2020年10月11日日曜日

【創作小説】レイヴンズ23


雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)


(次は私が、守らなければ)


(次は私が、守らなければ)


 目が覚める。まだ部屋は薄暗くて、時計を見ると普段起きる時間より二時間は早い時を伝えていた。薄暗いのも頷ける。けれど、もう一度寝直す気分ではなかった。
「……」
 寝返りを打っても、目を閉じても、やはり眠気はやってこない。それより先に、脳裏に焼き付く映像が再生されてしまうからだ。
 血に染まって倒れる保志弘の姿が、離れない。
 その衝撃的な映像と、それに伴う感情を、あの日から何度も再生している私の頭。リラックスなど出来るはずもなく、私はしばらくあまり眠れていない。理由は分かっていても、根本的な解決がほぼ不可能なので、どうしようもないのだ。ただ抱えることしかできない、辛さ。
「……はあ」
 諦めて、体を起こす。
 薄暗い部屋はそんなに広くはなく、必要最低限の機能だけが備わっている。ここが私の部屋ではないことも、逃れられない現実を突きつけられているようで、息苦しかった。
 あの後。レッドとコガと共に住処に帰った私は、無事の帰還を喜ばれはしたものの、それはすぐに人間と生活していた疑念と非難にすり替わった。当面の罰として、自宅ではなくこの狭い部屋での軟禁を言い渡され、私はここで数日を過ごしている。この地区の烏をまとめている長に申し開きができれば、この状況は多少改善されると思うのだけれど、そうする為の方法も、それが叶った後どうしたらいいのかも分からない。
 もう、私と保志弘の間に起こった全てに、決着はついている。彼も私も罰を受けた。他にできることなど、あるのだろうか。
「……」
 保志弘はいない。村正やセレベスさんに連絡を取る手段はないし、ナミも行方不明。レッドは人間嫌いで、コガは烏の長の孫だ。孤立無援。しかも、仲間がいたところで状況をどうすべきなのか、私には分からない。八方塞がり、四面楚歌……出てくる言葉はどれもマイナス。
 朝日が昇る中、私はふさわしくない溜息を吐いた。


 日も高くなった頃、扉が叩かれる。返事をする前に、それは開かれた。
「おはよー、クロウ!」
「朝から五月蝿くてごめんね」
 見るまでもなく、声を聞くまでもなく、やってきたのはレッドとコガだと分かる。私が親しくしていたのはこの二人とナミだけだったし、そもそも長から罰を受けている烏に近づいてくる物好きは、そういないからだ。多分、長に頼んで私の所に行くことを許可してもらったのだろう。そこまでしなくても、と言いたくなるのだが、言った所でレッドに「友達だから当然だろ!」と一蹴されそうなので、口にはしない。
 二人はいつも、朝食をここで食べていく。案の定、二人はそれぞれが食べるには少し多めの食料を持って来ていた。
「お腹空いてる? スープ作って来たんだけど」
 小さな鍋を持ち上げてコガが訊いてくる。食欲はあまりないけれど、彼の手料理が美味しいことはよく知っている。少し食べたくなった。
「……食べる」
「よーしいい子だー! うりゃうりゃ」
「や、やめて」
 袋をがさがさ鳴らしながら、私の頭を撫でるレッド。心の靄は決して晴れないけれど、少しだけ気が安らぐ。一人でいるよりちょっとは前向きになれるから、二人と触れ合う時間は私にとってありがたいものになっている。
 持って来てくれたものを、三人でテーブルにセットする。パンと果物、それにスープ。品目は少ないけれど、出歩けない私にとっては十分すぎる量だ。
「いっただっきまーす!」
「いただきます」
「いただきます」
 三人揃って、手を合わせて感謝。食べ始める。パンはふわふわ、果物は甘くて、スープは温かい。文句のない朝食だ。
「この部屋、調理設備があればもう少し豪華なご飯を作れるのに」
「でも十分美味しい。ありがとう、二人とも」
「別にクロウが悪いことしたわけじゃないんだから、早く軟禁解いてくれればいいのにな。そしたらさ、美味しいご飯食べにいこうなクロウ!」
「……ええ、楽しみにしてる」
「そういえばクロウ、最近ちゃんと寝てる? 少し、顔色が悪い気がする」
「……あっ! クロウ、目の下にくま出来てる!」
「そう……?」
「こーやってマッサージするといい、って聞いたことあるぞ! あたしはくまとか作ったことないから、効くか分かんないけど」
「レッドは何があっても、毎日ぐっすり快眠だからね」
「それが取り柄だからな!」
「あんまり自慢できる取り柄じゃないよね」
「え? そう?」
「まあとにかく、ちゃんと寝た方がいいよ。良く眠れるお茶、今度作ってくるね」
「ありがとう……」
「君が寝付けない気持ちも、分からなくはないから」
 私の身にあったこと、あの日のこと……いろいろ訊きたいことはあるだろうに、二人は何も言わずに私と接してくれる。それにどれだけ救われているか、きっと二人には分からないだろう。
 食べる気はあまりなかったのに、いつの間にか皿は空になっていた。三人でまた手を合わせて、食材に感謝する。
 するとその時。タイミングを見計らったように、部屋の扉が叩かれた。レッドとコガ以外に私を訪ねる烏など、思いつくのは二人しかいない。けれどどちらも、今ここに居るはずのない烏だ。では誰が?
 緊張しながら扉に歩み寄って、少しだけ扉を開ける。すると、大人の烏がそこに立っていた。見覚えがある。確か、長と一緒にいた……と、言うことは。
 その烏は、私の予想とほぼ同じ内容を声に出した。
「クロウ。今日正午に、長の所に来るように。お前が失踪していた間のことを、仔細に報告するように、と」
「……分かりました」
 とうとうこの日が来た、という気分だった。こちらの言い分を聞いてもらえるチャンスを、向こうから与えてくれたのはありがたい。けれど、私にとってあの日は忘れてしまいたい程に恐ろしい記憶だし、それ以前の日々についても、言葉を選んで齟齬なく伝えなくてはいけないから、気が重くなるのは必然だった。
 大人の烏は「遅れないように」と一言残して、静かに去ってしまった。
 そっと扉を閉めて振り向くと、レッドが唇を尖らせて言った。
「今日の正午? ちぇ、あたしその時間、町に出てるよ。付いていきたかったのに」
「代わりに僕が行くから。ね」
「え? でも」
 これは私の問題だ。長たち重鎮だって、あまり多くの烏にこの話を入れたくはないだろうし、付き添いなんてそもそも無理なのでは?
 そんな思考を読んだように、コガは緩く指を振った。
「「長の孫」って生まれの特権は、こういう時に使うものだよね。大丈夫、上手く理由付けすれば許されるよ」
「……それ、権利の濫用なんじゃ」
「だから、ここぞという時にだけ使うんだよ」
「コガっていい性格してるよね」
「ありがとう」
 コガは穏やかに笑った。
 少しだけ、保志弘に似ている気がした。


 レッドとコガが帰ってから数時間。
 指定された時間より少し前に、コガが私を迎えに来た。本当に長を説得して来たらしく、更に迎えの仕事まで言いつかったと言う。
 黙って歩くのも気が詰まるから、コガに話しかけた。
「どうやって説得したの?」
「君から正確な情報を得る為には、君が落ち着いて話せる状況を作るべきで、その為には友達である僕がいた方がいいんじゃないか。こんな感じで」
 その通りだ。一人で長や重鎮、大人の烏たちと相対するなんて、想像するだけで体が震える。
「長たちは、君を糾弾することが目的じゃない。君から情報を得ることが目的なんだ。だから、この理論が通用した」
「……情報」
 人間の元で過ごしていた私から得たい情報は、もちろんあるだろう。それを共有し、烏が生き延びる為の糧にしたいという思いは分かる。
 けれど、それだけではないような気がする。
 私から情報を得るということは、私の言葉が今後の烏たちの方針にもなり得る、ということ。当然私一人の言葉を鵜呑みにはしないだろうけれど……もし下手なことを言えば、保志弘だけでなく、村正や玲於奈も命の危険に晒すことになるのではないか。もっと悪ければ、人間全体に対しての報復行為に繋がってしまう可能性は、ないだろうか。
 ……それは、嫌だ。駄目だ。
 決して頭が良いわけではない。烏を欺く為に考えていた嘘はいくつか覚えているけれど、細かい筋書きは考えていないし、それらを場に応じて使い分ける機転が働くとも思えない。喋るのも苦手だ。大勢の前では尚更。……けれど、迷ってはいられない。
 ずっと守られてきたのだ。今度は、私が守らなければ。
「……頑張らないと」
「僕なりに、できることはする。あまり気負わなくていいよ」
「ありがとう」
「……と。言ってる間に、着いたね」
 決意を固めたところで、コガが呟く。
 目の前には一つの建物。大きめの家屋で、見た目は少し古びているが、長や大人烏たちが会議に使う大事な場所だ。入り口には「公民館」と書かれた札がかけられている。ここは廃村なので、かつて住んでいた人間たちも集会所として使っていたのだろう。
 さすがに緊張してきたけれど、コガは気負った様子もなく、柔らかい足取りで入り口に立つ大人烏に近づいた。少し言葉を交わし、私を手招きする。コガが入り口を開けてくれたので、私は中に入った。
 空気が重い。足も重い。案内してくれるコガに続いて廊下を何とか歩き、一つの扉の前に立った。扉の向こうに気配がある。戦場。いや、嘘を演じるなら舞台、劇場か。ぼんやりそんなことを考える。
 やらなきゃ。深呼吸をして、今一度決意を取り戻すと、視界が晴れた気がした。コガと目を合わせて頷くと、私は自らの手で扉を開けた。
「……失礼します」
 大人烏たちの、いくつもの視線に刺される。気圧されて後退りたくなったけれど、唇を噛んで堪えた。
 部屋は畳敷きの和室で、奥に向かって伸びる縦長の作りだ。中央を空けるように左右に数人ずつの烏が座っている。そして一番奥、私を待つように座るのが、長だ。白髪が混じった頭髪、少し細身の体、厳めしい顔。彼の指揮下にいる以上、何度もその姿を見たことはあるけれど、真正面から向かい合う経験は今までなかった。その姿を見た直感で、「強い」と思った。
「そこまで硬くならずとも良い」
 威圧感と状況整理で立ち止まったままの私に、低い声がかけられた。はっと意識を現実に戻すと、長が自分の膝を小さく叩いている。
「取って喰うわけでもないのだ、来なさい」
「「あまり気負わなくて良い」って言ったでしょ?」
 後ろからコガに声をかけられる。
「僕の祖父は、顔は怖いけど中身はそこまで怖くないから」
 返事をするにも困ったので、小さく肩をすくめて応じる。
 そして、長の求めに応じて彼の前まで歩いた。追いかけてくる他の烏たちの視線は怖かったけれど、すぐ後ろにはコガがいたし、長の言葉で緊張も少し解けた。
 長の前に着き、座る。まず言おうと思っていたことを、私は頭を下げて述べた。
「……この度は、長やここで暮らす烏たちに、ご心配とご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
 保志弘たちを守る決意は本心だけれど、それは烏をないがしろにする意味ではない。私は、彼らの友人である以前に、烏だった。だから、烏として、仲間にかけた迷惑を、真っ先に詫びなければならないと思っていた。一番に謝るべき相手は、私のために危険を冒し、帰る事もままならなくなったナミだろうけれど、それは現状叶わない。会えた時に必ずしようと思っている。
 そのまま頭を下げる事数秒。
「……無事に帰って来た事が、何よりだ」
 長からの声がかかる。顔を上げると、厳つい顔が僅かに歪んでいた。笑っている……の、かしら。非常に分かりづらい。
「君と共に町へ出ていた者らも、非常に心配をしていた」
「ええ……外出の許可が出次第、謝罪しに行こうと思っています」
「顔を見せたら喜ぶだろう。難儀をさせているが、今日の話を終えたらそう時間をかけずに軟禁を解くつもりだ」
「ありがとうございます」
 酷く昔の話をしている気分だった。烏対策部に追われて怪我をして、気を失って……保志弘に救われたこと。あの時は、怪我が治ったらすぐに出て行こうと思っていたのに。
 ……気が緩んでる。駄目だ。しっかりしなさいクロウ。過去に浸っている暇はない。問題は目の前にあって、私はそれと向き合わなければならない。
 戦いの火蓋は、自分で切って落とそう。私は息を吸う。
「……今日のお話というのは、私が人間の元にいた間の報告、ですね」
「うむ」
 長は重く頷いた。すっと場の空気が締まる。
「お前に無用な疑いをかけぬ為にも、これほど長い期間、人間の世界で何をしていたのか……この地区を治める烏の代表として、知っておかねばならぬ」
「はい」
 上手く喋る自信はやっぱりない。けれど、忌まわしい別れの記憶をなぞって、思い出したことがある。
 レッドとコガに相対した時、保志弘は私との関係を嘯いた。混乱していたので細かいところは覚えていないけれど、大筋は覚えている。それを伝えればいいのではないか、と。あの場にはコガもいたから、彼が証人になってくれる。……結局保志弘に救われている状況は、不甲斐ないけれど。
「……私は、あの晩……烏対策部に追われて、攻撃を受けて、気を失いました。そこを保志弘……人間に、助けられました」
 長は黙っていた。そこは分かっていることだからかもしれないし、とりあえず私の話を聞いて、疑問点はその後に正していく方針なのかもしれない。
「私は、怪我が完治したら出て行くつもりで、余計な干渉をするつもりはなかった。私が彼を利用しているつもりだった。けれど……彼は烏対策部の職員でした」
 後ろの方で、空気が動く感じがした。他の烏たちがざわついている。長が咳払いをすると、すぐに静寂が戻った。
「……彼は、私から烏の情報を得ようとしていたようです。実際、私は彼と様々な話をしました。内容までは……さすがに、思い出せません」
「構わぬ。続けなさい」
「はい。怪我が治って、出て行こうとしたときに、ナミが来てくれました。一緒に帰ろうと思ったのですが……彼の言葉巧みに、丸め込まれていたような状況で」
 目線を下に落とす。思い出すのは、相変わらず鮮烈な赤色。倒れて行く彼の体。
「……帰る機会を模索するうちに、レッドとコガが来ました。私はそのとき、彼が真実を話すまで……騙されているとは、気づかなかった。信じていたんです、人間のことを。私が愚かだった、としか言いようがありません」
 唇を噛みながら、心で笑った。保志弘がこのシナリオを演じたとき、私はよくもそんな嘘を、と憤っていたけれど。今の私も同じだ。今だってこんなにも信じているのに、よく言えたものだ。
「そして……私が、彼に報復しました。魔術による攻撃です。生存の確認はしていませんが、運良く他の人間に発見されない限りは……」
 それだけが心配だった。彼は生きているのか、死んでいるのか。確認しようにも、家から出る事すら叶わない私には無理な話なのだけれど。外出許可が出たら、目を盗んであの町に戻ってみようか。いや、それよりはセレベスさんやナミと連絡を取った方がいいのかもしれない。
 今後やるべきことが、少し見えた気がした。
「いくつか訊きたい」
「は、はい」
 考えていると、長から声をかけられた。慌てて顔を上げる。
「男の名は何と言う?」
「保志弘……白江保志弘、です」
「シロエ……か」
 その声に苦渋の響きを感じて、首を傾げると、長は私の疑問に気づいた。
「……同じ名前の烏が、昔いたな。人間に近づき、烏の秩序を乱した……愚かな奴だった」
 時たま、人間に興味を持つ烏が出るのは知っている。ナミのように、自分の仕事の中で出会った人間と繋がりを持つ烏もいる。情報収集の名目で、長もある程度は認めていたはずだが、その彼に「愚か」とまで言わせるということは、相当深い親交を持っていたのだろうか。聞いた事のない話だけれど……。
 考えていると、長が小さく息を吐いた。
「昔の話だ、奴はもう死んだ。……お前の怪我は、どの程度だった?」
「……保志弘が言うには、落下による全身の打撲と擦り傷、あとは烏対策部の攻撃による傷で……病院には行けませんから、彼個人の治療で数ヶ月を要しました」
「ふむ……ナミの方は? 奴とは連絡が取れていないが、お前のように怪我をしていたか」
「いえ、元気でした。彼は、どうにかしてここに帰れないか、と模索していたようで……」
 「それが自分にできる事だから」とナミは張り切っていた。あの明るい声と笑顔が懐かしい。
「あの日も、その為にナミは外に出ていました。その後どうなったか分かりませんが……」
「そうか。……人間の追跡を逃れている最中かもしれんが、捜索隊を出している。すぐに見つかるだろう」
 コガの友人の一人として、長はナミのことを覚えているらしい。また小さく歪んだ顔を作った。笑うのが下手なようである。
 歪みがすっと取れて、厳つい顔に戻る。次の質問が来る、と身構えた。
「何故、お前が人間に報復をしたのだ。レドニアがいたのなら、彼女が真っ先にやりそうだが」
「……私自身が、けじめをつけたかった。騙されていたのは私でしたから」
 レッドの性格もしっかり理解しているらしい。
 少しの間の後、長は首を振った。
「……コガから聞いていたお前の印象では、そういったことをするとは思えなかったものでな。よくやった」
「ありがとう、ございます」
  確かに、私はそういったことをする性質ではない。魔術は下手だし、争いは苦手だし。でもあの場だけは、私がやらなければ意味がなかった。
 少しの間、沈黙が降りる。長は何かを思案しては、左右の烏たちに視線を送っていた。他に問うべきこと、明らかにすべきことがあるか、確認しているのだろう。
 私は、自分の発言と保志弘の筋書きに齟齬がないか、頭の中で確認しようとした。けれど、自分の発言をほとんど覚えていなくて、諦めた。
 ぼんやりすること数十秒ほど。長が小さく唸った。
「うむ……大体の事は分かった」
 どうやら、納得のいく説明ができたらしい。もっと質問攻めにされるかと思っていたけれど、もしかしたらコガやレッドから事前に話を聞いていたのかもしれない。少しでも人間を信じた私の話を、全面的に信用してもらえるとも思えない。
「今日のところはこれで良い。また尋ねることもあるかもしれんが、その際は頼んだぞ」
「はい。ありがとうございました」
「コガ、彼女を送って行きなさい」
「はい」
 私は頭を下げてから立ち上がり、コガと共に部屋を辞した。
 歩いて来た廊下を戻って、建物を出る。しばらく歩いたところで、先を歩いていたコガが振り向いた。
「お疲れ様」
「……ええ。少し疲れた」
 正直「少し」ではなく「かなり」なのだけれど。息を吐くと、体の力が抜けた。ずっと肩が強ばっていたようだ。それに気づいたのか、コガがふっと笑う。
「はらはらしたよ。今にも倒れるんじゃないかって」
「さすがにそこまでは……」
「うん。僕の予想よりもずっとしっかり喋っていたから、そこはすぐに安心できたんだけどね……」
 コガの歩行速度が緩む。彼の後ろを歩く私の足も、自然とゆっくりになった。
 前に向き直ったコガは、草の擦れる音にすら消えてしまいそうな声で、言った。
「ねえクロウ。君は、嘘を吐いているよね?」
「……」
 私は足を止めた。数歩進んだ先で、コガも足を止める。
「……」
 風が吹く。立ち尽くすこと数秒。
「……はあ」
 折れたのは、私の方。
「やっぱり、コガを騙すことはできないわね」
「それは、まあ……。ごめんね、あんまりよくないことだとは分かってるんだけど、事が事だったから」
 コガが振り向いて、きまり悪そうに呟いた。私は彼に歩み寄る。
「謝る必要はないわ。コガは正しいことをした」
 私は分かっていた。レッドは騙せても、コガを騙すことは難しいと。それは彼固有の能力にある。
 近くで見ると、コガの長い前髪の奥に、薄緑の目が煌めいているのが分かる。彼はこの目で人の感情を見る事ができるのだ。
 彼が前にしてくれた説明によると、喜怒哀楽の四つの感情に色がついていて、目視した人の感情に対応した色が見えるらしい。感情とはそれを抱く者にとっての真実。言葉と正反対の感情の色が見えたら、それは言葉が嘘を吐いていることに他ならない。
 常に見えるわけではなく、必要な時に能力が使えるので、コガが私に対してその能力を使っていなければ、騙し通せただろう。けれど、前髪に隠れたコガの目は、いつ能力を使っているか分からない。先程コガは私の後ろにいたから、見るだけで発動する能力に私が気づけるはずもない。
 でも、コガがあの場で能力を使うのは当然の事だ。彼は長の孫で、長の為にも正確な情報を集める手助けをしなければならない。私の言葉が嘘か本当か、見抜く必要があった。だから、怒りは湧いてこない。彼の正しさが眩しいくらいだ。
「……それで、私は嘘を吐いているけれど。コガはどうするの?」
「どう、って……うん、そうだよね」
 てっきり「長に報告する」と言うのかと思ったら、コガはその場で悩み始めた。報告されたらただでは済まないだろうな、抵抗しても無駄だろうな、いっそ思い切って町まで逃げて、セレベスさんみたいに人間社会で暮らしてしまおうかな、などと考えていたのだけれど。
 しばらく唸った後、コガは困ったように笑った。
「うーん。僕はね、正直なところ、君が信じた人が君を裏切るとは思えないんだ」
 それは保志弘のことだった。
「君は、人間のことが嫌いだったでしょう?」
「嫌いというか、相容れないと思っていたわ」
「そっか。でも、君があんな風に感情を露にできるくらい、あの人を信じていたのなら。きっとあの人も、君を信じていたんだろうな、って思ったんだよ」
 そう言えば、あのとき私は嘘八百を並べ立てる保志弘を一喝した。逆に諭されてしまったけれど、あの時の私の怒りは、私が彼を、そんな人間じゃないと信じていたからだ。そう考えると、保志弘が僅かな怒りを見せたのも、「冷静になれ」「意図を察してくれ」と……私なら自分の筋書き通りに事を運べると、信じてくれていたのかもしれない。
「それにね……彼、ずっと哀しい色をしていたから。君と話している間、気を失う最後まで。だから良い人なのかなって、僕は思ってたんだ」
 コガは保志弘も、その能力で見ていたらしい。
 哀しい色。それは……その意味は。
「クロウ、君は彼を守ろうとしているんでしょう? だったら、僕は長に何も言う気はないよ」
 コガが私の肩に手を置いた。それでやっと、肩が震えているのが分かった。気づくと視界がぼやけていて、自分が泣いていることに気づく。
 保志弘の思いと、それを信じてくれたコガ。どちらも優しくて、嬉しくて、涙が止まらない。
「ありがとう……」
 そう呟くと、コガが小さく頷いた。
「その代わり、一つ条件を出したいんだけど、いいかな?」
「何……?」
 こんな重大な秘密を隠してくれるのだから、大体の提案は呑もうと思って応えた。
 すると、やってきたのはこんな言葉。
「僕に、君の手助けをさせてくれないかな?」
「……え?」
 涙が止まる程驚く私に、彼は笑顔を見せる。
「ナミがいない今、ここには君が心から信頼できる仲間はいないでしょう? それに君は軟禁中で、まともに動けない。だから、君とあの人を繋ぐ手伝いが出来れば、って思ったんだ」
「それ……条件になってない……」
「僕にも利はあるよ。危険を冒して君を助けた、あの人の真意が知りたいんだ。後学の為にも、生きているのなら話を……いや、本心だけど、ちょっと意地悪だったか。でもこれは、理由の半分くらい」
 コガは頬をかきながら、照れ臭そうに続けた。
「もう半分は、困っている友達を放っておくのは、ね。僕にはちょっと難しい」
 その言葉に、胸が熱くなる。
「……私はまだ、コガの友達?」
「今までもこれからも友達だよ。レッドも同じように言うと思う。だから、助けたいんだ。いいかな?」
「……ええ、お願い」
 私はコガと、握手をした。
 そしてその時、やっと思い出したのだ。


 私は一人じゃない。

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