2020年10月11日日曜日

【創作小説】レイヴンズ22


雨の夜、男は少女を助けた。
彼女が人間ではないと知りながら。
(全25話)


(何て酷いことをしてしまったんだろう……)


(何て酷いことをしてしまったんだろう……)


「玲於奈ー! 今日は買い食いからの商店街練り歩きコースで遊びませんことー?」
「ごめん、今日は無理」
「即答!?」
 放課後、私はすぐに荷物をまとめ、肩にかけた。マルの誘いは嬉しかったし、今日は仕事が入ってないから、いつもならその誘いを受けていたことだろう。
 けれど今は「いつも」じゃない。何もかも、全て、いつも通りではなかった。
「本当ごめん、また今度誘って。今日は行く所があるの」
「むむむ。あ、もしかして、前に来たイケメン先輩さんとまたもやデートかな?」
 人畜無害な笑顔を思い出して、心臓が一つ鳴った。
「……あれはデートじゃないし、今回もデートじゃない」
「またまた、照れちゃって。まー用事があるならしゃーない、また明日ー!」
 ぶんぶん手を振るマルに手を振り返して、私は小走りに教室を出る。こういうとき、深く詮索してこないマルには感謝する。私が言いにくいことに敏感に反応して気を利かせてくれる……わけではなく、単純に興味がないんだろうけど、なんにせよありがたい。
 だって言いにくい。
 今日は入院している先輩のお見舞いに行くんだ、なんて。


 四日前のことだった。
 先輩が「急用ができました」と詳しい説明もなく半ば強引に仕事を切り上げて帰っていった、数十分後。珍しくデスクワークに勤しんでいた村正先輩の携帯電話が鳴った。書類を書きながら片手で器用に携帯電話を取ると、耳に当てた。
「はいもしもし、どしたの保志君! 保志君から電話してくるなんて珍しいじゃないか!」
 仕事中にそんな態度で通話するのはどうかと思うのだけれど、誰もそれを咎めない。村正先輩の情報収集方法に口を挟まないのは、暗黙の了解だった。それに皆、珍しい行動をとった先輩に理由を求めていたのだと思う。電話の相手が先輩ならば、詳細が分かるのではないか、と期待していたのだろう。事実、私もそうだった。
「……あれ? 繋がってるよね? おーいどうしたのー? もしもーし?」
 しかし、村正先輩は訝しげに声を上げている。どうやら返事がないらしい。嫌な予感がした。
 村正先輩が、大げさに困った顔から段々と感情を消していく。眉根を寄せて、小さく訊いた。私は確かにその声を聞いた。
「……クロたん?」
 すぐに思い当たった。黒子ちゃんのことだ。彼女は先輩の家に住まわせてもらっているのだから、彼女が先輩の家の電話を使うのは不思議なことではない。
 でも、何故先輩ではなく彼女が電話をしてきたのか。先輩は家にいるんじゃないのか?
「どうしたの? 保志君早上がりだったよね? 何かあった? 保志君いないの?」
 畳み掛けられる質問。支部の人々が、それぞれ顔を見合わせる。おかしい。電話口の向こうの状況も気になるが、何より村正先輩からおちゃらけた空気が完全に消えた。場違いな時でも絶やさない笑みが、今はない。
「ってか、泣いてる……?」
 村正先輩に何が聞こえているのか分からない。けれど、嫌な予感が止まらない。
 不意に村正先輩が立ち上がり、大声を上げた。
「……え? ちょ、待ってクロたん!? 保志君がどうした!?」
 しかし、先輩は携帯から耳を離した。液晶を睨む。電話は切れてしまったらしい。
 誰もが村正先輩から目を離せないまま、数秒。
 村正先輩が、ゆっくり目を見開いた。
「……まさか……支部長俺も急用で上がります!!」
 一息に言うと、先輩は自分の鞄を手に持って出口へ走る。皆が呆気に取られる中、私は反射的に言った。
「先輩! 私も行きます!!」
「っ……。分かった、早く」
「はい!」
 村正先輩は扉を開けたところで立ち止まり、逡巡の後了承してくれた。私は言われた通り、必要そうなものを手早くかき集めて先輩に続いた。勤務中に理由無く外出してはいけない決まりだけれど、そこまで頭が回らなかったし、止められることもなかった。
 村正先輩に続いて通りを走って、かつて足を運んだ先輩のアパートに到着する。村正先輩は思いのほか足が速く、ついていくのが少し辛かったが、何とか遅れることはなかった。
 階段を一段飛ばしで駆け上る。これはさすがに辛い。若干村正先輩との距離を開け、肩で息をしながら目標階に辿り着く。村正先輩も僅かに息が上がっていたけれど、そのスタミナに少し感服した。感服している余裕が、このときにはまだあった。
 村正先輩は、流石というべきか迷い無く先輩の家の前に行くと、ポケットから取り出した鍵で扉を開けた。「開けた」というよりは「はね飛ばした」かもしれない。それほどに乱暴だった。
「保志君……?」
 けれどその後、呟かれた言葉はあまりに弱々しかった。村正先輩の肩に遮られ、彼が見る景色を共有することはできなかったけれど、支部で電話を聞きながら感じた嫌な予感がぶり返して来た。
 先輩が駆け出そうとして、しかしぴたりと止まる。そして私に振り向いた。
「玲於奈ちゃん。中見ないで、玄関にいて。あと携帯電話持ってるね?」
 聞いたこともない、低く、口答えを許さない響きだった。
「は、はい」
「119番。救急車呼んで。状態は俺が見る」
「まっ、先ぱ……」
 村正先輩が靴も脱がず、中に飛び込んでいく。彼の背中が揺れ、その先の景色がちらと見えた。
 割れた窓。赤い床。倒れた……。
「っ!!」
 見ては駄目だ。本能的に悟り、目を背ける。村正先輩の言葉の意味を理解した。駄目だ。見てはいけない。意味を考えてはいけない。
 呼吸を整える。目を閉じて深呼吸。村正先輩が、先輩の名前を何度も呼ぶのが聞こえる。意識確認、後に応急処置に入るのだろう。私も訓練は受けているから、できないことはないだろうけれど……先輩を直視して、冷静さを失わずに的確な処置ができるとは思えない。自分からついてきておいて、情けない。
 でも、自己嫌悪の暇はない。私は目を開け、携帯電話を取り出す。救急車を呼ぶのだ。今の私が、村正先輩と、倒れている先輩の為にできること。
 震える指で間違えないよう必死にボタンを押し、電話をかける。呼び出しの間に、村正先輩から声がかかる。
「烏の襲撃で被害者一名。呼吸も拍動もかなり弱い、あと出血多量」
「はい」
 直後に電話が繋がる。村正先輩に言われた通りの事柄を述べ、更に何かを問われたら村正先輩に伝え、返事をもらう。すぐに救急車を手配してもらうことになり、電話を切った。
 その後のことは、ぼんやりとしか覚えていない。村正先輩に言われるがまま救急隊員を誘導し、担架で運ばれていく先輩を呆然と眺めた。目を閉じて青ざめた顔は、生きている気配がまるで感じられない。村正先輩が言うことには「まだ大丈夫」らしいが、とてもそんな風には見えなかった。もし無事だったとしても、私の両親のように後遺症が残るのではないか、と不安だった。
「玲於奈ちゃん。保志君はこれしきのことじゃくたばらないから、安心して」
 先輩に付き添って病院に行く、という先輩は処置の為に服を真っ赤にしていたが、笑った顔はいつも通りだった。少しだけ、安心する。
「何かあったらすぐ連絡するから」
「……私、どうすれば……」
「とりあえず、支部に戻って事情を簡単に説明してくれればいいよ。あ、こっから帰れる?」
「大丈夫、です」
「よかった。「詳しいことは村正先輩に訊いてください」って言っとけばいいから。で、玲於奈ちゃんは上がっちゃいなさい」
 携帯のディスプレイを見る。まだ上がる時間じゃない。
 そんな私の思考を読んだかのように、先輩がため息をつく。
「休むべきだ。支部も満場一致でOKするでしょう。これ先輩からの命令ね?」
「……分かり、ました……」
「よろしい。保志君のことは任せてよ!」
 先輩は私に手を振ってから、救急車に飛び乗った。去っていく車両を見つめる。
 ……。
 息を吐いた途端、その場に座り込んでしまった。アパートの入り口でこんなことをしていては邪魔だろうけれど、人気が無いのをいいことにそのまま座り込んでいた。
「……」
 先輩。考えずにはいられない。大丈夫だろうか。出血多量で、瀕死なのではないだろうか。瀕死。死……死ぬ、のか。先輩は。
 あの先輩が?
「……うぅ」
 こんな人目につくところで、高校生が泣くものではない、とは、思うのだけれど。
「せんぱいぃ……」
 もし先輩が、死んでしまったら。そう考えただけで、背筋が凍る。息が出来なくなる。心臓が強く鳴る。涙が出る。
 先輩。先輩。
 生きていてください。
 きっと誰かに見られていたのだろうけれど、そんなことに構っている暇もなく、私はただどこかにいるだろう何かの神に、指を組んで祈った。


 その日はあまり寝られなかった。次の日の早朝、寝たり起きたりをぼんやりと繰り返していたら、村正先輩からメールが入った。飛びついてみると、先輩は手術を施され、成功したという。発見が遅れていたら命の危険もあったが、今は安定しており、また後遺症の心配もないらしい。私はまた泣いてしまった。よかった。本当によかった。
 ただしばらくは安静が必要であり、面会は断るとのことだった。早く会いに行きたい気持ちを抑えて数日を過ごし、面会が許可された今日、お見舞いに行く運びとなった。
 病院に入り、受付で先輩の病室を訊く。こういった手順は、両親のそれで慣れている。速やかに情報を受け取り、該当の階、該当の病室へ向かう。
「失礼します、黄橋です……あっ」
 そっと扉を開けて言うと、ベッド脇に村正先輩がいた。彼は振り向いて笑う。
「おっ、玲於奈ちゃん! やっほー」
「「やっほー」じゃないです」
「んー、厳しい。学校帰り?」
「はい。先輩はどうですか?」
 先輩の病室は個室だった。広く感じられる白い部屋に、カーテンとベッド。壁際の引き出しにはドラムバッグ。村正先輩が持って来たのだろう。
 部屋を見回した視線をベッドに戻し、歩いていく。そこには……間違いなく先輩が眠っていた。ちゃんと呼吸している。生きている。けれど、すぐに目覚める気配はなかった。
「手術後、まだ起きてないって。脳に問題があるとかじゃあないらしいけど……まあ気が済むまで寝とけばいいんじゃね? って感じ」
「そんな能天気な……。目覚めなかったら、とか……考えないんですか」
 意地の悪い質問だな、と思ったが、村正先輩は気にしていない様子で、いつもの笑顔で言った。
「まさか。保志君がこの状況で、何もせずと寝続けるなんてありえない。いざとなったら玲於奈ちゃんが、眠り姫よろしく起こしてあげたらいいのサ」
「なっ!? ば、馬鹿なことをい、言わないでっ」
「玲於奈ちゃん声大きいよー」
 慌てて口を塞ぐ。だがこの原因は先輩にあることを忘れないでいただきたい!
 ……でも、確かにそれくらいの心持ちじゃないと駄目だ。というか部下として、上司の回復を信じるのは当然のことだろう。弱気になっていた自分に、心の中で活を入れる。
「……というか村正先輩。今日の仕事は?」
「保志君の情報収集なう」
「……仕事は?」
「何も無かったように再度質問しないでよ! だーかーら、俺は保志君が目覚めたら速攻支部に連絡して、支部の皆様を安心させる為にここで張り込みをしているのサ」
 ……何故そんな馬鹿げた計画をしたり顔で説明できるのか、理解できない。数日前、先輩の危機に駆けつけ的確な指示を出し、迅速な行動をとった冷静さを、私は心の中で尊敬していたのだが、撤回したくなってきた。と同時に、この人は何があってもこうなんだろうな、とも思う。その変わらない姿勢は、私を安心させてくれる。
「……サボりですよね」
「はい、保志君をダシにしたサボりです。でも、保志君が早く目覚めないかなーと心配してる気持ちは本当だからね!?」
「分かってます。私だって、先輩に早く起きてもらいたいです」
 村正先輩の横に、私も椅子を置いて座る。
 改めて先輩を見ていると、何だか不思議な気分だった。寝ている先輩なんてあまり見ないし。寝そうになったら叩き起こしてるし。というか、まじまじと先輩を見てみると、何と言うか……結構綺麗な……。
「おっじゃまっしまーす!」
「ひょえぅあ!?」
 病室にいきなり飛び込んで来た扉の音と聞き慣れぬ声に、私は再度大声を上げてしまった。病室だっていうのに、人間の反射神経とは恐ろしいものである。
 じゃなくて、誰が入って来たの!?
 振り向いて入り口を見ると、そこには銀髪の女性が立っていた。年齢はそこそこ……おばさんだけれど、ワンピースにクラシカルなブーツで、軽やかな気品を感じる。
 ……誰?
「セレスさん!」
 呆気にとられていたら、村正先輩がおそらくそのおばさんの名前を呼びながら立ち上がった。村正先輩の知り合い? だとしても何で先輩の病室に?
 私が戸惑っている間に、二人はアメリカンスタイルなハグなど交わしている。
「ごめんねー、早く来たかったんだけど、こっちもいろいろあって」
「こっちこそ申し訳ないです、面倒なこと頼んで」
「「協力する」って言ったでしょ? 何より保志弘絡みとあったら、これくらい当然。あ、後であいつも来るから」
「えっ? 別行動で良かったんですか?」
「大丈夫よ、もう向こうの包囲網は相当緩んでるから。それに……ああ、まあそれは本人の口からの方がいいかな。思う所があるみたい」
 ……どうしよう、会話に入れない。何の話をしているのか分からない。親しそうだから、村正先輩の知り合い説が有力だけど、さっき呼んだ名前は間違いなく英名だった。外人とも知り合いなのか、村正先輩。あのおばさん日本語ぺらぺらだから、あんまり関係ないかもしれないけど。
 椅子に座ったままじっと二人を見ていると、先に視線に気づいたのはおばさんの方だった。小さく首を傾げ、村正先輩の肩を叩く。
「村正、あの可愛い子は誰?」
「あ、紹介忘れてた。こちら黄橋玲於奈ちゃん。烏対策部支部のアイドルで、保志君の部下を務める優秀な女子高生ちゃんでーす」
「変な紹介しないでください! えっと、ど、どうも……黄橋です……」
 村正先輩を睨みつけてから、会釈をしてみる。
 顔を上げると、私を見るおばさんの目が謎の輝きに満ちていた。
「玲於奈ちゃん、こちらセ」
「れおな……玲於奈ちゃんね? ええ、保志弘と村正から話はよく聞いてるわ。想像に違わずナイスね……」
「え? あの?」
 紹介を無視したおばさんが、目をキラキラ輝かせながら私に歩み寄ってくる。その圧力に、私は立ち上がり一歩下がるけれど、おばさんはその間に三歩詰めてくるので、全く意味はない。
「長くて綺麗な髪に、つり気味のきりっとした目。サイドテールも気の強さを感じさせる……うん、ストライクよ。そして何よりぴちぴち可愛い女子高生! 胸もある! 最高!!」
「ちょ、ちょっとまっきゃああああああ!? たっ助けて、誰か、ナースコール!!」
「こら止めて下さいセレスさん!! ここ病室だから大声出しちゃ駄目だし初対面の人にいきなり抱きついちゃ駄目だし相手高校生だから下手なことしたら捕まるし!!」
 じりじりと距離を詰められ、最後には謎の評価と共に私はおばさんに抱きつかれた。予想だにしなかった事態に、私は先輩が安静にすべき病室で三度目の大声を上げてしまう。誠に申し訳ない。先輩が起きたら謝ろう。
 私とは違って抑えた声量でおばさんを叱りながら、村正先輩が彼女を引きはがしてくれる。私は守るように自分の体を抱き、椅子に座り込む。怖かった。すごく怖かった。おばさんの方を見てみると、物足りなさそうに手をわきわきと動かしている。……逃げたい。
「あら、適度なスキンシップ大事よ。これくらい耐えてもらわないと、あたしと今後友好的な関係は築けないわよ?」
「築けなくて結構です今すぐ私の世界から立ち退いて下さい」
「キレのあるツッコミも可愛い!」
「セレスさん。俺ツッコミ面倒でやりたくないんで、いい加減にしてもらって良いですか?」
「村正も冷たーい。はいはい分かったわよ、大人の寛容さで意見を取り入れてあげるわ」
「大人としてのまともな常識も取り入れてください」
「やだ、本当にツッコミの才能あるわ、玲於奈ちゃん。保志弘の教育の賜物? つまり保志弘を育てた私の賜物、すなわち玲於奈ちゃんは私の子」
「いい加減にしましょうね」
「はーいはい」
 滅多に見られない、疲れた顔の村正先輩に軽く手を振り、おばさんは私の前にしゃがみ込んだ。椅子に座っている私より視線が低くなる。
「あたしはセレベス。保志弘の後見人で、村正の茶飲み友達ってところかしらね。今日ここに来た目的は、もちろん保志弘の見舞いよ。この不肖の息子の部下で、しかもお見舞いにきてくれてありがとね」
「いえ、部下として当然ですし……あっ、学校から直行だったからお見舞いの品物もなくて失礼を……っていうか後見人? え?」
 ふわりと浮かべた笑みに毒気を抜かれ、私は思ったことを片っ端から口にしていた。セレベスさんにくすくすと笑われ、慌てて口を塞ぐ。
「別に品物とか気にしなくていいのよ。来てくれるだけで、こいつにとってもあたしにとっても最高に嬉しいから」
 立ち上がったセレベスさんは、空いていたもう一つの椅子に陣取った。先輩は肩をすくめ、窓際に寄りかかる。椅子は品切れらしい。
「で、「後見人」ってのは……保志弘の両親が死んでることは知ってる?」
 家族構成は知らなかった。首を横に振る。
「子供の頃に、病気で二人とも死んじゃってね。私が親代わりなのよ」
「それで、お見舞いに」
「そ。いやーもう、村正から電話来たときにはびっくりしちゃったわ。その節は村正、お世話になりました」
「いやいや。嫁として、旦那を守るのは当然ですから」
「あっはははは! よし、保志弘を婿に出してやる。持ってけ泥棒」
「マジですか! よっしゃ!」
 二人は、意識の戻らない先輩を脇にけらけら笑っている。何と言う図太い神経。多分その気軽さは、先輩に何の心配も抱いていないから出てくるのだろう。このセレベスさんもまた、先輩を迷い無く信頼している。
「……あの、セレベスさんって、えーと、日本の方……ではないんですか?」
 気になったことを訊いてみると、セレベスさんはあっけらかんと応えた。
「あたし、烏よ」
「……」
 村正先輩が苦笑している。
 セレベスさんは、にっこりと笑う。
「……っ」
 はああああああああああ!?
 と、大声を上げたくなったが、それは自制する。理性が全力でそれを押しとどめた。それは駄目、ここは病室、ここには怪我人、大声を出してはいけない。いや既に三度出しているけれど、仏の顔は三度が限度だ。
「……ほ、本当に?」
「ええ」
 再確認すると、これまたあっさりと返答が。烏の名前は英名だから、それなら納得はできる。できるけど、理解はできない。
 何故烏が人間の面倒を見て、人間の社会に溶け込んで、こんなにも人間らしく生きているのか?
「あー……セレスさん?」
「何かしら村正」
 呆然としていると、村正先輩が声を上げた。
「玲於奈ちゃんは、烏とは深めの因縁があってですね。多分彼女がセレスさんの存在を理解するには、少し時間がかかると思うんですよ」
「ええ、構わないわよ。狙った獲物は逃がさない、これ烏の常識。玲於奈ちゃんと親睦を深め信頼を勝ち取るまで、あたしの戦いは終わらない」
「俺も「諦めろ」とは言いません。けど、多分話長くなると思うんで、病室出ません? 屋上なら人に聞かれにくいだろうし、あいつが来るなら俺一人待ってれば十分でしょう」
 村正先輩の言う「あいつ」は誰だか分からなかったけれど、その事情は抜きにしてもセレスさんと二人きりで話し合う必要はありそうだった。理由は、よく分からないけれど。
 胸の中に沸き上がろうとする嫌悪を押さえ込んで、私はセレベスさんに目を向ける。
「私には……理解ができません」
「……そうね。保志弘が起きるまで暇だし、いいわよ。膝突き合わせて気が済むまで語り合いましょ」
 セレベスさんが立ち上がる。私もそれに続いた。鞄は置いていくことにする。村正先輩がいるなら問題ないだろう。
 部屋を出る直前、ベッドに横たわり目を閉じる先輩を見た。
 私は烏に何度も傷つけられた。許せる傷など一つもない。
 烏は敵だ。


「いい風ね! 飛んだら気持ちいいだろうなー」
 屋上には干されたシーツが並んでいた。人気はない。ただシーツの白と空の青だけが広がっている。
 そこに、私は烏のおばさんと二人で立っている。
「うーんと……あっ、そこのベンチに座りましょ。長い話になりそうだし」
「……」
 返事はしなかったけれど、従う。そしてそのことに対してこの人は特に何も感じていない。村正先輩すら振り回した人だ、細かいことを気にしない豪快さと奔放さを備えているのだろう。
 横長のベンチに座る。私は彼女と若干の距離を置いた。それに気づいているはずなのに、彼女が特にコメントすることはなかった。
「さて、何処から話しましょうか……まずはあなたの話? いや、ここは年長者として私の話からかしらね? どっちがいい?」
「……何で、烏が人間社会でのうのうと暮らしているんですか」
「私の話から、ってことね。いいわよ、いくらでも教えてあげるわ。相互理解って大事だものね」
 セレベスさんは優雅に足を組み、肘をついてにこりと笑った。私は無表情で通す。だって目の前に烏がいるのだ。両親を病院に押し込め、先輩も意識不明にした烏の仲間。同じ種族。先ほどまでのやりとりが嘘のように、私の感情は冷えていた。
「私もね、昔は人間が大っ嫌いで、いろいろ悪いこともしてきたのよ。「私たちから住処も食料も奪った人間が悪いんだ」って、殴る蹴るなんてこっちに来たときは毎回やってたしね。正義気取りの超やんちゃ娘よ。若気の至りと刷り込みって怖いわね」
 相槌を打つのも億劫なので、黙って聞くことにする。
「でもね。ある日食料漁ってたら警察に見つかって……あの頃は烏対策部がなかったから、烏の取り締まりは警察が請け負ってたのね。仲間と散り散りになって逃げ回ってた私は、ある人間の女性に助けられたの」
 語る横顔は、幸せな思い出に浸っていた。私はどんな顔をしているのだろう。と、考えていたら不意に視線がぶつかってしまう。素早く逸らすけれど、彼女に小さく笑われた。
「よっぽど根が深そうね。「信じられない」って顔に書いてあったわ。……でもね、本当のことよ。人間の女性が、飛んでいた私に向かって手を振っていたの。自分の家の庭先で、「こっちに逃げて」って。「頭おかしいんじゃないか」って思ったけど、その時は必死に逃げてたから、藁にもすがる思いで彼女の家の庭に飛び込んだ。そうしたら庭の倉庫の鍵を開けてくれて、匿ってくれたのよ。「九死に一生を得るってこのことか」って、暗い倉庫の中で膝抱えて考えたわね。懐かしいわ」
 人が烏を助ける? 死ぬかもしれないのに?
 狂ってるとしか思えない。おかしい、絶対に。
 烏は人間にとって脅威だ。圧倒的身体能力と魔術を用いる、人型の有翼生物。そんな化け物、排斥こそすれ匿って守る必要なんてあるのだろうか?
「一晩そこに匿ってもらって、食べ物ももらって。一応義理は通そうと思ってお礼を申し出たら、「私、烏と話してみたかったの」なんて言われてね。しばらく語り通しよ。全くあの時は困ったわね。本気でちょっと痛めつけてやろうかと思ったくらいよ? ……それでも何だか楽しくなっちゃってね。こんな人間もいるんだな、って」
 そこでセレベスさんは間を置いて、言った。
「……こんな人間を傷つけてはいけない、傍にいたい、守りたいって思った」
 私には、とても理解できなかったけれど。
「その後もちょくちょく交流を続けて、私は少しずつ人間に対する偏見を正した。もちろん、彼女みたいな人間が全て、だなんてさすがの私も思えないわよ? ただ、そんな人間がいることを知った以上、人間全てを悪だと決めつけるのは、烏の有り様として良くないなって思った。だから、既成事実を作ろうかな、って思ったのよ」
「……既成事実?」
「私は烏よ。だけど、翼を現していない烏と人間を見分けるのって、難しいでしょう? 実際玲於奈ちゃんも、最初は私のこと人間だと思ってたみたいだし」
 その通りだ。この人には烏らしさが無い。烏が持つぴりぴりした緊張感がなくて開けっぴろげだし、銀髪だからこちらも警戒が薄れていた。それに……村正先輩と先輩の知り合いなら、悪い人じゃないだろうって、すぐに信用した。
「上手く人間社会に溶け込んで、人間たちと上手くやれれば、烏と人間が共存できるモデルケースになれる。他の烏や人間に「そんなの無理だ」って言われても、「今まで仲良くしてたじゃない」って言い返せる。もちろん、烏たちに提案したときは滅茶苦茶反対されたけど、人間と烏の中継役として、烏には安全に食料や必要物資を入手できる経路を見つけたり、警察や支部の巡回経路なんかの情報を教えたりすることで手を打ってもらったわ。あ、ちゃんと人間側にもメリットとして、村正や保志弘に烏の情報を伝えていたんだからね? 烏にも、できるだけ人間には手を出さないよう言い含めていたし、そこは疑わないでほしいわ。
 ……私が人間社会にとけ込むことにした理由は、こんな感じでいいかしら?」
「……おかしい、そんなの」
「何処が?」
 私は思ったままを口にしていた。初対面のこの烏に対して、配慮やブレーキなんてものは存在しなかった。
「それでも烏は人を傷つける。人は烏に否応無く苦しめられる。あなたのやっていることって、意味があるの?」
「意味なんて求めていないわ。私がやりたいからやっているのよ。独りよがりね。多分、保志弘と村正も同じ」
 良い烏と、悪い烏がいる。烏と仲良くなりたい。先輩はそう言っていた。私は夢物語だと断じたけれど……認めたくないけれど……。
 私は烏と仲良くなりたい人間と、人間を守りたいと思う烏を知ってしまった。
「そんなに劇的な変化を求めていないし、求めちゃいけないのよ、こういうのは。一朝一夕には変わらない。でも、蒔かぬ種は芽吹かない。誰かが今何かをすれば、いつか未来で変化が起こるって信じてるの。馬鹿でしょ? 未来に夢持って生きちゃってるのよ、恥ずかしいくらい」
 そこまで言うと、彼女は不意に手を叩いた。
「あ、まあそれはそれでいいとしてね。昔私を助けてくれた女性、それが保志弘の母親なの。だから私が後見人に選ばれたのよ。そこまで信頼してくれるのは嬉しかったわ……いろいろと不安はあったし、実際保志弘も思う所があってやんちゃした時期もあったけど、まあ結果としては、自慢の息子よね」
 そう語るセレベスさんは誇らしげだった。
 先輩の「烏と仲良くなりたい」という考えは、セレベスさんの影響なのだろうか。それか、親代わりが烏なのだから、烏に対する危機感が希薄なのかもしれない。
「ちなみに村正はね、保志弘が小学校の頃からの友達だから、よくうちで遊んでいたのよ。私が烏だってことは隠してたけど、高校くらいに保志弘が教えたら「えっマジですか!? やっべー時代の最先端! 滅茶苦茶格好いいですね!」ってさ。あいつも保志弘の影響を受けたのか、それとも別の事情か……分からないけど、今はもう親友ね。自分の息子の友人を「親友」って呼ぶのもどうかと思うけど」
 身近にこんな烏がいたら……悔しいけれど、「烏と仲良くなれるかも」って幻想を抱いてもおかしくはない。私だって、彼女が烏だと知らなければ、その存在を好ましく受け止めて受け入れていたはずだ。
 烏でなければ。
 烏だから。
 ……。
「ねえ、玲於奈ちゃん?」
「っ!」
 気づくと、セレベスさんの顔がすぐ近くにあって、顔を覗き込まれていた。私は慌ててのけぞる。
「ああん、驚いた顔も可愛い!」
「気色悪いです止めて下さい」
「ひどいわ、可愛い女の子は私の大好物なのに、こんな目の前でお預け喰らうなんて」
「五月蝿いです」
「じゃあ代わりに、玲於奈ちゃんのお話をして?」
「何の代わりなんですか」
「何でも良いじゃない。相互理解って言ったでしょ? 私が人間社会に入り込むことになった経緯と、保志弘の後見人である理由。どっちも話したんだから、玲於奈ちゃんがどうしてそんなに烏を嫌うのか、教えてほしいわ」
 そんなもの、聞くまでもないじゃない。
「私が人間で、烏は人間を傷つける。だからです」
「ノン。そういう答えが欲しい訳じゃないの。何事にも理由ってものがあるわ。そして理由には、必ずそれを導き出した経験がある。あなたはどんなことがあって、烏を憎むようになったの?」
 自然と溜息が漏れた。烏に義理立てする必要は無いのかもしれないけれど、確かに彼女は真摯に私の問いに答えてくれた。ある程度の誠意をもって答えるべきだ。
「……私の両親は、烏の襲撃を受けて、病院にいます。後遺症で動けないんです。私は、両親をそんな風にした烏が許せない。それに……今回のことも。先輩を、私の大事な人を傷つける烏を、「好きになれ」なんて無理な話です」
 セレベスさんの持論への反感と反抗を込めた言葉を吐く。こんなに烏を嫌う人間と、それでも手を取り合おうと思うのか? と、意地の悪い挑戦的な気持ちもある。何だか自分が矮小な存在に思えてきたが、それでもこの憎しみを抑えることはできそうになかった。
 セレベスさんは静かに目を閉じ、組んでいた足を解いた。膝の上で手を組み、空を仰ぐ。
「……そう。それは、確かに辛いことね。烏を憎むのも当然だわ。……ねえ玲於奈ちゃん。烏は全て嫌い? 烏という種が憎い?」
「ええ」
「何故、あなたの家族を襲った烏だけを憎まないの?」
「烏は何処でだって人間の敵です。例え私の両親を病院送りにした烏を罰せたとしても、別のところで別の烏が別の人間を襲っている。だから私は……烏という悪に対抗する為に、烏対策部にいるんです」
「……なるほど。どこまでも正義ね、反論の余地がないわ。断ち切れない鎖のような現実に、私の理想の完全敗北を認めましょう」
 セレベスさんが目を開ける。漆黒の瞳。烏の証。
 けれど言葉とは裏腹に、その目に諦めはない。あるのは何処までも寂しげな……哀れむような色。
「いきなりで悪いんだけれど……玲於奈ちゃんって、保志弘の所にいた黒子と波。二人と友達なのよね? 今、黒子は自分の家に戻って、波はあたしが預かってるけど」
「……本当にいきなりですね。二人、大丈夫なんですか? 村正先輩に電話をかけたのは、黒子ちゃんだったようですけど」
 黒子ちゃんと波君。二人の顔が頭に浮かぶ。不思議と憎しみのイメージが薄らいで、二人といる時の明るい気分になってくる。あの二人も、セレベスさんが烏だということを知っているのだろうか。それとも知らないで、騙されているのだろうか。
「黒子……は、ショックが大きかったみたいね。波もやっぱり辛そうよ」
「そうですか……会えたらいいんですけど」
「会いたい?」
 私は思わず首を傾げた。あれ? 何で「会いたい」なんて言ったんだろう私。今会ったところで、彼女たちを励ませるわけでも、支えられるわけでもないのに。
 何故だろう。でも、会いたいって思う。だって。
「友達ですから」
「友達。……そんなにたくさん会ってるわけでもないんでしょ?」
「それはそうですけど、私は勝手に友達だと思っています。何をしてあげられるわけでもないけど……いえ、私自身が、二人に会って安心したいのかもしれません」
 先輩がこんなことになって、心配で、不安で、どうしようもない。けれど村正先輩の自信に満ちた笑顔と言葉は私を確かに安心させた。そういう支えを私こそが欲している。
 そういう時、無関係の人間に会ったって何とも思わない。親しいから、友達だから、会いたい。会って、話して、安心したい。動機こそ独りよがりでも、それを成せるのは友達という絆で繋がった相手だけだ。
「……そう。きっと、そうやって頼れることこそが、本当の友人の証とも言えるわね。さっきは意地悪言っちゃったけど、友人になるのに会う回数も時間も、きっと関係ないわ。どちらかが「友達」だって思えば、関係は成立するのよ」
 風が吹いて、シーツが音を立ててはためく。
 その音が落ち着いてから、セレベスさんは私の目を見て、告げた。
「本当は、私が言うべきではないのかもしれない。けど、伝えるわ。
 あなたにも、私が言った「既成事実」が適用されるの」
 それは宣告。
「黒子と波も、烏よ」
「……は?」
 意味が分からなくて、聞き返す。
 何を、言っているの?
 黒子ちゃんは、もの静かでちょっと引っ込み思案だけど、言うときは言うしっかりした女の子。波君は、おっちょこちょいでお調子者、明るいムードメーカー。
 初めて会った雨の日から覚えている。初めこそ拙かったけれど、色々なことを喋った。料理教室の計画を立てた。あれ、まだ先輩に伝えていなかったけど。走馬灯のように巡る思い出が、視界いっぱいに広がっているはずの澄んだ青空を濁らせる。
「……う、そ」
「こんな悪趣味な嘘、吐かないわ。相手が可愛い女の子なら尚更よ」
 セレベスさんのジョークにも、反応していられない。それほどに、私の脳は混乱を極めていた。
 だってあんなに仲良くしていたのに。どこにでもいる、普通の人間の女の子と男の子だって、思ってたのに。
「騙されてたのは……私、だったんだ?」
 先輩は分かっていたはずだ。黒子ちゃんが烏だってことを。だから、人目につかないように帽子を買ってあげたくて、私を呼んだ。波君の友達である村正先輩も、彼の素性は知っていたに違いない。この二人の信頼関係から、黒子ちゃんと波君が烏であるという情報を二人が共有するのは、当然の帰結だ。当人たちは当然、自分たちが烏であること、私が間違いなく人間であることを知っていたのだから、何も知らなかったのは私だけ。
 私だけが、一人で、騙されていた。
「……何で……知ってたはずなのに……」
 私は烏が嫌いだ。両親を傷つけて病院に縛り付けた烏が嫌い。
 先輩にはそれを、打ち明けたよね?
 なのに先輩は、私に打ち明けないまま、私と烏を関わらせた。
 理由も分からないまま、体が震える。心拍数が上がる。
「……はは、は……何よそれ……私一人、真実を知らないまま憎い相手と仲良くしてるのが、そんなに滑稽だった……? 面白がってたわけ……?」
 どうして。どうして。どうして。
 頭の中に巡る言葉に、怒りと憎しみが混ざりそうになった、時。
「違う!!」
 突然の大きな声と音。見ると、院内に続く扉が大きく開け放たれていた。
 立っていたのは……。
「ナミ……! 来てたの?」
 波君、だった。金髪も、臙脂のジャケットも見慣れた姿。今にも泣きそうな顔も……どこかで見た気がするけれど、いつのことだっけ?
 彼は私に歩み寄って来た。けれどすぐ近くに立つことはなく、数メートルのところで立ち止まる。肩が震えていた。何度か深呼吸をして、言葉を吐き出す。
「保志弘も、村正も悪くない! 悪いのは、俺たちが……臆病だったからだ! もっと早く烏だって教えてれば、こんな……」
「……」
 突然の登場に意識は向いていたけれど、彼の言葉を聞く気はあまりなかった。彼が烏だというなら、私を騙していたというのなら、これ以上付き合う意味は無い。
 波君……ナミ君は、そんな私の思考など知る由もなく、言葉を続けた。
「俺は村正と出会って、人間と無理に争う必要はないって知った。だから人間と仲良くなってみたいって思ってた。クロウは、保志弘に助けられてから考えを変えた。そんなときに、村正と保志弘の知り合いだった玲於奈と、会っちまったんだ。仲良くなりたいって、一方的に、思っちまったんだよ!」
 ……。
「素性を隠して仲良くなったって、そんなの本当の友達じゃないって、分かってたけど……怖かったんだ。烏だって分かったら、嫌われるって分かってた。だからどうしても言い出せなかった……。新しい友達ができるかもしれないって、手放すのが怖かった……」
 ナミ君は泣いていた。泣きながら、それでも言葉を止める気はないらしく、更に続ける。
「玲於奈の両親が烏に襲われたって話聞いて、余計に言い出せなくなった……騙してて、本当に……ごめん。こんなんじゃ、嫌われても仕方ねーよな……こんなタイミングで、他人に説明までさせて、情けねえよ……」
 しゃくりあげながら、頭を下げる。そこまでされても、何の感情も浮かばなかった。
 何故だろう。さっきまで「友達だ」って自分で言ってたくせに、泣きながら謝る彼に何をしてあげるでもなく、ただその姿を見ている。「友達」が聞いて呆れる醜態である。
「……もう、良い」
 良いのだ。もう、どうでも、良い。
 私は自分の世界から二羽の烏を切り離す。ただそれだけだ。だって烏は嫌いだから。烏は敵だから。同じ世界で生きるなんて無理な話なのだから。
 私はナミ君から目を背けた。彼の嗚咽が耳にこびりつく。
 黙った私の代わりに、セレベスさんが口を開いた。
「ナミ、あんたどうして屋上に? 保志弘の見舞いに来たんでしょ?」
「っ……先に、病室行ってきました」
 布が擦れる音。彼は涙を拭っているのだろうか。見えない私には分からない。
「……保志弘が、目を覚ました」
「え……」
 思わず、逸らしていた視線を今一度ナミ君に向ける。彼は少し気まずそうに私の目を見てから、赤い目を伏せて小さく頷いた。
「村正と話してたら、ちょうど目を開けて……意識もしっかりしてた。見に行ってくれ」
「……先輩……よかった」
 いつの間にか詰まっていた息を吐き出す。安心した。本当に良かった。これから検査などがあるはずだ、早めに戻らないと声をかけられないかもしれない。
「そっか。ナミ、あんたこれからどうする?」
「……烏のとこに、戻ろうと思ってます。元々、保志弘の無事が確認できたら帰ろうと思ってたし……大事なことは、セレベスさんに言ってもらっちゃったけど、玲於奈に本当のこと、伝えられたし」
 ナミ君はそう言って俯いた。
 私はそれでいいと思った。一緒にいれば傷つけ合うのだから、人間は人間の居場所に、烏は烏の社会にいればいいんだ。出会わなければ、通じ合おうとしなければ、こんなことにはならなかったんだから。幻想は終わって、現実が戻ってくる、それだけのこと。
「そうね。クロウに保志弘のこと、早く教えてあげないといけないか。それなら、私もあんたについていこうかしら。向こうでも情報集めたいものね」
 そう言うと、セレベスさんは立ち上がった。いいのだろうか、息子よろしく育てた先輩が意識を取り戻したのに、顔も見ないで。
「……いいんですか」
「保志弘は頑丈だから、あの程度じゃ死なないわよ。聞いた所によると、急所は丁寧に外されていたらしいしね。そもそも」
 私に背を向けていたセレベスさんが、銀の髪をなびかせて振り向いた。その目には悲しい色がある。同じだ。ナミ君の目にあったそれと。
「クロウが保志弘を殺せるはずないもの」
「……」
 私の意思は、脳の正常な働きを拒否しようとする。けれど、処理能力がその憎らしいまでの速度を存分に発揮して、セレベスさんから与えられた文章を正しく認識した。
 つまり、黒子ちゃんが、烏である彼女が、先輩を。
「……どういう、いや、どうして? だって、だって彼女はあんなこと、そもそも彼女は先輩に助けられたって、今」
「クロウは人間の攻撃を受けて倒れていたところを、保志弘に助けられた。でもそれって、ありえないことでしょう? 変に勘ぐられたら身の危険があるから、クロウを探しに来たナミや村正も巻き込んで動いていたんだけど……烏に見つかった結果、クロウが保志弘を攻撃した、って流れらしいのよね」
「どういうことよ……助けたのに、助けられたのに、何でそんな……」
 声は掠れていた。それほどに衝撃が大きかった。
 黒子ちゃん……クロウちゃんは烏だと知った。烏であるなら、私は彼女を嫌う。だけど、友達として接した時の印象をも、すぐに捨てられるわけではない。私の中にある彼女は、無口で冷静なしっかり者で、時々天然。先輩のことを信頼していたのは、彼女の言動からも確かに伝わっていた。なのに、どうして先輩をあんな目に遭わせたの? どうして、何があったら、助けてもらった人にそんなことができるの?
 烏だから?
「……だから、烏は」
「玲於奈」
 声に引かれてナミ君と目を合わせた。それがまずかった。
 怒っている。静かだけれど、確かな怒りが燃えていた。だからこそ、私はそれ以上声を上げることができなくなった。
「クロウが命の恩人を傷つけるようなこと、したくてする奴じゃないって、玲於奈も分かってるはずだ。俺だって詳しい状況は分からない。でも、クロウと関わった奴なら絶対分かる。クロウが好き好んで他人を傷つける奴じゃないって。それは烏とか人間とか、関係ない」
 諭す響きの言葉を、私は真正面から受ける。
 ……分かってる、そんなの分かってる。あの子が、自分の意志で誰かを、しかも自分を助けてくれた人を、殺そうとするはずない。
 分かってるよ。
「ま、その辺の詳しい話は保志弘に訊いた方が早いわね。私の見解としては、他の烏に強要されたんじゃないか、って思ってるけど。ナミは?」
「クロウが自分からやったんじゃないって信じてるんで、何でもいいです」
「シンプルね、でも悪くないわ。こっちはこっちで、もう一人の当事者を当たれば分かることだし。
 ……さあ、ナミ。私たちが話すべきことは大体終わった。針の筵たる烏の住処に飛び込みましょ。あっ玲於奈ちゃん、その気があったら、私たちが帰ったってこと、保志弘と村正に伝えておいてちょうだいねー。また会いましょ!」
「玲於奈……じゃあ、な」
 二人は背に漆黒の翼を生やし、白いシーツの合間を飛び立った。あっという間に小さくなっていく背中。私は立ち尽くして見送る。
 どうして。
 どうして、小さな綻びから、全てがこんなにも大きく変わってしまうの? 今日は先輩との面会がやっと許されて、嬉しい日のはずだったのに。村正先輩はいつも通りで明るかったのに。空は青いのに。
 セレベスさんは烏で、クロウちゃんとナミ君も烏で、先輩を傷つけたのはクロウちゃんで。
 私は烏が嫌いで、明るい先輩の後見人も、帽子を送った友達も、泣きながら謝ってくれた友達も、全員烏で、つまり私は全員が嫌いで。
 烏は嫌いだ。烏は敵だ。烏は私の大事なものを傷つける。奪おうとする。
 嫌ってしまえば、忘れてしまえば、切り離してしまえば終わる話なのに。それでいつも通りの私の日常が戻ってくるはずなのに。これで先輩が目覚めて、いつもの日常を取り戻せるはずなのに。
 どうして……涙が、止まらないんだろう。


 重い足を引きずって、先輩の病室に戻る。ノックをすると、「はい」と聞き慣れた声がした。先輩の声だ。
 扉を開けると、窓際に村正先輩と……まだベッドの中だけれど、頭を動かしてこちらを見る先輩がいた。先輩は、私の姿を認めると笑ってくれた。
 いつもの先輩が、そこに戻って来ていた。
 というのに、私は全くいつも通りではなかった。嬉しいはずの回復を、私は心から喜ぶことができなかった。こんなはずじゃなかったのに。
「心配かけてすまないな、玲於奈」
 声は小さく、掠れていたけれど、ちゃんと聞き取れた。私はベッド脇の椅子に腰を下ろす。
「……本当に、心配でした。責任取って下さい」
「同じことを村正に言われた。埋め合わせは勿論させてもらうよ」
「……看護師の方、呼ばないんですか」
「玲於奈が来ることは分かっていたから、まだ呼んでいない」
「……早く、呼んだ方が」
「呼ばなくて正解だった。セレスおばさんと、ナミと、話したんだろう?」
 私の雰囲気から、その結果を感じ取れたのだろう。先輩の顔が曇った。村正先輩は何も言わない。
「クロウたちのことも、聞いただろう。俺は玲於奈を騙していた。ごめん。本当に、申し訳ないことをした」
「……そんな言葉、いりません」
「自分の理想の為に君を犠牲にした。謝らなければならない」
 先輩の目は真摯だった。直視できなくて俯く。自分の足下だけが映った。
「……先輩は」
「うん」
「クロウちゃんに、攻撃されたんですよね」
「そうだな」
 私は、自分が何故こんなことを言っているのか、言おうとしているのか、分からなかった。この感情をどうにかする方法を、あるいはそれを導き出すための手がかりを、無意識に先輩に求めていたのかもしれない。
「先輩は、彼女のことが嫌いですか」
 先輩の返事は、ひどく簡単だった。
「まさか」
 それは間違いなく否定の言葉で、たとえ殺されかけようと、先輩にとってクロウちゃんは親しい存在だった。
 私との違い。私とは違う考え方。私とは違う見方、見え方。
「彼女にそうさせたのは俺なんだ。だから、彼女が俺を責めることはあっても、俺が彼女を責めることは絶対にないよ」
「……かばっているんですか」
 先輩は苦笑した。
「違うよ。嫌な予感がして急いで家に帰ったら、クロウが俺の部屋に入って来た烏二人と話をしていたんだ。聞いた感じ知り合いみたいで、でも相手はクロウを監禁した報復として、俺を殺す気だった。だから俺が生き残る為に、俺を殺さないでくれるクロウに、俺を傷つけてもらうことにした」
 ……つまり。クロウちゃんは、先輩を守る為に、先輩を攻撃した? 先輩を大切に思っているから、殺したくないから、彼を殺そうとする烏に代わって手加減した報復を行い、仲間を欺いた。
 仲間を、同族を裏切って、烏の少女は人間の男を守ったってこと?
「ナミにしても……見つかったらどうなるか分からないのに、日中から出かけて、味方になってくれる烏がいないか探してくれていたんだ。人間を巻き込まず、烏社会に戻る為に……ん? 二人の経緯は何処まで話して……ってて」
「ほーしくん、ちょいと喋りすぎなんじゃない?」
 話の途中で顔を歪めた先輩に、村正先輩が歩み寄る。どうやら傷が痛むらしい。村正先輩も若干呆れ顔である。
「いい加減ナースさん呼ぶよ? 呼んじゃうよ? いいね?」
「待て、あと三分……いや一分でいい」
「はあ……俺で出来る話は後でしておくから、保志君は必要なことだけ言いなさいね」
 二人は変わらなかった。何が起こっても、その結果がどうなっても。いつも通りの軽いやり取り。私はそれに取り残されている。私の普通って何だったっけ。私のいつも通りって、どんな感じだったっけ?
「なあ、玲於奈」
 先輩の声。まるで哀願するような、弱い声音だった。
 だというのに、先輩の目は、声に反してとても強い光があった。何か強い決意を、意思を感じ取ってしまった。射抜かれたように体が固まる。
「君を混乱させて、傷つけてしまったことは、本当に悪かった。だけど、クロウとナミは、どうか……。二人は何も悪くない。君を巻き込みたくなくて、そして友達になりたかっただけなんだ。どうか、二人と接して君が感じたままに、二人の存在を受け止めて欲しい」
「……」
 返事が、できなかった。きっと今の私の返答では、先輩の願いを拒絶することになるから。それは躊躇われた。だって先輩は、私の大切な人だから。傷つけたくなかったから。
 ブザーが鳴った。顔を上げると、村正先輩がナースコールのボタンを押していた。村正先輩は、私と目が合うと肩をすくめた。……正直、ありがたかった。
「保志君、伝えたいことは以上?」
「……まあ、いいことにしよう。あいてて、くそ、痛い」
「自業自得でーす。さあ玲於奈ちゃん、邪魔者は退散しようか! 必要そうなものは一応そこのドラムバッグに入れて持って来たけど、他に欲しいものあったら連絡よろしくー」
「お前が来ないことが一番嬉しい」
「保志君絶好調だね! 本当に昏睡から目覚めて十分の怪我人なの!?」
「昏睡から目覚めて十分の怪我人だから騒ぐなさっさと去れ。玲於奈、来てくれてありがとう」
「この差は一体!? 愛の差!?」
「だから騒ぐな帰れ」
 床に置いていた鞄を持ち、村正先輩と共に病室を去る。すぐに看護師さんとすれ違い、先輩の病室に入っていった。
 無言のまま廊下を歩き、病院を出る。晴れ渡った空は変わらないのに、私の心は完全に曇っていた。
「へい玲於奈ちゃん」
 ぽん、と肩を叩かれる。村正先輩は特に変化がない。変わったのは、おかしいのは、いつも通りでないのは、私だ。私だけだ。
「……何ですか」
「とりあえず保志君は目覚めたわけだし、それでいいんじゃね?」
「……はい?」
「クロたんとかナミとかセレスさんのことは、まあどーでもいいじゃん。そこまで深く考える必要なくない? 玲於奈ちゃんの世界には必要ないでしょ?」
 ……何を、言っているんだこの眼鏡は。
 私が何故こんなに、暗い気持ちになっているかって、クロウちゃんとナミ君が、友達が、大嫌いな、敵である烏だって知ってしまったからで、それが「どうでもいい」? 「必要ない」? 確かに、切り捨ててしまえばいいって、自分でも思うけれど、でも、決してどうでもいいからって、切り捨てればいいからって、そう簡単にいくようなら、こんなに悩んでいない。
「……それ、慰めのつもりですか。でしたら全然効果ありませんよ」
「どうして?」
 見透かしたような微笑に、胸がざわつく。
「どうでもよくないから、考えてるんじゃないですか」
「何でどうでもよくないの? 烏は玲於奈ちゃんの敵でしょ? 玲於奈ちゃんの烏嫌いの経緯、俺も一応知ってるよ?」
「だからって、そう簡単に整理つけられないんです」
「烏なのに?」
「烏だからです」
「どうして、そこまで悩む必要があるの? シンプルにさ、嫌いな烏のことなんてさっぱり忘れて、今まで通りやってけばいいんじゃね?」
 村正先輩の明るさは、嫌いじゃない。鬱陶しい時もあるけれど、助けられたことは多々あった。
 でも今は、私の内で燻っていた炎に油をぶちまけるだけだった。
 私は往来のど真ん中であることも忘れて、怒鳴った。
「クロウちゃんもナミ君も、本気で友達だって思ってたんですよ!! 烏は嫌いだけど、二人と会った回数も時間も微々たるものだったけど、だからって切り捨てられるほど、浅い感情じゃなかったんです!! そんなの関係なく、私は二人のことが好きだったんです!!」
 周りの人々の視線が集まるのを感じる。顔が火照る。でも、羞恥心より村正先輩への怒りが勝った。言い返してやりたかった。私はそんなに単純じゃない。私は0と1でできてはいない。
 「烏だから」って理由だけで、あの二人を切り捨てるなんてできない。
 肩で息をする。村正先輩の、眼鏡の向こうの目を睨む。
 村正先輩はしばらく無表情だった、けれど。
「……なんだ。やっぱ友達なんだ」
「は?」
 にっと笑った。呆気にとられていると、頭をぽんぽんと叩かれた。
「いや、ごめんね? 滅茶苦茶悩んでるというか、ダークサイドに堕ちてる感じだったから、揺さぶりかけて本心聞きたかっただけ」
「え?」
 よく分からないけれど、つまり……私は、鎌をかけられた、ってこと?
「さっきナースコールで助けてあげたからさ、これでおあいこってことにして、ね? ね? 人のデリケートなところ土足で蹴散らした罪は自覚してるけど、保志君の必要物資買いそろえたら今月財布ピンチでさ? 金銭では解決できないから、精神的なブツで許してっ」
「いや、そんなことより、その……」
「玲於奈ちゃんの本心、自分でもよく分かったでしょ?」
「あ、あの……はい、それは、そうです」
 混乱したまま頷くと、村正先輩は私の背中をばしばし叩いた。ちょっと、痛い。
 続く先輩の言葉も、痛かった。
「ならやっぱ、深く考え込む必要なくね?」
「え?」
「友達なんでしょ。だったら、友達のままでいいじゃん。そのノリでセレスさんにも心を開いてもらえると、個人的には嬉しいけどねー」
「……」
「クロたんとナミと、ついでにセレスさんは例外! 俺はそれもいいと思うよ。とはいえ最終的に決めるのは玲於奈ちゃんだし、玲於奈ちゃんが本気で考えて決めたなら、どんな結果でも尊重するよん」
「……」
 どう返事をしていいか分からなくて、黙っているうちに村正先輩は「んじゃねー」と去っていってしまった。
 ふと背中に刺さる視線を思い出す。そうだ、村正先輩相手に怒鳴ったんだった。遅れてやってきた羞恥の波を受け、逃げるように歩き出す。商店街をうろついているだろうマルと合流して、何もかも忘れて遊ぶのも魅力的だったけど、私の足は家に直行していた。
 家に着くなり、鞄を放り出してベッドにぶっ倒れる。静かな部屋の中で、考える。
 烏は敵。本心。
 クロウちゃんとナミ君は友達。これも本心。
 でも二人は烏だった。
 私は答えを出さなきゃいけない。クロウちゃんとナミ君は、私の何なのか。敵なのか、友達なのか。0か1か。あれ、でもこれって何で、何の為に考えなきゃいけないんだろう。私の為? そう、きっと、私がこの先どう生きていくか、この先の私の「普通」を決める為なんだ。ここが、私の生き方の分岐点。矜持を取るか、感情を取るか。普段だったら迷わず矜持。それを今揺らがせている感情は、間違いなく親愛。烏は嫌い。嫌いだけど、クロウちゃんとナミ君は好きなんだ。セレベスさんだって、あんまり会話してないけど、いい人だと思う。先輩を育てた人だもん、悪い人なはずがない。それは分かるけど、あの人たちだってきっと、誰かを傷つけて、何かを奪って、今まで生きてきたんだ。私はそれを許せる? 許せないから、私は烏を嫌って、烏対策部に入ったんでしょう? でも切り捨てるのは苦しい。辛い。屋上で会ったナミ君の顔が忘れられない。彼は何故泣いたの? 自惚れでも何でも無く、彼は本当に、私を、人間を騙していたことを悔いていた。クロウちゃんも、先輩の言うことが本当なら、先輩を守る為に自ら先輩を傷つけた。クロウちゃんはどうだったんだろう。どんな思いで、先輩を攻撃したんだろう。多分、私はそれが分かる。でも肯定したくない。だって、烏と人が分かり合うなんて、絵空事で、空想で、迷妄で、おかしいことだ。烏と人は相克している。互いの間には深い隔たりがあって、それを埋めるなんてできないはずで。あれ、でもクロウちゃんもナミ君も、私に笑ってくれていた。私が人間だって分かっていたのに。どうして? 私は烏の敵だよ? 何で、私に笑ってくれたの? ナミ君の笑顔を奪ったのは私だ。私が、彼を傷つけた。
 思考の中に沈んでいく。混乱に溺れる。何故か涙があふれて来た。枕を噛んで嗚咽に耐えながら、私の頭はやがて一つの感情に支配された。


 ごめんね。

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