……」
 ささやかなショックを受けて呟くと、クロウが楽しそうに笑った。村正もにやにや笑っていたが、「おじさん」の後に付け加えられた「たち」を聞き取れていなかったのだろうか? そもそも、年齢的にはそう呼ばれても何らおかしくないので、ショックを受けるのも変な話であるが。
 いや、それより。
「……「ママ」って……そういえば、ナミのことも「パパ」って……」
「あっ!! おいまさか、ナミもクロたんも!!」
 気づいた村正が抱擁を解く。自由になったナミは照れ臭そうに頭をかいた。
「あ、えっと、俺ら結婚しましたー」
「この子はルッカ。私たちの子供よ」
「マジかよ……こ、子持ちになってたなんて……」
 村正は衝撃の事実に膝を折った。俺もこれには驚いた。だが、言うことは一つだけだろう。
「……おめでとう、二人とも」
「えへへー、サンキュ!」
「ありがとう。……ルッカ、この二人は私の命の恩人で、私たちの大切な友達よ。自己紹介して」
「ルッカです! おじさんのお名前は?」
 俺はしゃがんで、ルッカと目線を合わせる。漆黒の大きな目が、太陽の光にきらきらと輝いていた。先入観の無い、純粋な光に自然と頬が緩む。
「俺は保志弘、あれは村正。よろしく、ルッカちゃん」
「うん、よろしくね!」
 手を差し出すと、小さな両手でそれをがっちり掴み、上下に力強く振って応えてくれた。
 彼女が村正の元に向かっていき、彼に抱き上げられて楽しそうにしているのを見届けて、俺は立ち上がる。クロウと視線がぶつかった。
「クロウ。こうして来られたってことは、長たちの理解は……?」
「そうね……。長は、結構分かってくれている、と思うわ。私たちも色々したけれど、セレベスさんや、特に孫であるコガの意見は大きかったと思う」
「当事者、重鎮、身内の意見か。確かに、どれも無視しきれないよな」
「とは言え、あの日のことは烏にとって大きな衝撃だった。今でも意見は分裂していて、人間嫌いが強まった烏もいるくらいだから、長も表立って人間を擁護することは言えないようだけれど……あなたのこと、気にかけていたわよ」
「長が? 俺を?」
 不意のことで驚く。立場も年齢も上である長に対してあんな口を叩いた上に、俺自身が人間側に立つ混血とあっては、嫌われているものだとばかり思っていた。
 クロウも俺の驚きに同意を示すように頷く。
「保志弘のことをそれとなく何度も聞いてくるから、一度聞いてみたの。そうしたら、烏だったっていうあなたのお父様、長の後輩だったんですって。だから、後輩の息子には興味があるみたい」
「そうだったのか……。父のことはあまり覚えていないから、いつか父の話を聞かせてもらえたら嬉しいな」
「そうね……すぐには難しいけれど、そんな日が来ると良いわね」
 話しているうちに、ルッカが公園の遊具に興味を持ったらしく、村正とナミを引き連れて走って行ってしまった。村正がちらと俺を見てウインクなぞ投げたところを見ると、「近況報告はそっちでやっとけ」ということか。クロウもそれに気づいたようで、少し考えてから次の話題を出す。
「……あ。あと、レドニアとコガも、人間に興味を持ってくれているわ」
「ああ、あの二人か」
 血気盛んな少女と、冷静な少年を思い出す。クロウがそのように話すなら、二人は今も元気なのだろう。
「特にレッドはね、私たちが人間のことを必死に説明するものだから、「自分の目で確かめに行く」って聞かないのよ。今日は彼女に内緒で来てしまったのだけれど、次は連れてくるかもしれない」
「そうか。コガ共々、楽しみにしているよ。
 ……つかぬことを訊くんだが、コガの特殊能力って、心を見る類のものなのか?」
 突然の問いに、クロウは何度か瞬きしてから、首を傾げて答えた。
「ええ……人の感情が色で見えるらしいわ。いきなりどうしたの? というかそれ、言ったことないわよね?」
「ああ、いや、えっと……俺も、特殊能力として、人の思考を文字としてみることができてだな。コガは同類の感じがしていたんだ」
「コガも似たようなことを言っていたわね。それに、二人ってちょっと似ているかも。能力と性格って関係するのかしら……」
 クロウが腕を組んで呟く。しかし、不意にぱっと顔を上げた。
「待って。ということはもしかして、私の心も読んだことがあるの?」
「えっ!? いや、あのだな、それはー」
 しどろもどろに返事をすれば、答えを言っているようなものだった。クロウの元々涼やかな目つきがさらに冷たくなる。
「……あなたがそんな人だったとは」
「どんな人だ? あと、別にやましいことは何もしていないし、俺は烏としては半端だからか、能力の発動も解除も自分の意思ではできないんだ。不可抗力ということで、一つ」
「……まあ、過去を掘り返して、せっかくの再会に水を差したくはないわね。それに、そろそろあなたの話を聞きたい。
 保志弘たちの方は、この十年どうだったの?」
「ああ、それは……」
 その間起こったあらゆることを、どこから説明しようかと思案した時。
 駆ける足音とともに、聞き慣れた声が届いた。
「ああ、遅れたー! ごめんなさい先輩方! それに、クロウちゃんとナミ君も!」
「玲於奈!」
 ルッカ、村正と共に砂場で砂に塗れていたナミが、真っ先に声を上げた。
 公園に走り込んできたのは、言うまでもなく玲於奈だった。ポニーテールをせわしなく揺らしながらも息の上がっていない彼女は、そのまま俺たちの元へ駆け込んでくる。その後ろからはセレスおばさんが優雅に歩いてきていて、ルッカに手を振っていた。ルッカが手を振り返しているのを見ると、見知った仲のようである。
「思いの外準備に手間取っちゃって、ごめんなさい。久しぶり、クロウちゃん!」
「ええ、久しぶりね玲於奈」
 にこやかに話しているが、俺の聞いた話と違う。
「玲於奈、用事があるんじゃなかったのか?」
「ああ、「用事」っていうのは、セレベスさんの家での昼食会の準備です。こんなとこで立ち話もなんですから、サプライズってことでセレベスさんと計画を立ててたんですよ」
「そういうことだったのか……ありがとうな」
「先輩のためというよりは、クロウちゃんたちのためです。……まあ、今日のために結構頑張って料理の練習したんで、先輩に食べてもらえるのは楽しみですけどね」
 ふいっとそっぽを向いた玲於奈の頭を、ぽんぽんと撫でてやる。すると急に顔を赤らめてこちらを睨んできたが、ルッカの悲鳴で視線はそちらに向いた。つられて見てみると、セレスおばさんがルッカに愛おしそうに頬ずりしている。どうやら未来の美女候補としてロックオンしているようだ。
「そういえば、あの子誰ですか? 私は「クロウちゃんとナミ君だけ」って聞いてたんですけど」
「ルッカよ。私とナミの子供」
「へえ……えっ!? ん!?」
 流しかけた言葉の意味を理解した玲於奈は、クロウ、ナミ、そしてルッカを順番に見つめて、呆然となった。
 が、次の瞬間。
「嘘!! おめでとう!!」
「きゃっ!? あ、ええ、ありがとう……」
「し、信じられない! あの頃のクロウちゃんからは想像つかないよ! うわあ、なんかすごい! すごいよ!」
「そう……? というか、玲於奈、ちょっと苦しい……」
 彼女は叫ぶなりクロウに抱きついていた。クロウは驚きながらも感謝を告げるが、玲於奈の祝福の言葉は止まらない。終わらない抱擁と、マシンガンのように矢継ぎ早に繰り出される言葉とにクロウは完全に圧倒され、されるがままになっていた。
 あっちはあっち、こっちはこっちで収拾がつかなくなりそうだ。そろそろ止めた方が良いか。
「はーいはい、セレスさん、そこまで! 未来の美女に嫌われますよ? 込み入った話はセレスさんの家でさせてくれるんでしょ?」
 向こうの方は、村正が止めに入った。セレスおばさんは渋々ルッカを解放する。彼女は速攻でナミの元に向かった。ああ、トラウマになったら申し訳ない。
 俺もこちらを収めるべく、玲於奈の両肩を軽く叩いた。
「玲於奈。立ち話させないために、いろいろ準備してくれたんだろ?」
「はっ、そ、そうでした。すみません先輩。クロウちゃんも」
「私はいいのよ」
 ぱっと抱擁を解いた玲於奈は、軽く頭を下げてから、来た道を示した。
「それじゃ、行きましょう。話の続きは、ご飯でも食べながら」
「ああ、そうだな」
 玲於奈が先に立って歩き出す。
 俺も歩き出したが、クロウがついてこないので立ち止まって振り返る。
「クロウ?」
「……ねえ保志弘」
 クロウはゆっくり歩き、俺の横に立つ。
 前方には、暖かい日差しに照らされながら、友達と、仲間と、家族がいた。
「私、あなたに会えて、自分が変われて、本当に良かった。こうしてまた会えたことを幸せに思える、そんな心を持てたことが、幸せだわ」
 烏だとか、人間だとか。そんな瑣末なことは全く意味を成さないような、光の中で。
「ありがとう」
 俺は満ちていく。
 彼女もまた、満ちているのなら嬉しいと思う。
「……どういたしまして。それと、俺からもありがとう」
「そういうことなら私からも、どういたしまして」
 二人で笑っていると、前方から声がかかった。
「へいへい保志君! んなことしてっと、玲於奈ちゃんが嫉妬でキレるよー?」
「キレたりしません! でも、二人とも置いていきますよ!」
「保志弘早くー! 保志弘たちの話、早く聞かせろよ!」
「おいしーいご飯もたっぷり待ってるんだからねー」
「ママー! おじさーん! 早く行こうよー!」
 それは、本当に小さな一歩なのだろう。
 けれど、俺たちは間違いなく、その小さな一歩を踏み出すために、ここまでやってきた。
 俺たちは今ここから、始めるのだ。
「待たせるわけにもいかないな。行こうか、クロウ」
「ええ、保志弘」
 俺たちは同じ方向を向き。
 同じ未来へ向かって。


 その一歩を、踏み出したのだった。




 END.


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